ろくでなし



 スカリーは、先にピックアップを降りると、ドゲットが車を回り込んで側に来るのを待っていた。もう直ぐ6時になろうと
している街中は、走りすぎる車も人影も無く、静まり返っている。最も、オフィス街の真ん中で、土曜の早朝に起きて
いる人間など探すほうが難しい。
 行きつけのダイナーにドゲットを誘ったものの、いざその店の前に立ち、朝日の中で改めて店構えを見直すと、急に
気後れし始めた。何故なら、それは人に紹介出来るほど洒落た造りでもなければ、新しいわけでもない。ガラス張り
の前面の壁に、所々暗い箇所が目立つ『トムズ・ダイナー』と銘打たれたチューブネオンの看板。ドアの脇には、観葉
植物の鉢植えが申し訳程度に置いてある。こうして見ると、本当にぱっとしない店だと、スカリーは内心舌打ちしたく
なった。
 隣に並んで立ったドゲットは、きっと拍子抜けしただろうと、こっそりその表情を盗み見れば、意外なことにそれほど
落胆したようには見えない。それで、スカリーはちょっと気持ちが軽くなり、そうよ、外見より中身だわ、そう言い聞か
せもう一度ドゲットを振り仰いだ。すると彼女を見下ろすドゲットの、遠慮がちな瞳とぶつかった。その瞳が表すような
当惑気味な仕草でドゲットが尋ねた。
「ここかい?」
「ええ、そう。がっかりした?」
するとドゲットは、何かに納得したように柔らかく微笑んで首を振り、短く、いいや、と答えた。その様子はスカリーを安
心させるのに充分だった。気を取り直したスカリーが、ドアに手をかけるより早くドゲットはドアとスカリーの間に身体を
滑り込ませ、彼女の為にドアを開けた。
 あまりの早業に一瞬戸惑ったスカリーだったが、何でもないことのように、自分が入るのを待つドゲットの顔を眺め、
ドゲットのこんな仕草は何も今に始まったことじゃないと言い聞かせ、些か緊張気味の自分に当惑しつつ平静を保つ
と、小さくありがとうと言ってから、先に店の中に入った。
 明るい照明に照らされた店の中は、案の定がらがらで、客は一人もいない。スカリーは、さっと見渡してから何時も
の自分の指定席が空いていることを確かめ、カウンターの奥に腰掛けていたウェイトレスに眼で合図してから、ドゲッ
トに先立ちその席まで連れて行った。
 スカリーが案内した席は、壁際のボックス席で、そこからなら店全体が見渡せる。スカリーが店の奥に位置する方
に席を取れば、ドゲットはテーブルを挟んだ向かいに移り、コートを脱いで椅子の背にかけると深々と腰掛けた。同じ
ようにコートを脱ぎ隣に置いたスカリーが向かいに座るドゲットをそれとなく観察すると、寛いだ表情で店の様子を眺め
ている。
 くすんだ壁に、野暮ったい茶色のレザーの2人がけの椅子。テーブルは簡易式のものだし、照明もありふれた蛍光
灯だ。だが、見かけは古びていても、店内は清潔で窓やテーブルはぴかぴかに磨き上げられ、床には塵一つ落ちて
いない。安っぽい椅子のレザーの触り心地が、柔らかくしっくりと肌に馴染むことを、椅子の背にかけたドゲットの手
の動きなどから、何も言わなくとも彼が気付いたことを物語っていた。
 控えめながら興味深そうに辺りに視線を投げるドゲットを真正面でスカリーはそれとなく観察しながら、さっきから何
をこんなに自分は緊張しているのか、心の奥を探った。ドゲットと食事を一緒に取ることはこれが初めてな訳ではな
い。今まで捜査に出向いた先で、朝昼晩と、それこそ色々なシチュエーションで食事を共にしている。それなのに、何
故なのだろう。すると、突然スカリーの頭上で声がした。
「いらっしゃい。」
はっとして顔を上げれば、よくあるブルーのウェイトレスの制服に太り気味の身体を無理やり押し込んだという風情
の、小柄で派手な顔立ちをした女性がメモを片手に見下ろしている。ウェイトレスはスカリーと眼が合うと、にっこり笑
ってから言葉を続けた。
「久しぶりだね、ダナ。忙しかったのかい?又、出張?」
「ええ。まあ。」
「あんたの上司に言ってやりたいよ。年頃の女をこき使うなってさ。おかげであんた、遊ぶ間も無いじゃないか。」
快活にそう言った後、おもむろにドゲットに視線を移したウェイトレスは、顔を顰めた。
「こっちのむさ苦しいのは誰だい?見ない顔だね。」
そして無遠慮にドゲットを上から下までじろじろと眺め回す。それには流石のドゲットも居心地悪そうな素振りで顔を
背け、スカリーは慌てて、ウェイトレスに声をかけた。
「ウェンディ。彼は同僚のジョン・ドゲットよ。エージェント・ドゲット。ウェンディ・マクブライトよ。」
紹介されたドゲットは、すっと姿勢を但しウェンディを見上げ、よろしくと言って、ごく自然な仕草で片手を差し出した。
ウェンディは一瞬妙な顔をして、差し出されたドゲットの手を見詰め、続いて片手を制服にごしごしと擦りつけてから、
ドゲットの手を握った。その時、スカリーの顔を見て、吃驚したような大仰な目つきで瞬きしてみせ、スカリーの気恥ず
かしさを煽るのを忘れなかった。スカリーが嗜めるような声で小さくウェンディ、と言えば、何やら訳知り顔で頷き、や
おらドゲットに向き直った。スカリーは、その様子から、彼女が又何かを勘違いして勝手に納得したに違いないと確信
し、頭を抱えたくなった。ああ、そうだ。緊張の原因はここにあったのだ。
「ウェンディでいいわよ。よろしくね、ええと、ジョン・・ドゲット?・・ジョンでいいわよね。」
ドゲットは何も言わずに頷いたが、妙な素振りのウェンディに当惑気味な表情が消えずにいる。ウェンディはそんな彼
の様子などお構い無しだ。
「で?ダナとは何時から?長いの?」
ドゲットはちょっと驚いたようにスカリーを見た。スカリーはと言えば、気まずそうな笑みを浮かべ、眼を逸らす。ドゲット
はほんの少し愉快そうに口元を歪め、ウェンディを見上げた。
「いえ、まだ3ヵ月。」
「そうなんだ。じゃ、あたしのほうが、長いわね。あたしとダナは、この娘が初めて来たとき以来だから、5年になる
よ。」
「エージェント・スカリーは、良くここに?」
「あたしのシフトの時は、大抵朝は寄っていくわよね。」
同意を求められ、曖昧に微笑んで頷くスカリーを、ドゲットはちらりと見てから、そうですかと、頷いた。
「で、どうなの?」
質問の意味が分からず怪訝そうに見上げるドゲットを、焦れったそうに見下ろし、ウェンディは言葉を続ける。
「だから、この娘よ。鈍い男だね。あんた、ダナをどう思ってんの?」
その途端スカリーは思わず両手で顔を覆い隠したくなった。同僚だと言ったのに、とんでもない勘違いをしてる。気恥
ずかしさにドゲットの顔がまともに見られない。すると、呆れるほどのんびりしたドゲットの返答が聞こえた。
「いい同僚ですよ。」
「何よ。それ。」
「仕事のパートナーとして申し分ない。」
「それだけ?何さ、詰まらない男だね。あんた、結婚は?恋人いるの?そのなりじゃ、居なさそうだねぇ。図星だ
ろ?」
「ウェンディ!」
堪らずスカリーは脇から彼女の腰の辺りを小突いた。何さ、と恐ろしいしかめっ面でスカリーを見下ろすウィンディと、
ドゲットを気にしながら何とか黙らせようと焦るスカリーを、愉快そうにドゲットは眺めていた。
「止めてよ。彼は同僚だと言ったでしょう。それ以上は失礼よ。」
「何を今更言ってるんだい?あたしの失礼が今に始まったことじゃないのは、あんたも承知してるだろ。」
と、しれっとした顔でウェンディは取り合おうとはしない。流石のスカリーも、彼女より十以上年かさで数倍年季が入っ
た彼女の厚かましさには、太刀打ちが出来そうに無い。すると、やんわりとドゲットが助け舟を出した。
「あなたはどうなんです?ウェンディ。」
「あたし?」
「ええ。何しろ、あなたの方が、僕より彼女との付き合いは長い。あなたの方が彼女をよく知っているんでしょう。違い
ますか?」
ウェンディは妙な顔でドゲットを見下ろし、あら、そうだわね、といい暫し宙を睨んで考え、こう答えた。
「これだけ可愛い顔してるのに、潔癖で頑固者。加えて、馬鹿が付くほどの真面目人間。幾ら頭が良くてもこれじゃあ
ね。もうちょっと要領よくしないと、益々縁遠くなっちゃうよ。全く、近頃の・・」
「ウェンディ!!早くオーダーを取って!」
叫ぶように遮ったスカリーは、彼女が小脇に挟んでいたメモ帳をさっと引っ掴み手に押し付けた。ウェンディはスカリー
のあまりの剣幕に、些かたじたじとなり、何よ、怒らなくてもいいじゃないと口の中でぶつくさ言い、耳に挟んだペンを
取り出した。
「で、今朝はどうすんの?何時もの?」
「ええ。」
「パンケーキとハムエッグのセットね。あんたは?同じもの?」
ドゲットが黙って頷くと、ウェンディは素早く書き止め、続いて2人に聞いた。
「コーヒーは?今にする?それとも食後?」
「先にミネラルウォーターが欲しいわ。コーヒーは後で。」
「いいね。」
言った後一呼吸おいて、ドゲットはウェンディに尋ねた。
「ここのスペシャルは?」
「ポーターハウス・ステーキ」
「じゃ、それを追加。ミディアムで。」
へえ、と首を振りウェンディはオーダーを追加する。その様子にドゲットが聞き返した。
「何か?」
「朝っぱらからステーキなんて頼む人種は、80年代に一人残らず死んじまったと思っていたよ。」
「そりゃどうも。何しろ腹ペコなんで。」
「何時から食べてないんだい?」
「・・・そう言えば、昨日の昼からかな。」
それを聞いたウェンディは、ドゲットを見下ろすと腰に手をやり、呆れたように決め付けた。
「何さ。あんたもろくな男じゃないね。」
思わず顔を見合わせた2人に背を向け、キッチンに戻りかけ足を止めたウェンディは、振り返ると大声で付け加えた。
「ああ、そうだ。ダナについて忘れてたことがあったよ。この娘の連れて来る男は何時も最低なんだ。」
スカリーはとうとう堪らず片手で顔を覆った。穴があったら入りたかった。やはりここに来たのは間違いだったと、指の
間からドゲットを垣間見れば、腕組みをし深く俯いていて表情が見えない。怒っている。当然よね。初対面の人間に
最低などと言われたら、誰でも頭に来るわ。
 スカリーはそこで、以前にも同じ出来事があったのを思い出した。そう言えば、前にモルダーとスキナーを別々に連
れてきたときも、散々だったわ。あの時も、ウェンディが突っかかって、2人とも怒らせてしまった。悪夢のようだったそ
の時を思い出し、スカリーは情けなさにげんなりとし思った。私ったら、少しも進歩してないんだわ。
 あの時モルダーは、ウェンディの不躾さに、むっとして押し黙ったまま食事を済ませ、帰り際スカリーに2度とこの店
は御免だと宣言した。スキナーに至っては、用事を思い出したと、オーダーしたものが来る前に支払いだけ済ませそ
そくさと帰ってしまった。ドゲットは一体どうするのだろうかと、恐る恐る顔を上げれば、既に何事も無かったような顔
で、椅子に凭れあらぬほうを向いている。その表情からは、怒りや苛立ちは窺えない。しかし、スカリーは自分が悪い
わけでもないのに、謝罪の言葉を言わずにはいられなかった。
「エージェント・ドゲット。ごめんなさい。」
するとドゲットは、おやっという顔でスカリーに向き直り尋ねた。
「何が?」
「ウェンディよ。彼女、悪い人ではないのだけど、ちょっと口が悪いの。」
その途端ドゲットは、口元から顔一杯に笑顔を広がらせ、俯いて上目にスカリーを見た。
「いや、気にしてないよ。」
「怒って無いの?」
「怒る?何に?」
「・・だって、その、あなたのことを・・・」
「ああ、あれ。」
ドゲットは下を向いたままにやにやしながら、鼻の横を擦った。スカリーはその様子が納得できず、不思議そうにドゲ
ットの顔を覗きこんだ。侮辱されたというのに、平気なのかしら。そんな彼女の気持ちが、顔にはっきり出ていたのだ
ろう。ドゲットが躊躇いがちに言った言葉は些か弁解めいていたが、だからと言って何の説明にもなってはいなかっ
た。
「いや、上手いことを言うなと、感心したのさ。僕がろくでもない男だというのは、当ってるからね。」
「あなたが?」
「そうさ。君も薄々感づいていたかも知れないが、僕はろくでなしの最低男なんだ。」
真顔でそう言ったドゲットは両肘をテーブルに付き身体を乗り出すと、スカリーの顔をじっと見詰めた。スカリーは正面
から見詰めるドゲットの眼差しにたじろぐと同時に、どきん、として思わず身を引いた。最低ですって?本当に自分の
ことをそう思っているのかしら。スカリーはドゲットの言う意味がさっぱり分からなかった。
 大体ウェンディがそう言ったことさえ理解できなかったが、普段の彼女の男性評からウェンディの眼鏡にかなう男な
ど、この世に存在するのか大いに疑問だった。モルダーやスキナーなど幾ら見た目が良く、立派ななりをしていようと
も、ウェンディにかかれば口にするのも憚るような言葉で、掃いて捨てられてしまった。しかし、心の何処かで、どんな
人でも容易に打ち解けさせるドゲットなら、もしかしたら大丈夫ではないかと、淡い期待をしていたことも事実だ。
 そのドゲットをろくでもない最低男と決め付け、言われた本人は目の前で真顔でその通りだと言う。スカリーは混乱
してきた。と、その時そんなスカリーを僅かに首を傾げて見詰めるドゲットの瞳が、ほんの一瞬猫のように煌いたのを
スカリーは見逃さなかった。面白がっている。平静を装いながら、スカリーはしまったと舌打ちしたくなった。
 ドゲットはこの状況を面白がっている。ウェンディの言ったことを気にしてないと言うのも、彼女の態度を怒っていない
言うのも、本心なのだ。しかも、自分の言ったことで混乱しているスカリーの様子を密かに観察して楽しんでいるのは
間違いない。これはドゲットの専売特許なのに、忘れるところだった。と、スカリーはドゲットの真面目腐った顔を眺め
ながら思った。この如何にも神妙な表情と、澄んだ蒼い瞳に騙されてしまう。おかげでこっちはしなくてもいい謝罪ま
でする羽目になったのだ。スカリーは些かかちんと来て、素早く頭を働かせおもむろに口を切った。
「・・・・そうね。確かに、そうじゃないかと思ってはいたわ。特に私の奢りだからって、この店で一番高い料理を注文し
たりすれば、あなたを最低と思いたくもなるわ。」
それを聞いたドゲットは、そりゃどうも、等と口の中で答え下を向いている。どうかしたのかと、スカリーがドゲットの顔
を覗き込めば、俯いて笑っているのだ。じゃ、さっき俯いていたのも、あれは笑っていたんだわ。何がそんなに可笑し
いのかしら。変な人。スカリーはそう思う一方で、ドゲットの寛いだ笑顔が、無性に嬉しかった。
 すると、顔を綻ばせたまま顔を上げたドゲットが、辺りを見回しながら呟いた。
「面白い人だね。彼女。」
「ウェンディ?」
「ああ。他の人にもあんな風?」
「まさか。あんなことしてたら、たちまち閉店だわ。口の悪いのは常連にだけ。親しくなればなるほど、容赦無いの
よ。」
「あたしの悪口言ってるの?」
突然割って入った声に、ぎょっとして見上げた2人の視線の先に、2人分の皿を持ったウェンディが立っていた。曖昧に
笑って口籠る彼らなど意に関せず、ウェンディはてきぱきとオーダーされた品物をテーブルに並べた。
 あっという間にテーブルの上は、料理で一杯になった。2枚重ねの狐色のパンケーキはふっくらと膨らみ、バターと
カナダ産のメープルシロップが添えられている。隣の皿には縁がカリカリに焦げたハムエッグと、雪と見まごう滑らか
なマッシュポテト。脇に添えられたビッブ・レタスの緑色と飾り切りしたラディッシュの赤い色が目に鮮やかだ。そして
ドゲットの前には、別に注文したポーターハウス・ステーキが白い磁器の皿の上で芳しい香りと共に、じゅうじゅうと音
を立てていた。
 ウィンディはタンブラーを二つ置き、ハーフサイズのミネラルウォーターのボトルを開け、最初はスカリーに、続いてド
ゲットのタンブラーに注ぎ始めた。その時ウェンディはドゲットが人指し指の先で、そっとステーキの皿の縁をなぞって
いるのを見咎めた。視線を感じたのかドゲットは不意に顔を上げ彼女と眼が合った途端、にっこりと微笑んで小さく頷
いた。ウェンディはちらりとそれを見てから、ふうんという顔でペットボトルを置き、ごゆっくり、と言ってキッチンに戻って
行った。

 食事は素晴らしかった。確かに空腹だと言っていた通り、ドゲットは旺盛な食欲を見せ、終始満足そうな様子で、料
理を口に運んだ。そして、スカリー推薦のこの店の料理を、ドゲットは言葉少なではあったが、手放しで褒めた。ドゲッ
トの様子は、緊張していたスカリーの気分をすっかり解してしまった。何時に無く饒舌になったスカリーは、普段なら
聞きもしないことをドゲットに尋ね始めていた。
「クーパーとは親しいの?」
「ああ。入局当時からの知り合いなんだ。」
「屋上に行くようになったから?」
「まあ、そんなとこだ。」
「よく彼と普通に話せるわね。」
「クーパーが苦手かい?」
「彼と険悪にならずに話が出来る人って、いるのかしら。前にスキナーと彼の操縦するヘリに乗ったけれど、酷い目に
あったわ。」
「どうしたんだ?」
「クーパーの態度にスキナーが腹を立てて、ちょっとした言い争いになったの。私が割って入らなかったら、スキナー
はヘリから放り出されていたかもしれないわ。目的地に到着するまで、気が気じゃなかったわよ。」
「ああ、そりゃ災難だったな。分かるよ。だが、悪い男じゃないし、腕は一流だ。」
「態度と口が悪すぎるわ。」
すると、ドゲットはにやりと笑って切り返した。
「ここのウェイトレスみたいにかい?」
スカリーは、あら、と言って眼を瞬かせると、くすりと笑った。
「そうね。彼女も悪い人じゃないわ。」
「料理も一流だ。」
「そう思う?」
「勿論。料理もそうだが、店の雰囲気もいいね。」
「でも、ちょっとみすぼらしくない?」
「気取らなくて僕は好きだよ。店がきちんと手入れされてるのも気に入った。」
そこで食事の終わったドゲットは静かにナイフとフォークを置き、ナプキンで口を拭い丁寧に畳んで、脇に置いた。流
れるような一連の動作は、スカリーの視線を吸いつけ離さなかった。思わず見惚れてしまったのは、彼にとってごく普
通の自然な動作が、スカリーにはこの上なく優雅で上品な仕草に思えたからだ。そして又それは、彼女が如何に今
までテーブルマナーとは無縁な世界に、長いこと身を置いていたのだと、実感させることにもなった。
 今までモルダーとの食事と言えば、仕事の合間のファーストフード。たまにレストランにモルダーと2人で入ることが
あっても、モルダーにそれらを要求すること自体、無理というものだった。勿論モルダーとてテーブルマナーのなんた
るかを知らないわけではないが、そういうものなど煩わしい、悪しき習慣。食べれれば、美味しければ、どうだってい
いじゃないか。そう口にこそ出さないが、それら全部を馬鹿げていると思っているのは、明白だった。
 さらに始末が悪いのは、それをスカリーに暗に同意を求めるような態度でいることだった。確かにモルダーのアウト
ロー精神は高く評価しているし、何時何処でも誰を相手にしても、決して自分を曲げないところなど中々出来ることで
はないと思っている。しかし、あらゆることに反骨精神をむき出さなくても、と失踪間際に感じることが度々会った。し
かし、それを言おうものなら、君もあんな気取った連中の仲間入りかと、馬鹿にされるに決まっている。スカリーはそ
んな場面に居合わせると、もう何を言っても無駄とばかり、少し距離を置いてどっちつかずの態度を取ることに決めて
いた。モルダーに食事を楽しむなどということを、望むこと自体、大それた望みかもしれない。何故なら、彼はフォック
ス・モルダーなのだ。
 スカリーがそんなことを考えているとは、まさかドゲットは思ってもいないだろう。綺麗に平らげられた皿を片付けに
来たウェンディに、美味しかったと告げ、食後のコーヒーを頼んでいる。デザートも美味しいわよと薦めるウェンディの
申し出を、丁重に断った後、ドゲットは途切れた会話の続きを再開させた。
「いや、本当のことをいうと、君の行きつけの店と聞いて、どんなところかと、内心冷や汗ものだったんだ。」
「あら、どうして?」
「知らない場所は気後れする性質なんだ。」
仕事柄そんなはずは無いのに、ドゲットの言葉の意味が理解出来ず、スカリーは不思議そうに聞き返した。
「どんなところだと思っていたの?」
「うーん。高級レストランとか、まあ、入り口に支配人がいて客を案内するような店だ。」
それを聞いたスカリーは、彼もモルダーと何ら変わりは無いのかと、ほんの少し落胆を覚えた。ところが、その後のド
ゲットの言葉は、あっと言う間にそんな気分を覆してしまった。
「何しろ、僕等は徹夜明けだからな。君はともかく、僕みたいなくたびれた中年男がエスコート役じゃ、釣り合いが取
れんだろう。」
「じゃ、店に付くまで何となく落ち着かなかったのは、それの所為?」
「そう。顔ぐらい洗っときゃ良かったかな・・。髭は、しょうがないか。・・・・・・何だ。笑ってるのか。」
スカリーが思わず笑みを零したのは、勿論真面目腐った顔で思案しているドゲットの様子が可笑しかった所為もある
が、何よりその心遣いが嬉しかったのだ。要するにドゲットは、もしきちんとしたレストランであったなら、今の自分の
風体ではスカリーに恥をかかせてしまうからだと、そう言っているのだ。
 スカリーは、笑われて憮然とした表情でコーヒーを啜るドゲットの様子を盗み見た。確かにYシャツのボタンを外し緩
めたネクタイはよれよれで、無精ひげの伸び始めた頬や、屋上の強風に煽られぼさぼさの短い髪と疲労が浮いた顔
など、何処から見ても、くたびれている。しかし、だからと言ってドゲットが、魅力的ではないとはとても言い難かった。
 何時も首元まできっちりかけてあるボタンを外し、コーヒーを飲むたびに上下する喉仏や、緩慢とした物憂げな仕草
がスカリーには目新しかった。これはきっと、普段なら誰もいないところで見せる、ドゲットのもう一つの顔なのだ。徹
夜明けの、些か感情や精神状態の箍が外れたドゲットは、時折眼が合うと、意味もなく無意識に微笑んだ。その疲
れたような淡い笑みは、無性にスカリーの母性本能を掻きたて、新たに自分に湧き上がった感情は、スカリーを戸惑
わせた。しかも、その感情に追い討ちをかけるように、スカリー自身も徹夜明けで、何時もの潔癖なガードの箍が外
れているのだろう。そんなドゲットの様子が、何かの拍子にセクシーだと感じてしまう。スカリーは、慌ててそれらを打
ち消そうと、発した声音は自分でもわざとらしいほど、乾いていた。
「そうね。顔は洗っておくべきだったわ。ウェンディは身だしなみには五月蝿いのよ。」
「やはり、ばれてたのか。」
ドゲットは片手で顔をつるりと撫ぜ、伸び始めた髭をざりざりと擦り、いたずらっぽい眼をしてスカリーに尋ねた。
「むさ苦しい?」
「ろくでなしの最低男にしては、それほどでも無いわ。」
「助かった。」
ドゲットはそれを聞くと満足げに頷いて、コーヒーを啜る。スカリーは自分の言った言葉が予期せず心の中で反復し、
すると先ほど疑問がむっくり頭を擡げてきた。スカリーがよほど妙な顔をしていたのだろう。ドゲットは首を傾げ怪訝そ
うな顔をする。
「どうかした?」
「あなたの言ったことを考えていたの。」
「僕の?」
スカリーは一呼吸いてから、尋ねた。
「本気で自分のことを、ろくでなしの最低男と思っているの?」
「勿論。支払いは君持ちだし。」
「そんなことを聞いてるんじゃないわ。あなたの何処が、ろくでなしの最低男なのか、それを聞いているの。」
空気の流れが一旦止まり、ドゲットの瞳がほんの少し揺らいだが、スカリーがそう感じた直後、ドゲットは何時もの口
調で答えていた。
「そりゃまあ色々と。」
「それじゃ、分からないわ。」
「分からなくて結構。」
「どういうこと?」
「僕の最低さ加減を知ったら、君、卒倒するよ。」
「例えば?」
「空腹時の食欲は馬並みだとか。」
「他には?」
「一週間同じものを食べ続けても平気。」
「それから?」
「酒は底なし。」
「・・・・・ひょっとしてあなた、私をからかってるの?」
「そうだ。」
今頃気付いたのかという顔で、ドゲットは平然とそう答え、にやりと笑ってスカリーの顔を眺めた。スカリーはまんまと
ドゲットに乗せられたことに気付き、悔し紛れに呟いた。
「最低ね。」
言った直後スカリーはしまったと唇を噛んだ。これではすっかりドゲットの思う壺だ。スカリーのその様子に、ドゲットは
ふふんと得意げに笑い、そうだろうと大きく頷いた。そして堪らず苦笑してしまったスカリーを暫く自分もにやにやして
見ていたが、自分たちのカップにはもうコーヒーが無いことに気付き、コートに手を伸ばすと、おもむろに立ち上がっ
た。 
「さあ、行こうか。」
スカリーはなんとなくもう少しこの会話を続けていたかった。しかし食事もコーヒーも終われば、これ以上ドゲットを引き
止めてはおけ無い。潮時だった。

 スカリーがレジで支払いをしようとすると、ドゲットが財布を取り出すのが見え、思わず手を止め何をするのか咎める
ような視線を送れば、さも当然だという口ぶりでドゲットは言った。
「ステーキの分は払う。あれは余計だった。」
「ふざけないで。奢りと言ったのよ。」
「女性にステーキを奢らせたら、親父に怒鳴られる。頼むよ。」
「勝手に怒鳴られてなさい。早く財布を引っ込めないと、私が怒鳴るわよ。」
じろりと睨みつけスカリーがそう言えば、ドゲットはぐっと言葉を詰まらせ、固まってしまった。するとレジの向こうで見
ていたウェンディが、あははは、と高笑いしドゲットに言った。
「あんたの負け。大人しくダナの言うことを聞くんだね。」
「そうよ。ありがとう、ウェンディ。」
2人はにっこりと笑いあい、冷たい一瞥をドゲットに向けた。するとドゲットは、肩を竦め降参と両手を挙げた。そして、
ごちそうさまとウェンディに言ってから、スカリーに新聞を買ってくると告げ、店の外に出て行った。
 スカリーが、財布から料理の金額の紙幣を取り出していると、唐突にウェンディが切り出した。
「さっき、あたしが言ったこと、訂正するわ。」
「訂正?」
「確かにろくでもない男だけど、最低ってほどじゃないわ。」
「珍しいわね。あなたがそんな風に思うなんて。何故なの?大体彼の何処がろくでもない男だっていうのかしら。教え
て欲しいわ。」
「ダナ。あんたって何にも分かっちゃいないんだねぇ。いいかい、良くお聞きよ。あたしが最初にろくでもない男だと言
ったのは、昨日の昼から食べてないといったからさ。只でさえ、あんたは仕事をし過ぎるのに、一緒に仕事をしてる男
も同じじゃ、どうしようも無いだろ?誰が一体あんたに歯止めをかけるのさ。だから、ろくでもないと言ったんだ。でも
ね、その後ちょっと考えが変わったわ。ダナ、あいつ、私がステーキの皿を置いたら、縁を触っていたのに気が付いた
かい?」
スカリーはそう言えばと、その時妙な仕草だと思ったが、別に気にも留めなかったことを思い出した。ウェンディはスカ
リーが頷いたのを確認すると、感慨深げに語り始めた。
「あれは、ステーキがセラミックの皿に乗ってたから、ああしたんだ。あの後あたしと眼が合ったら、嬉しそうな顔して
たから間違いないね。何故か分かる?三流のレストランなんかじゃよく見るけど、ステーキを鉄皿に乗せてじゅうじゅ
う音をさせて運んでくるところがあるだろ。ありゃ、見たとこ、凄く美味しそうに見える。でもね、ポーターハウス・ステー
キなんぞ、鉄皿に乗せて出そうものなら、キッチンからテーブルに運ぶまでの間、焼き加減がどんどん進んで、それこ
そテーブルに置く頃には炭になっちまう。それが、あいつには分かっていたんだ。最高の肉を最高の状態で食べさせ
ることがこの店のモットーだって、あいつはちゃんと分かったのさ。そんな奴が、最低とはちょっと言い難いね。少なく
とも、所構わずひまわりの種を撒き散らす坊やや、頼んだ料理を見もしないで帰っちまう親父とは、一緒にしないでい
てやるよ。それに・・」
そこでウェンディは、おつりとレシートをスカリーの手に押し付けながら、心底意外だというようにこう付け加えた。
「ウェイトレスのあたしなんかと握手をしようって奴は、あいつが初めてさ。」
「エージェント・ドゲットは礼儀正しいのよ。」
スカリーが微笑んで答えると、ウェンディはふうんと言う顔でスカリーを眺めた。その思わせぶりな目つきに、又妙な
誤解をされては困るとスカリーは慌てて聞き質した。
「何なの?」
「ちょっと見ないうちにいい顔になったね。あんた、3ヶ月ぐらい前は、酷い顔してたよ。」
3ヵ月前。モルダー失踪直後だ。スカリーは少し顔を背け、感情を殺した平坦な声で囁くように答えた。
「あの時は、公私共に色んなことがあって・・・。」
「いいさ、聞かないよ。重要なのは何があったかじゃないさ。今のあんただ。感じが変わったよ。随分と女っぽくなった
んじゃない?」
「そうかしら。別に今までと、変わり映えしないわ。ウェンディ。言っとくけど、もしそうだとしても、それが彼と関係ある
ように勘ぐるのは止めて。彼は、只の仕事のパートナーなのよ。」
「パートナーねぇ。ねぇ、ダナ。あんたのまわりには、男がいないのかい?あんたみたいな娘、あたしが男だったら絶
対ほっとかないよ。それとも、あんたが固すぎるんじゃないの?いい?気が付いた時にはもう遅いんだよ。そうした
ら、えり好みしてる場合じゃなくなるんだ。どうだい、手頃なので手を打ったら?例えば、・・・そう、あいつとか。」
ウェンディが辺りを見回し、顎でしゃくった先には、新聞を小脇に挟んでドアを開けて入って来るドゲットの姿があっ
た。ウェンディはレジを閉め、スカリーの横に立つと、二人に歩み寄るドゲットを繁々と眺めた。その視線に気付いたド
ゲットは、思わず立ち止まり、間が悪そうに、何か?と言って首を傾げる。すると、ウェンディは大仰に溜息を付き、ス
カリーに目配せしてから、こりゃ駄目だわ。と呟いて、つかつかとドゲットに詰め寄った。その勢いにたじろいで、思わ
ず後じさるドゲットの緩んだネクタイをむんずと掴み、ウェンディは呆れ果てたという口調で捲くし立てる。
「ああ、ああ。何だい、いい年をして、だらしがないね。ネクタイもまともに締められないの?それに、どうしたもんかね
ぇ、このスーツ。似合ってりゃいいってもんじゃないんだよ。少しぐらい洒落たところが無きゃ、地味すぎて役人丸出
し、面白くもなんともない。せっかく素材が良くても、もう少し身なりに気を配らないと、あんたみたいに愛想のない男
は、この先寂しい人生を送ることになるよ。」
ウェンディ、と側でその口を止めようとするスカリーにはお構いなしで、手際良くドゲットのYシャツのボタンを掛け、ネク
タイを締めなおす。こうなればまるで、近所の世話焼きおばさんにしか見えない。ぽんぽんと次から次へ、言いたい放
題のウェンディには、流石のドゲットも太刀打ち出来ず、困り果てた顔をして、されるがままだ。スカリーは、ドゲットが
気の毒になった。
 すっかりウェンディのペースに巻き込まれ、成す術なく立ち尽くす2人など、ウェンディはものともしない。きちんとドゲ
ットのネクタイを整え、スーツやコートに付いた糸くずや埃を払い、皺になっているところを、ささっと直し一歩下がって
スカリーの横に並び、あちこちに首を傾げ、ドゲットの全身をつぶさに点検し直した。
「まあ、何とか見られるようになったかね。さあさ、用が済んだらとっとと帰んなさい。2人とも早く休まないと、酷い顔
付きだよ。あんた、くたびれてるけど、運転は大丈夫なのかい?」
自分の気が済んだら今度は追い出しにかかる、ウェンディには最早お手上げだ。ドゲットは諦めたようにスカリーに微
笑み、ウェンディを見下ろすと答えた。
「平気ですよ。」
「ダナを無事に送り届けるんだよ。」
「分かりました。」
神妙な口調で答えるドゲットを、ふんと鼻先であしらい、ウェンディは2人の背後に回ると、仕事の邪魔だとぶつくさ言
いながら背中を押し、店の外に追い出してしまった。そして、振り返った2人に何時でもおいでと、笑顔で言って店の
中に戻りかけるウェンディから、こんな言葉が漏れるのを聞いた。
「狐の次は犬だって?シャレにもなりゃしないわ、全く。」
スカリーは思わず眼を瞑った。やっぱり、来るんじゃなかったと、恐る恐るドゲットを見上げれば、そこに彼の姿は無
く、既に車に向かっている。慌ててスカリーが追い縋り顔を覗き込めば、笑いを噛み殺しながら、ちらりとスカリーを見
て、本当に上手いことを言うと、感心したように呟いたのだった。

 スカリーが、ふっと眼を覚ましたのは、顔に当たる日の光が、やけに暑く感じたからだ。ぼんやりとした頭で、一瞬こ
こは何処だろうと考えを巡らせれば、視界に入ったのは、車のハンドルだ。ああ、そうだ。ドゲットのピックアップだ。眠
ってしまったのね。と、身体を起こせば、空の運転席と自分にかけられたドゲットのコートが眼に入る。
 窓の外を見れば、スカリーの家の前だ。時計は8時を指している。眠っていた時間は30分程だが、僅かでも熟睡し
たせいか、頭がすっきりとして、眼の奥がじいんと熱かった疲れが消えている。しかし狭い助手席で座ったまま眠って
しまえば、当然肩やら腰やらがぎしぎし悲鳴を上げる。スカリーは凝った肩や首を解しながら、隣にいるはずのドゲッ
トは何処なのだろうと、辺りを見回した。
 すると、車のボンネットに四角く折りたたんだ新聞が乗っているのが見えた。それを見るうち、スカリーの記憶にぼん
やりと浮かんだ光景があった。それは、車のドアが閉まる音で、薄く目を覚ましたスカリーが、どうしても眠気に抗え
ず垣間見た、ドゲットの姿だった。彼は新聞を小脇に挟んで車のボンネットに凭れ、スカリーの姿をちらりと肩越しに
見てからおもむろに新聞を広げて読み始めた。どうして、そんなところで新聞を読んでいるのだろう。寒くないのかし
ら。スカリーは、最早振り返らないドゲットの広い背中と、短く刈った髪を眺め、そんなことを思ううちに眠り込んでしま
ったのだ。
 スカリーはドゲットのコートを運転席に置き、シートベルトを外そうとして手を止めた。外されている。そういえば朧げ
に、このコートをかけるドゲットが、そうっとベルトを外していったような記憶がある。となれば、ドゲットは結構自分に覆
いかぶさっていたはずなのに、それさえも曖昧な記憶しか無いなど、相当油断していたことになる。別に不快な訳で
はないが、こんなにも隙だらけになれる自分に些か戸惑いを覚えるのだ。
 スカリーは幾ら自宅の前でも、このまま一言も言葉を交わさず、家に帰ることは出来ないと、とりあえず車を降りてド
ゲットを探すことにした。ところが、降りた途端、それが出来ない事態に陥ってしまった。何故なら、助手席のドアの正
面に小さな女の子が一人、つぶらな茶色の目を開けてスカリーを見上げていたのだ。
 車を降りたスカリーは、左右を見回しドゲットの姿を探した。しかし、女の子の視線が気になり、再び彼女を見下ろし
た。すると歩道の脇の花壇の縁石に腰掛けたまま、ませた口調でその子は話しかけてきた。
「あなた、この車にいた男の人の友達?」
「・・ええ。そうよ。」
「伝言頼まれたの。起きたらお家に帰って下さい。ですって。」
スカリーは、妙な顔をしてその言葉を受け止めると、女の子の隣に腰掛けた。すると女の子は、澄ました顔でこう言っ
た。
「いくら眠くても、お家の前の車で寝るなんて、大人がしたら変だわ。6歳のあたしでもそんなことしないのに。」
「そうね。これからは、気をつけるわ。」
スカリーは、ピンクの花柄のフリースジャケットを着て、綺麗な金髪を赤いカラーゴムで括った女の子を見下ろして微
笑んだ。大人びた口調も、真面目腐った顔付きが、少しも生意気に聞こえない。こんな可愛らしい子がここで一体何
をしているのだろう。あまりこのあたりでみかけないその子にスカリーは優しく尋ねた。
「じゃあ、それを私に言う為にずっとここにいてくれたの?」
「違うわ。待ってるのよ。」
「何を?」
「あの人が、あたしのジェダイの騎士を見つけてくれるのを。」
スカリーは面食らって、眼を瞬かせた。スターウォーズ?
「ジェダイの騎士って?」
「あたしの猫。ちょっと前逃げ出して、帰ってこないの。早く見つけて連れて帰らないと、置いてくことになっちゃうわ。」
「これから何処かへ行くの?」
「今日、お引越しなの。あたし達、パパの転勤でカナダに越すのよ。やっと、スカイウォーカー一族全員連れて行って
もいいことになったのに、あの子ったら、キャリーが大嫌いなの。」
スカリーは、思わず吹き出しそうになり、慌てて真面目な顔を作ると、尋ねた。
「スカイウォーカー一族?」
「あの子のパパ、アナキンでしょ、ママのアミダラ、双子のお姉さんのレイア、それにあの子よ。」
「それって、全部猫の名前?」
「そうよ。全部お兄ちゃんがつけたの。あたし、お兄ちゃんて頭がおかしいって思うときがあるわ。だって、あたしのこと
たまに、R2-D2なんて言うのよ。それなのに、自分はハン・ソロなんて、笑っちゃうわ。自分の方がC3-POのくせに。
馬鹿みたい。」
そう言って、口を尖らせ不服そうに頬を膨らませた。スカリーは微笑んだまま、更に尋ねた。
「それで、ここにいた人は何処にいるの?」
「さっきここを通った時、あたし、猫を見なかったか聞いたの。そうしたらあなたと同じこと聞いて、自分が替わりに探し
てくるから、ここにいなさいって。あの人あたしが迷子になると思ったんだわ。きっと。どうして大人って、あたしみたい
な女の子が一人で歩いていると、直ぐに迷子だと思うのかしら。頭にきちゃうわ。」
そういって、しかめっ面で腕組みをする女の子の話から、おおよその状況が見えてきた。両親はきっと引越しで、猫一
匹にかまけている暇など無いのだ。そこで、この子は一人で探しに出たのだろう。しかしこんな可愛らしい小さな女の
子が、一人でふらついていたら、確かに危ない。迷子になった先で、何があるか分からない物騒な世の中だ。そこ
で、ドゲットはとりあえずスカリーに伝言を頼んでこの子の足止めをし、替わりに自分が猫を探すからと、納得させたに
違いなかった。
 突然、女の子が勢い良く立ち上がり、伸び上がって歩道の向こうを見た。思わずスカリーも腰掛けたまま、身を乗り
出せば、50メートルほど向こうの曲がり角からドゲットが現れた。女の子は、ドゲットと分かると、両手を握り締めその
場でぴょんぴょん飛び跳ねている。期待と不安でどうしようも無いのだろう。
 スカリーは立ち上がり女の子の隣に並ぶと、黙って肩に手を回した。すると女の子が不安げにスカリーを見上げた
ので、スカリーは安心させるように、大丈夫よと囁いていた。しかし、それは何の確証も無い慰めだ。スカリーはそれ
を悟られないように、彼が側に来るまで女の子と身体を寄せ合い、待つしかない。
 ドゲットは俯いてスーツの左右を掻き合せ、しっかりとした足取りで2人に歩み寄った。ドゲットが近づくにつれ、スー
ツのあちこちに泥や落ち葉が付き、惨憺たる有様だと見て取れた。一体何処を探せばこんな風になるのだろう。ドゲ
ットはスカリーにちらりと視線を投げて通り過ぎ、2人が今しがた腰掛けていた縁石にどさりと座り込んだ。女の子は
すっ飛んで来て、ドゲットに尋ねた。
「いたの?見つかったの?」
するとドゲットは、にっこりとして頷き、そっとスーツの懐を広げて見せた。眼を見張ったまま女の子が覗き込んだ先
に、ふわふわとした真っ白な子猫が丁度ドゲットの胸の辺りでぬくぬくと眼を瞑り、一人前に喉を鳴らしている。
「ルーク。」
女の子は猫の名を呼び、頭を撫ぜた。
「何処にいたの?」
「この先の公園の木の上さ。犬にでも吠えられたんだろう。降りられなくなっていたんだ。」
女の子はそれを聞くと、しんみりとした声で言った。
「怖い思いしたのね。可哀そう。」
「そうだね。木にしがみついて離れないし、離しても震えは止まらないしで、スーツの中に入れたんだよ。そうしたら、
ようやく落ち着いてね。公園からここまでずっとこんな調子だ。」
「ごろごろ言ってる。」
「大きくて暖かいから安心出来るのよ。」
思わず女の子の後ろから覗き込んでいたスカリーが口を挟んだ。女の子は振り返ると、何の気なしに聞き返した。
「そうなの?」
スカリーは、はっとして口を噤んだ。自分は一体何を言ったのだろう。ドゲットの胸元で丸くなる子猫を見るうち、今朝
の屋上の出来事を思い出し、自分と子猫を重ね合わせていたのだ。頬がかっと熱くなるのを、自分ではどうすることも
出来ない。幾らあの胸の感触を、思い出したからといって、何もそれを本人の目の前で口にするなど、恥ずかしさにま
ともに眼を会わせられない。しかし、ドゲットはそんなスカリーの様子など、まるで気付かぬ風で、女の子と先を続け
る。
「キャリーを持っておいで。」
「いいわ。あたしが抱いてキャリーに入れるから。」
「うーん。それはどうかな。そうやったら、逃げられちゃったんだろ?君がキャリーを持ってて、僕が入れたら君が直ぐ
蓋を閉めるって方が、いいんじゃないかな。」
「・・・・分かった。言うとおりにするわ。」
女の子は、ちょっと離れた縁石の影から、ペットキャリーを持ってくると蓋を開けた。ドゲットは立ち上がり、腰をかがめ
ると、ペットキャリーと見て急にスーツに爪を立てしがみ付いた子猫を、爪を傷めないよい慎重に引き剥がした。声を
限りに哀れっぽい声で鳴く子猫を、ドゲットがそうっと中に入れると素早く女の子は蓋を閉め、しっかり鍵をかけた。首
尾良くことを終えた2人は、満足げに頷き合い、振り返って満面の笑みを浮かべスカリーを見た。
 良かったわね、と近寄るスカリーに、ありがとうと言って女の子は初めて年相応の無邪気な笑顔を浮かべた。続い
てキャリーを抱えたまま、ドゲットに向き直り、心底嬉しそうに見上げてこう言った。
「どうもありがとう。ルークを助けてくれて。あたし、一生このこと忘れないわ。ルークもよ。」
それを聞いたドゲットは、不思議な眼差しで女の子を見下ろし、薄く微笑んだ。そして握手をする為に差し出された小
さな手を握り返し、掠れた声でどういたしましてと、答えたのだ。
 走り去る女の子の後姿を、2人は見えなくなるまで黙って見送った。スカリーは、静かに微笑んでいるドゲットの横
顔を眺め、続いて視線を少し落とし胸の辺りを見た。この胸の広さと暖かさを知っているのが、私とあの子猫なのだと
思うと、くすぐったいような可笑しいような妙な気分だ。するとスカリーの視線に気付いたドゲットが、自分の身体を見
下ろし頭を掻いた。
「酷いな。」
 見下ろすスーツの胸元は猫の白い毛だらけで、Yシャツの裾はズボンからはみ出している。緩んだネクタイはだらし
なく首にぶら下がってるだけだし、服のいたるところには、泥や落ち葉がくっついている。おそらく子猫を捕まえるの
に、相当苦労したのだろう。ドゲットはYシャツをズボンの中に入れ、身体のあちこちに付いた汚れを手で叩いた。スカ
リーはドゲットが身体を叩くたびに舞い上がる埃を、手で払い避けながら顔を顰めた。
「落ち葉の中を転げ回ったみたいね。」
「僕が?まさか。」
「あら、じゃあ、何の苦も無く捕まえられたとでも?」
「勿論。」
へえ、とスカリーが疑わしそうな目つきで上目に見れば、当然だという顔をして、ドゲットは済まして頷いた。こういう
余裕綽々の態度で人を煙に巻くんだわ。スカリーは、思わずその手には乗らないと、皮肉な口調で言い返した。
「その割には、いい有様ね。一体どうすればこうなるのかしら。」
「それは、まあ、僕はウェンディ言うところの最低男だから・・。」
「だから、何なの?」
「ふむ、やはりここは、ろくでなしにふさわしい格好でいないと。」
スカリーは何故だか無性にその返事が気に入らなかった。冗談めかして言ってはいるが、ドゲットの自嘲気味な台詞
が、癇に障るのだ。私のパートナーなのよ。ろくでなしなどと言わせないわ。スカリーはドゲットに向き直って、きっぱり
と言った。
「それは違う。あなたはあの子のルークを探して、無事にあの子の元に帰すことが出来たでしょう。そのあなたが、ろ
くでなしであるはずが無いわ。」
真っ直ぐドゲットの眼を見上げて言ったスカリーの言葉に、瞬間はっと息を止めたドゲットだったが、急にうろたえたよ
うに視線を泳がせ、何かが喉の奥に詰まったような声で、言い淀んだ。
「だが、僕は・・・。」
しかし、その言葉の先は、ついぞ聞かれることは無かった。問いかけるようなスカリーの瞳を避け、奇妙に歪んだ顔に
なったドゲットは、小さく溜息を付き、いや、と最近よく耳にする口調で答え、何かを断ち切るように首を振った。それ
から不意に踵を返すと、ピックアップに戻りかけ、両手で髪をすいて空を見上げ大きく伸びをした。その直ぐ後ろにいる
スカリーに、空を見上げたまま誰に言うことなく吐き出された言葉が、届いた。
「帰るか。・・遠いな。」
 何を思ってか、暫くドゲットは空を仰いだまま、黙って立っていた。どうかしたのかとスカリーが横に並んで、ドゲット
の顔を見上げれば、日の光に眩しそうな眼をしたドゲットが、囁くような声で、ありがとうと、呟くのを聞いた。それか
ら、ピックアップの運転席に回りドアをあけた。しかし、そこでボンネットに置いたままの新聞に気付き、戻って手に取
るとダッシュボードの上に放り、運転席のコートを助手席に移した。その間一度もスカリーを振り返らず、さっさと車に
乗り込んだドゲットは、エンジンをかけ運転席から顔を覗かせた。
「疲れたろう。」
「少し眠ったからそうでもないわ。」
「ちゃんとベットで眠らなければ駄目だ。」
「そんなこと、分かっているわ。じゃあ、何故着いた時直ぐに起こしてくれなかったの?」
ドゲットは俯いて、極まり悪そうに微笑むと口籠りながら答えた。
「いや、君があんまり良く眠っているから。」
「まさか、私に遠慮したとでも言うんじゃないでしょうね。」
ドゲットは、言うんじゃ無かったといった顔で鼻の横を擦った。スカリーは険しい顔をして、追い討ちをかける。
「エージェント・ドゲット。さっきの話を蒸し返すわけじゃないけど、こんなことにまで、変なスタンスを取るのは止めてく
れないかしら。ましてや、仕事でも何でもないのよ。遠慮も度が過ぎれば、却って嫌味だわ。」
スカリーの手厳しい指摘に、ぐうの音も出ずドゲットは、参ったという顔付きで何度も頷いた。しおらしいその態度にス
カリーは、直ぐに態度を軟化させると、にっこりと笑いかけ、念押しした。
「私の言うこと、分かってもらえたかしら。」
「以後気をつける。約束するよ。」
そして、ドゲットは良い週末をと言い残し、走り去った。見送るスカリーの眼差しは、限りなく優しかった。思わず口を
ついた言葉は、スカリーを微笑ませた。
「ろくでなし。」
私は、あなたがそんな人間じゃないと、随分前から気付いていたわ。でも、きっとそんなことなど、ドゲットは思いもし
ないんだわ。スカリーは、そう考えると、何故か少し残念だった。どうしてもっと自分を評価しないのだろう。まるで、自
分のことなどどうでもいいと、思っているかに見える。スカリーは小さく溜息をつくと、肩を竦めた。だからと言って、自
分に何が出来よう。最早ドゲットは、きっちりと敷かれた境界線の中に、引っ込んでしまったのだ。ドゲットが自分を過
小評価しようが、境界線を敷こうが仕事にさして影響は無いだろう。私のすべきことは無いわ。そう決着をつけると、
スカリーは自宅に足を向けた。シャワーを浴びて、さっぱりとしたら、一刻も早くベットに潜り込みたかった。例えそれ
が、何かから逃げるように思えても、今はそうすることが最善と、無理に納得させ、我が家へと帰り着いた。そうして
スカリーは、長い一日を、ようやく終わらせることが出来たのだった。

 しかし、彼女は気付いていない。隣で眠るスカリーの顔を、ドゲットが長いこと只黙って見詰めていたことを。コートを
かけた後、顔に掛かった彼女の髪をそっと払い、そのまま優しく頬に触れたことを。去り行くドゲットは微笑んでいた
が、その瞳には計り知れない哀しみが宿っていたなど、スカリーは思いもしないのだ。
 
 そしてそれを知る時は、もうすぐそこにまで近づいている。巡る季節の春の息吹は、南西の風と共に、緩やかな変
化をもたらそうと、遥か上空で渦巻いていた。


                                  終








※ご存知の通り、これは「海市」の番外編です。掲示板で振って頂いたら、結構すんなり妄想モードに入れました。今までで一番早く書け
たんじゃないかと思いますね。やっぱ、この2人のシーンは、書いてて楽しいっす。今回ドゲットは色んなサイズの女性に振り回され、私的
には、そんなドゲットが凄く好きなんで、彼女等とのやり取りは面白かったですね。ドゲットも楽しそうでしたし・・。

2003.1.27







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