【プロローグ】




 また、来てるな。
 ドゲットは首に巻いたタオルで髪を拭く手を止め、窓辺にそっと近寄った。早朝、まだ明け切っていない寒々とした庭
先に、小さく動くものがいる。それは、生垣の間、砂利の上、冬枯れた雑草の間をいそいそと移動しながら、時折立ち
止まっては、警戒したように辺りを見回している。やがて危険は無いと安心したのか、ついっとそれは羽ばたいて、生
垣の上にちょこんと止まった。すっかり寛いだ様子で羽繕いする、その茶色の羽をした鳥の名を、ドゲットはその鳥が
初めて現れた翌日に調べていた。
 鳥は、ドゲットが窓越しに観察しているなど、少しも気付く気配はなく、羽繕いに余念が無い。ドゲットはその様を眺
めながら、ふと窓に映った自分の顔を見た。10日前に、ボストンの地下鉄でビアンコに負わせられた左眼周りの青あ
ざは、今では薄くなったとはいえ、紫と黄色が混ざったマーブル模様だ。痛みはとうに無くなっているが、会う人が皆
一瞬ぎょっとした顔になり、その後十中八九理由を尋ねられ、それに逐一答えなければならないのが、非常に煩わし
い。俺の顔など、何処がどうなっていようと、どうだっていいじゃないか。そう言いたい気持ちを押さえつけるのに、毎
回一苦労だ。
 それというのも、ドゲットが無表情に転んだと言って、大方の人間を黙らせても、そんな時大抵側にいるスカリーが、
僅かに顔を強張らせ、逸らした瞳に一瞬罪悪感の色が過ぎり、それを認めるのが堪らなく嫌だったからだ。
 どうして彼女はあんな顔をするのだろう。この痣をつけたのはビアンコだし、まさに油断した隙をつかれた自分にこそ
落ち度がある。それを離れた所にいた彼女が防げるわけなど無いのだ。確かにあの時別行動を取ったのは彼女の判
断だ。しかし、それは決して彼女の判断ミスではなく、誰かが残ってカリスを見張る必要があったからだ。
 もし自分に異論があれば、とっくにそう言っていた。だがそうせず彼女の意見に従ったのは、彼女の言い分が最善
だと認めた自分の判断だ。だから俺の顔を見る度に、痛々しそうな表情されるのは敵わん。君のせいじゃないからそ
んな顔をするな、と何度も言いそうになり、その度に無理やりその台詞を飲み込んだ。それを指摘され、いい顔をする
ような人間ではないし、言ったタイミングが悪ければ、手厳しい反撃を食らう。それだけは御免だ。
 ドゲットは最近になって、スカリーの自分に対する態度が、以前と微妙に違うことに気付き始めていた。どこがどうと
はっきり言えるわけでは無いが、時折探るような眼差しで見上げていたり、以前ならこれ以上は尋ねないだろうと思う
ようなことを尋ねてきたり。そして今回のあの表情だ。彼女が自分の身体を気遣うのは、勿論パートナーだからで、2
人しかいない仕事仲間の1人が欠けたら、その皺寄せがどっと彼女に行くから当然といえば当然なのだ。
 ドゲットは、眉間に皺を寄せ唸った。そうだ。今まで彼女は自分がこんな風になった場合、大抵あなたに倒れられる
と迷惑なの、と威圧的な態度であれやこれやと世話を焼く。ところが今回に限り、まるで・・。そこで、はっとして思わ
ず苦笑いを浮かべた。まるで、何だというのだ。そんな筈があるわけ無いじゃないか。
 慌てて打ち消すように首を振ったドゲットは、首のタオルで乱暴に顔を拭きテーブルの上に放った。が、自分が思う
より苛立たしげなその動作に気付き、所在無げに庭に眼をやれば、茶色の鳥は相変わらず生垣の枝に止まり、まだ
堅い新芽をついばんでいる。ドゲットはその寛いだ姿に我知らず微笑みそっとその場を離れ、出勤の仕度をする為に
2階へと向かった。

 クローゼットから、濃紺のスーツを選びズボンを履く。続いてアンダーシャツをチェストから取り出し方袖を通そうとし
たドゲットは、ふと鏡に映った自分の上半身が気になり、手を止めた。右胸に白く残ったぎざぎざの傷跡は、アイダホ
の事件の時に付いたものだ。スカリーが言ったとおり、皮膚の合わせ方がいい加減で縫い方が酷かったから、薄くは
なったといえ妙な痕になっている。鏡を見ながら傷跡に指を走らせ、あの晩のスカリーの口調を思い出し、ドゲットは
微笑んだ。
 あの日以来彼女は、俺が怪我をした時の主治医になったしまったな。思えばあの日、彼女に詰問され、病院嫌い
だと白状してしまったのが、人生最大の敗因だ。心の中でそう呟いて、視線を移せば左脇に手術の痕が、まだうっす
らと赤く残っている。もう痛みはないし、時折傷が疼くことはあるが、折れた肋骨は元通りだ。ベンが言ったとおり、ジ
ャニスの外科手術の腕は大したものだ。しかしあの時は、怪我をした時より、こちらに戻ってからの方が大変だった
な、とドゲットは苦笑いした。
 アンダーシャツを被ってから、ベットに腰掛け靴下を履いていると、リオと入れ替わった後の始末が思い出され、腹
の底から忌々しさが込み上げてくる。だが、結局のところまさかあれが偽者と感づいたのは僅か1人で、その1人が口
を噤んでいたから大した騒ぎにもならず、流石のドゲットもX-ファイルにいちゃストレスも堪るさ。というのが彼を知る人
間の一貫した意見に納まっていた。しかし、納まらないのが1人いた。ドゲットは靴下を履き終えベッドに腰を下ろした
まま、その時のことをぼんやりと思い出していた。


 クーパーは何食わぬ顔で屋上に現れたドゲットをじろじろと眺め回し、帰りに詰め所に寄っていけと有無を言わさぬ
口調で言い渡した。リオの尻拭いに奔走していたドゲットは、ここでも奴が何か仕出かしたのかと探りを入れねばなら
ず、仕方なく承諾したのだ。気の進まないまま帰り際詰め所に顔を出すと、クーパーは無言でドゲットにコーヒーを出
し、二人は何時ものように並んで腰掛けた。コーヒーを啜りながら話しかけたぶっきらぼうなクーパーの口調は、異変
を察知していたなど微塵も感じられないほど平静だった。
「で、お前は何時戻って来てたんだ?」
「2週間前。」
「そりゃ、4日前までいた野郎だ。俺の聞いてるのはお前のことだよ。」
「何のことか分からんな。」
素っ気無く撥ね付けようとしたドゲットの顔を、冷たい眼で一瞥しクーパーは首を振った。
「誤魔化そうったってそうはいくか。俺が分からねえとでも思ってんのか?パイロットの眼力を舐めてっと、承知しねえ
ぞ。おまけに何だ。これは。」
言葉を切ったクーパーは、いきなり手元にあった新聞でドゲットの左腕を、ばしっと叩いた。ドゲットは咄嗟にかわそう
として痛みが走り、ついで新聞が当った衝撃で思わず、あっ、と声が漏れてしまった。突然の苦痛に僅かに歪ませた
その顔を、クーパーは言わんこっちゃ無いといった顔つきで眺めこう言った。
「怪我してるだろ。ぁあ?隠すな。痛いのはここだけじゃねえだろうが。4日前の野郎は怪我なんざしてなかったんだ
よ。何処でこうなった?観念して全部話せ。」
ドゲットは、スーツで上手く隠れているはずの固定具を当てた左腕に右手を乗せ、むすっとした顔で返事をしない。そ
の様子に焦れたクーパーは、ちっと舌打ちをして言葉を荒げた。
「だんまりかよ、こいつは。・・・そうやってシラを切るつもりなら、別の痛え所もぶっ叩いてやろうか?」
新聞を丸め握った方の袖を腕まくりしながら腰を浮かせたクーパーに、流石のドゲットもそいつは勘弁と、両手を上げ
降参した。それを見て満足げに頷くクーパーに、小さく溜息をついたドゲットは、ことの経緯をかいつまんで話して聞か
せた。
「じゃあ、お前が戻ったのは動けるようになった4日前なんだな。」
「そうだ。」
「折れた肋骨がちょっと肺を傷つけただ?‘ちょっと’って何だそりゃ。おおごとじゃねえか。動き回ってもいいのか?」
「平気だ。」
「・・・嘘臭えなあ。」
クーパーはぼりぼりと頭を掻くと、遠慮会釈無く上から下までドゲットを眺め回し、顔を顰めた。その視線に居心地悪
そうなドゲットは、コーヒーを啜りながら、顔を背ける。クーパーは背けたドゲットの頬が、出張に行く前より僅かにこ
け、普段より精彩を欠いていることなど、とうに気付いていた。この如何にも平然とした風体のドゲットが、本当はかな
り無理をしているはずだと、クーパーは長年の付き合いから確信していた。自分が何を言っても聞くような男ではない
と承知していたが、それでも気に入らんなという顔で首を振ったクーパーは言葉を続けた。
「まあ、いい。お前にも言い分があるんだろ。で、ねえちゃんはどうしてた?」
言った後、無言で視線を返すドゲットに慌ててクーパーは言い直した。
「スカリーだ。うむ。ああ、スカリーは?」
「彼女が何だ?」
「だから、お前怪我したんだろ?」
「そう言った。」
「相棒が重傷を負ったんだぞ。何かあるだろ。」
「言ってる意味が分からんぞ。」
眉間に皺を寄せ首を捻るドゲットに、クーパーは呆れたような顔付きになるとその顔を覗きこんだ。
「だーかーら、こう心配してだな、付きっ切りで看病するとか、優しく労わってくれるとか、ねえのか?」
「手術の後、眼が覚めた時側にいたが。」
「何を威張って言ってんのかね。こいつは。そんなのお前、当たり前なんだよ。他にはねえのか?」
「無い。何せ直ぐ帰還命令が下ったから、彼女はリオを連れて戻らなければならなかった。俺にかまけている暇など
無かったからな。」
「何だよ。相変わらずあっさりしていやがるな。まさか、まだお前のことを毛嫌いしてんじゃねえだろうな?」
するとドゲットはふっと笑みをもらし、小さく首を振った。
「さあな。だが、こう見えても俺達はパートナーだ。一応心配してくれてるらしい。」
「一応?らしい?随分頼りねえな。今俺が言ったようなことは、して貰ってねえのか?」
するとドゲットはちらりとクーパーに視線を投げ、再び前を向き黙っている。それを見たクーパーは、ははあと何やら納
得し、首を振る。続いて、ああ、ああ、良く分かったよ。仕様がねえなあ。などとぶつくさ言ってはしたり顔でドゲットを
眺め、何やってんだかな、お前等、と聞こえよがしに言ったりするので、知らん顔を決め込もうとしていたドゲットも、流
石に無視出来なくなっていた。
「ごちゃごちゃとうるさい男だな。何が言いたいんだ?」
「別に。俺が知るかよ。」
「だから、何を。」
その問いにクーパーは穴の開くほどドゲットの顔を覗き込み、不思議そうに見返すドゲットの表情に、長い溜息を吐き
出した。苦りきった顔つきでクーパーは頭を掻くと、全く、お前という奴は、などと口の中でもごもご言い、不意に向き
直り先を続けた。
「ちょっと前に、ねえ、っと、ああ、スカリーがここへお前を探しに来た時は、仲良く2人で帰ったりしてだな。少しは進
展があったかと期待してみりゃ、何だよ。そりゃ。全然進歩してねえじゃねえか。」
「何のことだ?」
「何のことだあ?お前、とぼけるんならもうちっとましなとぼけ方をしろ。苛付く奴だな。」
「とぼけてなどいない。お前の言うことの方が、意味不明で苛々するぞ。」
「お前それ、本気で言ってんのか?」
「当たり前だ。」
分かりきったことを聞くなという風情のドゲットに、クーパーは呆れ果てたと言う顔で、天井を振り仰ぎ呟いた。
「こいつのこの間抜けさ加減は天然だな。気を回して損したぜ。」
「何だと?」
むっとして聞き質すドゲットを無視して、不意にクーパーは立ち上がった。
「知るかっ。勝手にしろ。」
そう乱暴に言い捨てて、椅子に引っ掛けていたジャケットを羽織る。突然不機嫌になったクーパーに、面食らったドゲ
ットが訳も分からず固まっていると、その様子を見咎め更にクーパーは追い討ちをかけた。
「何してんだ、お前ぇは。早く帰れ。」
は?と顔を顰めるドゲットだったが、そうなるのも無理は無い。寄って行けと誘ったのはクーパーで、その本人に早く
帰れと言われた日には、ドゲットの立つ瀬が無い。反論しようと口を開きかけたドゲットだが、クーパーに先を越され
た。
「何だ?俺は忙しいんだよ。お前の相手をしてる暇はねえ。ここで具合が悪くなってもお前の面倒なんか見ねえぞ。さ
っさと帰ってその鬱陶しい怪我を治すんだな。」
久しく見たことの無い剣幕でクーパーは捲くし立てると、工具箱を手にさっさと詰め所を出て行ってしまった。ドゲット
はあっけに取られ暫し呆然とその後姿を見詰め続けていた。


 小さく溜息を付いたドゲットは、ベッドの下から靴を引っ張り出して履き、再びクローゼットの前まで行くと、薄いブル
ーのYシャツを選んで袖を通す。ドゲットはボタンをかけながら、あの時何故クーパーは急に怒り始めたのか考えてい
た。会話の一つ一つを心の中で反復させれば、どうやっても思い当たるのはあれしかない。ドゲットは、ボタンをかけ
終わったYシャツの裾をズボンに托し込むと、小さく首を振った。
「どうしたものかな。」
鏡を見ながら臙脂のネクタイを結んでいると、不意に独り言が漏れた。ドゲットは最近自分を取り巻く人間の反応の変
化に首を捻っていた。何故彼らは、自分とスカリーの関係を、妙な風に勘ぐるのだろうか。確かに組んだ当初のよう
な、険悪な雰囲気ではなくなり、今ではお互いを信頼出来るパートナーと認めている。しかし、自分たちが築いた良
好な関係は、あくまで仕事上のパートナーと言うだけで、それ以上でもそれ以下でもない。まあ、噂好きな同僚たち
が根も葉もないことを憶測するのは、今に始まったことではないし、その対象になるのは自分達に限った話ではない
からいいとしても、まさかクーパーまで、そんな風に取っていたとは、思いもしなかったのだ。
 危険と隣り合わせの仕事をしている以上、必然的にパートナーとの絆は固く深いものになってゆく。それが同性同
士なら、終生の友となり得るし、異性だと恋愛関係に発展することも有り得ない話ではない。しかし、同じ職場での恋
愛は多くの場合ご法度になっているのが普通で、万が一そうなった場合、周囲に知れたら即配属替えだ。従ってこの
仕事を天職とする賢明な捜査官ほど、異性とパートナーを組めば、殊更行動には慎重になる。
 ドゲットはネクタイをきゅっと絞り整えると、鏡に映る自分の顔をまじまじと覗きこんだ。クーパーまでもが誤解するほ
ど、最近の自分はスカリーに対して、馴れ馴れしかったのだろうか。そう思いながら首を傾げ、左目周りの痣をもっと
良く見ようと鏡に近づける。こうして怪我をするたびに、自分を気遣うスカリーの様子が、そんな風に捉えられてしまう
のだとしたら、良くない傾向だ。
 しかしスカリーにそうさせまいと、幾ら自分の体調不備を隠したところで、勘の鋭い彼女にはたちどころに見破られ
てしまう。おまけに相手は医者なのだ。適当に誤魔化すことも言い繕うことも叶わない。従って自分が出来る最善策
として、彼女との距離を明確にしたのだが、上手くやり果せていないのだろうか。
 ドゲットは薄くなったと言え、隠しようのない痣を眺め、しかし見えるところの痣はここだけで良かったと、何気なく腰
に手を当てた。その手を当てた箇所に、実は大きな打撲の痕があることを知られなかったのは本当に幸運で、万が
一スカリーに知れたらレントゲンだ検査だと大騒ぎだ。恐らくビアンコに殴り倒され転倒した時腰を強打して痛めたの
だろうが、打った当初はそれほど痛まなかったのに、家に帰り着く頃から猛烈に痛み始め、実は車から降りるときも、
一苦労だったのだ。だがそれも今では、随分楽になったところをみれば、大したことは無かったのだろう。そう、身体
の痛みなど一過性のものだ。過ぎてしまえば、なんてことは無い。
 しかし、ふとした拍子に腰を庇ったドゲットの仕草を、目ざとく気付いたクーパーに問い詰められ、理由を話した後そ
んな意味のことを言ったところ、真顔でこう直言された。
「お前、真剣に配属替えを考えろ。あの課に移ってから満身創痍じゃねえか。見ちゃおれんぞ。ましてや、お前がそん
なふうに思ってるんなら、超特急で棺桶行きだ。お前の葬式なんか、頼まれても出ねえからな。」
「大丈夫だ。誰も出ろとは言わん。」
「馬鹿野郎。笑えねえ冗談言ってる場合か。縁起でもねえ。」
「そうは言っても2人しかいないんだ。俺が配属替えしたら、あの課は閉鎖に追い込まれる。無理だな。」
「無理でも何でもそうしろ。さもないと、命が幾つあっても足らんぞ。大体そこまでして、あの課に尽くす義理はねえだ
ろ?」
「義理で留まってる訳じゃない。」
「じゃあ、何だ。スカリーに気兼ねしてんのか?止せ、止せ。それこそお前無駄な努力だ。幾らお前が頑張っても、素
通りしちまうような女のことなんか、構うことはねえ。悪いことは言わねえから、他所に移れ。お前だったら引き取り手
は山ほどあるだろう。それにX−ファイルが閉鎖されても、彼女なら幾らでも進む道はある。お前なんかが気を回さなく
ても立派にやっていくさ。女ってのはな、その辺が信じられねえほどしたたかな生き物なんだ。お前なんかあっという
間に踏み台にされて、気が付いたら死んでたなんてことになりかねんぞ。事件の度に怪我するような課とは、早いと
こおさらばするんだな。」
ドゲットは黙ってクーパーの言うことを聞いていたが、最終的に一言言い返しただけだった。
「言いたいことはそれだけか。」
「お、おう。そうだ。俺の言うことが分かったんだな。」
急に居直るような眼差しになったドゲットに些か気おされたクーパーだったが、かろうじて威厳を保ちそう念押せば、ド
ゲットはちらりと無表情に一瞥して不意に席を立った。そして何か言いたそうなクーパーを残し、その場を立ち去った
のだった。
 そうだ。あの時、俺はクーパーの言うことに、抵抗があった。何故か居たたまれなくて、席を立ったのだ。何故だ。ド
ゲットは上着をハンガーから外し、袖を通しかけたが、まだ上着を着るには早すぎると手を止め、片手で掴んだまま、
クローゼットを閉めた、朝食を食べる為に階下へ下りる階段で、途切れた思考の続きを再開させれば、直ぐに答えが
閃き、ああ、と溜息ともつかぬ声が漏れた。
 玄関のコート掛けにスーツの上着を掛け新聞を取ってから、キッチンへと向かう。トーストとコーヒーの簡単な朝食を
取りながら、現在自分を煩わせているこれらのことが、彼にとって実は最も苦手な項目で、しかもこの先の展開を考
えると、気が重くなるのはどうしようもない。そしてこれらのことが苦手なのは、間違いなくスカリーも同じなのだ。
 ドゲットはかじり掛けのトーストを片手にしたまま、暫し物思いに耽った。得てして人間は、自分がゴシップの対象と
なるのは好まないが、いざそれが他人となれば、大口を開けて食らいつく。自分のように、対象が自分であろうが他
人であろうが、全くそういったものに興味が無い人間は、極めて稀らしかった。そんなドゲットでも、スカリーがこの7年
間というもの、口さがない同僚たちのゴシップの的になっていたことぐらい、承知していた。
 ドゲットはトーストを新聞の上に置くと、両肘をついて目を伏せた。X−ファイルのような一見した閑職に就くスカリー
が、何故自分の耳に入るほど周囲の興味の的になるのか、それを想像するのは容易い。ドゲットは目を伏せたまま、
スカリーの顔を思い描き、心の中でそっと呟いてみる。
 そうとも、彼女は美しい。例え、数々の不名誉なあだ名や、モルダーとの仲を取りざたされていようとも、彼女の美し
さに変わりは無い。ドゲットは、只でさえ女性捜査官が少ないFBIで、彼女程の美貌を持つ女性捜査官が、どれだけ
男性捜査官達の目にきらびやかに映るのか、容姿の美醜に殆ど頓着しないドゲットでさえ、理解出来た。
 男であれば、誰しも美女を従え歩きたい願望は少なからずある。ドゲットでさえ、その感情は否定しない。しかし、そ
れを又喜ばない女性が多いことも承知していた。特にFBIのような男性が多数を占める仕事場で、孤軍奮闘している
女性達となれば、その傾向は強い。彼女達にとって仕事中、同僚や外部との接触において女性であることや、女性
らしい容貌などは足かせにこそなり、有利に働かないことの方がざらだ。従って自然とその辺には絶えずアンテナを
張り巡らせており、少しでもそれに引っかかると、敏感に反応する。
 その際たるものがスカリーだった。彼女は、そういった僅かな気配が窺えると、手厳しく撥ね付ける。例えそれが好
意から発せられたものであったとしても、容赦しない。結局のところ、そういったスカリーの勘の良さが災いし、撥ね付
けられた男は、自分の浅ましさを見透かされた形になり、己を自己弁護する為に彼女を否定する。しかし、否定しよう
にも、あまりに彼女は優秀で、最終的には下品な話の種にして、身内の噂話の中でのみ、彼女を貶め心の平安を得
ようと躍起になる。これでは、ドゲットの耳に入らないわけはないのだ。
 こうして広められた噂は、対象が類を見ないほどの美貌の捜査官と言うことや、属する課と変人と悪名高い同僚の
特異性と相まって、噂が噂を呼び、当人達が知らないところでは、とんでもないことになっているなど、勿論彼女等は
知る由も無い。
 噂話。ドゲットは、小さく息をつくと頭を振った。彼が最初にモルダー捜索の指揮を執るように指示が下った時、ダ
ナ・スカリーについて知る真実は、無いに等しかった。だが、彼が事件の下調べを始める当初から、様々な噂話を同
僚から聞かされることになる。勿論彼らは親切心で、ドゲットに注進していたらしいのだが、彼自身は些か閉口してい
た。何故ならその時はまだ、ダナ・スカリーは彼にとって捜査対象者で、確かに人々の噂を仕入れることも捜査の手
がかりにはなるが、そういったものがあまりに多過ぎると、知らぬ間に先入観を刷り込まされ、本人の真の姿を見誤
ることになりかねないからだ。
 捜査対象者である時、ダナ・スカリーとは上手く接することが出来たと、ドゲットは今も思っている。初対面から慎重
に彼女に接し、こちらの思惑が知れることなく、彼女の感情を引き出すことに成功した。しかし、いざ捜索が終ってみ
ると、予想外の展開になり、些か面食らったのも事実だった。確かに中途半端なまま事件を閉じることなど、幾ら上か
らの命令でも承服するつもりなど無かったが、まさか、自分がX−ファイルに移動になるとは思っていなかったのだ。
 終らせるつもりの無い事件を扱うには、確かにこの配属替えは好都合だった。しかし問題は捜索時険悪だったスカ
リーの同僚になるというところにあった。配属替えが決まった時、クーパーにそのことをしつこく問い詰められ、如何に
も平気な風をしてみせたが、実のところは些か戸惑っていた。
 クーパーに言ったようにスカリーの自分に対する態度は、別に気にはならなかった。頑なな彼女の態度は充分理解
出来たし、同僚になったからと言って、すぐさま馴れ合えるようなタイプではないことは一目瞭然だ。従って後は自分
が彼女から信頼を得られるよう、行動すればいいのだ。時間はかかるが、これが一番確実だし、大体どう言葉を尽く
せば誤解を解き、自分を認めさせられるかなど、ドゲットには皆目検討が付かない。結局自分に対する態度が、自然
に変化するまで、如何に酷い扱いを受けようとも、待つのみなのである。
 そんなドゲットのことを称して、人付き合いが大雑把だとクーパーは決め付けた。
「顔見知りとそれ以外の、扱いや態度が極端なんだよ。捜査対象者や友人同僚はかろうじて人間だと思ってるようだ
が、その他大勢はお前にとっちゃ風景なんだろ。」
不服そうなドゲットに、反論させないぞと言う顔でクーパーは睨みつけた。そしてクーパーが、何処の課のなんとか言
う女性がお前に気があったとか告げるも、身に覚えの無いドゲットは、幾らそういわれてもピンと来ず、当惑するばか
りだ。するとその様子を見て、そらみろと、クーパーは呟き、したり顔で先を続けた。
「あれだけ露骨だったのに気付かねえとは、信じられねえほど鈍感な野郎だ。鈍感なくせに自分の顔見知りにゃ、至
れり尽くせりってほど気が回る。しかも、向こうがお前のことをどれだけこっ酷く足蹴にしようが、お前には関係ないん
だ。頭を撫ぜてくれるのを待つ犬みてえに忠実だ。だがお前の場合はもっと悪い。頭なんぞ撫ぜてもらわなくてもいい
と思ってやがる。そいつははっきり言って性質悪いぞ。」
性質が悪い?ドゲットは途中まで理解出来たクーパーの言うことが、最後に来て混乱し、説明を求めるような顔で上
目に見た。するとクーパーは急に怒り出した。
「分かんねえのか。全くお前って奴は、どうしようもねえな。誰だってな、良くして貰って、助かったり嬉しかったりした
らな、感謝してるんだよ。礼ぐらい言いてえじゃねえか。それなのにお前ときたら、全部独りで片付けちまって、説明も
報告も無し。お前がそういうことにかけちゃ、信じられねえほど面倒くさがりだってもの、死ぬほど苦手だってのも、分
かってるがな、こっちは何時もお前の仕業だって知れた時にゃ、間が開き過ぎでタイミングを逸しちまってるから、今
更、あん時ゃありがとうございなんて、白々しくって言えやしねえ。素直に礼ぐらいさせろってんだ。」
ドゲットはそう言い捨て肩を怒らせて去ったクーパーの後姿を思い出し、俯いて苦笑した。クーパーが言っていたの
は、以前新任のパイロットがちょっとした不正を働き、独り気付いたドゲットが、内務調査課に知れることなく退職さ
せ、チーフであるクーパーの責任問題に到るのを防いだ出来事を指していた。クーパーがそれを知ったのは、その三
ヵ月後で、それも退職したパイロット本人と街でばったり出くわし、その時初めて当人からことの真相を齎されたの
だ。
 そういえば、あの直後クーパーは不機嫌だったな。昨日街であいつに会ったぞ。とだけ言って何やらぶつくさ言って
たが、そうか、あれは俺に礼を言いたかったのか。ドゲットはクーパーの不機嫌さは、別にトラブルというわけでは無さ
そうだから、放って置いたのだが、改めて考えてみれば、合点がいった。
 ドゲットは食べかけのトーストに手を伸ばし、再び口に運びながら、しかしな、と心の中で呟いた。確かにクーパーの
言うことは、決して的外れなわけではなく、言い得て妙なところもある。その他大勢を風景などと言うのは些か言い過
ぎだが、実際彼らの自分に向ける感情など、眼中に無いのも事実だ。
 だがな、とドゲットはコーヒーでトーストを飲み下すと溜息を付いた。ドゲットが自分に向けられる感情に無頓着なの
は、何もその他大勢の人間だけではない。友人同僚だって大差ないのだ。確かにそれらの人間が自分に好意的で
あればそれに越したことは無いのだが、過度な感謝や厚意は彼を戸惑わせるだけだ。
 ドゲットはマグカップにコーヒーを継ぎ足すと、居間のソファーに移動した。コーヒーを啜りながら新聞を広げるが、今
日に限ってさっぱり活字が目に入らない。何度か集中しようと試みるが上手く行かず、やがて諦めてばさばさと乱暴
に新聞を畳み、苦々しげにソファーに凭れ虚ろな眼で宙を見詰めた。
 全く俺と言う人間は、どこまでも利己的に出来ている。そうさ。相手の為を思って行動しているわけではない。むしろ
自分の為にそうしているのだ。自分の行為により、相手の障害が取り除かれたり危険を回避出来たりして、それらの
正当性を実感すると、それはそれで結構な満足感に浸ることが可能になる。そしてその満足感で、自分の心の片隅
に、常に見え隠れしている真っ黒な穴を埋めるのだ。埋まるわけなど無いと知りながら、それでもそうせずにはいられ
ない。
 そうとも、この穴は決して埋まらない。それどころか、忘れようとしていても、何かの拍子にひょっこり顔を出し、俺を
飲み込もうする。その度に既の所で踏み止まるのだが、ふとした弾みに、いっそ飲み込まれてしまった方が楽だとい
う考えが頭を擡げる。楽か。そうだな。楽かもしれない。この穴の内と外がどう違うというのだ。何も変わりはしないん
じゃ無いのか。だが、そう思うこと自体、些細なことだと忘れよう無視しようとしているわだかまりを、実はちっともそう
認識出来ていないと思い知らされ、その度に苦い気分を味わうことになる。
「疲れるな。」
ドゲットは天井を見上げたまま、我知らず呟いた。ふっと心の中から浮上して来た言葉は、虚ろな部屋の中で反響
し、回りかえってドゲットの胸に落ちる。自分が発した言葉の意味を、心に落着かせられず、ドゲットは苛立ちを覚え
舌打ちした。何を、俺は。どれもこれも、全て納得ずくで来た道ではないか。理由も原因も無い。何も変わらないの
だ。課が変わり、パートナーが変わった所で、それがなんだと言うのだ。俺は只この仕事をするだけだ。
 ドゲットは結局収まりつくところに、自分の思考を納めると、マグカップを持ち立ち上がった。朝は少し慌しい方がい
い。ぐだぐだと余計なことを考えずに済む。そんなことを考えながら、マグカップをシンクに置いて戻り、上着を羽織る。
玄関のドアノブに手をかけるが、ふとその手を止め、窓辺に移った。  
 澄んだ声で鳥が囀っている。何処だろうと姿を探せば、玄関脇の立ち木に止まり胸を反らし、歌うことに余念が無
い。参ったな。ドゲットは頭を掻いた。玄関を開ければ、この臆病な鳥は、一目散に逃げ去ってしまうだろう。こうして
毎日庭に訪れる珍客が、美しい囀り声を聞かせてくれるようになったのは、ほんの数日前だ。声が美しいと鳥を調べ
た時に表記されていた通り、実際に聞く囀りは愛らしく密やかで、その心地良さは何時までも聞いていたい気分にな
る。
 ドゲットは腕時計を見て、小さく息を吐いた。まあ、いいか。出勤時間にはまだ早い。早めに行ってカーシュからボス
トンの報告書を受け取ろうと思っていたが、別にそんなものは何時だっていいのだ。カーシュに呼びつけられるのは気
に入らないが、今回の事件の報告書は、ねちねちと絡まれる内容で纏めてはいなかったから、上手くやり過ごせる
はずだ。
 鳥は相変わらず、元気一杯囀っている。小さな身体で、誇らしげに胸を反らし、声を限りに囀る姿は、身近な人物の
姿を連想させた。思い起こせば、ボストンの地下鉄構内で、あんなことを口走ってしまったのは、そのせいかもしれな
い。あの暗い構内で俺の感覚は研ぎ澄まされ、そんな中姿の見えない彼女の声は、その分余計耳に心地よく何時
までも聞いていたかった。
 song bird 鳥は別名そう呼ばれている。ドゲットはすっかり気を許した風情で、囀りながら立ち木を移動する、こ
の新たなテリトリーの主に仄かに微笑んだ。
「お前も聞かせる相手が俺じゃあ、つまらんだろう。」
思わず口を吐いた口調と言葉が、その微笑と些か趣が異なるとは、彼自身気付いていただろうか。
 静寂を裂き猛スピードで道路を通り過ぎる車に驚いた鶫は、空の彼方に飛び去った。ドゲットは見る見るうちに見え
なくなる小さな姿を、窓辺に佇み只ぼんやりと見送っていた。



to be continue





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