夜の住人


                               【プロローグ】
                                
 ドゲットは車を降りると走り出した。早く戻らなければスカリーの身が危ない。ドゲットは走りながら、自分はこうして
ずっと闇の中を走っている。そんな感情に襲われた。大切なものがふっと目の前から消える。捜して、捜して、捜し尽
くして見つからなければ、自分はもう二度と、光射す道には戻れない。自分も、そして彼女も。ドゲットは走った。求め
るものは一つ。目標が定まった今、ドゲットを遮ることが出来るものは無い。
 月曜日の午後、スカリーがユタにいると連絡を入れるまで、ドゲットは朝からスカリーの姿を求めていた。自宅、オフ
ィス、FBI本部内。彼女がいそうなところは全部。どこにもいないと確認した時、心臓の奥、幾重にも封をした開かずの
間から、覚えのある感覚がざわざわと首筋を這い上がってくるのを、自分ではどうする事も出来ずにいた。
 しかし、スカリーからの電話では、そんな自分の不安などおくびにも出さず、粘液は苦手だ、と軽口を叩き、電話口
の彼女から、小さな笑い声を引き出すという芸当まで成し得たのは、上出来と言えよう。だが、それがスカリーの声を
聞いた最後だった。最後。冗談じゃない。そんな事があって堪るものか。
 スカリーからの連絡が途絶えた時から、ドゲットは闇夜の荒野にたった一人で立つような感覚に囚われた。音も光
も時間さえ無い場所にいるのに、不思議と感覚は研ぎ澄まされ、五感全てがスカリー捜索に向き、それ以外は何も
眼に入らなくなった。そして今、ようやく居場所を突き止めたのだ。
 スカリーはあの家にいる。聞き込みをした時から分かっていた。保安官には明確にそうとは伝えなかったが、ドゲッ
トは確信していた。間違い無い。この家だと。
 部屋にいた男を殴り倒し、無様に縛りつけられたスカリーの姿を一目見た時から、彼女の背中から巨大ななめくじ
に似た怪物を引っ張り出し銃で撃ち殺すまでの間、ドゲットは心の底から湧きあがってくる怒りを押さえられなかっ
た。信仰するものを失ったカルト信者達が、急激に大人しくならなかったら、信者に向けた銃を迷わず発砲していたか
もしれない。しかしそうしなかったのは、次の瞬間から全てスカリーの安全を優先させる事に切り替えたからだ。スカ
リーの身体を自分の上着で覆い、そっと抱上げると、信者たちを押し退ける様にしてバスを降りた。少しでも彼らがス
カリーに触れようものなら、自分が何をしてしまうか分からなかった。眉間に深く皺を寄せ、顎をひき歯を食いしばった
ドゲットの眼差しは、素人目にも分かるくらい危険な光を帯びていた。深く静かに呼吸を整えながら、ドゲットは心の中
で呟いていた。動くなよ。頼むから俺達に近寄るな。さもないと・・。車のライトと、パトカーの回転灯がスカリーを抱え
たドゲットを照らし、次々と捜査関係者の車両が到着するまで、ドゲットは非常な緊張状態の中に我が身を置いてい
た。
 そしてそれは、スカリーが病院に着くまで終わる事は無かった。救急車が到着するまでの間、ドゲットは警察のワ
ゴンの後部にスカリーを横向きに寝かせ、スカリーの頭を自分の伸ばした足の上に乗せ、背中の傷に滅菌ガーゼを
当て片手で強く押し圧迫止血をしていた。時折気を失ったスカリーの顔に浮かぶ、玉のような汗を慎重に手で拭い、
顔に掛かる髪を指で梳く。車の外は、大勢の住民を拘束する為に、大変な騒ぎになっていると言うのに、そこだけは
嘘の様に静かだった。聞こえるのはスカリーの苦しげな呼吸音のみ。ドゲットはまるで、静寂の中に溶け込んでしまっ
たかの如く、気配すら感じさせない。細く長く呼吸をし、ゆっくりとスカリーの髪を撫ぜる。それはまるで、そうする事で
気を失ったスカリーに、もう安全だと分からせようとしているかようだった。大丈夫、危険は無い、自分が側にいる、
と。
 しかし、救急救命士が声をかけた時、さっと一瞥をくれたドゲットの眼差しは救命士が怯むほど鋭かった。が、すぐ
に安堵の表情を浮べ救命士達の指示に従いスカリーを救急車に移し、現場にいる支局の捜査官と保安官に指示を
出して、素早く救急車に同乗した。救急車に乗せられたスカリーが、苦しげにうめいて眼を覚ますと、すかさず側にい
たドゲットが声をかけた。
「大丈夫だ。エージェント・スカリー。これから救急車で、病院に向うところだ。」
それを聞いたスカリーが何かを言いかけると、ドゲットは身体をスカリーの方に屈めスカリーの顔を覗きこみ囁いた。
「何だい?」
「・・あれは?どう・・」
「粉々さ。僕が撃ち殺した。」
スカリーがほっと息をつくのを見たドゲットの声は、低く優しく彼女の心に響いた。
「危険は去った。後の事は任せて休むといい。」
スカリーは小さく頷くと目を閉じ、ドゲットの見守る中安心した様子で意識を手放した。


                              【T】

 暗い。眼を凝らしても廻りがよく見えない。スカリーは暗闇の中をさ迷っていた。足元はぬかるんで歩くのが困難
だ。もう何時間も歩いている気がする。スカリーは疲れていた。衣服は霧と汗で湿り、冷たくなって身体にまとわりつ
き体温を奪って行く。私は何故歩いているのだろう。何処に行こうとしてるのだろう。休みたい、横になりたい。次の瞬
間スカリーは、じめじめした粗末なベッドで、身体を丸めて横になっていた。ああ、よかった。スカリーは辺りをみまわ
した。闇。おまけに手首足首を紐でベッドの支柱に繋がれている。紐の長さは四肢を動かすゆとりはあるのだが、結
び目を解こうにも身体に力が入らない。ここは一体何処なのだろう。何故私は縛られているのだろう。考え様にも頭が
ぼんやりして思考が定まらない。暗く寒い場所ではあったが、その中に身を委ねてしまえば、全てがどうでも良くなっ
た。何だっていいわ。このまま眠っていられるなら。こうして長い夜を一人で眠る事などとうの昔に慣れた。煩わしい
事を全て忘れ、考える事を止め、暗闇と静寂の中にこのまま溶け込むように眠っていしまえたら、それはそれで又幸
せなのかもしれない。スカリーは胎児のように身体を丸め、良い考えだとばかりに目を閉じ眠ろうとした。静寂。すると
遠くの方から足音が聞こえ始めた。誰かが走っている。誰?誰でもいいわ。ああ、うるさい。静かにしてくれないかし
ら。すると突然彼女の背後で声がした。
「そこで昼寝を?」
肩越しに振りかえれば誰かがベッドに腰掛けている。暗くてよく見えないがスーツ姿の広い背中をかろうじて確認出
来た。誰だろう。でも、こんなに近くにいるのは決まっている。
「モルダー?」
しかし男は黙っている。スカリーはその沈黙に腹をたてた。私の眠りを妨げておいて無視しようというの。苛立ちをぶ
つけた。
「ずっと一人にしておいてどうして黙ってるの?私が本当にあなたを必要とした時何処に行っていたの?答えて頂戴
モルダ−。」
男は答えない。怒りを露にしスカリーは背を向けると目を閉じ呟いた。
「答えないのね。いいわ。私のことは放っておいて、もう眠らせて。」
するとカチンという音が背後でした。はっとして眼を開けると男が手足の紐を飛び出しナイフで切っている。
「それは出来ないな。あれを見ろ。」
男はそう言ってベッドの足元を指差した。スカリーはその途端ぎょっとしてベッドの端に身体を寄せた。足元には巨大
ななめくじが、のたうっている。モルダ−は何処?今ここにいたのに?辺りを見まわしても暗がりだけだ。すると闇の
中から声がした。
「まだそこにいるつもりか?」
「いいえ。」
スカリーは頭を振った。そして徐々に近づいてくるなめくじから、少しでも遠ざかろうと更に身体を引き寄せ、闇の中の
男を探した。低い声で男が警告した。
「逃げろ。来るぞ。」
「駄目よ。身体に力が入らない。」
「随分簡単にあきらめるんだな。」
切羽詰っていたスカリーは、男の暢気な口調にかっとして叫んだ。
「何よ、何も知らないくせに。私が毎日どれだけ辛かったか、残された者の気持ちがあなたに分かるの?もう、いい
わ。どうだって。私は疲れてしまった。」
「馬鹿な事を。いいのか、それで。取り込まれてしまうぞ。そうなったらもう二度とここから出られなくなる。あいつらと
一緒にここに棲むつもりなのか?」
あいつら?スカリーがその言葉を聞いて眼を上げれば、いつのまにかベッドの足元に例のカルト信者達が並んで立っ
ている。
「現実から逃げお互いを食い合い、自分の意思を無くしてもいいなら、ここにいろ。だが君は違うはずだ。」
いきなりスカリーは手をぐいっと引っ張られた。
「さあ、立て。ここは君の居場所じゃない。」
すると突然スカリーの四肢に力が蘇るのを感じた。男に手を引かれるまま立ち上がり、気づけば闇の中を走り出して
いた。辺りは闇。地面は相変わらずぬかるんで、気をつけないと足を取られて転びそうになる。スカリーは息を弾ませ
ながら、自分の手を引く男の背中に声をかけた。
「モルダ−。待って。もう少しゆっくり走って。」
「大丈夫だ。手を離すな。」
スカリーは頷き繋がれた手に力を込めれば、男はその手を力強く握り返してきた。スカリーは不思議な安心感がその
手を通じ身体中に広がるのを感じていた。闇の中に溶け込んでいる男の背中を眺めながら、自分は一人じゃ無かっ
たと思い知らされた。と、気が緩んだせいか足がもつれ地面に倒れ伏した。慌てて身体を起こし辺りを見まわす。闇
の中には何も見えない。急に一人きりになり、心細さから今まで自分の手を握り締めていた男の名を呼んだ。それと
同時に背中が猛烈に痛み出した。
「モルダ−?何処なの。背中が痛くて、もう走れないわ。」
すると急に身体が中を浮き、自分が抱上げられた事を知った。低い声が男の胸から伝わってきた。
「行くぞ。」
「でも、暗くて何も見えないわ。」
「心配無い。道は分かっている。」
男はスカリーを軽々と抱上げ、揺るぎ無い足取りで歩き始めた。スカリーは男に身体を預け、身体から伝わる男の体
温に懐かしい安らぎを覚えていた。暖かい。以前にもこうして抱上げられた事があったわ。あれは・・。その時突然、
今までモルダ−だと思っていたこの男が、そうではない事に気づいた。モルダ−は私を抱上げて歩いた事など無い。
飛び出しナイフなんか持ち歩かない。じゃ、一体この男は誰?眼をいくら凝らしてみても、首から上は闇の中に霞み、
ぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせているだけだ。スカリーが手を伸ばして男の顔に触れようとした矢先、いきなり
地面に下ろされた。男は無言で再びスカリーの手を引き歩き始め、暫く行った所で急に立ち止まった。
「ここからは君一人だ。」
「え?でも何処に行けばいいの?」
「向こうに明るい所が見えるだろう。そこを目指せ。さあ、行くんだ。」
「待って。」
スカリーは離れようとしている男の手を既の所で捕まえた。
「あなたはどうするの?」
「戻る。」
「何故?」
「やることがある。」
「危険よ。一緒じゃなければ行かないわ。」
「大丈夫だ。例え何があろうと、君が何処に行こうと、僕は必ず君を捜し出し、君の元に帰って来る。僕を信じろ。」
男の声はスカリーの胸に力強く響いた。私は彼を知っている。こうして彼の言葉にならない心の声をいつも感じてい
た。いきなり肩を抱き寄せられ耳元で囁く声がした。
「必ず戻る。君さえ信じていてくれれば・・・。」
スカリーの髪を梳いて行く男の指を感じたのと、手が離れたのは殆ど同時だった。行ってしまう。慌てて闇の中に手を
伸ばしたその時、辺りが急に明るくなり思わず眼を細めた。そして・・。


 スカリーは数回眼を瞬き、やがてゆっくりと眼を開けた。夢を見ていたんだわ。気が付けば横向きに、病院のベッド
の上に寝かされていた。眼の前に投げ出された手には、まだ夢の中の男の手の感触が残っている。目が覚めてもこ
んなにはっきりと夢の中身を覚えているなんて珍しいわ。あれは、誰だったのだろう。結局分からなかった。不思議な
夢。でも、モルダ−の悪夢よりはましかもしれない。その時ベッドの足元にいるドゲットに気付いた。椅子の背に凭
れ、足を組み膝の上で手を組み合わせたドゲットは、あまりに深く俯いているので眠っている様に見えた。所がスカリ
ーが僅かに身じろぎすると、さっと顔を上げ、スカリーが眼醒めているのを認めると素早く歩み寄り、躊躇いがちに背
を屈め囁いた。
「やあ。気分は?エージェント・スカリー?」
「今日は、カードは無いの?」
カード。それはアリゾナで負傷したスカリーを見舞った時ドゲットが渡した物だ。ドゲットは柔らかく微笑み答えた。
「あいにく小銭をきらしててね。」
「残念。・・・どれぐらい眠っていたのかしら?」
「36時間。」
「・・・そんなに。」
「ドクターの話じゃ、異常は無いそうだが。・・・ドクターを呼ぶかい?」
「・・いえ、今はいいわ。」
「何かして欲しい事は?」
「水を。」
ドゲットは頷くとサイドテーブルにある水差しからコップに水を注いだ。スカリーは身体を起こすと、ドゲットがコップを手
渡そうと向き直った姿を見て一瞬ぎょっとした。上着のボタンが外れ下から現れたシャツの一面が真っ赤だったから
だ。コップを受け取りながらスカリーは尋ねた。
「エージェント・ドゲット。あなたも、怪我を?」
するとドゲットは一瞬何の事かわからないと言った顔をしてスカリーを見たが、スカリーの視線を辿って自分のシャツを
見下ろすと、ああと言って口を噤んだ。暫しの沈黙の後、上着のボタンをかけながらドゲットの言った口調は、スカリー
には馴染みのないものに聞こえた。
「これは、・・・僕のじゃない。」
そしてポケットに手を突っ込み、顎をぐっと引くとスカリーから眼を逸らし、黙り込んでしまった。その様子からドゲットの
シャツについていたのが、自分を抱上げた時についたものだと言う事を悟ったスカリーは些かほっとしていた。怪我を
しても病院に行かない男の世話を、今の自分は出来そうにないからだ。しかしドゲットはどうしたのだろうか。スカリー
はちびちびと水を飲みながら、黙ったままあらぬ方を向いて立っているドゲットの様子を観察していた。するとその視
線に気づいたドゲットは、2,3回咳払いをして尋ねた。
「おかわりは?」
「いいえ、もういいわ。」
ドゲットは頷くと、スカリーから受け取ったコップをサイドテーブルに置き、彼女の顔を覗き込んだ。
「さあ、もう少し眠った方がいい。」
「ええ、そうね。」
そう言って身体を横たえようとするスカリーに、ドゲットは慎重な仕種で手を貸した。ガラス細工に触るようだわ。スカリ
ーはくすぐったさに戸惑った。今までスカリーをそんな風に扱う男など、彼女がそうされることを望まなかったせいもあ
るが、滅多にいなかった。ドゲットは毛布をきちんと掛け直し、又足元の椅子に座ると先ほどと同じ姿勢になった。ス
カリーはため息をつくとドゲットを呼んだ。
「エージェント・ドゲット。」
ドゲットはすぐに眼を上げると近寄って来た。
「何か?エージェント・スカリー。」
「ええ、お願いがあるの。」
「何だい?」
「あなたも少しは眠って。エージェント・ドゲット。」
「・・僕は充分寝てる。」
スカリーは疑わしそうな顔でドゲットの顔を眺めた。疲労の濃い髭の伸び始めた顔や、充血している眼。そしてなによ
りスカリーの血がついたシャツが全てを物語っていた。ドゲットは36時間眠っていない。いや、もしかしたらそれ以
上。
「そう、何処で?」
「それは・・そこら辺で。」
「そこら辺ね・・。」
スカリーはドゲットの言葉を繰り返すと、呆れた様に小さく頭を振った。何時もは酷く論理的なくせに、こういう時の誤
魔化し方は子供並みだわ。
「エージェント・ドゲット。私はもう大丈夫だから、今日はモーテルへ戻って休んで構わないのよ。」
「それは・・しかし・・」
「エージェント・ドゲット。お願いだからそうして。あなた、私より酷い顔をしてるわ。」
「僕は何とも無い。」
「ええ、勿論そうでしょうとも。でも、少なくとも私の病室では身奇麗な格好の人にいて貰いたいの。野良犬みたいな
人はお断りだわ。」
「酷いな。」
「そうよ。シャワーを浴び清潔な服に着替え、充分な食事と睡眠をとってきたら、少しはましに見えるでしょうね。でも
私はもう眠るから明日の朝まで誰にも会いたくないわ。」
酷な言い方かもしれなかったが、ドゲットをここから追い出すにはこうするより手立ては無かった。ドゲットはスカリーに
冷たくされ些か気分を害したような表情を見せたが、急に何かに思い当たったような顔をすると上目にスカリーを見て
呟いた。
「野良犬。」
「ええ。」
スカリーが澄まして答え平然とドゲットの眼を見返すと、くすりと笑ってドゲットは愉快そうな口調で答えた。
「・・それじゃあ、動物管理局に通報されない内、退散するかな。」
「賢明だわ。」
ドゲットは観念したかのようにため息をつくと、明日来ると言って病室を出たが、ドアを開けたところで若い保安官助手
二人に呼びとめられた。半開きのドアから小声で何事かをドゲットに話す保安官助手と、黙ってそれを聞いているドゲ
ットの様子を見ながら、スカリーは眉を潜めた。するとその視線に気づいたドゲットは、心配無いと眼でスカリーに合図
して黙ってドアを閉めてしまった。
 病室に残されたスカリーは長いため息をついた。保安官助手の様子から、彼らがドゲットに何か厄介事を持ちこん
だのは容易に想像出来た。アイダホの時といい、ここといい、何故彼らはすぐにドゲットを当てにして来るのか不思議
だった。そして例え自分がどんな状態でも、決してドゲットは拒まないであろう事も予測が付いていた。ドゲットにも休
息して欲しくて部屋を追い出したのに、これでは何にもならない。しかし今この状態のスカリーにはどうする事も出来
ず、とりあえずはドゲットが負傷していないという事だけが救いだった。早く終わらせて休んでくれればいいのだけれ
ど。スカリーは何も出来ない歯がゆさから唇を噛んだ。するとふっと先ほどのドゲットの様子が気になり始めた。
 今までドゲットはスカリーに対して、信じられない程忍耐強かった。スカリーがどんな態度でいようと、どんな口調で
話そうと、何時もと変わらぬ態度で黙ってそれを受けとめていた。そしてそれは同僚に対しても同じ事が言えた。どん
なに嫌な上司や、無能な職員、癇に障る捜査関係者等にも驚くほど寛容だった。声を荒げたところなど今までに一度
しかスカリーは目にしていない。ところが先ほどスカリーに、シャツについた血の染みを指摘されたドゲットの態度は
妙だった。上手く隠そうとしていたが、一瞬彼の眼に閃いたものと強張った声の調子をスカリーは見逃さなかった。
 怒り。間違い無い。あれは怒りだった。ドゲットは怒っている。スカリーは固く眼を閉じると、忌々しそうに息を吐き出
した。今回ばかりは何の言い逃れも出来ない。こんな失態を招いたのは自分自身だ。単独行動は基本的にFBIでは
禁じられているのに、ドゲットに何も告げずユタくんだりまで来てこの有様だ。しかも彼の到着が後数分遅ければ、命
は無かった。ドゲットが自分に対してどれだけ腹立たしく思っているのかは、火を見るより明らかだ。彼がその怒りを
自分に向ってストレートに現さず、はっきりと口に出して非難しないのは、南部人特有の女性に対する礼儀正しさから
くるものなのか、未だ身体の調子が万全ではない自分を気遣ってるからなのか。恐らく両方だろう。軽率な行動が、
どれほど深刻な事態を招く事になるかは、今までの経験から分かり切っていたはずなのに、まさかそれを自分が犯し
てしまうとは。今やスカリーは自己嫌悪にどっぷり漬かっていた。



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