【U】

 ドゲットがユタでの宿舎に当てていたモーテルに帰って来た時には、既に日付が変っていた。上着を脱ぎクローゼッ
トのハンガーに吊るして、手早く荷物を整理し洗面所へと赴く。洗面台の前でネクタイを外し、シャツのボタンに手をか
けたドゲットは、思わず顔を顰めた。鏡に映っているのは、血まみれのシャツを纏った疲れた男の姿だった。ボタンを
外しながらドゲットは心の中で呟いた。あのまますぐに戻っていれば良かったかな。しかし病室を出た所で保安官助
手に泣きつかれ、様子を見に保安官事務所に行ってみれば、案の定そこでは最早定番の、地元警察とFBI捜査官と
の縄張り争いが展開されていた。主導権を巡る対立。共同捜査で一番厄介な問題がそれだった。ドゲットはまず現
在の進行状況を確認し、続いて険悪なムードのチオリノ保安官と、ソルトレーク支局のブライアン双方からそれぞれの
言い分を聞いた。そしてドゲットのとった対策は、まずこの混乱を招いたのは、一番深く携わっている自分が不在であ
った為に起こった事だと二人に詫び、続いて自分は被害者でもあるスカリーのパートナーであるが故、捜査対象者に
属するからと、プライマリーから外れる事を宣言する事だった。そして些か拍子抜けしたような二人に、それぞれが担
当する事件を、今後支障が出ない様上手く振り分けてようやくその場を丸く治めたのだ。
 ドゲットは顔を洗いタオルで水を拭うと、鏡の中の自分に向ってにやりと笑いかけ呟いた。
「野良犬にしちゃ、上出来じゃないか。」
野良犬か。上手い事を言う。確かに鏡に映った自分の顔は酷いものだった。しかしそんな憎まれ口を叩けるほど、ス
カリーが回復してきているという事実の方がドゲットには嬉しかった。しかもあの時のスカリーの突き放した言い方の
裏に、ドゲットの体調を気遣う心遣いが含まれている事を、ドゲットはいち早く察していた。その気遣いがスカリーの何
処からきているのかは判断しかねたが、やはり悪い気はしない。ドゲットは自然に頬が緩むのを止められなかった。
 しかし、シャワーを浴びる為、脱いだシャツを手にした途端、そんな気分は跡形も無く消えていった。むっとした顔付
きのままシャツを見詰め、忌々しそうに洗面所のゴミ箱に投げ入れた。勢いよく洗面所を飛び出したドゲットは、乱暴
にクローゼットを開けると先ほど吊るしたばかりの上着をハンガーから取り外した。黒に近いダークブルーの上着を光
に透かして見れば、こちらにもかなり広範囲に血の染みがついている。腹立たしさに舌打ちすると、くしゃくしゃに上
着を丸め再び洗面所に取って返し、こちらもゴミ箱に突っ込んだ。
 熱いシャワーはその後のドゲットの気分を、いくらか軽いものにした。下着を替え汗の引かない身体に、備え付けの
バスローブを引っ掛けて部屋に戻れば2時を回ろうとしている。これほど遅くなってしまったのは、何も保安官事務所
で時間を取られたからだけでは無い。ドゲットはその後の指示をあらかた終え、スカリーの荷物を受け取ろうと保安官
に申し出れば、未だ車共々放置された現場から回収されていない事を知った。そこで取りに行くよう助手に指図して
いるチオリノ保安官に自分は彼女の車のキーを持っているからと、パトカーに同乗し現場まで赴くと、スカリーの車を
近くの修理工場まで牽引し修理させ、そのまま彼女の車を運転しモーテルまで戻って来たのだ。
 首に掛けたタオルで汗をふきながら、サイドテーブルに置いたミネラルウォーターのハーフボトルを掴んだ。部屋に
入る前、外の自販機で購入した物だが、既に生ぬるい。ベッドに腰掛けミネラルウォーターを半分ほど飲んだところ
で、ドアの脇に置いたスカリーのボストンバッグが眼に留まった。明日の朝持って行こう、そう思っていると不意に病
室でのスカリーの言葉が蘇り口を衝いた。
「シャワーを浴び清潔な服に着替え、充分な食事と睡眠・・・か。」
 ドゲットは残りのミネラルウォーターを飲み干すと、空になったボトルを床に置き膝の上で両手を組み合わせ、額を
押しつけた。ドゲットはあの時スカリーに言われ、始めて自分がD.Cを発ってから全く睡眠と食事をとっていない事に
気づいた。ドゲットは眠らなかったし、食べなかった。身体が要求しなかったのだ。分かっている。こんな風に自分を追
い込んではいけない。しかし実際はその状態の方が、自分の感覚が研ぎ澄まされ、普段の数倍勘も力も発揮出来る
と自覚していた。だが同時にそれは、終わった時の神経の磨り減り方が尋常ではないのだが、それも先刻承知だ。
スカリーは他の誰も気づかなかったが、ドゲットが結構ぎりぎりの状態である事に気づいたのだ。スカリーに言われな
かったらドゲットは恐らく倒れるまで、動き続けていただろう。食事と睡眠。食事はパトカーの中で、保安官事務所か
ら失敬してきたドーナツを食べている。睡眠は・・。ドゲットは上半身をベッドに横たえ、天井を仰いだ。眠れるのだろう
か。
 突然ドゲットはぎくっとして眼を開けた。数回眼を瞬き今まで眠っていたのだろうかと訝った。すると何が自分を目覚
めさせたか思い当たり、すぐに洗面所へと赴き、ゴミ箱から先ほど捨てたばかりの上着とシャツを引っ張り出した。そ
れら二つを抱え部屋に戻ったドゲットは、サイドテーブルにあった新聞紙で上着とシャツ包み、クローゼットを開け自分
のバッグの底にしまい込んだ。
 これでいい。ドゲットはとりあえず間違いを正したと再びベッドに腰を下ろした。間違い。こんなことで正せる類のもの
ではないことは百も承知だ。だが、これは戒めなのだと、ドゲットは自分に言い聞かせた。その時不意にもう一つドゲ
ットを目覚めさせた要因があった事を思い出した。ドゲットはまどろみの中でスカリーの声を聞いた。モルダ−と。
 モルダ−。確かにスカリーはそう言った。ドゲットは病室でのスカリーを思い起こした。あの時ドゲットは何かにうなさ
れ、苦しげなスカリーを目の当たりにし、思わず彼女の投げ出された手を握り締めていた。やっと危険が去ったという
のに、夢の中までも不安にさらされているスカリーが痛ましかった。勇気付けるように手に力を込めれば、それに呼応
するかのようにスカリーは握り返した。勿論スカリーは目覚めてはいない。が、ドゲットはその反応に我知らず微笑ん
でいた。スカリーの顔を覗き込み、躊躇いがちに髪を梳くと囁いた。
「ヘイ、パートナー。長い夜だったな。」
だが直後のスカリーのうわ言は、一瞬でドゲットの微笑を凍りつかせた。
 その後もスカリーは同じ名を何度か呼んだ。ドゲットは顔を強張らせたまま、暫くスカリーの手を握り締めていたが、
やがて自嘲気味な笑いを口の端に浮べ、のろのろとスカリーの手を解いた。そして椅子を足元まで移動させ、スカリ
ーが目覚めた時見る事になった姿勢のまま、身じろぎもせず座っていた。
 ドゲットはベッドに腰掛けたまま、両手を広げ眺めた。今もスカリーの手の感触が蘇ってくる。小さく華奢で、柔らか
かった。ドゲットはまるでそこにスカリーの手があるかのように、そっと包み込む様に両手を握り合わせ、眼を閉じると
深く項垂れた。一体自分は何を期待していたというのだ。これは最初から分かっていた事ではないか。捜査活動にお
けるパートナーとの絆の深さが、どれほどのものかと言う事は警察機構に長く従事していれば身に染みて理解出来
ている。ましてやスカリーとモルダ−にはドゲットの知らない7年という歳月があったのだ。勿論ドゲットにはモルダ−
に取って替わろうなどという意志は毛頭無い。最初から同じステージに立てるとは考えた事も無い。しかしこの時ほど
ドゲットは、スカリーの信頼を得たいと切望した瞬間は無かった。信頼。それは信じてくれと百万回の唱えるより、たっ
た一つの行動の方が揺るぎ無い信頼を勝ち得る早道だと、確信している。しかしそれでも、最終的にああして無意識
の中で名を呼び助けを求める相手は、自分ではない。
 アイダホのケースが終わってから、スカリーの態度は徐々に変化していた。ぎこちなくではあるが会話も増え、最近
では軽いジョークを言い合う事さえある。自分と居る時の雰囲気も寛ぎ自然な態度で、妙に構えたり批判的な言動に
出ることも少なくなった。この事実はドゲットにとって喜ばしい展開だった。
 ドゲットは自分という人間が、他人より口数が少なくポーカーフェイスであるが故、自己アピールが下手で誤解を招
きやすいタイプだと、もう随分も前から承知していた。だがそこで生じた誤解をいちいち解いて行くのも面倒であった
し、只でさえ口下手な自分が、何をどう言えばいいのか、どうすれば誤解を解けるかなどさっぱり見当もつかない。従
って大抵の場合は、何もせず放っておいた。要は自分がどう思いどう行動するかが最重要項目で、相手が自分をどう
評価していようが、それは彼にとって大した意味を成さかった。
 さすればドゲットの今までの交友関係は、非常に狭く乏しいものになるはずだったが実際は違っていた。それは警
察機構という常に危険と隣り合わせな職種にいたせいもあるが、一旦ドゲットがどう言う人間か知った者は、彼の側
を離れなかった。ドゲット自身は知らなかったが、彼と共に働きたいという捜査官は引く手数多だった。スキナーが以
前ドゲットに、君なら長官の椅子も夢ではないと言ったが、これはそういった事に由縁していた。モルダ−捜索におけ
るドゲットの手腕を身近で見たスキナーは、部下達のドゲットに寄せる信頼が厚い事を知った。これは捜査官として優
秀である事と共に、上に立つものが常に要求されるべき事であった。捜査を指揮するドゲットを、同じ立場の人間とし
て見たスキナーは、その統率力、機動力に密かに舌を巻いた。ドゲットとさして年齢も変らないうるさ型の捜査官達
を、文句も言わせず自在に動かし、矢継ぎ早に的確な指示を与える。これは双方に信頼関係が無ければ成り立たな
いが、ドゲットはこれをごく自然に、苦も無く行なっていた。それなのに、今現在のドゲットは、たった一人の信頼を得
られないでいる。
 Xファイル。それはモルダ−とスカリーが7年という月日をかけ、自己に見舞う悲劇や陰謀から、互いを守る為に築き
上げた堅牢な城のようなものだ。モルダ−が居ない今、スカリーは城の奥深くで息を潜め、この城を壊す者を近づか
せないよう、侵入者を含め回りの全てを、猜疑心に満ちた眼で見ている。そうなるのも当然だと、ファイル全てを読ん
だドゲットには理解出来た。二人を次々と襲う、裏切りと策謀。それを二人は絆を深める事によって、その都度乗りき
ってきたのだ。だが結果的にそういった依存度の高い絆は、片方が失われた時手酷い打撃を受ける。
 喪失による打撃。これによって追い込まれた人間の行きつく先がどういう場所かは、既にドゲット自身が体験済み
だった。常に孤独に苛まれ、理性と感情の袋小路でもがき苦しむ辛さは、誰より承知していた。だが、今その渦中に
いるスカリーにどんな言葉をかけても、全てが安っぽい同情としか取られないだろうし、したり顔で理解を示しても逆
に拒絶されるだけだ。彼女が自力で抜け出す以外、その苦しみから開放される術は無い。そしてそれは恐らく、些細
な事がきっかけになり、まるで霧が晴れるように、全てがクリアーになって行くのだ。だが、そのきっかけがどんなも
のになるか、それは人によって様々だ。スカリーの場合何がそのきっかけになるか、ドゲットですら予測出来ない。ド
ゲットに出来る事は、彼女のすぐ側で、彼女が負の感情に囚われない様目を光らせ、汀から滑り落ちそうになった
時、手を差し伸べられる距離で、何時も待機している事だけだった。が、今回の出来事がそのきっかけになるとした
ら、これほどドゲットにとって不本意なきっかけはない。
「くそ、こんなのは、望んじゃいない。」
吐き捨てるように言った後で、自分自身の言葉にはっとしたドゲットは両手で頭を抱えた。ドゲットは身体を満たす、
言い知れぬ敗北感と腹立たしさにうめいた。虚ろな眼をして天井を振り仰ぎ、ゆっくりと身体を横たえる。ドゲットは固
く眼を閉じ、胸の上で握った拳をもう一方の手で包み、心の奥を探ろうとした。自分は愚かにも望みを抱こうとしていた
のか。そしてそのまま、まんじりともせず、夜を明かしたのだった。


 それから2日間、スカリーは順調に回復していった。その後の精密検査でも、体内から異常は認められず、幸い背
中の傷の治りも早く、抜糸は時間の問題だった。ドゲットの睡眠時間と食欲もスカリーの回復に比例し、徐々に元に
戻っている。現金なものだな、ドゲットは我ながら些か呆れ気味に、そう思わずにはいられなかった。
 しかしその2日間、ドゲットは非常に多忙だった。結局、47人もの容疑者達を尋問できる人間が、チオリノ保安官と
ソルトレーク支局のブライアン二人しかおらず、ドゲットも手伝わざるを得なかったからだ。朝から保安官事務所で割り
当てられた容疑者の尋問と、それに合わせた捜査活動で、仕事が一段落するのは深夜に及んだ。ドゲットは尋問の
合間をぬって病院まで車を走らせ、消燈までの僅かな時間のスカリーを見舞った。
 そうやって何時果てるとも無く続いた尋問も、3日目の午前中には一人残らず終わっていた。ドゲットは担当した容
疑者のファイルをまとめ保安官の机に置き、明日の大陪審が始まればとりあえず自分の用事は無くなるなと、そのま
ま事務所を出ようとした。ところがそれを支局のブライアンが呼びとめた。ドゲットが振り返ると、取調室へと続く廊下
の入り口に保安官とブライアンが立っていた。ドゲットは何事かと近寄って訳を尋ねれば、容疑者の一人が面会を求
めていると言う。
「面会?会って何の話を?」
ドゲットがそう尋ねれば、ブライアンが答えた。
「どうやらあなたに正式に抗議を申し込むつもりらしい。エージェント・ドゲット。」
ドゲットは眉間に皺を寄せ、黙ってブライアンの顔を見詰め返した。
「馬鹿馬鹿しい。どうせくだらん神様の話を聞かされるだけだ。言わせておけ。会う必要など無いぞ。」
些か乱暴に口を挟んだのは、チオリノ保安官だった。ブライアンはうるさそうに顔を顰めると、ドゲットに言った。
「勿論断っても構わない。しかし向こうも権利を逆手に取っている。」
「常套手段だ。」
「ああ。しかしせっかくここまで漕ぎつけたんだ。今更面倒は起こされたく・・」
ドゲットは話の途中を手で遮ると、黙って取調室へ向った。ブライアンと保安官は慌ててその後を追いかけ、ドゲットに
続いて取調室に入った。取調室の中央に置かれた小さいな机では、手錠を掛けられたミルサップが弁護士と二人、
何事かをひそひそと囁き合っていた。が、ドゲットが彼らの前に座ると、ぴたりと話すのを止めた。
 ドゲットは両手を組み合わせ、まるで世間話でもするかのような口調で、奇妙な笑みを浮べたミルサップに尋ねた。
「僕に話があるそうだが。」
「ええ勿論。私達はあなたの犯した残虐行為に正式に抗議します。」
「残虐行為。分からんな。何のことか。」
「とぼけても駄目ですよ。信者の殆どがあなたの非道な行為を目撃しています。」
「非道。」
ドゲットは訝しげに眉を潜め、顎を引いて上目にミルサップを見詰めた。ミルサップはそんなドゲットの様子を、形勢が
不利で言葉に詰まったものと判断し調子付き更に続けた。
「そうですとも。あなたは無抵抗の我らがあがめる神を非道にも撃ち殺した。なんという残虐。」
「神。」
「そうです。あなたがあの女性から無理やり取りだし、無残にも殺害した。これは信仰に対する迫害です。」
その時、ミルサップは自己の演説に酔い、ドゲットの青い瞳がまるで猫の様に煌くのを見逃した。ドゲットは椅子に凭
れると、腕組みをして不思議そうに聞き返した。
「おかしいな。僕があの時撃ち殺した物と言えば、体長40cmぐらいの下等な軟体動物だったはずだが。」
ミルサップは目を見張りドゲットを睨みつけた。するとドゲットは更に火に油を注ぐような事を言ってのけた。
「いや、あの状態は寄生虫と言った方が正しいか。」
くすりとドゲットの背後でチオリノ保安官が笑いを漏らした。ブライアンまでもが、笑いを噛み殺し下を向いている。かっ
としたミルサップは静止しようとする弁護士を振りきって、真っ赤な顔で立ちあがると、ドゲットを指差し叫んだ。
「何と言う侮辱!神を冒涜した発言は慎みなさい!我らが神を殺害しておきながら、恥を知るがいい。我らはあなた
に、正式な謝罪を求めます。今すぐ!」
するとドゲットは黙ってミルサップを見詰めながら、ゆっくりと立ちあがった。そして口の端を歪めてにやりとし、僅かに
身体をミルサップの方に傾けゆっくりとした口調で言った。
「あいにく害虫を駆除した事に関する、謝罪の仕方を知らないんだ。」
そしておもむろに身体を起こし、絶句するミルサップと弁護士をかわるがわる眺め面会を終わらせようとした。
「悪いが失礼するよ。」
「待ちなさい!エージェント・ドゲット!」
未だ立ったまま叫ぶミルサップを無視し、愉快そうな顔の保安官に肩を竦めて見せたドゲットは、ドアノブに手をかけ
た。
「いいだろう。あなたのその言動を私達は決して許さんぞ。今に見ているがいい。私を含む47人の信者がこのまま黙
ってはいない。我らの中には、既にあなた達に何らかの報いを受けさせようと言う者がいる。その者を私は止めはし
ないからな。」
ドゲットは手を止め、黙って振り返った。止め様とするブライアンの脇をするりと通りぬけ、元の場所に戻ると机の角、
ミルサップのすぐ脇に椅子を移動させ囁いた。
「座ろうか。」
次の瞬間ミルサップは、恐ろしい力で肩を押さえられ座らせられていた。端から見れば、ほんの少しドゲットがミルサ
ップの肩に手をかけたようにしか見えなかったが、実際はミルサップが青ざめるほどの強さだった。ドゲットは押さえ
た肩を親しげに2,3回叩き両肘を机につくと身を乗り出して聞いた。
「ちょっと確認しておきたいんだが。ミスター・ミルサップ。あなたが今言った、あなた達、と言うのは具体的に誰を指す
のかな。」
「そ、そんな事は決っている。」
「ふむ。つまり?」
「あなたと、あの女性だ。スカリーとかいう。」
弁護士が盛んに黙る様に制止する中、ミルサップは豪然と言い放った。それを聞いたドゲットは眼をふせ、静かに笑
った。そして椅子に凭れると、腕組みをしてミルサップを眺めた。その時のドゲットの眼を見たチオリノ保安官は背筋
に薄ら寒いものが走るのを覚えた。薄い唇に僅かに笑みを浮べ、ミルサップを見詰めるドゲットの眼は、抜き身のナイ
フが切り裂くような、冷たい光を反射していた。チオリノ保安官にはミルサップが、身の危険に気づかず屠殺場に引か
れて行く家畜の様に見え始めた。ドゲットは砕けた口調で尋ねた。
「あんた、好きなスポーツは?」
「スポーツ?生活に必要無い無意味なものだ。」
「ふむ。じゃ、生活に密着したスポーツはどうだ?例えば釣りとか。」
「性に合わん。」
「そう。それじゃあ、狩りは好きか?すぐにシーズンだが。」
「私はしない。無駄な殺生はせん。」
「そりゃ、残念。趣味と実益を兼ねた、有意義なスポーツなんだがな。ところであんた、世の中で一番仕留めやすい動
物が何か、ご存知かな。」
ミルサップと弁護士は話の流が掴めず、怪訝そうに首を振った。ドゲットはさもありなんと頷くと、さらりと言った。
「人間さ。」
はっと息を呑み、顔をこわばらせたミルサップの方に身体を寄せたドゲットの低い声は、すでに先ほどののんびりした
口調とは打って変わって、危険な響きを帯びていた。
「人間は、的が大きく、鈍重で、勘が悪い。群れてばかりいる人間は、特に容易い。」
「な、何が言いたいんだ。」
「別に。」
「お、お、脅しなどには屈し無いぞ。」
「脅し?何を言ってるのか分からんな。」
「エージェント・ドゲット。もういい。」
不穏な雲行きに突然ブライアンが割って入った。ドゲットは近寄ろうとするブライアンをちらりと見上げ、片手を上げて
制すると立ちあがった。そして両手をポケットに突っ込み、眼を細めてミルサップ見下ろし言い放った。
「俺に報いを受けさせようというなら、何時でも来るがいい。止める必要など無い。だが、こいつは覚えておけ。もしあ
んたらの姿を、少しでもエージェント・スカリーの廻りで見かけたら、俺は今の話を思い出して、急に狩りがしたくなる
かもしれん。」
「エージェント・ドゲット。止めるんだ。」
ブライアンは険しい表情で咎め、ドゲットの肩に手をかけたが、その手とブライアンに向けたドゲットの視線に思わず
怯み、慌ててまた引っ込めた。ドゲットは口元を僅かに綻ばせたまま、意味ありげな一瞥を、青い顔で脂汗を流して
いるミルサップにくれると、黙って部屋を出た。
 暫くして、ミルサップと弁護士の罵声で騒然となった取調室から、保安官とブライアンが言い争いながら出て来た。
すると、とうのドゲットはオフィスの給水機の前でのんびりと水を飲んでいる。それを見たブライアンがつかつかと歩み
より、今のドゲットの態度が問題だと責めた。取調室で脅されたと訴えられるぞ、そう決め付けてどうするつもりだと詰
め寄った。ドゲットは黙って目頭を押さえると、俯いたまま答えない。さらにブライアンがくどくどと言い募れば、見かね
た保安官が口を出した。だがそれで更なる口論が再開された。
「もう、いいじゃないか。実際まだ訴えていないんだから。」
「部外者は口を挟むな。」
「なんだと?部外者とはどういう意味だ。こいつは共同捜査じゃなかったのか?」
「もし訴えられたらFBIで問題になる。地元警察には関係無い。」
「馬鹿な事を言うな。ここは私の事務所だぞ。取調室にも同席している。関係無いとはなんだ。」
「訴えられはしない。」
突然ドゲットが口を開いた。その声にそれまで、睨み合い掴みかからんがばかりに鼻つき合わせていた、ブライアン
と保安官は思わずドゲットに向き直った。ドゲットはかわるがわる二人の顔を眺め黙って水を飲み干した。その様子に
焦れたブライアンが聞きただした。
「何故そう言い切れるんだ?」
「脅してないからさ。」
ドゲットは当然の様に言うと持っていた紙コップを潰しゴミ箱に投げ入れた。ブライアンは呆れて首を振ると言った。
「何を言ってるんだ。エージェント・ドゲット。あれが違うとでも言うのか?」
「そうだ。」
ブライアンが口を開きかけると、突然保安官がそれを遮った。
「そうか。訴えられんぞ。」
ブライアンは顔を顰め保安官を不機嫌そうに睨みつけた。すると二人に歩み寄りながら、保安官は愉快そうにブライ
アンに説明し始めた。
「いいか。確かに場所は取調室で、弁護士が立ち会っていたし、私達も同席した。だがエージェント・ドゲットは尋問し
ていたわけじゃない。向こうに面会を求められ、それに応じたに過ぎん。しかも思い出してみろ。彼の言った事は、ス
ポーツと狩りについてだ。」
「しかし、脅しと取られても不思議じゃない状況だったじゃないか。」
「そうだ。しかしそうなると先にミルサップの言った言葉が問題になる。」
「言葉?」
ブライアンが怪訝そうに聞き返した。するとそのやり取りを黙って聞いていたドゲットが助け舟を出した。
「報い。」
「そう。奴の方が最初に、このまま黙っていない、なんらかの報いを受けさせるぞと言ったんだ。これは脅しじゃないの
か?」
ブライアンは苦虫を潰したような顔で暫く考え、こう切り返した。
「だが具体的な言葉を口にしたわけじゃない。報いとは何を指すのかいくらでも言い抜けられる。」
「そうだ。だが同時に彼の言った事だってそうじゃないのか。全てがあやふやで、決め手が無い。よほど無能な弁護
士じゃない限り、訴えはしないだろう。」
言い終わった保安官がドゲットの方を向き同意を求め笑いかけると、ドゲットも僅かに口を綻ばせ黙って頷いた。言わ
れてみると確かにその通りだった。こうなると立場が無いのは、ブライアンの方だった。あまりに騒ぎ立ててしまい、
引っ込みがつかない格好のブライアンは忌々しそうに舌打ちし、何かあったら責任はあんたら二人で取ってくれと、捨
て台詞を残し、憮然とした表情のまま去って行った。
 ブライアンの後姿を見送りながら疲れたようにため息をつく保安官に、ドゲットは給水機から水を汲むと差出した。
「若いんだ。大目に見てやってくれ。」
「私には君と大して差が無いように見えるがね。」
保安官がドゲットの言葉に呆れたように返答すれば、ああ、と言って決り悪そうにドゲットは首の後ろを擦った。その
様子を見ながら保安官は、自分より十歳は歳が離れているであろうこの男を、好ましく思わずにはいられなかった。
 最初に会った時から、ドゲットは支局のブライアンなど足元にも及ばないほど有能であった。会う前の電話の応対で
既にその片鱗を窺わせていたが、それでもFBI捜査官が出向いてくると言う事に一抹の不安を覚えずにはいられなか
った。何しろ今まで支局の捜査官、特にブライアンに代わってから、共同捜査がスムーズに運んだ事など一度も無か
った。ところがドゲットはまるで違った。高飛車に出る事無く、双方を均等に扱い、到着してからの指示も的確で行動
は迅速だった。流石これが支局と本部との違いだなと、保安官はブライアンとドゲットを密かに比べ納得していた。
 しかしそれは何も自分だけでは無かったと、3日前ドゲットが事務所に現れた時保安官は痛感した。何時もの主導
権争いでいがみ合っているブライアンと自分の所へ、助手二人がドゲットを連れてくるとは、まさか思っても見なかっ
たのである。しかもその後取ったドゲットの態度に、保安官は心底感心してしまった。あの時点で何も非が無いドゲッ
トが謝罪し、プライマリーから外れることによって、いがみ合いの元を無くし、双方の面子を潰す事無く上手くまとめた
のだ。正直ドゲットがあの時、間に入らなければ今ごろ捜査は行き詰まり、大陪審を明日に持ちこむ事など不可能だ
ったろう。それにしても助手二人の気持ちをこれほど早くドゲットが掴んでしまうとは驚きだった。只、ドゲットの相棒の
車を回収し忘れた助手の失態を批難しない様子や、目下の人間に対しても自然に相手を尊重する態度が、彼らに好
意的に映ったのは当然だろう。
 昨日、尋問の合間休憩を取っていたドゲットに、ふとそのことを思い出しこんな質問を保安官はぶつけている。
「君の下で働きたいという者は多いだろうな。」
するとドゲットは、心外だという顔で、まさか、と答え、保安官の返事も待たずさっさと仕事に戻ってしまった。その時
保安官は、ドゲットの態度が少し妙だったのを思い出し、そう言えばと、自分に水を差出した後、保安官が担当した容
疑者のファイルに目を通しているドゲットの様子を改めて見直した。
 3日間取調室で尋問中のドゲットを、時折保安官は観察室のマジックミラーごしに見ていた。保安官が見たどの時
も、ドゲットが容疑者に対する態度は冷静で、どんなに傍若無人な輩や、話の通じない人間にも、脅したり乱暴な態
度で容疑者に対峙せず言葉巧みに誘導し、殆どの容疑を認めさせている。最もこれは、プライマリーを外れたドゲット
の担当した容疑者が、どちらかと言えば、主要人物ではなかったせいでもあるが、これには正直保安官もブライアン
も称賛せざるを得なかった。なにしろ狂信者の尋問は、非常にやっかいだ。話が通じず自己の世界に浸りきり、それ
以外を認めようとしない。すぐに妙な宗教理念を持ち出し、それを聞かないと憐れむような眼で見るか小馬鹿にした態
度をとる。一人を尋問する度、保安官とブライアンの苛立ちは相当なものだった。声を荒げたり机を叩く事も稀では無
かった。所がドゲットは保安官が見守るなか、見ている保安官が憤るほどの侮蔑的な言動をとる容疑者にさえ、顔色
一つ変え無かった。
 それなのに先ほどのミルサップに対するドゲットの態度は、明らかに違っていた。最初からかなり挑発的な姿勢で
望み、最後には別人の様だった。その時になって初めて、保安官はドゲットがずっと腹を立てていたのだと気づいた。
そしてその腹立ちが何に起因しているかも、大体理解出来た。保安官は無口で物静かな佇まいなこの男が、実際は
かなり危険な顔を隠し持っている事を目の当たりにし思った。飼い犬だと思っていたのが実際は狼で、うっかりその
尻尾を踏んでしまったミルサップは、一瞬で喉笛を食いちぎられた、といった感じだったなと。我ながら的を得た感想
だとにやついていれば、それに気づいたドゲットがファイルから眼を上げ、不思議そうな顔で保安官を見た。その視線
に、保安官は咳払いをすると慌てて言いつくろった。
「スポーツと、狩りか。」
「そう。」
「しかし、あれは間違い無く脅しだろう。」
「まあ、見方によっては。」
「認めたな。しかもあれはかなり・・、かなり・・。」
「凶悪。」
ファイルから顔を上げず、事も無げにドゲットが補足したので、保安官はつい、はっはと笑ってしまった。
「全くだ。最近のFBIはみんなああなのか?」
「さあ、他では聞かんな。」
「じゃ一体どこで覚えたんだ?」
「ニューヨーク。」
「成る程。ブライアンもニューヨーク辺りへ行けば、もう少しましになるかな。」
「彼は彼なりに精一杯やってる。」
「そりゃそうだが・・。おい、待ってくれよ。私は何もブライアンを批難しちゃいない。」
ドゲットは疑わしそうな顔で、上目に保安官を見た。
「そりゃ、エリート意識丸だしの態度や威張り腐った態度は、確かに鼻に付く。」
「だが全てが無能な人間では無い。」
「うん、多分。しかしあの何にでも我を通そうとする押しの強さと、境界線をはっきりさせなきゃ気が済まん、がちがち
の石頭振りはどうにも我慢出来ん。」
するとそれを聞いたドゲットはファイルを閉じ、眼を伏せふふと笑った。
「どうかしたか?」
「いや、エージェント・スカリーも僕の事をそう思っているので、つい。」
「え?あんたの事をどう?・・もしや・・。」
「ああ、石頭。」
ドゲットはそう言って眼を上げるとにっこり笑った。保安官がその笑顔に些か面食らっていると、ドゲットはこれは問題
無いだろうと言って、ファイルを手渡した。そしてこの後は病院へ行ってからモーテルに戻る、連絡はそっちへ、と言い
残すとオフィスから姿を消した。
 後に残った保安官は、あまり感情を露わにしないドゲットを、狼のように変貌させたり、屈託の無い笑みを浮かべさ
せる事が出来る、恐らく唯一であろう存在が、俄然気になり始めた。ダナ・スカリー。救急車に乗せられるところをちら
りと見ただけだったが、小柄で若く見事な赤い髪をしてる事しか知らない。ドゲットの話ではもうかなり回復しているら
しい。昨日はブライアンが事情聴取に行ったと聞く。という事は、明日自分が面会に行っても何の問題もあるまい。見
舞いと捜査の協力への礼を言いに来たと言えばいい。そう自分に言い訳すると、明日朝一番に病院に行こうと決心
するのだった。


 ドゲットが病室のドアをノックすると、中からくぐもった声が聞こえた。てっきり許可する返事だと勘違いしたドゲットは
入室した途端、失礼、と言って慌ててドアを閉め退こうとした。看護婦に手を貸してもらい、衣服を整えているスカリー
の姿が眼に入ったからだ。
「ああ、いいのよ。入って頂戴。エージェント・ドゲット。」
ドゲットはスカリーの言葉にドアの陰から顔を覗かせると、既にベッドで半身を起こし、身支度の整ったスカリーがこち
らを向いていた。ドゲットは間の悪さに咳払いをし、面映そうに入って来た。すると看護婦が鋏やガーゼ等が乗った銀
のトレイを持って、部屋を出ようと近づき、にっこりしてドゲットに挨拶した。
「こんにちわ。ドゲットさん。今日は早いんですね。」
ドゲットが、ええ、まあなどと返答し、退室する看護婦の為にドアを押さえれば、看護婦はすれ違いざま、極上の笑み
でドゲットに礼を言うと出て行った。ドアを閉めたドゲットは、椅子をスカリーの近くに引き寄せ、その後の経過を尋ね
た。
「ええ。実を言うと、お昼過ぎに抜糸したわ。今看護婦が来ていたのは、テープが引きつれて、気になるから直してい
たの。」
「そうか。それは良かったな。じゃ・・。」
「ええ、明日退院していいそうよ。」
ドゲットは満足げに頷くと、上着のポケットからメモ帳を取り出し、今日の進行状況を報告し始めた。が、途中で立ちあ
がると、夕陽が入って眩しい為ブラインドを半分閉め、そのまま窓に凭れると残りを続ける。スカリーは時折質問を挟
みながら、それとなくドゲットを観察していた。
 この3日間、ドゲットは毎日スカリーの病室を訪れては、こうして几帳面に捜査状況を報告して行く。就寝時間前の
僅かな時間に限られたと言う事実は、ドゲットが非常に多忙であると言う事を示唆していた。スカリーは毎回の報告
の度に、ドゲットの言動に注意を払っていた。あの時感じたドゲットの怒りにどう対処したらよいのか、考えあぐねてい
たのだ。
 しかしあれからドゲットは、只の一度もスカリーにそのような素振りを見せなかった。体調を気遣いスカリーへの接し
方も、柔らかな態度だった。だからといって甲斐甲斐しく世話するわけでも無く、相変わらず要点しか言わないし、報
告が終わればあっさりと保安官事務所に戻って行ってしまう。これではスカリーも取り付く島がない。だが、それでも
スカリーは妙な気分にならずにいられなかった。
 最初スカリーは、ドゲットが自分のとった浅はかな行動に、腹を立てそれを上手く隠しているものだと、信じていた。
ドゲットが怒るとしたらそれしか思い当たらない。だが、それなら何故、このことについて触れないのか。こちらからそ
れとなく話を持って行こうとしても、乗ってこようとはしない。批難がましい事も言わず、遠まわしな皮肉さえ言わな
い。それなのに、スカリーの傷跡を見る時だけ、ほんの一瞬暗い色が瞳の中に閃き、むっとした表情が顔を過る。こ
れは一体何を意味するのだろう。スカリーは次第にドゲットの怒りの矛先が、自分の思っていたのとは見当違いの方
向を向いているのではないかと、疑い始めていた。
 知らずにドゲットを、遠慮無く眺めていたのだろう。視線に気づいたドゲットが何かと尋ねた。スカリーは、内心慌て
たが、それを悟られ無いように、何食わぬ顔で答えた。
「どうやら、食事と睡眠は充分足りてる様ね。」
「野良犬も少しはましに見えるかい?」
ドゲットはいたずらっぽい顔で、両腕を広げて見せた。スカリーが澄まして頷くと、そりゃどうも、と肩を竦めドゲットは
先を続ける。ましに見えるどころではないわ。スカリーはゆったりと窓に凭れ、メモを読むドゲットの姿を盗み見た。チャ
コールグレーのスーツに、薄いグレーのシャツ、濃い臙脂のネクタイを緩め首のボタンを外したドゲットは、客観的に見
ても魅力的だった。短いダークブロンドの髪が夕陽に透けて柔らかな輝きを放ち、それと対照的に、陰影を濃く落とし
た整った顔は、思慮深さと精悍さが同居している。すっと通った鼻筋から、引き結ぶ事の多い薄い唇にかけての鋭角
な線は、自己に対する厳しさの現れであるかのようだ。しかし俯きメモを読む澄んだ碧眼は、全てを内包してしまうよ
うな、深さと青さを湛えている。顔立ちはハンサムなのだが、ドゲットの魅力はモデルのような外見的美しさとは程遠
い、生身の人間が、人生に苦闘し歩んできた精神の高潔さと、男性的力強さを兼ね備えていた。それに加えて彼の
体つきは肩が広く、細く引き締まったウェストと高い腰骨の位置等から、スーツ姿が良く映えた。何でも無いビジネス
スーツなのに、姿勢の良さと凛とした佇まいから、正装しているような印象を受ける。
 ドゲットが恐らくFBI内の中でも、容姿にかけてはかなり水準が高いほうであろう事は、なんとなくわかっていた。し
かし、こうして普通の人々の中に置かれても、ドゲットの容姿は抜きん出ていた。その証拠にスカリーを担当する看護
婦が全て、ドゲットにはスカリーにすら見せない、最高の笑顔で接していた。こんばんわ、ドゲットさん。いいんです
よ、ドゲットさん。どうもありがとう、ドゲットさん。入院しているのは私なのに、何なのかしら。と、スカリーは内心面白
くなかった。しかしドゲットは、看護婦達がどんな目つきで彼を見ているか等、全く気づいていないようだった。これに
はスカリーも呆れた笑いを禁じえなかった。こんなに自分に向けられる感情に無頓着で、よくFBI捜査官が勤まるもの
だわ。
 彼が看護婦達に親切で礼儀正しいのは、特に意識してそうしているわけではなく、どうやら女性全般にドゲットは同
じ態度で接している様だった。それがこうなるまで、ドゲットのその特質が顕著に表れなかったのは、女性と話すドゲ
ットをスカリーが殆ど見かけ無かったせいもある。スカリー以外の女性、例えばFBIの女性職員、スキナーの秘書、カ
フェのウェイトレス等と話す時も、言葉少なくどちらかと言えばぶっきらぼうだった。これはスカリーにとって有難い事実
だった。フェミニストを通り越し女好きの同僚など、はっきり言って願い下げだ。同僚とは異性である事など、意識せず
仕事をしたかった。従って、普段のドゲットから、そういった事を窺い知らずに今まで過ごしてきた。
 だがこうして数人の特定した女性達のドゲットに対する態度を見る内、スカリーは初めて仕事を離れ、客観的にドゲ
ットを男性として見る事を試みたのだった。ドゲットが看護婦達に接する態度は、口数少なく口調もあっさりしたものだ
った。しかし例えそうであっても、ドゲットのような男性に、丁寧に礼を言われたり、さりげなく手を貸されたりしたら、誰
でものぼせ上ってしまうだろう。看護婦達は皆、ドゲットが来ると、信じられない程優しい声になり、些細な用を作って
は話しかけるチャンスを窺っていた。しかしドゲットは、彼女達が猫なで声で話しかけ、必要以上に近寄ると、控えめ
な態度で俯き黙って退いた。こうしてドゲットが黙ってしまうと、その沈黙を破れるのは、今現在スカリー以外にはいな
い。スカリーですらてこずったのだ。とても彼女達に扱える代物ではなかった。
 ドゲットが女性全般に礼儀正しく控えめなのは、もう随分昔に失われてしまった人間としての美徳が、生まれ持った
性格に含まれているからだろう。ドゲットはどうやら仕事以外の場所では、女性に対して、非常に古風な美徳を持ち
合わせた、数少ない人種のようだった。これがFBIでは、やり手と言われるドゲットの、別の一面だとしたらなんだか
可笑しいわ。スカリーはそう思いながらふとその時感じた事を、報告を終えメモをポケットにしまっているドゲットに告
げた。
「今日は随分機嫌がいいみたいね。」
「そうかな。別に変らないつもりだが。」
「そうかしら。」
スカリーが納得いかない様子でドゲットを見詰めると、ドゲットはちょっと首を傾げて考えていたが、やがてこう答え
た。
「まあ、しいて言えば、ここでの仕事が今日で粗方終わったからかな。大陪審も明日になるらしい。」
「早いわね。」
「うん。チオリノ保安官とエージェント・ブライアンが良くやった。」
「本当に?二人はあまり上手く行ってないと聞いてるわよ。」
ドゲットが怪訝そうな顔をしたので、スカリーは訳を言った。
「事情通の看護婦がいるの。おかげでここの支局の仕事振りがよく分かったわ。彼女の話全部を信じはしないけれ
ど、少なくとも退屈はしなかったのは事実ね。」
「世間は狭いな。」
「ところで明日のことなんだけど、さっきスキナーに電話したら、退院次第すぐ戻る様に言われたの。」
「そうだろうな。」
「ええ、カーシュがうるさいらしいわ。」
「分かった。明日迎えに来る。何時ならいいんだ?」
「診察してもらってから退院手続きを終え・・」
「そっちは僕がする。」
「助かるわ。そうしたら、9時半ぐらい。」
「了解。」
ドゲットは頷くと、じゃ明日、と言って病室を出た。ドアを閉めニ三歩歩いたところで、不意にくっくと笑い声を漏らした。
ドゲットはスカリーに指摘されるまで、自分がいつもより機嫌がいいなどと思っても見なかった。しかし実際は昨日ま
での重苦しい苛立ちが軽減され、胸につかえていた塊が嘘のように無くなっていた。彼女の退院が原因かとも勘ぐっ
てみたが、どうやらそればかりでは無いらしい。ここに来る前からそうだったのだ。ドゲットはにんまりすると、満足げ
に呟いた。
「成る程、ああいったストレス解消法も、たまには悪くないな。」
あの場面に居合わせた弁護士とブライアンこそ、いい面の皮だったが、知った事か。今やドゲットは上機嫌だった。






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