2週間   アイダホからの帰還 



          【T】

 ベースメントの自分のデスクに戻ったスカリーは、複雑な面持ちで椅子に腰掛けた。手には今や習慣になっている、
パートナーフォックス・モルダーの失踪に関するファイル。しかしそれを繰るスカリーの心は現在ここには無い。彼女は
今しがた目撃した光景が頭を離れずずっとそれを心の中で反復していた。その日の午後、スカリーは誰にも居場所を
告げず、資料室の奥まった一角に篭っていた。妊娠初期の体調不良をXファイルに赴任してきたばかりのジョン・ドゲ
ットに悟られたくない時、彼女は調べものと称して、滅多に人の訪れないその部屋にいた。それでも誰かに見つかっ
た時いい訳が立つ様、固い椅子に腰掛け古い事件の資料箱の中身を見るとは無しに覗いていると人の入ってくる気
配に、息を潜めた。彼女の居る場所は連立するキャビネットがぐるりと囲んでいて、入り口からは完全に死角になって
いる。中々で出て行こうとしないその気配にそっと様子を窺えば、そこに立つのは彼女が一番見つかりたくない相
手、ドゲットが居るではないか。思わず息を呑み、身を竦めたものの自分がここに居る事を知るわけが無いと思い直
し、何をしているのかもう一度彼の様子を覗き見た。
 ドゲットはニ日前に終ったばかりの事件の箱を引っ掻き回していた。眉間に深い皺を寄せ、その奥の瞳は冬の空の
如く何時もはっと思わせるほど青い。一文字に引き結んだ薄い唇は意志の強さを表し、秀でた額と細く通った鼻梁は
上品で知性の高さを感じさせた。ダークブルーのスーツに白いシャツ、ブルーのストライプのネクタイを締めたドゲット
は、全体的にシャープな印象を人に与える。しかし、ニ日前怪物に襲われ胸を怪我したドゲットの応急処置をした時、
意外に発達した筋肉をスカリーは見ていた。スカリーはその時殆ど初めて彼の容姿をモルダーと比較する事無しに見
た。それも、彼が気がついていないのを良い事に、かなり無遠慮に眺めていた。
 と、突然ドアが開きどやどやと二人の捜査員が何かを話ながら入ってきた。男たちはドゲットに気付くと気安く声を
かけている。スカリーは慌てて又身を潜めた。そのままじっとして聞き耳を立てていると、どうやら二人はドゲットの以
前の同僚らしかった。二人はドゲットにXファイルの事を尋ねたり、ドゲットの見ている資料に首を突っ込んだりしてい
る。が、声しか聞こえないスカリーですら、その冷やかし半分の口調から二人の些か小ばかにした態度を読み取る事
が出来た。ああ、まただわ。スカリーは思った。殆どすべての捜査員が自分達の事を語る時の態度。冷やかし、あざ
けり、みせかけの同情。しかし、7年間それに付き合ってきたスカリーはもうすっかりそんな雑音には慣れていて、無
視する事もいざとなれば居直って反撃する術もとうに習得していた。
 しかし、ドゲットはどうなのだろうか。つい最近までは彼はあちら側の人間だった、いやもしかしたらまだあちら側で
あるかもしれないのだ。未だ信用しきれない彼の真意を量るにはいい機会かもしれない。スカリーはドゲットの反応を
見ようとそっと身を乗り出した。人を中傷しようとにやにやしている二人の男と比べ、ドゲットの表情はさっきと全く変ら
なかった。男達の言う事にも殆ど上の空で、ああとかうんとか言うだけである。
 ドゲットから思ったような反応が得られない二人は、次に話の矛先をスカリーに向けた。モルダー捜索の初動捜査
における二人の対立は周知の事実だったからだ。モルダーとのゴシップ。あからさまな中傷。あだ名。下品な性差
別。異性がいない時のそれらは聞くに耐えないものがあった。スカリーは悔しさに歯を食いしばって耐えた。すると突
然無言でドゲットは箱を片付け部屋を出た。二人は顔を見合わせるとそそくさとその後を追って行った。
 後に残ったスカリーは長いため息を吐き出すとゆっくりと肩の力を抜いた。と同時に不覚にも涙が頬をつたう。スカリ
ーは孤独だった。以前は心強い味方モルダーがいた。志を同じにし強く精神的に結ばれた二人はどんな中傷も平気
だった。しかし今や彼女は一人だった。たった一人で二人の築き上げた物を守らなければならなかった。下らない中
傷や陰口などに自分は傷つかないと頭で思っていても、心はどうしようもなく傷ついていた。モルダーの喪失が身に
染みて辛かった。スカリーは、今だけ、今は妊娠初期で精神的に不安定だから、と声を殺して泣く事を自分に許し
た。
 スカリーが資料室を後にしたのはひとしきり泣いて気持ちが収まってからだった。洗面所で顔を洗い涙の後を洗い
流すと、鏡に映った自分の顔を見詰めた。しっかりするのよ、ダナ。背筋をしゃんと伸ばし少し乱れた襟元を直し洗面
所を出ると何事も無かったかのように廊下を闊歩していた。
 角を一つ曲がったら自分のオフィス直通のエレベーターの前。と、そこでスカリーは慌てて身を翻した。ほんの5・6
メートル先のエレベーター前に、なんとドゲットと例の二人が居るではないか。何故まだここに?そこでスカリーは今
朝デスクにあった、エレベーターの点検で3機のエレベーターのうち2機が午後から使えなくなるという通達を読んだ
事を思い出した。彼らは先ほどからずっと混んだエレベーターが通過してしまうので空いたのが来るのを待っているの
だった。困ったわ。スカリーは思った。ドゲットより先に戻らないといくらなんでも不在が長すぎ不審に思われるだろう
し、階段を使うという手もあるが、階段の入り口はエレベーターの横にあって彼らの側を通らなければならなかった。
それだけはどうにも避けたい。すると、ようやくランプが点滅し彼らの前でエレベーターの扉が開いた。やれやれと男
達とスカリーは胸を撫で下ろした。ところがそうでない人間が一人いた。先に男達二人がエレベータ−に乗りこみ奥
に詰めると振りかえりドゲットを呼んだ。すると低いがはっきりとしたドゲットの声が聞こえた。
「お前らと同じエレベーターになぞ、乗れるか。糞野郎。」
「何だと!?」
二人は気色ばんで一人がエレベーターを抑え、身体の大きなもう一人がドゲットの前に立ちはだかり、ドゲットの胸を
人差し指で小突きながら威嚇する様に言った。
「今何って言った?」
「糞野郎って言ったんだ。頭も悪いが耳も悪いのか?」
そう言ってドゲットはふんと鼻先で笑った。かっとした男はドゲットの襟首を掴んで持ち上げ叫んだ。
「何ぃ?もう一度言ってみろ!」
一瞬ドゲットの青い瞳に凶暴な炎が閃いた。次の瞬間男は右手を後ろ手に捻られ殆ど膝をつかんがばかりに屈ませ
られていた。捻られた右手をはずそうにもドゲットの手は万力の様に締め付け、力を入れれば入れるほど自分の力が
跳ね返り手首の骨が折れそうになる。片手で手を捻り片手で肩を押さえたドゲットは男の背後からきしった声で囁い
た。
「お前の頭の悪さは捜査員失格だ。だが、以前の同僚のよしみに教えてやろう。パートナーの悪口を面と向って言う
奴は糞野郎だって言ってるのさ。」
男ははっとして息を呑んだ。今やドゲットが本気で怒っていることが分かったからだ。そして自分が言ってはなら無い
相手に言ってはならない事を言ってしまった事を悔やんだ。ドゲットは更に右手を上に引き上げより苦痛を与えるとそ
のまま肩を押しエレベータ−の中に男を突き飛ばした。
「いいか、二度と俺の前で俺のパートナーを侮辱するな。もし同じ話を他で聞いても俺はお前だと思うからな。その時
はこんなに優しくするつもりは無い。」
ドゲットはさっと身を翻すとドアを閉めるボタンを押し唖然として突き飛ばされ転ばされた男の側に屈んだもう一人を指
差し言い放った。
「お前もだ。」
ドアは閉まった。ドゲットはすっと背筋を正しスーツを引っ張り身支度を直すと、床に散ばった書類を拾いグレーのファ
イルに挟んだ。枚数を確認し順番を揃え腕時計を見た。
「あ、くそっ。遅刻だ。カーシュにどやされるな。」
ドゲットは苛々した声でそう呟くとエレベーターの階数ボタンを見上げた。既に押されているエレベーターボタンを数回
押しドアの前をうろうろと歩き回っていたが、エレベーターは上に上がったまま下がる気配が無い。ドゲットはため息を
ついてダークブロンドの髪に指を走らせると階段で行くしかないか、と言いながら非常階段に消えていった。
 階段を登る足音が遠ざかり人気の居なくなったフロアでようやく緊張を解いたスカリーは意外な事の成り行きにすっ
かり混乱していた。今あった事を整理して考えようと上の空でエレベーター前に立つと同時に整備中のはずのエレベ
ーターが開き中から整備士姿の男が顔を覗かせ話しかけた。
「整備終了です。下に行きますが乗りますか?」
思考を中断され些か驚いたスカリーだが、慌てて頷くとエレベーターに乗りこんだ。
 そして、現在彼女はモルダーのファイルを只眺めている。先ほどのドゲットの言動で頭の中がパニックを起してい
た。彼の言動を反復しながらスカリーは大きな疑問を抱かずには居られなかった。エレベーターの前で突き飛ばされ
た捜査員二人は確かアイダホのケースの前に見物と称してドゲットと連れ立っていた捜査員と同じだった。あの時は
ドゲットを含む3人で笑いながらオフィスに入ろうとしていたではないか。友人。そうドゲットは二人を指して言ってい
た。それならば何故一緒になって話に加わらなかったのだろう。ドゲットの超常現象に対する反応は確かに普通の捜
査員よりはましだった。他の捜査員の前であからさまに否定も肯定もしない。エイリアンだの超能力などの言葉が書
かれているファイルを読み上げる時ですら、見事に感情を隠していた。しかし一旦スカリー及びスキナーだけになる
と、礼儀正しくはあるが酷く冷笑的だった。そう、礼儀正しい。その態度にスカリーは苛々させられた。
 知らず知らずのうちのドゲットとモルダーを比較し事あるごとにモルダーならどう言ったかどう行動したか心の中で思
い描いていた。しかもドゲットとカーシュの不透明な繋がりが彼に対する不信感を煽り、礼儀をわきまえたドゲットの
態度も彼女に取り入って足をすくおうと言う魂胆からでは無いかと疑っていた。そして何より彼女自身がドゲットを認
める事がモルダーへの裏切りのようでドゲットとその存在を受け入れると事を拒否していたのだ。その証拠にアイダ
ホのケースの最初は二人とも非常にギクシャクしていた。というより、どちらかと言えばスカリーがドゲットに突っ掛か
っていたのだが。ドゲットに不機嫌に接する事で不在のモルダーへの愛情を示そうとしていたのかもしれない。しかし
それは同時に曇りの無い眼で、ジョン・ドゲットという人間を評価する妨げになっていたのだろうか。
 スカリーはゆっくり息を吐き出すとモルダーのファイルをデスクに置き眼を閉じてドゲットの姿を思い浮かべた。自分
に対する彼の受け答えは何時も節度があり、けして必要以上に踏み込んで来ようとしない。捜査の時もでしゃばりす
ぎず又彼女をないがしろにしない、どちらかと言えば保護的に感じられる時さえある。自分は怪物に襲われ血だらけ
なくせに、スカリーの身の方を案じる。ふっとその時の彼の言葉を思い出しスカリーの表情が和らいだ。『君は大丈夫
か?』あれは本当に彼女の身を案じて出た言葉だった。そして認めたくは無いが先ほどのエレベータ−前でのドゲッ
トの言動にスカリーの心は嬉しさで震えるほどだった。彼女が見てない場所でドゲットはスカリーをパートナーと呼び
スカリーを庇い闘ったのだ。あの行動は彼女に見せるパフォーマンスなどではなく彼の本当の気持ちなのではない
か。私は大きな間違いをしていたのかもしれない。
「エージェント・スカリー?」
何時入ってきたのだろう。そう呼ばれて顔を上げると、ファイルキャビネットの前にドゲットが立ってこちらを訝しげに見
ている。ドゲットの事をずっと考えていただけに当の本人が不意に目の前に現れればやましい事など何も無くとも否
応無しに頬に血が上る。
「何か?エージェント・ドゲット?」
「ああ。終わったケースの報告書のコピーは一部だけでいいのか?」
「ええ。一部をファイルしてキャビネットへ。後はお互いのPCにバックアップをとれば終わりよ。」
動揺を悟られまいとつっけんどんな受け答えをするスカリーに、ドゲットは黙って頷くと部屋の隅にある臨時のデスク
につき仕事に戻った。何時もと全く変らない態度。スカリーがそこにいればやあとかおはようとか声をかけ、仕事に関
する話があれば質問しそのまま仕事に入る。午後は何処にいたか、何をしていたのか、とか余計な質問はしない。
既に仕事に没頭しているドゲットを慌てて手にしたファイルの影から密かに盗み見ながらスカリーはここ数週間の出
来事を思い起こしていた。
 初対面のドゲットはそうと名乗らずスカリーを探ろうとしているかに見えた。あの時は名乗る機会を逸したからだと言
う彼の言葉を信用せず厚かましい失礼な男と決め付けていた。そしてその印象のままカーシュの手先となってXファ
イルを潰し、それを足ががりに出世コースに乗り、自分達を出世の道具に利用しようとしているのだと勝手に思い込
んでいた。しかし実際のドゲットはどうだろうか。アイダホのケースの間ドゲットは意見が対立しても、スカリーに突っ
掛かられてもその度に冷静に自分の思うところを率直に述べた。そして自分の意見のあやふやな所を指摘されれば
黙って彼女の意見に従った。言いつくろったり誤魔化したりせず、事実しか言わない。すべてにおいて正直な人なの
かもしれない。
 ドゲットは彼女が見ているのを知ってか知らずか淡々と仕事を済ませるとデスクを離れた。コピーしたファイルをキャ
ビネットにしまい時計をみて呟く。
「9時半か。カーシュのところで随分時間を取られたな。」
そしておもむろに顔を上げスカリーに話しかけた。
「僕はもう帰るが、君は?エージェント・スカリー?」
「私?・・私は少しする事があるのでまだいるわ。」
勿論何もする事など有りはしない。しかしドゲットはそれを聞くと黙って頷きコートを羽織った。
「ああ、そうだ。エージェント・スカリー。良い週末を。」
部屋を出掛けに振りかえったドゲットはそう言って微笑みスカリーが僅かに頷くのを見てからドアを閉めた。エレベータ
ーのボタンを押したドゲットは身体がふらつくのを危うく壁に手をつき支えた。アイダホから戻ってからというもの調子
が悪かったのだが、報告書を仕上げばならず加えて今日のカーシュとのミーティングをキャンセルする事など不可能
だ。無理を承知で平静を装い気力だけで仕事をこなしていたがそれももう既に限界に来ているのかもしれない。吐き
気と眩暈。午後からは熱も上がってきたようだ。頭と身体の節々が猛烈に痛み特に負傷し縫った後は熱を持ち脈打
ってる気がしてならない。そっと上着を持ち上げてみれば先ほどのエレベーター前の騒動で傷が開いたのだろう。血
が滲みシャツにまで染みをつけている。あんな事でかっとするなんて何時もの自分らしくないな。おそらく熱のせいで
抑制が効かなかったのだろうと、些か自嘲的に苦笑いしため息をついた。
 とにかく一刻も早く家に帰って休みたかった。鉛の様に重い身体に鞭打ってエレベーターに乗りこみ駐車場へと向
う。熱のせいでぼんやりしながらもドゲットは帰り際のスカリーの様子が何時もより和らいでいる事に気が付いてい
た。しかも普段オフィスにいる時には自分の存在など無視に近い態度でいるのに今日に限ってしばしばその視線が
自分に向けられている事にも。もしかしたら少しはスカリーも自分のことを受け入れる気になってくれたのだろうか。だ
が、すぐにそんな甘っちょろい考えは打ち消した。ドゲットにはスカリーが何故いつも不機嫌なのか分かっていた。彼
女にとってすべてと言ってもいいモルダーの後釜に居座ろうとしている自分が容易に受け入れられるわけもない。初
対面から険悪だったではないか。あのスカリーの敵意に満ちた眼。OK。ジョン・ドゲット。男らしく認めろよ。彼女は自
分を嫌っている。だが、最悪なのはそんな事じゃない。はっと気が付けば何時の間にか自分の車の前に立っていた。
ポケットから鍵を取りだし鍵穴に刺し込もうとした手がすべり鍵を落としたドゲットは舌打ちして屈もうとした。その途端
鍵を拾おうと伸ばした右腕から胸にかけて激痛が走りぐらりと地面がゆれた。次の瞬間地面にへたり込んだドゲット
は車に凭れ眩暈が収まるのを待った。だが一向に収まる気配が無い。冷や汗を浮べ苦痛に眼を閉じたまま次第に遠
のく意識の中でドゲットは思った。最悪だな。そうだ、最悪なのは、パートナーに信用されてないってことだ。身体から
力が抜け大きく傾くのを最早ドゲットに支える力はなく只冷たいコンクリートの感触を微かに頬に感じていた。

 スカリーが駐車場についたのは、10時を大きく廻っていた。自分の車に向いながら何気なく眼を上げた方向にドゲ
ットのピックアップが見えた。変ね。ドゲットがオフィスを出てからもう40分は経っている。スカリーは時計を確認しな
がら首を捻った。が、彼はモルダーと違ってFBI内に友人も多いからどこかで足止めされてるのかも、と思い直し足を
止めることなく車に乗り込んだ。しかしやはり何か引っかかる物を感じ、ドゲットの車の前を通り過ぎざま車の中を覗
き込んだ。誰もいない。五メートルほど徐行し次に全速力でバックした。慌てて車から飛び降りるとドゲットの車に走
る。ドゲットの車の運転席側の地面に倒れている人影らしき物を見たのだ。
「エージェント・ドゲット?」
案の定倒れているのは先ほどオフィスで別れたドゲットだった。スカリーの呼びかけに答える気配は無い。薄暗い照
明の下でもそうと分かるぐらい血の気の失せたドゲットの顔を覗き込み、だらりと投げ出された腕で脈を取る。その間
素早くドゲットの様子を調べ、着衣の乱れが無く怪我も無いようなのでどうやら暴漢に襲われたのではないらしいと判
断した。幸い脈も速いが弱くは無い。しかし額に手を当ててみると驚くほど熱い。するとスカリーの接触にびくっと身体
を震わせドゲットが眼を開けた。
「エージェント・ドゲット?大丈夫?私が分かる?」
「エージェント・スカリー?ここで何を?」
そう言いながらドゲットは訝しげにスカリーを見上げた。そして辺りを見まわし身体を起こそうとする。スカリーは腕をと
りそれを助けながらドゲットを座らせ車に凭れさせた。
「あなたは気を失っていたのよ。」
「僕が?・・・ああ、そうだ。鍵を拾おうとしてちょっと眩暈がしたんだ。」
そう言って口の端を歪めて笑顔を作ろうとする。スカリーはその様子を見て険しい顔をして言った。
「熱もあるわ。」
「ああ。・・・うん。そのようだ。早く帰って休むよ。」
ドゲットはスカリーの視線を避ける様に顔をそむけ立ち上がろうとした。
「駄目よ。まだ動かないほうが・・。」
「おいおい。勘弁してくれよ。エージェント・スカリー。もう大丈夫だ。ただの風邪さ。」
押し止めるスカリーの手を払いのけ立ちあがったドゲットは、平然とコートの埃なぞ払ってみせた。その間スカリーは
ずっと疑わしそうにドゲットの様子を見守っていたが、ドゲットがじゃあと言って背を向け様とした途端車とドゲットの間
に割って入った。お互いに少しでも身動きすれば身体が触れ合うくらいの近さで、暫し無言で見詰め合った。
「どいてくれないかな?」
それを聞いたスカリーは謎めいた視線でドゲットを見上げ突然彼のコートの襟を掴み大きく寛げた。あまりの素早さに
ドゲットは成す術もなく只驚いてスカリーの顔を見下ろした。
「出血してるわ。傷口が開いたのね。」
ドゲットは慌てた。改めてみれば先程より染みが大きくなっている。しかし敢えて平静を装いスカリーの手を振り払い
襟を直した。
「本当だ。鍵を拾おうとして腕を伸ばした時かな。でも、大した事ない。」
一瞬の間。スカリーの凝視にドゲットは顔を背けた。何でそんな目で見るんだ。
「それは医者が判断する事よ。病院へ行きましょう。」
「いや、本当に大丈夫なんだ。家に帰ればこの間医者に貰った薬もあるし。とにかく今は早く帰って休みたいんだ。悪
いがそこをどいてくれないか?」
「・・大丈夫?本当に?」
「ああ、本当さ。」
焦れたドゲットは鍵を取りだし些か乱暴にスカリーを押し退けようとした。よろけたスカリーがドゲットの右肩に触れた
途端、あっと言って鍵を落とした。苦痛を顔に出さないよう歯を食いしばり鍵を拾おうとすればその鼻先から鍵を掠め
取ったのはスカリーだった。彼女は唖然とするドゲットを尻目にさっさと自分の車に乗りこむとエンジンをかけた。ふら
ふらと後を追ってきたドゲットに助手席のドアをあけてスカリーは言った。
「乗って。」
「おい、ふざけないでくれよ。悪いが今はそんな気分じゃないんだ。早く鍵を返してくれ。」
「それは出来ないわ。病人に運転はさせられない。」
「じゃ、いったい何処に行こうっていうんだ?」
「病院よ」
「・・何を馬鹿な。大げさにしないでくれよ。・・いいさ、タクシーで帰る。」
そう言って身を翻し遠ざかろうとするドゲットにスカリーは大声で呼びとめた。
「待って、ちょっと待ってエージェント・ドゲット。分かったわ話を聞いて。」
ドゲットはしぶしぶ戻って来ると車を覗き込んだ。
「分かったわ。じゃこうしましょう。とにかくあなたに運転はさせられない。だから私の車であなたの家まで送るわ。そ
れならいいでしょう?」
ドゲットは眉間に皺を寄せたまま上目にスカリーの顔を見た。しかしスカリーが促す様に微笑んで顔を助手席に傾け
ると諦めた様に首を振り黙って隣に座りドアを閉めた。シートベルトをしてため息をつくとドゲットはスカリーの顔を見
た。
「これでいいかい?」
「いいわ。」
スカリーは満足げに頷いて車を発進させた。ドゲットはと見れば先ほどの威勢がうそのように静かだ。席に深深と腰
掛けだるそうに眼を閉じている。
「鍵を返してくれないかな。」
物憂げなドゲットの声にスカリーは黙って鍵を彼の腿に置いた。ドゲットは緩慢な仕種で鍵を握るとそのまま窓に頭を
押し付けふっと思い出した様に言った。
「僕の家は・・」
「知ってるわ。」
その返答に妙な顔をしてスカリーの方を見たドゲットに前を向いたままスカリーは答えた。
「あなたも私の家の住所知っていたでしょう?エージェント・ドゲット」
ドゲットはああそういうことかという顔で頷くと又ガラスに額を押しつけた。
「ついたら起してあげるから、少しでも眠ったほうがいいわ。」
スカリーがそう言うとドゲットは小さく頷きながら黙って眼を閉じた。
 スカリーはすぐに寝息を立て始めたドゲットの顔を運転しながらちらちらと様子を見ていた。眼を固く閉じ僅かにしか
めた表情は辛そうだった。顔色は更に青く時々震えが身体を走る。良くないわ。おそらくドゲットのいうとおり風邪だろ
う。でもあの右胸の痛み方。どうして気が付かなかったのかしら。スカリーは心の中で舌打ちしていた。そう言えばオ
フィスで仕事をする時ドゲットは上着を脱いでいた。それなのにここニ日間は終日しっかり着込んでいたではないか。
ファイルを読んだりする時も無意識に右胸をさすっていた。顔色もけして良くは無かったのに。いくら彼に注意を向けて
いなかったとはいえ、こんなことでは医者失格だわ。
 しかしスカリーはこれほど見事に自分の体調を偽れる人間を知らなかった。モルダーはすぐに顔に出たし、又それを
隠そうともしなかった。どちらかといえばそれを理由にスカリーに甘える事の方が多かった。モルダーは医者にとって
言い付けを守る模範的な患者と言えた。 ところがドゲットはどうだろう。アイダホで怪我をした時も地元の開業医の
処置だけで、スカリーがしつこく病院へいくように進めたが大丈夫と言って取り合おうとしない。しかも処置が終われ
ば濡れた身体のままで地元警察に止まり事後処理に奔走していた。そしてそのまま夜通し運転しD.Cに戻るとスカリ
ーを自宅に送り次の日スカリーがオフィスに入った時はすでにもう仕事にかかっていた。おはよう、エージェント・スカ
リー。といつもと全く変らぬ挨拶をし報告書のまとめ方について2.3質問したのだった。そのどこに体調の悪いところ
が窺えただろうか。苦痛に顔を歪める事も、こめかみを抑える事もない。いかにも平然と仕事をこなしていた。それが
目眩ましとは誰しも気が付かないだろう。ましてやスカリーはドゲットと組んで日が浅く、又深く関わる事を避けていた
ために余計そうなったのだろう。
 スカリーはため息をつき、自分の迂闊さを罵った。もう一度ドゲットの様子をを見ればコートを掻き合せ両腕で身体を
抱き小刻みに震えている。寒いのだわ。熱が上がっているのね。スカリーはぎゅっと唇を引き結ぶとハンドルを切っ
た。

「エージェント・ドゲット?エージェント・ドゲット?」
「・・・ん」
柔らかく自分を呼ぶスカリーの声にドゲットは二三回うめくと目を瞬き、首を振った。辺りを見まわせば何時の間にかド
ゲットの自宅前である。助手席側のドアの外から心配そうに覗きこんでいるスカリーの視線を眩しそうに見上げながら
ドゲットはシートベルトを外しゆっくりと車を降りた。その途端足元がふらつき、それを待ち構えていた様なスカリーに
支えられる事になった。慌てたドゲットはスカリーから逃げる様に身体を離しながら言った。
「大丈夫だ。ちょっとふらついただけだから。一人で歩けるよ。エージェント・スカリー」
「いいから、黙って歩きなさい。」
スカリーはきっぱりと言いきって一向に離れ様としない。それどころか一層固く彼の身体に腕を巻きつかせてくる。ド
ゲットは戸惑い更に繰り返し辞退しようとすれば非常に怒った声が返ってきた。
「いい加減にして頂戴。怪我したところを触りましょうか?」
問答無用。こういう声をしたスカリーにはもう逆らわない方が利口だ。いくら組んで日が浅くともドゲットは怒ったスカリ
ーの対処の仕方を一番早くに学習していた。諦めたドゲットはそのまま玄関までスカリーに身体半分を預けた形で移
動した。最も彼からしてみればスカリーは余りに華奢で只左腕をスカリーの肩に置くだけに留まり、少しの体重も彼女
の身体にかけることは無かった。玄関に到着したドゲットが礼を言って彼女から離れ様とすると、何も言わずスカリー
は玄関のドアを開けた。どうして開いてるんだ?と言う訝しげなドゲットの視線にスカリーは答えた。
「あなたが眠っているうちに、鍵を借りたの。で、寝室は何処?」
「エージェント・スカリー。有難いけど、本当にもう大丈夫・・。」
「エージェント・ドゲット。同じ事を何度も言わせないで。寝室は何処?」
有無をも言わせないスカリーの言葉に気おされドゲットは2階を指差した。そのままスカリーはドゲットを支えたまま寝
室まで来ると、ドゲットをベッドに腰掛けさせ厳しい口調で言った。
「辛いでしょうけど一人で着替えれるわね。傷口を見るから上は着ないでいて頂戴。この間医者で貰った薬は何処に
あるの?」
「・・・洗面所のキャビネット。洗面所は階段の脇だ。」
スカリーは頷くと部屋を出ようとした。するとドゲットが何かを言うのが聞こえ振りかえった。
「エージェント・スカリー。すまない。その・・迷惑かけて。」
「気にしないで。いいから着替えなさい。」
ドゲットはだるそうに頷くとネクタイを外しにかかった。スカリーはさっと意味ありげな一瞥をくれてから部屋を後にし
た。
 緩慢な動作で衣服を脱ぎながらドゲットはスカリーの真意を推し量ろうと努力していた。つっけんどんだがなんだか
やけに優しいじゃないか。心配してくれてるのだろうか。そう考えると心なしか少し嬉しい。そんな風に他人に心配し
てもらう事などもうここ数年経験していなかった。
 しかしアンダーシャツを脱ごうとして、右胸の傷に痛みが走ると苦笑いして項垂れた。ああ、そうか。彼女は医者だ
からな。職業柄って訳だ。パジャマ代わりのスウェットの下を履きTシャツを着ようとしてスカリーの言った事を思い出
した。手にしたTシャツを枕元に置くと、どさっとベットに腰を下ろし、酷くなるばかりの頭痛に両手でこめかみを抑え
た。スカリーは何をしているのだろう。なかなか戻らない気配に、ふと脱ぎ散らかした衣服が気になり、拾い集め様と
腰をかがめた時戸口から厳しい声が飛んだ。
「何をしているの?それは私がします。あなたは寝ていなさい。」
スカリーはさっさと衣服を取り上げるとベッドの足元に置き、ドゲットの両肩を優しく後ろに押し倒した。完全に医者モ
ードのスカリーに最早逆らう気力も無く、従順にベットに横たわったドゲットの身体を、胸まで毛布で覆うと彼女はベッ
ドサイドに腰掛けた。続いて小さな医療鞄の中から体温計を取りだしドゲットに渡し、サイドテーブルに置いた白い紙
の薬袋の中身を確認する。塗り薬。化膿止めの構成物質。滅菌ガーゼ。足りない物は自分の医療鞄の中から取りだ
し脇に揃える。そして準備が全部整ったところでドゲットの顔を覗き込み手を出した。
「体温計。」
黙って差出されたドゲットの体温計を一瞥し、スカリーは眉を潜めた。体温計をテーブルに置き、きびきびした動作で
ドゲットの胸のガーゼを外す。テープを剥がす時傷か引きつれて痛んだのだろう。僅かに顔をしかめるドゲットに話し
かけるスカリーの口調は優しかった。
「ごめんなさい。これから傷口を消毒するけれど少し痛むかもしれないわ。それに傷の治り具合を確認する為にちょっ
と触るけれど痛くても我慢して頂戴いね。」
ドゲットは目をつぶったまま小さく頷いた。スカリーはちらっとその顔を見上げてから、傷口からカーゼを完全に取り去
ると、顔を近づけ傷口を丹念に調べ始めた。幸い何かに感染している兆候もなく、只縫った所の皮膚が裂けそこから
出血しているだけであった。まったく酷い縫い方だわ。大した医者ね。などと呟きながら消毒を済ませ、塗り薬を塗っ
ているとそれまで静かだったドゲットが、僅かに顔をもたげ聞いた。
「・・何か言った?」
「ああ・・ええ。この傷。縫い方が良くないの。残念だけど後に残るかもしれない。」
「・・・別に、構わない。僕の身体だ。」
スカリーはそれを聞くと、妙な顔をしてドゲットの顔を眺め、素早くガーゼで傷口を覆うと立ちあがり部屋を出ていった。
しかしすぐに水差しとコップを手に戻ると、既にTシャツを着込み、疲れ果て眠ろうとしているドゲットに声をかけた。
「エージェント・ドゲット?まだ眠らないで。薬を飲んで頂戴。さ、少し身体を起こせるかしら?」
のろのろと身体を起こすドゲットに、水と数種類の薬を手渡しスカリーは飲む様に促した。ドゲットは薬の多さにたじろ
ぐと、上目にスカリーを見て聞いた。
「・・これ、全部?」
「そうよ。全部飲むの。」
決然としたスカリーの言葉にドゲットはため息をつくと薬を口に含んだ。不服そうなドゲットの態度に容赦のないスカリ
ーの言葉が飛ぶ。
「熱が40度も出るまでこじらせるからいけないのよ。大体どうしてそんなになるまで無理をしたの?すぐに仕事を休む
べきだわ。」
やっとの事で薬を飲み下したドゲットは空になったコップをスカリーに返しながらぶつぶつ言った。
「ああ、それは。報告書を仕上げなきゃならなかったし、カーシュとのミーティングもあったから・・・」
「そんなのは私に任せれば良かったのよ。」
するとドゲットはベッドに身体を沈ませながら半分眠った声で呟いた。
「・・・報告書は・・ともかく、君がカーシュの所に行ったら・・・喧嘩になる・・・・多分・・」
それを聞いたスカリーが呆れ顔でドゲットの顔を眺めれば、既に寝息を立てている。スカリーはそっと毛布を引き上げ
ドゲットの身体を覆うと、ベッドサイドのスタンドを灯し、部屋全体を照らす照明を消した。スカリーは暫くベッドサイドに
立ち、感慨深げにドゲットの寝顔を見詰めていた。スタンドの柔らかな灯りが、ドゲットの苦しげな顔を陰影濃く照ら
し、起きている時は厳しく冷たい印象のある彼の顔を、その無防備な様子のせいか、実際の年齢よりずっと若く見せ
ている。やがてスカリーは、ドゲットの脱いだ衣服を集め両手に抱えると、足音を忍ばせ階下へと下りた。
 スカリーがする事に一段落終え、居間のソファに身体を休めた時は、既に深夜を回ろうとしていた。それまで彼女は
結構忙しかった。まずドゲットのスーツをハンガーにつるし、コートは玄関脇のコート掛けへ。血の滲んだYシャツとア
ンダーシャツは、洗面所のシンクで水洗いしシンクの下にあった漂白剤につけた。次に洗面器に水を張り、キッチンの
冷凍庫から取り出した氷を入れると、2階に上がった。そして寝室のサイドテーブルに洗面器を置いて、清潔なタオル
を探しに洗面所へと赴いた。洗面所のキャビネット。シンク下。シンク上の棚。何処にもタオルは無い。寝室へと戻り
クローゼットを開けて見るが、ドゲットの着替えのスーツやシャツ、ネクタイが整然と並んでいるだけである。何処にあ
るのかしら。スカリーは腕ぐみをすると廊下に出た。すると2階の廊下の反対側の突き当たりにドアの取っ手が見え
た。もしかしたら納戸?あそこにあるのかも。スカリーは他人の家を勝手にあちこち覗き見ている様で、些か疚しさを
感じながらも、タオルを探す為、そう言い聞かせてドアの取っ手に手をかけた。右へまわしドアを押す。次に左右にま
わして押してみるがびくともしない。鍵が掛かっているのだ。 
 何か違和感を感じながらも、スカリーは思い直し寝室へと戻った。ポケットから自分のハンカチを取り出すと氷水に
ひたし、長方形に形を整えるとドゲットの額に乗せる。毛布から投げ出された腕で脈を測り、測り終えるとそうっと毛布
の中に戻した。僅かにドゲットがうめいて身じろぎしたが、そのまま目覚める気配はない。スカリーは躊躇いがちに手
を伸ばすと、手の甲でドゲットの頬を優しくなでた。相変わらず熱が下がっている気配はない。薬がきくまでもう少し時
間がかかりそうだ。突然スカリーは自分がこの接触を、医者としてしているばかりでは無い事に気がつき、愕然とし
た。これは一体どういう事なのだろう。自分の心にうろたえ、スカリーは素早く立ちあがると、何かに追われる様に部
屋を出た。
 階下に下りたスカリーは、今ドゲットに触れていた手をもう一方の手で抱え、俯いたまま居間のソファまで来ると深
深と腰を下ろした。そのまま目を閉じ、今自分が何をしたのか、心の奥を探ろうとする。あれはいかにも熱を測ろうとし
た接触の仕方では無かった。まるで・・・。まるで・・・何を馬鹿な。何を考えているの?ダナ。そうよ、もし有りうるのだ
としたら、それは自分がドゲットをモルダーの代用品にしようとしていた。そうとしか考えられない。彼女にはモルダー
失踪以来の悪夢があった。捉えられ拷問され助けを求めているモルダー。悪夢は彼女を苦しめた。夢の中でスカリー
は全身でモルダーを求めていた。モルダーを救い世話をし、傷ついた心と身体を癒したかった。だが目覚めるとモル
ダーは何処にもいない。
「モルダー・・。」
スカリーは両手で顔を覆うとソファの肘掛に身体を預けた。モルダーにしてあげたい事を、手近なところで間に合わせ
様としたんだわ。そう考えるととても誉められた行為ではないが、些か気持ちが落ち着いた。誉められた行為ではな
いが、幸いな事にドゲットは眠っていた。スカリーはため息をつくと同時に自分がとても疲れていることに気づいた。無
理も無いわ。妊婦にしては動き過ぎだもの。浮腫んだ足をさすり、ちょっとだけと言い聞かせ、パンプスを脱いだ足をソ
ファに投げ出す。開放感に身体をリラックスさせ目を閉じた。
 不意に先ほどのドゲットの頬の感覚が手に蘇り、思わず触れていた手の甲をまじまじと見詰め直した。代用品。し
かし、その感触は素晴らしかった。熱で火照り僅かに汗で湿ったドゲットの頬は、見た目よりソフトで滑らかで、対照
的に顎から首にかけての線はくっきりと固く男性的だった。スカリーは片手を抱いたままうっとりと目を閉じると、自分
がそうした人との接触を、どれだけ恋しがっていたかを思い知らされた。そう、私はあの時ずっとあの頬に触れていた
かった。暖かい体温を身体に感じていたかった。睡魔がスカリーを支配するのに時間は掛からなかった。   

 自転車が走って行く音がする。新聞を配っているのね。身体を丸めながらスカリーは、もぞもぞと毛布を顎まで引き
寄せた。が、引き寄せた毛布が何時もの感触でない事に気づき、思わずがばっと飛び起き明るくなった部屋を見渡し
た。見なれない部屋。毛布だと思っていたのは複雑なパターンの美しいキルト。状況を把握するまでスカリーは呆と 
 座っていた。                                                            
 やがて夕べの事を思い出し、何時眠ってしまったのだろうと訝った。時計をみれば6時になろうとしている。そう言え
ばドゲットの容態はどうなっただろうかと、些か慌てて部屋に赴けば相変わらずぐっすりと眠っている。体温計をそっと
脇の下に挟み、ハンカチを絞り直し額にのせる。顔を覗きこめば、夕べよりはいくらか顔色が良い様に見えた。しかし
心なしか頬がこけ、髭の伸び始めたドゲットの顔は疲労に打ちのめされているようだ。疲れた顔をしている。
 体温計の電子音にはっとしてスカリーは、慌ててドゲットの脇から体温計をとると体温を確認した。39度。下がった
と言って良いのかしらね、これは。とにかく薬を飲ませなくては、とスカリーは夕べのうちに用意した水差しからコップ
に水を入れると、薬の数を確認してドゲットの肩を優しく揺すった。
「エージェント・ドゲット?エージェント・ドゲット?起きて。薬を飲んで頂戴。」
中々目を覚まそうとしないドゲットも、スカリーがしつこく揺さぶるので、朦朧としながら手を出すと、半分目を閉じたま
ま薬を飲み、又毛布に潜り込んでしまった。起きた時にこの事は多分覚えていないでしょうね。とスカリーは部屋を出
ながら思った。階段を下りながら、ドゲットの容態が悪化していなかった事にいくばくかの安心感を覚え、スカリーは
我知らず微笑んだ。
 とりあえず今は安静に寝かせておくぐらいしか自分のする事は無い。そう判断するといくらか気持ちに余裕が出た
のか、スカリーはこの時初めてドゲットの家の中を見渡した。そう言えば、この家はどういう家なのだろう。とても独身
男性が一人で住む家には思えなかった。瀟洒な一軒家。手入れされた前庭。こざっぱりした内装。大きすぎる食器
棚に最低限の食器。階段下には自転車。仕事机にはPCや書類、郵便物。家や家具等と中身がアンバランスだ。だ
がそこに彼以外の人間が住む形跡は見当たらない。彼以外の写真、生活用品、違う宛名の郵便物。何も無い。やは
り本当に一人で住んでいるのだわ。何気なく書類を揃えれば事件関係のリポートばかりだ。仕事中毒ね。
 書類と郵便物を揃え、奥の居間へ目を向けると、先ほど自分が包まっていたキルトが、しわくちゃになってソファに
ひっかっかている。これが唯一、ドゲット以外の人間の存在を感じさせる物だった。キルトを手に取り、ブルーを基調と
したパターンの美しさに改めて驚嘆し、丹念な縫い目に指を走らせながら、丁寧に広げるとソファに懸けた。スカイブ
ルー。彼の瞳の色だわ。確かに彼は素晴らしい眼をしている。誰でも一目で引きつけられるような澄んだブルー。誰
かは判らないが、きっとこのキルトは彼の瞳を愛する人が縫ったのだろう。母親?恋人?あるいは妻。
 ふっとそんな事を考え何気なく視線を移せば、壁を覆い尽くす本棚に眼を奪われた。曇り一つ無いガラス戸の前に
立ち背表紙を読む。ドゲットの蔵書は多岐にわたっていた。小説、ノンフィクション、犯罪心理学、etc,etc・・。スカリー
は正直驚いていた。ドゲットがこれほどの読書家であるとは予想していなかった。が、それはスカリーの勝手な思い
込みであったと知らされ、何故そうなったかを考えた。答えは簡単だった。スカリーは会ったその日にドゲットの経歴を
調べていた。元海兵隊。元刑事。海兵隊に刑事。どちらもよく知っている種類の人間達。押しなべて彼らは本など読
まない。一番身近な例を言えば彼女の亡くなった父や現役海軍の兄がそうだ。又、スカリーが知っている刑事や捜
査員の中で、一番の読書家はモルダーだったが、彼は言わば異端児だったし、本の好みも偏っていた。従ってドゲッ
トの経歴から、この本棚の状態を予測するのは不可能だった。
 しかし思い起こしてみれば、捜査にあたるドゲットからはそんな経歴は窺えなかった。状況を冷静に分析し、例え捜
査に行き詰まっても、声を荒げたり、暴走したりしない。それこそモルダーよりも生粋のFBI捜査官らしかった。それで
も一回だけドゲットの経歴を頷かせる行動を、彼女は目の当たりにしていた。スカリーは昨日のエレベーター前の出
来事を思い出し自然と微笑んでいた。ドゲットのあんな荒々しい姿は初めてだった。あれは常にもったいぶった態度
で、汚い言葉などけして言わない、捜査員の中のエリートFBI捜査官というよりも、海兵隊員。もしくはNYPD。
 その時本棚の中に飾ってあるドゲットの海兵時代の写真が眼に止まった。仲間と並んで映っているモノクロの写真
の中で、ドゲットは眩しそうに眼を細め笑っていた。やはり彼は海兵隊員だったのだわ。写真をもっとよく見ようと手を
伸ばしかけたスカリーは、はっとして手を止めた。今自分は何をしかけたのだろう。ドゲットの事など、どうでも良いは
ずでは無かったのか。しかし一瞬でもモルダ−の存在を忘れ、違う人間に心を奪われていたのは紛れ様もない事実
だ。感じなくてもよい罪悪感から、スカリーは慌ててそれを打ち消そうとした。プロファイル。そう、仕事柄同僚にもプロ
ファイリングしてただけ。そう納得させ今までドゲットについて感じていた事をすべて心の片隅に追いやると、今日これ
からどうするかという事に気持ちを集中させた。
 今ドゲットは眠っている。しかしこのまま放っておく事は出来そうに無い。まだ熱は下がっていなかったし、何しろこう
なるまで何もしなかった男である。薬を時間通り飲む事も、怪我の手当てもままならないだろう。加えて今日中に熱
が下がったとしても、キッチンと冷蔵庫の中に、栄養をつけられそうな食材など、無いに等しい。
 スカリーはため息をつくと心の中で呟いた。今日いっぱいはしょうがないわね。彼にはギブソン・プレイズの時助けて
もらった借りもあるし、医者が病人を放り出すわけにもいかないわ。心を決めればスカリーの行動は早い。コートを羽
織るとまだ人気の無い屋外にでた。冷えた朝の空気が頭をすっきりさせる。すばやく車に乗り込みスカリーはドゲット
の家を後にした。

 誰かが家の中にいる。誰だろう。自分以外の人間が住んでいるはずの無いこの家で、人の気配がするのは危険極
まりないはずだ。それなのに、何故こうも懐かしい気持ちになるのだろう。軽い足音。昔よく耳にした。あれはいつだっ
たろう。ドゲットは徐々に覚醒する意識の中で、幸せな気分に浸っていた。これは最近みた夢の中で一番良い夢だ
な。心地よいまどろみとは裏腹に、頭が異常に重く体の節々が猛烈に痛む。いいさ、今日は休みだ。このままこの夢
を見ながら眠っていよう。ぎしぎしいう身体の位置を変え、更に深く眠ろうとしたが、階段を登って来る足音が、夢にし
てははっきりしすぎている事に気づき、ようやくこれが夢では無いと悟った。無理やり眼をこじ開け、何とか半身を起
す。すると額の上から湿った布が毛布の上に落ちた。手に取り眺める。薄いピンク色のハンカチ。何がなんだかわか
らず呆然としているところへ、部屋のドアが開きひょっこりスカリーが顔を覗かせた。
「ああ、起きたのね。エージェント・ドゲット」
「エージェント・スカリー。・・・・ここで何を?・・」
この男はこれしか言う事が出来ないのかしら。スカリーは内心そう呟きドゲットに近づくと体温計を渡した。
「測って。夕べの事を覚えていない?」
ドゲットは言われるがままに体温計を脇に挟むと、俯いて考え込んだ。しかしすぐに顔を上げるとブラインドを開けてい
るスカリーに言った。
「確か、熱が出て、駐車場で休んでいた僕を、君が送ってくれたんだ。」
「気を失って倒れていたの。」
すかさずスカリーが訂正すると、ドゲットは気まずそうに頷いた。まずいぞ。なんだか知らないが、又彼女は怒ってい
るようだ。そういえば家に帰ってから怪我の手当てをしてくれた。それに何度か薬を飲ませに来てくれていたような。
もしかしたら夜通し?同僚とは言え、好きでもない男の看病なんて、願い下げだろうな、不機嫌になるのもしょうがな
いか。
「ええっと、エージェント・スカリー。夕べからずっとここに?」
「いいえ、一旦家に帰ったわ。ここには治療に必要な物が無かったから・・」
そう言ってスカリーはちらっとドゲットの顔見てから側に屈むと腕をとり脈を測り始めた。ドゲットが脈をとるスカリーを
眺めれば確かに昨日と違う格好をしている。ざっくりした生成りのセーターにジーンズ。初めて見る普段着のスカリー
に、ドゲットは改めてどれだけスカリーが美しいか認識させられた。薄暗い地下のオフィスではなく、明るい自然光の
中で見るスカリーは、女性らしい柔らかな雰囲気を醸し出している。俯いた睫毛が頬に濃い影を落とし、僅かに開い
た唇からは白い歯が覗いている。ドゲットはスカリーが全く化粧をしていない事に気づいた。
 こんな美人に腕を取られたら意識しないほうが無理だ。しかしすっかり医者モードのスカリーは酷く事務的な様子で
脈をみている。そんなスカリーの様子を見ながらドゲットも自分に言い聞かせていた。よかった、泊まったわけでは無
いんだな。いくらなんでもそこまでするいわれはないはずだ。それにしても何を動揺してるんだ。彼女は医者なんだ
ぞ。出し抜けに体温計の電子音がした。スカリーはドゲットの腕を離すと黙って手を差出した。ドゲットがその手に体
温計を乗せると体温を確認しため息をついた。
「38度5分。あまり下がってないわ。・・・とにかくもう少しこの薬を飲んで様子をみましょう。」
スカリーはそう言ってドゲットに薬と水を渡した。夕べの事を思い出したドゲットはもう全部飲むのかとは聞かず黙って
薬を飲み下した。するとそれまで忘れていた喉の渇きが蘇り、もう一杯と水差しに手を伸ばせば、スカリーは黙ってコ
ップに水を継ぎ足した。暫しドゲットは我を忘れて水を飲んだ。2杯、3杯、4杯目をスカリーが差出したところで、ドゲ
ットはもう充分と首を振った。するとそれまで黙っていたスカリーが言った。
「水分補給をするのは良い事よ。食欲は?何か食べられそう?」
その問いかけにドゲットが顔をしかめて首を横に振った。
「まだ熱が高いから仕方ないわね。じゃ、上を脱いで。」
喉の渇きが納まり身体を再びベッドに沈め様としていたドゲットは、当然のように言うスカリーのその一言で再び身体
を起した。一瞬どう言う意味か分からず固まっていると、スカリーが訝しげに促した。
「傷を消毒するの。さ、早く脱いで頂戴。ついでにそのTシャツも着替えた方がいいわね。」
ところがドゲットは、まごまごしていて一向に言う事を聞かない。どうやら自分の前で衣服を脱ぐことに抵抗があるらし
い。夕べは全然平気だった癖に何を意識してるのかしら。もしかして、私が女だから?冗談じゃないわ。今時そんな
男がいるなんて信じられない。スカリーは憤然とした口調で命令した。
「エージェント・ドゲット。何を緊張してるかは知らないけれど、私は医者です。さ、早く言う通りにして。」
ドゲットはぐっと顎を引き締め、少し斜めにスカリーを見ながら、気まずそうに自分の鼻を摘んでいたが、それを聞くと
ゆっくりした口調でこう言った。
「・・・それが出来ないんだ。エージェント・スカリー。嫌でも緊張してしまうんでね。」
一旦言葉を切ったドゲットをスカリーは怪訝そうに見詰めた。
「特に、そいつを君が持っている時は。」
そしてドゲットはスカリーが持っている、水の入ったコップを指差した。水の入ったコップには二人とも共通の苦い記憶
があった。初対面の時、歓迎と称してドゲットの顔面に水を浴びせたのは、他ならぬスカリー本人だ。間違った行為だ
とは思っていない。が、何も公衆の面前ですべきでは無かったかも。後日スカリーはその時を思い出し少し後悔して
いた。しかし当のドゲットはその直後から、咎めも批難もせず、まるでそんな事実など無かったかのように振舞ってい
た。そしてスカリーもそんなドゲットの様子を良い事に、モルダ−捜索に心を奪われ、自分のしたことを今の今まです
っかり忘れていた。それなのに不意打ちのような今の言葉で、鮮明に記憶が蘇ると、ばつの悪さに我知らず頬に血
が上る。しかしこんなに時間が経ってしまっては今更あやまるなど、いかにも間が抜けている。スカリーは肩をそびや
かすとコップをサイドテーブルに置き、つんとして言った。
「これでいいかしら」
「どうも。エージェント・スカリー。」
礼儀正しく礼を言うと、ドゲットは慎重にTシャツを脱いだ。そして気まずそうにしているスカリーの目を盗み見て、ほん
の一瞬、にやりと笑った。それを見た途端スカリーはかっと頭に血が登った。何てこと。からかったんだわ。しかしそれ
を悟られてはドゲットの思う壺だ。スカリーは平静を装いながら、無言で治療に取り掛かった。怒りに任せてガーゼを
一気に引き剥がせばドゲットは思わず歯を食いしばって息を吸った。いい気味。痛みに顔をしかめるドゲットの顔を見
上げそ知らぬ顔で消毒液を用意する。
 治療に専念し始めればもうすっかりスカリーは医者モードだった。傷口を調べ化膿も感染の兆候も無く、傷口が塞
がりつつあるのを確認すると、消毒液を浸した綿棒で消毒を始める。その時スカリーが話しかけたのは、気まずさを解
消する為と、痛みからドゲットの気をそらす為だった。
「良かったわ。化膿も感染もしていない。でも、本当だったらああいった未知の生物と接触したら、絶対病院で精密検
査を受けなくてはいけないわ。特にあなたは、怪我を負わせられたんだから。」
「・・それは、何故だい?噛まれなくても?」
「勿論。噛まれなくても例えば爪や口から、毒液やある種の粘液を出す生物だっているのよ。そういうものが傷口から
入らないとは、限らないわ。」
「粘液ね。成る程。」
「それにしても、どうして私が病院に行く様に言った時、行かなかったの?」
「・・・、それは、・・・時間が無くて。」
ドゲットの声の調子が少し変わった事に、スカリーは気づいた。しかし何食わぬ顔で治療を続けながら、更に言葉を
続けた。
「そうだったかしら。アイダホでの事後処理は、地元警察に指示だけ与えれば、任せておけたはずよ。」
「・・・そうだったかな。」
「ええ、そうよ。」
ドゲットはスカリーから顔を背けたまま黙っている。何だか様子がおかしい。そこでスカリーは話題を変えた。
「でも、変ね。どうして傷口が開いたのかしら。」
「それは、駐車場で鍵を拾おうとして手を伸ばしたから・・」
「そうなの?でも、今だって服を脱ぐ時、結構腕を伸ばしたりしてるけど、何ともなってないわ。本当に心あたりは無い
の?」
「さあ・・・。特には・・。」
ドゲットは首を傾げ、肩を竦めてスカリーを見た。スカリーはちらりとドゲットの顔を見上げ、そうと言って傷口をガーゼ
で覆い始めた。
「でも、怪我をした時やああいった状況になったら、必ず病院に行かなければいけないわ。もし、それが出来ないとい
うなら、きちんとした理由を今ここで、私に説明して欲しいものだわ。」
ドゲットは黙って眼を逸らしている。スカリーは最後のガーゼを固定すると立ち上がり、両手を腰に当てドゲットを見下
ろした。
「で、何か理由があるの?」
「・・それは、・・その・・」
そう言うとドゲットは気まずそうに口淀み、思いついたようにTシャツを着ようと手を伸ばした。ところがそれをすかさず
スカリーに取り上げられ、どうしたらいいのか途方に暮れた顔で、ドゲットはスカリーを見上げた。この話しはしたくな
いのね。そうはさせるもんですか。スカリーは借りをきっちり返すタイプだ。
「着替えは何処にあるの?」
「え?・・ああ。クローゼットの中にチェストがある。上から2段目。」
話しが変わってホッとしたドゲットに、スカリーは黙って着替えを取ってくると手渡しながら追い討ちをかけた。
「それで、理由は?」
手を伸ばしかけたドゲットは舌打ちして顔をしかめた。くそ、何だってんだ。
「え?何て言ったの?」
「いや、・・その。・・・」
「エージェント・ドゲット。いい加減にして頂戴。私は説明を求めているの。さ、早く話して。」
焦れたスカリーの声はドゲットに恐ろしく響いた。これはスカリーお得意の最後通告だ。うやむやになぞ出来ない。ド
ゲットはあきらめ小さくため息をつくと、降参と両手を上げた。
「OK、言うからシャツを離してくれないかな?」
「え?ああ、ごめんなさい」
スカリーが慌ててシャツを離すと、ドゲットはどうもと言ってからゆっくりとそれを着た。まるで少しでも先送りできる事を
望んでいるかのように。しかし、腕組みをして見下ろすスカリーの視線からは逃れ様も無く、ドゲットは最早観念せざ
るを得なかった。俯いたまま早口に、もごもご言えば、聞き取れなかったスカリーの厳しい声が飛んだ。
「え?何ですって?」
「だから、・・・病院が嫌いなんだ。」
やけくそ気味に言ったドゲットの答えに、スカリーは目を瞬くと聞き返す。
「は?それが理由?」
「そうだ。」
「・・でも、アリゾナでギブソン・プレイズを保護した時や私が入院してる時は来ていたわ。」
「自分の事以外で行くのは平気だ。」
「じゃ、あなたはたったそれだけの事で、私があれほど言ったのに病院に行かなかったの?只、嫌いだって言うそれ
だけで?」
「まあ、そう言う事になるな。」
気恥ずかしさから乱暴な口調で受け答えるドゲットは、この会話がどんなにばかげているかわかっていた。とても40
がらみの男の口から出る言葉ではない。それが証拠にスカリーのあきれ果てた様子を見ろ。畜生。よりにもよってこ
んな風に自分の弱点が彼女にばれるとは。ドゲットは一刻も早くこの会話を終わらせたかった。
「さぁ、もういいだろ?」
そう言って毛布に潜り込もうと、肩越しにスカリーを振りかえったドゲットの口調は、些か懇願めいたものがあった。そ
うして上目にスカリーを見上げ目が合った途端、スカリーがくっと言って口を引き結んだ。毛布に潜り込もうとしていた
ドゲットが、何事かとスカリーの様子を振り仰げば、慌てて目をそらし俯いて片手で口元を隠す。しかし小刻みに揺れ
る肩や緩んだ頬、目じりに寄った皺がすべてを物語っていた。スカリーは笑いを堪えているのだ。
「何だよ。笑ってるのか?ああ、いいさ、好きに笑え。僕に構うな。」
ふてくされ毛布を被って向こうを向いてしまったドゲットに、スカリーは笑いを堪えながら慌てて声をかけた。
「ああ、ごめんなさい。エージェント・ドゲット。違うのよ。その事じゃないの。」
「じゃ、何だ?」
馬鹿にされてると憤然としたドゲットは、飛び起きるとすぐに、あいたたたと胸を押さえた。大丈夫?とスカリーは屈み
こんだが、ドゲットと目が合うとまた吹き出しそうにする。くそ、又だ、ドゲットは舌打ちして不機嫌そうにスカリーを睨ん
だ。
「ごめんなさい。でも、違うのよ。」
「だから、何が?どう違うんだ。」
するとスカリーは必死で笑いを引っ込め、咳払いをすると立ち上がり、いつになく優しくドゲットに話し掛けた。
「そうね、もう少し熱が下がって、食欲が出たら教えてあげようかしら。」
スカリーの柔らかな物言いに些か戸惑い黙り込んだドゲットに、もう休んだほうがいいいわ、とスカリーは言い聞かせ
部屋を出ていった。後に残されたドゲットは、今までの怒りはどこへやら、すっかりスカリーの態度に困惑していた。ど
ういうことだ?あれは?どうやら笑い者にしているのではないらしいが、何が何だかさっぱり分からん。しかし集中し
て考え様にもこの体調では到底無理な話だ。だが、これだけは断言出来た。それは彼女の笑った様子を見るのが酷
く心地良く映ったという事実だった。ドゲットは口元を綻ばせると、毛布に潜り込んで目を閉じた。いいぞ。もうそろそろ
怒りに任せて行動する時期は終わりにしてもいい頃だ。確かに怒りは困難に立ち向かうときの原動力になる。だが、
それを長い事持ち続けるのは良くない事だ。かつての自分がそうだったように・・・。ドゲットはいつしか眠っていた。

 スカリーがドゲットの為に軽い食事を造り終え、一休みしようとコーヒーを入れたのはそれから2時間経っていた。時
計を見ればもうすぐ3時になろうとしている。チキンスープとマッシュポテト。スクランブルエッグにコーンマフィン。マフィ
ンは食べる直前に焼き、リンゴを剥いて添えればほぼ完璧だわ。さっき眠ってる様子を見たら随分汗をかいていたか
ら、多分熱が下がってきてる筈。脱水症状を起こさない様に、水よりスポーツドリンクをあげたほうがいいわね。
 トレーに皿とコップ、フォークとスプーンをセットしながらスカリーは妙な違和感を覚えていた。キッチンの使い勝手は
良好だった。整然と良く手入れされ、鍋や調理器具なども一通り揃っている。家事導線が生かされ、何が何処にある
のか探しまわる事など殆ど無かった。足りないのは材料と食器だけだ。食器。自分が今出してきた食器とカトラリーを
眺めながらそのセンスの良さと、セットでしか販売していないシリーズなのに、何故すべて一つずつしかないのかを
訝った。
 コーヒーの香がたちこめスカリーは我に返ると、マグカップを探し始めた。マグカップはシンクの上の戸棚にあった
が、一つしかないところを見ると、ドゲット愛用のマグなのだろう。いくらなんでも、それを使うのは気が引けた。そこで
何処かにもう一つ無いものかと、あちこち探しまわれば、シンク下の一番隅、それもボールや鍋の陰に、縁の欠けた
小振りのマグカップを見つけた。埃で薄汚れているが、ひびは入っていない。洗えば充分使えるだろう。
 薄いブルーで色づけされたカップの回りをぐるりと1頭のシロナガスクジラが泳いでいる。洗剤で洗いながらスカリー
は微笑んだ。このカップだけがやけに可愛らしい。ドゲットの味も素っ気もない白いマグカップとは大違いだ。キッチン
テーブルにつきコーヒーを啜りながらマグカップを眺めていると、先ほどの笑いが不意にこみ上げてくる。あの時の笑
いの発端を、スカリーはゆっくり思い出していた。


2

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