【U】

 この町の人間はどうしてドゲットばかりに話そうとするのかしら。アイダホに着いてからの、スカリーの苛々にこの事
実は更に拍車をかけた。たった今も勢ぞろいした警官達は、保安官の遺体を検死しようとしているスカリーの元に、知
らせを聞いて現れたドゲットを、観察医務室から呼び出し、険悪な雰囲気で対峙している。スカリーをのけ者にして、ド
ゲットに何を言うつもりなのだろう。スカリーは遺体を前にして肩を竦めた。そんな事は分かりきっている。私の指示の
せいでこの事態を招いたと言いたいのね。でも直接言う事が出来ないからドゲットに言うつもりなんだわ。でも、どうし
て?私よりドゲットの方がまともそうに見えるとでも言うのかしら。少なくともモルダ−と一緒の時は、絶対に自分はそ
う見られなかった。変人。それはモルダ−を指して言う形容詞でスカリーでは無かったはずだ。それがこの町へ来
て、捜査当初からここに横たわるアボット保安官を筆頭に、全ての人間がまずドゲットと話そうとする。スカリーが着い
て早々、自分の方が先輩であると明かしてからも、その対応に大差は無かった。
 男性優位の扱いは、最近では滅多にお目に掛からない。が、こう言った田舎町では根強く残っている。それにしても
ここまであからさまなのは、さしものスカリーも参っていた。これが気心の知れたモルダ−だったら、得意の論法で彼
らを煙に巻き、ユーモアたっぷりの受け答えで、スカリーの気分を軽くしてくれただろう。
 しかし、ここにいるのは心の通わない仮のパートナーだ。しかもごく最近になって、ドゲットが思っていたより口数の
少ない男である事に、スカリーは気づいていた。と言っても二人の会話が無かったわけではない。捜査についてのド
ゲットは至極雄弁だ。しかし、捜査の所見を述べる以外に、ドゲットが長いセンテンスで話した事など、数えるほどし
かない。そしてアイダホに来てから、始終行動を共にしなければならない状況に陥ると、スカリーは車の中やその他
の場所で、何度も気詰まりな沈黙を経験しなければならなかった。
 モルダ−との捜査は楽しかった。いつも二人は全く反対の立ち位置から、捜査を始めていった。その間意見が食い
違おうと反目し合おうと、モルダ−とのその度ごとのディスカッションは、心沸き立つ昂揚感があった。スカリーの論理
的思考にモルダ−の天才的な閃き、それらをぶつかりあわせ語り合う事で、スカリーの知的好奇心は満たされ、例
え捜査が満足行かない結果に終わっても、捜査中の充足感は素晴らしかった。それがすべてフォックス・モルダ−と
いうキャラクターに負う所が大きかったと、今更ながらに思い知らされた。尽きる事のない好奇心、何でも受け入れよ
うとする子供のような心、広い見識に当意即妙な受け答え。確かに度が外れる事もあり、スカリーの怒りを買うことも
稀にあったが、それもモルダ−の魅力の一部ではあった。この7年間、強烈な個性と豊かな才能の持ち主であるモ
ルダーの前に、全ての人間が色あせて見えていた。
 観察医務室のドアは薄い。外の声など耳を欹てなくとも丸聞こえだった。思ったとおり彼らはスカリーを批難すると
去って行った。強い口調で話していたのは口ひげの保安官補だろう。時々ドゲットの短い返答が聞こえる。一気にま
くし立てる保安官補とは対照的に、ドゲットの低い声は冷静で、諭すような響きがあった。どうやらスカリーを弁護して
いるらしかったが、その落ち着き払った態度が癪に障った。仮にもパートナーが糾弾されてるのよ、少しは怒ってもい
いんじゃないかしら。彼らを見送ったドゲットは、観察医務室に入ってくるとスカリーの顔をさっと見た。
「魔女裁判?」
「話を?」
頷くスカリーを横目にドゲットはシートを取ると、保安官の遺体を覆い始めた。その態度に口にこそ出さないが抗議め
いたものをスカリーは感じた。他の人間の前ではけして見せないくせに、二人だけになると途端に否定的な態度にな
る。確かに足並みの揃わないところを、捜査関係者に見せないのは賢明だった。だからと言って信じていないのに信
じている振りをされたり、自分の考えを曲げて盲従されても不愉快なだけだ。
 手早くシートを被せて行くドゲットの表情は何時に無く固く、案の定方針転換を提案してきた。当然スカリーは認めな
い。もう少しで何かがわかりそうなのだ。犠牲者が一人増えたぐらいで手がかりをみすみす逃す事などスカリーには
考えつかなかった。だが、その後のドゲットの言葉にスカリーは内心はっとした。
「保安官を死なせてしまったんだぞ。」
ドゲットの声には悔恨と深い同情があった。薄暗い照明の中でさえドゲットの表情から、保安官の死に責任と怒りを
感じているのがはっきりと読み取れた。くるりと踵を返しスカリーを見下ろしたドゲットを見て、スカリーはドゲットが元
刑事であった事を思い出した。彼らは言わば何年か前のドゲットなのだ。そこではたと全ての合点がいった。ドゲット
は地元の警察官がFBI捜査官に抱く気持ちを、誰よりもよく分かっていたのだ。
 だからドゲットは、アボット保安官とスカリーが何回か対立した時、頑なに中立の立場を貫き、何故こちらに荷担しな
いの、というスカリーの批難がましい視線にぶつかると、その都度戸惑ったようなあいまいな表情を過らせ視線を逸ら
した。ドゲットは表情の読みにくい男だった。
 だがこの時スカリーを見下ろす氷のようなドゲットの青い眼は、明らかに保安官の死はドゲット自身に責任があると
自分を責めていた。分が悪いと悟ったスカリーは、戦術を変えた。事実を明確に呈示し、それを裏付ける確たる理由
を示せば、ドゲットを動かせるかもしれない。スカリーの示す事実に、厳しく切りこんでくるドゲットと何度か応酬してい
るうちに、二人は思わぬ強力な手がかりになりうる人物にぶつかった。マイロン・ステファニャク。1965年に蝙蝠男を
撃った猟師の弟。警察のファイルには焼死体第1発見者マイロン・ステファニャクの名の横に、住所が記載されてい
た。
 
 それからたっぷり一時間以上、空が白んでくるというのに二人はまだ車の中にいた。家並みが途切れた町外れの
道路沿いに車を止め、スカリーは地図を片手に車を降りた。道路の前後左右を見渡し、何か目印になるものはないか
探したが、どちらを向いても同じような木立が並んでいるだけだった。運転席から降りたドゲットは、ゆったりと車のド
アに凭れ黙ってその様子を見ている。
「迷ったわ。」
「ああ、そのようだ。」
「いい加減な住所なんだわ。」
「無理無いさ。その住所は40年前のものだ。40年経てば町も道路も変る。」
スカリーは険しい顔をしてドゲットを見た。一刻を争うと言うのにドゲットの落ち着き払った態度が勘に触った。
「何が言いたいの?ああ、分かってる。出る時あなたの言った通り地元警察に協力を求めれば良かった。そう言いた
いんでしょう。」
「いや。」
「どうして?彼らはあなたの言う事なら聞くわ。」
「まさか。」
「いいわ。言い争ってる暇は無いのよ。警察に電話して協力を要請して頂戴。」
「いや、止めておく。」
「じゃ、どうするの!?」
嫌が上でも甲高くなるスカリーの声にも動じる様子も無く、ドゲットは車から身体を起こすと歩み寄りスカリーの横に立
ち答えた。
「聞き込みさ。」
最後に民家を見てから1キロは車を走らせている。道路の両脇には鬱葱とした林が広がり、朝靄が濃く立ち込めてい
る。家屋どころか人影さえ無い。
「聞き込みですって?こんな所でどうやって?」
気でも狂ったの?という顔でドゲットを睨みつけると、ドゲットは意味ありげな視線を下に落した。スカリーがその視線
をたどれば、道路脇のぬかるみに、付いたばかりと思われる自転車のタイヤの後がくっきりと残っていた。
「自転車のタイヤの後?」
「ああ」
「まだ、新しいわ。」
「そう。一本きりだ。」
「そうね。でも、これがどうかしたの?別に珍しくもないわ。大方このずっと先にある川に釣りにでも行ったんでしょ。」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
「エージェント・ドゲット。謎かけゲームをしている場合じゃないのよ。要点を言って頂戴。」
焦れたスカリーが声を荒げると、ドゲットはぬかるみに近づきしゃがみこんでタイヤの後を手でなぞりながら言った。
「釣りか。確かにその可能性もある。でも、こんな辺鄙なところで釣りに行くには車を使うのが普通だ。それにこのタイ
ヤは子供用の自転車のタイヤのものだ。それも10歳〜12歳ぐらいの子供が乗るマウンテンバイク。水曜の朝の五
時前に子供は一人で釣りには行かない。ましてやこんな時だ。ちゃんとした理由が無ければ、親が許さないだろう
な。とすると、この子供は何の目的でマウンテンバイクに乗って出かけたか。」
ドゲットは立ちあがると問いかけるようにスカリーの方を見た。スカリーは黙って先を促した。ドゲットの推理にも一理
はある。
「多分、この子は新聞配達なんだろう。この先に家があるんだ。」
するとまるでその言葉を待っていたかのように、前方の朝靄の中からマウンテンバイクを漕ぎながら、男の子が現れ
た。前の籠には新聞の束が遠めにも見て取れる。スカリーがあまりのタイミングの良さに、唖然としてドゲットの顔を
見上げれば、ドゲットは、ほらねと言い、にっこりと笑った。
「おはよう。ちょっと聞いてもいいかな?」
ドゲットが近くまで来た新聞配達の子にそう話しかけると、子供は自転車を止め、胡散臭そうな顔で二人を交互に見
た。そして最終的にドゲットの方を向くと聞いた。
「何?」
「道に迷ってしまったの。」
「ふーん。・・・で?」
聞いているのはスカリーなのに、相変わらず子供はドゲットばかりを見ている。少々カチンときながらそれでも丁寧に
スカリーは尋ねた。
「この住所を知らないかしら?」
スカリーが地図とそこに書きこんだ住所を示したが、子供は知らないと首を振った。それを見たスカリーはドゲットに無
駄よ、と言って車に戻ろうとした。すると今度はドゲットが子供に質問し始めた。
「君、名前は?」
「ケビン。おじさん達、何者?」
「ああ、悪かった。僕はジョン・ドゲット。彼女はダナ・スカリー。FBIなんだ。」
「ふーん。じゃ、あの殺人事件を捜査しに他所から来てる人って、あんた達?」
「そう言う事だ。そうと分かれば話しが早い。僕達の捜査に協力してくれないかな、ケビン。」
「いいけど。」
「さっきの住所だけど、本当に聞き覚えない?新聞配達で回った事とかないかな。」
ケビンはちょっと考えてから首を振った。
「そうか。じゃ、マイロン・ステファニャクっていう人を知らないか?」
「マイロン・・・・何?」
「ステファニャク。マイロン・ステファニャクだ。70近いおじいさんだよ。」
「知らない。そいつが犯人なの?」
「いいや。違うよ。会って話を聞きたいだけだ。」
「・・・ちぇ、つまんないの。」
スカリーにはこの会話がもう無意味な物に思えてきた。こんな子供が何かを知っているわけ無いのだ。スカリーはドゲ
ットの肘をつつくと囁いた。
「もういいわ、エージェント・ドゲット。時間の無駄よ。」
ところがドゲットは、あと一つと人差し指を立て、スカリーに示すとこう聞いた。
「それじゃ、マイロン・ステファニャクを知っていそうな人を知らないかな。」
「それなら、知ってる。」
二人は思わず顔を見合わせた。間髪容れずにドゲットは聞いた。
「誰なんだい?」
「ライサンダーさん。この町に一番古くから居るって父さんが話してたから。」
「そうか。で、何処に住んでいるか知ってる?」
「うん。」
「ここから近いのかい?」
「・・まあね。」
「場所を教えてくれると助かるんだが。」
「いいけど。・・会いに行くの?」
「勿論。」
「止めた方がいいと思うよ。」
ケビンはそういうと顔をしかめた。スカリーとドゲットは顔を見合わせ、理由を問いただした。ケビンはちょっと言い難そ
うにしていたがやがてこう切り出した。
「ライサンダーさんちはさ、僕達の間じゃ”地獄の犬屋敷”って言って有名なんだ。何でかって言うと地獄の番犬が20
頭もいるんだぜ。それも子牛ぐらいある馬鹿でかい奴らが、みんな庭で放し飼いさ。」
「・・・地獄の番犬。そいつは大変だ。」
まじめくさって答えるドゲットの口調に思わずスカリーは彼の顔を見た。それからケビンが、その犬達がどれだけ恐ろ
しい存在であるかを話す間、スカリーはドゲットの顔から眼が離せなかった。ドゲットは腕を組むと真剣な面持ちでケ
ビンを見下ろし、彼の言う事にいちいち頷いている。しかしケビンを見詰める眼には柔らかな光が宿り、何かが溢れて
くるような暖かさに満ちていた。スカリーは初めて見るドゲットの表情に驚いていた。
 捜査中、容疑者や関係者と話す時、ドゲットは大抵同じ表情をしている。僅かに顎を引き、眉間に皺を寄せ何の感
情も読み取れない、何処までも突き抜けた青い眼で、彼らを見る。低くソフトな声音は丁寧だが、言っている内容は厳
しい。普段から表情が読み難いのに、捜査中は更に判り難かった。今まで組んでいたモルダ−が非常に表情豊かな
人間であったが故に、スカリーの眼にドゲットは表情の乏しい、感情の希薄な人間と映っていた。
 ところが今目にしているドゲットはどうであろうか。ケビンのくどくどとした、要点のはっきりしない話にも熱心に耳を
傾け、焦れて話の腰を折ったり、茶化したりしない。ケビンの些か誇張された話に、真剣に相槌を打ち辛抱強く接して
いる。辛抱強く?スカリーは眉を潜め、ドゲットの顔を見た。優しい眼をしてケビンに話し掛ける口調は気安く、口元は
僅かに微笑んでいるように見える。
 その時何気なく顔を上げたドゲットの視線が、スカリーの訝しげな視線とぶつかった。その途端まるで深く澄んだ湖
に、薄氷が張る様にドゲットの眼の色が、すっと変ってゆくのをスカリーは見た。そしてそれと同時にドゲット自身が、
その場から身体ごと退いて行く印象を受けたのだ。予期せずスカリーの胸が微かに痛んだ。だが、ケビンの方を向い
たドゲットの態度は元に戻っている。
「だからさ、例え玄関まで辿り着いても、屋敷の中にはプリンスがいるんだ。」
「プリンス?」
「ライサンダ−さんのお気に入りさ。キングとクイーンの子で、半年前に産まれたんだけど今じゃこいつが一番でっか
い。そいつがライサンダ−さんと一緒に出てくるんだ。おまけにライサンダ−さんっていうのが、凄いじいさんで、父さ
んがいうには、ええっと。いん・・・いん・・いんごーじじい?・・どう言う意味だろ。まあいいや。とにかく話なんか出来な
いくらいのヘンクツじいさんなんだぜ。」
「成る程。でも、行くしかないな。予備知識があれば対処出来る。助かるよ。それじゃあ、その犬屋敷を教えてもらおう
かな。」
するとケビンは、鼻に皺を寄せてちょっと考えると、ドゲットに告げた。
「・・・おじさんも大変なんだね。いいよ。案内してあげる。」
「そりゃ助かるが、仕事はいいのか?」
「少しぐらい平気さ。」
ケビンは肩を竦めると、自転車の方向を今来た道に変えた。ついてきなよ、そう言うと返事も待たずにスタートし、ドゲ
ットとスカリーは慌てて車に乗込みその後を追った。
 ライサンダ−の屋敷はその道を更に1キロほど走らせ、林の切れ目から入る、わかり難い側道を500メートルほど
進んだ突き当たりにあった。林の途切れた場所に、突如現れた白亜の豪邸に二人は呆然とした。腰ぐらいの高さの
生垣のある入り口で、ケビンは自転車を止め二人が来るのを待ち構えていた。車から降りた二人は、ケビンに近寄る
と礼を言って帰そうとした。所がケビンは首を振って帰らない。
「この先に鉄柵の門があるだろ。あれは僕じゃないと開けられないんだ。」
「どうして?」
「ここの配達に回されたら、門の鍵を預かる事になってんのさ。だって見てごらんよ。門から玄関まですっげー遠いだ
ろ。しかも新聞受けは玄関脇だ。新聞は新聞受けに入れる。それは決まりなんだ。だから門に新聞を置いてくるのは
契約違反ってことになって、もし守られなかったら、すぐにライサンダ−さんからボスに電話がかかってきて、配達人
はクビさ。大抵の家は門から玄関まで近いから2、3歩で足りる。でも、ここはそう言うわけにはいかない。鍵を開けて
入らなくちゃ。」
「成る程。」
「だから、そこまでは付き合うよ。でも、鍵を開けたら後は知らないからね。ね、本当に大丈夫なの?、玄関まで行く
前にあいつら絶対出てくるよ。」
ケビンはそう言うと不安げにドゲットの顔を見上げ、釣られてスカリーもドゲットの顔を見た。ドゲットは何を考えている
のか、相変わらず読み難い顔で、まっすぐ屋敷の玄関を見ている。今3人が立つ場所から白い玉砂利を敷き詰めた
道が、門扉まで30メートルほど続く。道の脇はきれいに借りこんだ植木が立ち並び、更にその奥に2メートル程の高
さの、凝った装飾の柵がぐるりと屋敷を取り囲んでいる。中世の槍を並べたような門扉は、威圧するかのように聳え
立っている。門から玄関までは広い芝生が広がり、レンガを敷き詰めた道を20メートル行った所にようやく玄関が見
えた。今犬達の姿は無く、辺りは静まり返っている。しかしそれが却って不気味だった。
「ま、いちかばちかやって見るよ。」
ドゲットがそう言うと、すかさず私も行くわと言うスカリーを、ドゲットは柔らかく制した。
「いや、君には万が一の時すぐに避難出来る様、車のエンジンをかけて待機していてもらいたいんだ。いいかい?」
「わかったわ。でも、危険と判断したらすぐに戻るのよ。」
ドゲットは黙って頷くとケビンの方を向き、首を屋敷に傾け、行こうかと声をかけた。二人が並んで歩き出すのを見な
がら、スカリーは車に戻るとエンジンをかけた。ケビンの言う事を全部鵜のみにしていないが、正直少しホッとしてい
た。大型犬に取り囲まれ吼えたてられるのは、今の自分の身体には良くないだろう。しかしドゲットは大丈夫なのだ
ろうか。スカリーが見守る中、ドゲットとケビンは肩を並べ、他愛の無い話題で盛り上がっていた。ドゲットはケビンの
野球帽をちょっと触ると聞いた。
「ヤンキースファン?」
「うん。ああ、分かってる。変だと思うんでしょ。アイダホなのにヤンキ−スなんて。みんなにもそう言われるんだ。」
「いや、別に。」
「いいよ、気を使わなくても。」
「気なんか使ってないさ。僕もジョージア出身だけどヤンキ−スファンだからな。」
「そうなの!」
「ああ、いいチームだ。今が一番良いんじゃないか、多分今年もワールドシリーズまで勝ち上がるだろうな。」
「そう、思う?やっぱそう思うよね!僕もさ。優勝するかな?」
「うーん。どうかな。ま、今のところ一番の強敵は・・。」
ドゲットは言葉を切り、ケビンを見下ろした。二人はアイコンタクトを取りにやりと笑って声を揃えて言った。
「ダイヤモンドバックス!」
ドゲットが笑いながら拳をケビンの前に差出すと、同じようにケビンも拳を出し数回ドゲットの拳を打った。それからおも
むろに腕組みをすると、真面目くさって呟いた。
「そうなんだよ。今年は調子良いもんね。なにしろダイヤモンドバックスにはあいつがいるからなあ。」
「ランディ・ジョンソン」
「うん。」
「凄いピッチャーだ。」
「だよね。」
二人は立ち止まり、目の前にそびえる門扉を見上げた。
「呼び鈴やインターホンは無いのかい?」
「無いよ。」
「それじゃ、訪ねて来た人はどうするんだ?玄関があんなに遠くちゃ叫んでも聞こえないだろう。」
「訪ねて来て欲しくないんだって。だから犬も放し飼いなのさ。」
「成る程。こりゃ筋金入りだな。」
二人は黙って遥かに遠い玄関を見詰めた。
「じゃ、開けるよ。」
「ああ。」
ケビンはヤンキ−スのロゴ入りトレーナーの襟元から、紐につけた鍵を引っ張り出し、首から外すと、音を立てないよ
うに慎重に鍵を開けた。ドゲットはケビンの両肩に手を置いて、後ろに引き戻すと礼を言って門を開けようとした。する
とスーツの裾を引っ張られ、何事かと思わず振り返れば、ケビンの物問いたげな眼とぶつかった。
「何だい?」
するとケビンは人差し指を曲げて、ドゲットにもっと近寄るように手招きしした。どうやら何か耳打ちしたいらしい。ドゲ
ットが身体を屈めると、ケビンは必死な顔付きで何事かを囁いた。その間ドゲットは口元を僅かに綻ばせ、黙って耳を
傾けていたが、話が終わると身体を起こしケビンに言った。
「努力しよう。」
にやりと笑いドゲットは門を開けた。後ろ手に門を閉め深呼吸をして玄関を見詰める。相変わらず辺りは森閑としてい
る。行くか、そう心の中で呟くと、ドゲットはレンガ道を歩き始めた。
「今何を話していたの?」
何時の間にかケビンの横にスカリーが立っていた。ケビンはさっとスカリーを見上げて又視線をドゲットに戻すとしか
つめらしく答えた。
「男の話さ。」
「あら、そう。」
全くこの町の男共ときたら。スカリーは少々むかっ腹が立ってきていた。大体重要参考人になりうるマイロン・ステファ
ニャクの手がかりは、彼女が見つけたのだ。それなのに、先ほどからすっかりドゲットのペースになりつつある。そこ
に加えてケビンの不遜な態度。ドゲットとは会ったばかりなのに、すっかり打ち解けて話し、何故自分とは話そうとし
ないかしら。私とドゲットの一体何が違うというの?スカリーがその疑問をケビンにぶつけてしまったのは、彼がやは
り子供だという気安さもあったからだろう。
「ねえ、ちょっと教えて欲しいんだけど、どうしてあなたは彼とばかり話すの?」
「そうかな。」
「そうよ。私って話し辛い?」
ケビンは口を尖らせて前を向いていたが、下からちらっとスカリーを見上げ聞いた。
「正直に言っていいの?」
「ええ。」
「怒らない?」
「勿論。怒らないわ。」
スカリーはケビンの顔を覗き込み優しい口調で約束した。ケビンは肩を竦めるとスカリーに向き直り砂利を片足でかき
混ぜながら話した。
「おばさんてさ、美人なんだけど、・・・なんかおっかないんだ。」
「おっかない?」
スカリーは些か面食らって聞き返した。
「そう。なんだか変な事言ったら怒られそうで、ちょっと雰囲気怖いよ。」
「・・・そう。じゃ、彼は怖くないの?」
「おじさん?おじさんはカッコイイよ。すごいクールだし。どんな話でも聞いてくれそうなかんじ。」
スカリーは言葉に詰まった。そこには子供の言う事と聞き流せない真実があった。突然ケビンが門の柵を両手で掴み
緊張した声を出した。
「大変だ。囲まれたぞ。」
二人が見守る中、ドゲットは非常に困難な状態に置かれていた。レンガ道を半分ほど行ったところから、徐々に犬達
が1頭、又1頭と姿を現し始めた。こうして見渡せばケビンの言った事はけして誇張では無かったと思い知らされた。
子牛とは言わないが、実際様々な種類の大型犬ばかりがすでに十数頭、ドゲットを少し遠巻きにして囲んでいる。全
ての犬が一様に低く唸りながら、徐々にその間合いを狭めてきていた。しかし、そんな状況に置かれているというの
に、ドゲットはまるで頓着せず歩を進めている。怯える風でもなく、緊張するわけでもなく、至極自然体なのだ。ケビン
は両手を握ると力をこめスカリーを振り仰いだ。
「いいぞ。その調子。あとちょっとだ。凄いね、全然平気だ。」
「ええ、本当に。」
ところが、玄関まで後数メートルと言うところで2頭の犬が立ちふさがった。それを見たケビンは舌打ちして悔しそうに
言った。
「あ、畜生。あいつらだ。」
「あいつらって?」
「キングとクイーンだよ。ボス犬とその奥さん。キングはハスキー犬とシベリアオオカミのハーフ。クイーンはジャーマン
シェパード。あいつら知らない人間には容赦しないんだ。」
「容赦しないって、噛みつくってこと?」
「違うよ。大した怪我はさせないさ。そんなことしたらライサンダ−さんは飼えなくなっちゃうからね。僕達には唸って威
嚇するぐらいなんだけど、そうじゃない侵入者は群れで囲んで、吼えたて追いまわし服や持ち物をぼろぼろにしちゃう
んだ。そりゃ、酷いんだぜ。だって本当に凄い勢いで追い掛け回されればさ、誰だって殺されるって思うよ。それに絶
対あいつらがそうしないっていう保証は、何処にもないだろ?大丈夫かな。」
「分からないわ。でも、いざとなったら彼も私も銃を持ってるから、それに頼らなければいけなくなるかも。」
「犬を撃つの?」
「危険であれば仕方ないわ。」
「・・ちょっと可哀想だな。」
子供っておかしな生物ね。スカリーはドゲットを心配したり、犬を可哀想と言ったりするケビンを、不思議そうに見下ろ
した。
 一方ドゲットは自分の前に立ちふさがる2頭の犬を見下ろしていた。大きな方が雄でこの犬達のボスなのか。こっち
のジャーマンシェパードがサブ。雌だから夫婦かな。2頭は白い牙を剥き出し身体を低くし唸り声を発している。この2
頭の合図で全ての犬が行動を起こす事は必須だ。最早ドゲットの後ろにいる犬達は彼のすぐ足元にまで達し様とし
ていた。さて、どうするかな。ドゲットはすぐ目の前にある玄関をちらりと眺めてから、おもむろにボス犬の前に進むと、
一層酷く唸り始めたボス犬の鼻先にすっとしゃがみこんだ。予測していない行動にボス犬が飛び退ろうとするのを素
早く首輪を掴み顎を片手で押さえる。身を捩り歯をむき出すボス犬に語りかけるドゲットの声は低くあやすように優し
い。
「よしよし。いい子だ。・・落ち着け。・・・・大丈夫」
首輪についた鑑札から名前を判断したドゲットは、耳や頭を撫ぜながら犬の名前を呼び、徐々に落ち着かせていっ
た。キングと何回か呼ばれた犬は、次第に落ち着きを取り戻し、最初はおずおずとドゲットの匂いを嗅いだ。次にドゲ
ットは首輪から手を離し、両手で犬の身体全体を撫ぜたり、優しく叩いたりしていく。よしよし、いい子だキング、そう
繰り返すうち、ついにキングはドゲットの顔をぺろりと舐め、突然前足を彼の身体にかけると、熱狂的に舐め始めた。
するとそれを見ていた他の犬達が、かわるがわるやってきては、ドゲットの匂いを嗅いだり、手や顔を舐めようとする。
今やドゲットは楽しそうに犬達の群れの中に埋もれていた。
 ケビンは口をポカンと開けて、その様子を呆然として見ていた。やがて眼を数回瞬いたかと思うと、興奮してスカリ
ーを見上げた。
「信じらんない。あれ。あんなの僕、始めて見る。あいつら、まるで、まるで、普通の犬みたいだ!あの人一体どういう
人?凄いよ!」
「ええ、そうね。」
上の空で答えたスカリーも又、別の意味で驚いていた。あっという間に犬を手なずけ、笑いながら犬にじゃれ付かせ
ているドゲットは、最早表情の乏しい人間とは言い難かった。犬が相手とはいえ、こんなに開けっぴろげな邪気の無
い顔をして笑える人だとは、思ってもみなかった。それも誰彼問わず魅了してしまうような、素晴らしい笑顔なのだ。
 唖然としている二人を尻目に、ドゲットはおもむろに立ち上がると、服についた芝や犬の足跡を払った。玄関に歩み
寄るドゲットの後をぞろぞろと犬達が追う。ドゲットが呼び鈴を押して待つ間も、後ろに座りじっとドゲットを見上げてい
る。最早誰の飼い犬か分からない有様だ。すぐにドアが開いたのは様子を何処かで見ていたからだろう。ライサンダ
−は大柄な男だった。年齢は90近いというのに、腰も背も曲がっていない。真っ白な髪は豊かで、もじゃもじゃの眉
の下の眼は、鷹のように鋭い。
「あの人が?」
「そう、ライサンダ−さん。怖そうだろ。」
スカリーとケビンは、聞こえるわけが無いのに声を潜めて囁きあった。ドゲットが用件を言いながら、ちらりとスカリー
の方を指したのは自己紹介したからだろう。ドゲットが聞き込みをしている間、ライサンダーはずっとドゲットを、上から
下までじろじろ眺め、ドゲットの肩越しに犬の様子を見ていた。すると、ドゲットの質問に答えているライサンダ−の足
元から犬が1頭、のっそりと顔を覗かせた。それを見た途端ケビンは飛び上がった。
「げっ。あいつだ。」
「え?」
「あいつだ。プリンスだよ。うわっ、こっちに気が付いた。」
ケビンはくるっと後ろを向くとスカリーを見上げ、切羽詰った声で言った。
「悪いけど僕もう行くよ!おじさんにあの事忘れないでって言っといて!」
「ええ?あの事って?」
「言えばわかるから!ああっ、こっち来たよ!じゃあね!」
そう叫びながら脱兎の如くケビンは走り去り、それと同時にプリンスと呼ばれた大型犬が門に激突してきた。前足を
門にかけ、数回激しくケビンに向って吼える。うわーという声が遠ざかるケビンから上がり、スカリーの見ている間に
自転車に跨ると、あっという間に姿を消した。
 後に残ったスカリーが恐る恐る振りかえれば、相変わらずプリンスはそこにいて後ろ足で立ちあがり、鼻面を柵の
間から出している。スカリーがドゲットの様子を見ようと身体を動かせば、またもや吼える。確かにケビンの言うとおり
プリンスは大きな犬だった。ジャーマンシェパードの顔にハスキーの水色の眼、身体つきはシベリアオオカミ。こんな
犬にいくら柵ごしとはいえ吼えられればいやでも身が竦む。
 ところが頼りのドゲットは、何時の間にかライサンダ−と共に玄関から姿を消している。何処に行ったのかしら。と身
体を移動するとプリンスは歯を剥き出し、柵を乗り越えんがばかりにジャンプする。思わず後退ったスカリーだが、ドゲ
ットを置いて逃げるわけには行かない。大丈夫よ。柵は越えられないわ。そう言い聞かせて、そろそろと一歩前に踏
み出せば、驚いたことにプリンスは吼えもせず、スカリーの様子を窺っている。更にもう一歩踏み出すと、ぱさりと音
がした。何の音かと注意深くプリンスの様子を見れば、尻尾を振っているではないか。ぱさぱさいっているのはその
音だったのだ。
「・・・あら、あなた、もしかしたら。」
スカリーはそう呟きながらもう一歩前進した。今やスカリーの身体はプリンスの鼻先にある。するとプリンスは更に激
しく尻尾を振りながら鼻面を突き出し、ふんふんとスカリーの匂いを嗅いでいる。スカリーが用心深くその鼻先に手を
持ってくると、匂いを嗅ぎながらぺろりとなめ、首を傾げてスカリーの顔を見上げた。そのばつの悪そうな困ったような
表情に、スカリーは何か思い当たる事があった。
「あなた、何処かで・・・。何だったかしら。」
思い出せないわ。スカリーは頭を振った。するとプリンスはワンと吼え、撫でてくれ言うように頭をスカリーの手に押し
付けてくる。スカリーは思わずにっこりすると囁いた。
「よしよし、いい子ね。撫でて欲しいの?いいわよ。」
「気に入られたな。」
ドゲットの声に驚いて顔を上げると、一体何時戻ってきたのだろう。プリンスのすぐ脇に立ち、にやにやしながらスカリ
ーの様子を眺めている。慌てて身体を起こし、犬の唾液でべたべたする手を腿にこすりつけながら、決まり悪さから咎
めるように尋ねた。
「エージェント・ドゲット。姿が見えなかったけれど、何処に行っていたの?」
「ああ、ライサンダ−がちゃんとした地図を見せるって言うんで、屋敷の中に入ってたんだ。」
「で、分かったの?」
「ああ。」
ドゲットは頷くと門を開ける為に、未だ前足をかけているプリンスの頭を撫ぜ、門を開けるから下に降りろ、等と言え
ば、大人しくプリンスは門から離れた。しかしドゲットが門を開け外に出ようとすると、その脇から自分もするりと通り
ぬけ、外に出たドゲットの隣に立ち誇らしげに頭を起こした。ドゲットが険しい顔で何度戻れと言っても、一向に動こう
としない。困った奴だなと呟きながら、ドゲットは歩き始めた。成り行きを黙ってみていたスカリーは、慌てて横に並ぶ
と、囁いた。
「エージェント・ドゲット。ついて来るわ。」
「ああ。」
「どうするの?」
「とりあえず車まで行くさ。」
「エージェント・ドゲット。」
「何か。」
「あなた、何を持ってるの?」
スカリーは屋敷から持って来たのであろう、口の閉じた薄汚れた大きな紙袋を、ドゲットが下げているのを見咎めて聞
いたのだ。ドゲットは黙ってスカリーを見下ろした。
「ああ、ちょっとね。」
「ちょっとって・・。何なの?一体。」
「・・・・ケビンは?」
「プリンス登場と共に消えちゃったわ。ははぁ、それね、ケビンの言っていたあの事って。」
「ケビンは何て?」
「あの事を忘れないでって。それは何なの?」
「何か言った?」
「いいえ、あの事って言えばわかるからって。」
「ふむ。じゃ、そう言う事だ。」
「そういうって・・・。まさかあなたまで、男の話とか言うんじゃないでしょうね。」
「何だ。分かってるじゃないか。」
片方の眉をすっと上げ、スカリーの見下ろしたドゲットは、口の端を歪めてにやりと笑った。スカリーはドゲットを不機
嫌そうに睨みつけると、急に足を速めドゲットを追い越して車に向った。ドゲットも慌てて速度を速めその後を追えば、
プリンスまで嬉しそうに飛び跳ねながらスカリーを追いかける。
「プリンス!!」
後方から犬を呼ぶ声がして振りかえった時、スカリーは車に乗込もうとしていた。見ると門までライサンダ−が来て、
犬を呼び戻そうとしている。ところがプリンスは二人の回りを駆け回っていて、全く帰る素振りを見せない。ライサンダ
−が呼んでいる事など、全く耳に入らない状態だ。困り果ててる老人の様子を見かねてスカリーがドゲットの顔を見
れば、ドゲットは車の荷台に紙袋をしまいながら黙ってスカリーに頷いた。
 すぐに彼は砂利道に戻ると、辺りを走りまわっているプリンスを呼んだ。するとプリンスは嬉しそうに駆け寄り、ドゲッ
トの身体に前足をかけ顔を舐める。大した懐き方だわ。スカリーは半分呆れながらその様子を見ていた。ドゲットは、
よしよしとなだめながら、5メートルほど砂利道をプリンスと共に進み、そこでしゃがみこむとプリンスに何事かを言って
聞かせた。
「もう、充分遊んだろ。さ、家に帰るんだ。」
最後にそうドゲットは強い口調で言うと、すっと立ちあがり後ろも見ずに戻って来た。スカリーが見守る中、プリンスは
暫くドゲットとライサンダ−の方を交互に見ていたが、やがてしおしおと元来た道を戻り始めた。が、それでも数歩歩
いては振りかえり、ドゲットを見る。そのプリンスの表情に、再びスカリーは何か心に引っかかる感じていた。確か何
処かで。何だったかしら。
「どうかした?」
よっぽど妙な顔をしていたのだろう。車に乗込もうとしていたドゲットが聞いた。スカリーは頭を振るとどうせ思い出せ
ないのだからと、なんでもないわと答え車に乗込んだ。ドゲットはスカリーが乗込むと、素晴らしいスピードで車をバッ
クさせ、先ほどの道に戻り、ステファニャクの家に車を走らせた。スカリーは暫く無言で外を眺めていたがやがて不機
嫌そうに呟いた。
「無謀だわ。」
「何か?エージェント・スカリー。」
「無謀だと、言ったの。」
ドゲットは運転しながらちらりとスカリーを見た。
「何が?」
スカリーはやおらに向き直ると語気を強めた。
「ああやって、一人で行く事よ。もし犬達に襲われたらどうするつもりだったの?」
「ああ、それか。君がバックアップしてただろ。」
「いくら私だって20頭もの犬全部をどうにか出来ないわ。」
「でも、襲われなかった。」
「たまたまよ。」
「・・たまたまね。」
含みのあるドゲットの言い方にスカリーは食って掛かった。
「何なの?何が言いたいの?」
ドゲットはしれっとした口調で前方に視線を泳がせたまま答えた。
「自慢じゃないが、僕は生まれてから、只の一度も犬に吼えられた経験が無い。・・・名前のせいかな。」


 スカリーはマグカップを両手で握ったまま、くすくすと笑い始めた。あの時は何を言い出すのかと、呆れてそのまま
無視し、ステファニャクの家まで黙ったままいたが、今思い返してみれば、あれは紛れも無くドゲットが初めてスカリー
に言ったジョークだ。自分のラストネームのスペルにあるDogと、犬のスペルをかけた他愛のないジョークで、今まで
思い出しもしなかったが、先ほどベットの上で肩越しにスカリーを見たドゲットの表情と、プリンスの表情がダブり、つ
いでそのジョークを思い出し、予期せぬ笑いの発作に見舞われたのだった。
 あの時プリンスの水色の眼を見て、何処かで見た事があると思っていたのは、ドゲットがそれと良く似た眼をして、
スカリーを見た事があるからだった。始めはスカリーの病室で、正式にXファイル勤務を任命されたと告げた時。あの
時ドゲットは、言葉を失ったスカリーの視線を受け、困ったような悲しいような戸惑った眼をしてスカリーを見た。彼女
はモルダ−失踪の手がかりを失った悲しみと、まるでモルダ−など亡き者のように、後任者を割り当てられたショック
から、その眼の意味するものを見過ごしてきた。しかし治療薬を投与され、ぼんやりしたスカリーの眼にすら、ドゲット
の眼は知らず知らずのうちに、強く印象づけられていたのだろう。伝達事項を伝え立ちあがったドゲットは、絶句する
スカリーを黙って見詰めていた。その眼が言葉など無くとも、遥かに雄弁に彼の内面を映していた事に、今になってス
カリーは気がついた。アボット保安官とスカリーの間に立って気まずい雰囲気の中、見まわってくると言った時やその
後もごくたまにその表情が浮かぶ事があった。 
 スカリーはこの数ヶ月、ドゲットと行動を共にしながら、殆ど彼について何も注意を向けず、只初対面の印象から、ド
ゲットという人間を判断し、彼を誤解していた事を認めなければならなかった。スカリーはコーヒーを飲み干すと、マグ
カップのクジラの絵を指でなぞりながら、あの日の午後以降の出来事を思い出していた。


 「9時間経つけど、孤独な老人という以外何も。ムダよ。私が早とちりを。」
スカリーがそう言って双眼鏡を下に置いた時、運転席からずっとステファニャクを観察していたドゲットは、顔一杯に微
笑を広がらせて振りかえった。その笑顔に疑問を抱きながらも、スカリーが弱気になった自分の心情を吐露すると、て
っきりそれに賛同するものと思っていたドゲットは、全く逆の反応を示した。モルダ−に近づこうという彼女の心境に理
解を示し、捜査に誤りは無いと的確に指摘し、彼女を勇気付けた。又自分がモルダ−の名を口にし、彼について言及
する事が、スカリーにとって極めてデリケートな問題である事を、ドゲットが正しく認識しているのは、慎重に言葉を選
び、穏やかに話す口調から容易に推し量る事が出来た。
「マイロンは只の孤独な老人ではない。40年間行方不明だった女の遺体を発見。40年以上音信不通の兄がいる。
兄は40年以上前蝙蝠男を撃った。」
「何か秘密が?」
「それを知るために張り込みを。」
スカリーはドゲットが自分自身でさえ気づいていなかった内面を読み、それを見事に言い当てていた事に驚いてい
た。何時彼は自分の心情に注意を払っていたのだろう。そんな素振りは少しも見えなかった。ばつの悪さに双眼鏡を
また持ち上げると、ドゲットは満足そうな顔をして、視線を又ステファニャクの家に戻した。
 スカリーにとって気詰まりな沈黙が続いた。彼女はモルダ−以外の男と、二人きりで狭い車中で何時間も張り込み
をする事に、慣れていなかった。しかも相手はドゲットである。モルダ−としていたような会話や、退屈な張り込みの
気の紛らわせ方をこの男とするのだけは、意地でも避けたかった。彼女はもう誰も自分の内側に立ち入らせたくなか
った。モルダ−以外は、誰も。
 だがそうなると、この沈黙はスカリーにずっしりと重いものとなっていった。ところがそんなスカリーとは対照的に、ド
ゲットは会話が途切れても全く気にする様子がない。上着を脱ぎシャツの袖をを捲り上げ、ゆったりと片肘を窓に掛け
黙って外を見ている。苛々する訳でもなく、退屈する訳でもなく、呆れるほど自然体なのだ。淡々とした表情からは、
何も読み取れない。ついに耐えきれなくなったスカリーは、相変わらずのつっけんどんな口調で話しかけた。
「どうして笑ったの?エージェント・ドゲット。」
「笑った?何時?」
「今よ、私がはやとちりと言った時。確かに笑っていたわ。」
「ああ、それ。」
ドゲットは肩を竦めると、何でも無いと、又外を向いてしまった。スカリーは食い下がった。
「何でも無い様には見えなかったわ。理由が知りたいわね。」
「・・・理由。理由ね。」
ドゲットはため息をつくと、気まずそうに首の後ろをこすり、上目にスカリーを見ながら話した。
「不思議だなと思ったのさ。」
「何が?」
「今まで僕が組んだFBI捜査官は、張り込み時間が9時間を越えると必ずあきらめようとする。」
スカリーがえっと眼を見張ると、ドゲットは決まり悪そうに付け加えた。
「いや、別に統計を取ったわけじゃないから全てのFBI捜査官がそうといってるわけじゃない。只今のところ君を含めて
全員だったから。」
「それは違うわ。私達だって長時間の張り込みをする。」
「ああ、そりゃ勿論そうだろう。否定はしない。」
ドゲットは又黙ってしまった。スカリーは先を促した。
「何が言いたいの?」
「別に。」
スカリーは苛々してきた。話す気の無いこの男から話を引き出すのは尋問よりやっかいだわ。
「言いたい事があるなら構わず言って欲しいわ。変に隠されると不愉快よ。」
「別に大した事じゃないさ。」
「でも、聞きたいわ。」
根負けしたドゲットは、スカリーの方に向き直ると、寛いだ口調で話し始めた。
「僕の前の職業を君は知っているだろう?」
「ええ、NYPD。」
「そう。警察の仕事もFBIの仕事も、その殆どが地味な仕事だと言う点では大差ない。聞きこみ、張り込み。裏付捜
査。ただ違うのは事件の規模と、それに投入される人員と費用、設備の差だ。だからFBIでの長期張り込み中のシフ
ト交換要員は、地元警察の比じゃない。NYPDにいた頃、通常張り込みは何日にも及んだ。運がよけりゃ交換要員が
いた。でも大抵はパートナーと二人でしなけりゃならない。しかも、一人でいくつもの事件を抱え、ダブルシフトで動い
てる時もあった。だからFBIで働く様になり真っ先に気がついたのがそれだったのさ。」
「・・・・つまり?」
「つまり、FBIにおける長時間の張り込みは、僕が思っていた時間とは違う。逆か。僕の思う長時間に、FBI捜査官は
慣れていない。」
「それが、今までの全員?」
「そう、君を含めて5人目だ。」
「・・・9時間。」
「そう。」
ドゲットはスカリーの顔色を窺い見た。その事実に少なからずショックを受けたスカリーだったが、ドゲットの視線に気
が付くと、すぐに言い返した。
「・・・そんな。たまたまよ。」
「たまたまね。」
ドゲットは片方の眉をすっと上げ、スカリーを横目に見ながら、にやりと笑い窓の外に視線を移した。このやりとりは、
さっき車の中でしたのと同じではないか。スカリーはどうしていつも、口数の少ないドゲットのペースになってしまうの
か不思議だった。しかし自分が振った話題を、ドゲットのペースで進められるのは癪に障る。なんとか会話の主導権
を取り戻したかった。
「つまりあなたはこういう地道な捜査活動は、FBIより地元刑事の方が優秀だと、言いたいわけね。」
「そうは言ってない。」
「でも、そう聞こえるわ。」
「要は目的の違いさ。優劣なんて関係ない。」
「目的?言ってる意味が分からないわ。犯罪捜査の最終目的は犯人逮捕でしょう。それはFBIも地元警察も変らない
はずよ。」
ドゲットは少し考えて込んでから、答えた。
「上手く説明出来ないが。例えば珊瑚礁があるとする。ある日そこに珊瑚を食い荒らすオニヒトデが大発生する。オニ
ヒトデは一つ一つ駆除するしか、退治する術がない。それをするのはそこで生活する漁師だ。すると今度は外海から
鮫が侵入して、珊瑚礁を荒らす。鮫は漁場を荒らし、住民の生活を脅かす。しかも鮫は狡猾で素早い。そうなると今
度は専門の退治屋を呼ぶ。どちらも珊瑚礁にとっては害を成すものだ。しかし一つは珊瑚礁を守る為、そこで発生し
たものを駆除し、次の発生を防ぐ様見守って行くのが仕事だ。もう一つは珊瑚礁だけに留まらず、全てに害をもたらす
物を、何処までも追跡して殲滅するのが仕事だ。見守り発生を防ぐ。追跡し撲滅する。つまりはそう言う事だ。」
「面白いたとえ話だわ。要するに役割が違うと言いたいわけね。」
「そんなところだ。」
「だから一つ所に留まってしなければならない、聞き込みや張り込みは地元警察の方が有利だと。」
「まあ、いくらかは。」
「で、それを大切な証拠になる足跡を踏み荒らしてしまう、地元警察にも当て嵌め様と言うの?」
ドゲットは苦笑いをすると肩を竦めた。スカリーは些か皮肉を込めて付け加えた。
「ああ、そうじゃないわね。あなたが優秀だと言いたいんでしょう。」
「僕が?何で僕が?」
「だって今の説で行くとあなたは両方を経験してる。どちらにも有利だわ。」
「だからって僕が優秀だとは限らない。」
「そうかしら。長時間の張り込みも、私のように根を上げない。聞き込みだってたいしたもんだわ。」
「そりゃどうも。」
「子供の扱いも手馴れたものだし。」
するとそれまで砕けた雰囲気でスカリーを見ていたドゲットの表情が一瞬固まった。顔を上げさっとあらぬほうへと視
線を巡らせる。しかし再びスカリーに向き直ったドゲットは、にやりと笑うとおどけた口調でこう言った。
「昔から子供と犬にはもてるんだ。」
それからドゲットはやおら伸びをすると、さあ、今の内に腹ごしらえだ、と身体を後ろに乗り出し、バックシートに置いて
ある紙袋を取った。そしてスカリーから双眼鏡を取り上げ、代わりに紙袋を持たせると、中に入っているサンドウィッチ
を先に食べる様に促し、自分は双眼鏡でステファニャクの家を監視し始めた。スカリーは言われるがままにサンドウィ
ッチに手を伸ばしながら、双眼鏡を覗きこむドゲットの横顔をちらちらと盗み見ていた。
 すぐに隠してしまったけれど、何かがドゲットの癇に障ったのだ。それが何か判らなかったが、唐突に終わったこの
会話を、不快に感じていなかったのは、スカリーだけでは無いはずだった。その証拠にこれほど長くドゲットが話す事
は今までになかったし、スカリーに答える短い返答も、打ち解けた雰囲気を醸し出していた。スカリーはさっきまであ
れほど苦痛だった沈黙が、今はそれほどでも無くなった事に気づいた。何も構える必要など無かった。ドゲットはスカ
リーの気負いや不安など端から承知だったのだ。スカリーは次第にささくれた心が和んでくるのを感じていた。ドゲッ
トに再び声をかけたのは、このまま会話を途切れさせるのが、惜しかったせいかもしれない。
「珊瑚礁?」
ドゲットは双眼鏡を外し怪訝そうに振り返った。スカリーは先を続けた。
「さっきのたとえ話よ。何故珊瑚礁なの?」
「ディスカバリーチャンネル」
「は?何ですって?」
「ケーブルTVでやってたんだ。」
「そんなのを見てたの?」
「結構面白い。」
「私が仕事をしてる最中に?」
「たまたまさ。」
「たまたまね。」
「そう、動物の生態は興味深い。事件の参考にもなる。ただ・・」
「蝙蝠男は出てこない。」
「そう言う事だ。」
ドゲットの後を引きとって言ったスカリーは、サンドウィッチをかじりながら微笑み、ちらりとドゲットを見た。ドゲットはそ
の視線を受け、おやっと言う顔をすると、複雑な面持ちで再び双眼鏡を覗き込んだ。

 鑑札医務室の扉は薄い。外の声など丸聞こえだ。スカリーは医務室の暗いスタンドの下でアーニ−・ステファニャク
を含むこの事件の犠牲者全員の検死報告書に眼を通していると、ドゲットが保安官補に事後処理の仕方を指示して
いるのを聞き、何故ドゲットがここにいるのか訝った。本当なら今ごろドゲットは病院のベッドの上にいるはずではない
のか。
 蝙蝠男と格闘しアーニ−・ステファニャクの家の玄関先で倒れたドゲットは、意識こそ失ってはいなかったが、お世
辞にも軽傷とは言い難かった。首、両肩、両腕に無数の引っかき傷があり、どれも皮膚が深く裂け出血していた。特
に酷いのは右胸の傷で、鉤爪の跡が指の数だけ、深深と皮膚を切り裂いている。他はともかくこの傷は縫わなけれ
ばいけないわ。それと精密検査も。スカリーからの連絡を受けて駈け付けた警察のボートに、ドゲットを乗せながらス
カリーがそう言うと、ドゲットは顔をしかめて異論を唱えた。しかし大丈夫だ大した事はないというドゲットの顔色は青
く、ずぶぬれの身体は冷え切って、毛布をかぶりながらも歯の根が合わない有様だった。岸につくまでの間、数回の
押し問答の末、ようやく隣町の総合病院に行くよう納得させ、スカリーはアーニ−・ステファニャクの遺体と共に警察
の鑑札医務室に、ドゲットは川岸に待機していた救急車で、隣町の病院に向うのを見送っている。そして検死解剖を
終え、事後処理を確認したらドゲットを病院へ迎えに行く手筈になっていた。
 ところがいるはずのないドゲットの声がする。スカリーはそっと立ちあがり医務室の窓から外を盗み見た。ドゲットは
デスクに腰掛け口ひげの保安官補と話していた。スカリーの立つ位置から丁度正面にドゲットはいたので、少し離れ
ていても彼の様子は詳しく見て取れた。相変わらずあまり良い顔色ではなかったが、気分はいくらかましな様だっ
た。ネクタイを外し上着は袖を通さず肩にひっかけ、保安官補の聞く事にアドバイスをしている。はだけたシャツの胸
元から、白いガーゼが見え隠れしているところを見れば、傷口の処置は終わっているのだろう。しかし血が滲み、
所々裂けているシャツをそのまま着ているのは、どうにも解せない。病院では替わりの衣服を用意しているはずだ。
 しかしその謎はすぐに解けた。彼らの会話を聞くうちに状況が見えてきたのだ。要するに救急車に乗り合せた保安
官補の、不慣れなボス代行業務を、ドゲットが見かねたのだ。呆れた事に病院行きを変更し、近くの町医者で治療を
すませると、そのまま保安官補に付き合い、既にもぬけの殻のマイロン・ステファニャクの家を訪ね家の捜索と、アー
ニ−・ステファニャクの家周辺の捜索指示等を、現場で更に警戒していた警官達に済ませて戻って来たのだ。保安官
補は一通り質問し終わると夕べの非礼を言い難そうに詫びた。それに対するドゲットの返答は相変わらず簡潔だっ
た。
「気にするな。気持ちは分かる。」
「助かりました。アボット保安官の葬式もまだなのに。正直あなたがいなけりゃ、何をどうしていいやら・・・」
「誰でも最初はそんなもんだ。」
「あなたの相棒にも謝っておいて下さい。」
「ああ、伝えとくよ。で、エージェント・スカリーは?」
「荷物を取りにモーテルに戻るって伝言を預かってます。」
スカリーがとっくに戻ってきて、保安官補を待つ間、ここで提出する検死報告書を読み返していたのを、たった今帰っ
てきた彼らは知る由も無かった。保安官補はコーヒーを二人分持ってくるとドゲットに手渡した。彼は受け取る際ドゲッ
トが苦痛に顔を歪めるのを認めると、心配そうに尋ねた。
「大丈夫ですか?やっぱりちゃんとした病院へ行った方がいいんじゃないですかね。」
「いや、平気だ。」
「本当ですか?後で大変なことにでもなったら僕の責任ですからね。」
「馬鹿な。君にはなんの責任も無い。僕が自分で決めた事だ。それに、薬も貰ったからな。」
突然ドゲットは話題を変えた。
「ところで君はケビンと言う名の新聞配達の子を知ってるかい?年は12歳ぐらい。髪は黒。茶色の眼。ヤンキ−スフ
ァンでマウンテンバイクに乗ってる。」
「ケビンが何か?」
「知り合い?」
保安官補が不安げな表情で頷くと、ドゲットはああ、違うんだ、と保安官補に言った。
「いや、今朝捜査に協力してもらっただけで、事件に関係は無い。」
「ああ、そうですか。良かった。で、何です?捜査に協力って何をしたんですか?」
「ステファニャクの家を知っているライサンダ−を、教えてもらったんだ。おかげで辿り着けた。その時ライサンダ−の
家から持ってきてもらいたいものがあると、頼まれていたんだ。知り合いなら丁度良かった。直に渡したかったんだ
が、今夜中にはD.Cに戻らなけりゃならない。こいつをケビンに渡してくれないかな。」
ドゲットはそう言うと自分の座っているデスクから、紙袋を自分の側に引き寄せた。持ち上げて手渡そうとしたが、痛
みが酷く出来なかったのだ。
「これは?」
袋に手を伸ばしながら保安官補が聞くと、ドゲットはにやりとして答えた。
「ボールさ。野球の。」
「ああ、そう言えばライサンダ−の家の裏は空き地になっていて、ここらの子供はみんなあそこで野球をするんです
よ。じゃ、これは。」
「そう、ライサンダ−の屋敷に飛び込んだ彼らのボールさ。ざっと50個はあるかな。」
「そんなに。喜びますよ。」
「そうだろうな。」
「こんな事よくあなたに頼めましたね。」
「ああ、初対面の僕に頼むぐらいだ。よほど取り戻したかったんだろう。」
そう言ってからドゲットは眼を伏せふふと笑った。その笑顔を見咎めた保安官補が、自分のデスクに紙袋を運びなが
ら訝しげに聞いた。
「何です?」
「うん、彼の話は面白かった。」
「そうなんですか?」
「ああ、野球の話で息投合してね。・・・あれは良い子だ。ユニークで素直なところが特に。利発だし。・・・ああ、そう
だ。」
ドゲットは肩に引っ掛けた上着のポケットを探ると、中から四角に折りたたんだメモを取り出した。それを保安官補に
差出し付け加えた。
「これをボールと一緒に渡して欲しいんだ。いいかな。」
保安官補は頷いて受け取ると、メモを持ったまま何か言いたそうにもじもじしている。ドゲットは上着に袖を通しながら
その様子を黙って見ていた。彼から口を切るのを待っているのだろう。ドゲットは上着のボタンをかけ終わると、デスク
にゆったりと手をつき、穏やかな表情で保安官補の顔を見詰めた。すると意を決した保安官補の一言に少なからずド
ゲットは動揺する事になった。
「・・・息子なんです。」
「え?」
「ですから、ケビンは私の息子です。」
ドゲットは止めていた息を吐き出すと左手で顔を覆った。上目に保安官補を見て、苦笑いしながら呟くドゲットの耳の
先は心なしか赤い。
「黙ってるなんて、あんたも人が悪いな。」
「すみません。でも、息子をそんな風に言ってもらえると嬉しいもんです。それで、その。このメモ、今ここで読んで
も?」
「ああ、読まれて困る事は書いてない。ましてやあんたは父親だ。断れないさ。どうぞ。」
保安官補はメモを広げじっくりと読んだ。やがて顔一杯に笑みを広がらせるとドゲットに言った。
「これを読んだら息子は喜ぶでしょう。それに、ライサンダ−との件もトライしてみます。」
ドゲットは照れくさそうに頷くと、突然思い出したようにデスクから身体を起こした。
「ライサンダ−で思い出したが、ここで貰った地図はあまり当てにならないな。」
「ええ、みんな土地っ子なんで地図なんて見ないんですよ。」
「だがそれじゃあ、こう言う場合不都合だろう。ライサンダ−の自家製の地図を見せてもらったがかなり違うぞ。」
「自家製の?」
「ああ、覚えているうちに違いを教えておこう。この辺一帯の地図は何処にあるんだ?」
「資料室です。案内します。」
二人は連れ立って部屋を出ていった。スカリーはそれを見送ってから、検死報告書を手に鑑札医務室を出た。保安官
補のデスクに書類を揃え提出すると、駐車場へと向う。駐車場の隅に止めた車に凭れ、ゆっくりと深呼吸をした。夜の
空を振り仰げば、真っ黒な闇が広がっている。彼女は先ほどからふつふつと湧き上がって来る怒りと、必死になって
闘っていた。すると後ろからドゲットの声がした。
「エージェント・スカリー。何時からここに?」
「今よ。車の鍵を頂戴。」
「僕が運転する。」
「あなたは怪我をしてるわ。」
「平気だ。」
そう言ってさっさと車に乗り込みエンジンをかけるドゲットを、忌々しそうに睨みながらスカリーも助手席に座った。ドゲ
ットは車を発進させながら、見送りに出ている保安官補に手を上げ、二人はアイダホ、バーリーを後にした。
 町外れに車が差し掛かった時、唐突にスカリーが言った。
「病院に行かなかったのね。」
「いや、行ったよ。」
スカリーは前を向いたまま低い声で言い足した。
「エージェント・ドゲット。私が言ってるのは隣町の総合病院の事です。行って無いんでしょう。」
「治療は済んでる。」
「治療?治療ですって?どんな治療なのかしら。傷口を縫合して薬を塗るだけ?」
「そうだ。他に何があるんだ?」
「あるわ。精密検査。感染の予防接種。」
「必要無い。」
「何故?」
「大した事ないからさ。」
「大した事ないですって?それは医者が判断する事よ。」
「もう診てもらった。」
「精密検査をしなければ診てもらったとは言えないわ。」
ドゲットはこの会話にうんざりしていた。どうしていつもいつも彼女と話そうとすると、最後には言い争いになってしまう
のか、何故彼女は自分のする事に、いちいちつっかっかって来るのか、その理由を一番的確に理解しているのは、
彼女のまわりでは恐らく自分を置いて他にないだろうと、ドゲットは確信していた。だから彼女の自分対する態度が如
何様でも許容する事が出来た。しかし今夜、精神的にも肉体的にも疲労の極限だったドゲットは、我慢の限界に来て
いた。
「エージェント・スカリー。いい加減にしてくれ。本当に大した事は無い。治療は済んだんだ。もう放っておいてくれない
か。」
その言い方にスカリーは、かっと頭に血が登るのを感じ、そう思った時にはもう遅かった。一気に怒りを吐き出してい
た。
「大した事が無いですって?本当にそう思っているの?相手は5人もの人間を殺しているのよ!傷を見て御覧なさ
い!全て頚動脈を狙ってついたものだわ。少しでもそれたらあなたは6人目の犠牲者になっていたのよ。そうしたら私
は今ごろあなたの検死解剖をしなければならなかったわ。同僚を失うのは・・・」
はっとしてスカリーは口をつぐんだ。一人だけでたくさんよ、その言葉をあやうく飲みこんだスカリーは、悔しそうに唇を
噛んだ。モルダ−とドゲットをいつしか同様に見ていた等と、スカリーは絶対に認めたく無かった。しかし実際には怪
我を負ったドゲットの姿に、胸がつぶれるほど衝撃を受けていた。自分の指示にしたがって病院に行かないドゲット
が、無償に腹立たしかった。だがそれをドゲットにぶつける事は、即ち彼をパートナーとして認めた事に繋がる。スカリ
ーはこれを言うべきではなかったと悔やんだ。しかしもう遅い。後はもう全てに蓋をして押し黙るしか、手は無かった。
するとその様子を気遣わしげに見ていたドゲットが、ぼそりと言った。
「無神経な言い方だった。謝るよ。すまない。」
スカリーは僅かに頷くと窓の外に視線を移した。
 それから二人はD.Cにつくまで、一言も言葉を交わす事無く別れたのだ。翌日からスカリーは自分の中から故意に
ドゲットを締め出そうと努力を重ね、ドゲットはドゲットで仕事に没頭し、お互いろくすっぽ言葉も視線も交わす事無く、
週末まで過ごしていた。


 「エージェント・スカリー。ここで何を?」
はっとして顔を上げれば、キッチンの入り口にドゲットが水差しを持って立っていた。このセリフ。ここ2日の間に何度
聞いたかしら。スカリーは素早く立ちあがると、ドゲットの手から水差しを取り上げた。
「座って。」
「あ、ああ。」
ドゲットは言われるがままにスカリーの座っていた真向かいの席に座ると、コップにスポーツドリンクを注いでいるスカ
リーの様子を、不思議な物を見るように眺めた。
「飲んで。熱は?」
「37度5分。」
「良かった。下がってきたわね。気分は?」
ドゲットはスポーツドリンクを飲み干すと、首の回りを片手で揉み解しながら答えた。
「身体が痛い。」
「あれだけ高熱が出た後ですもの、しょうがないわ。食欲は?」
ドゲットは天井を振り仰いで辺りに漂う匂いを嗅ぎ、スカリーを横目に見ると聞いた。
「いい匂いがする。チキンスープ?」
「そうよ。」
「いいぞ。」
「すぐに食べる?」
ドゲットは首をかしげ少し考えてから、控えめな口調で聞いてきた。
「出来れば先にシャワーを浴びたいんだが・・。」
スカリーは腕組みをするとドゲットの様子を改めて観察した。不精髭が伸び頬のこけたドゲットにいつもの精悍さは無
く、物憂げな仕種が疲労の濃さを窺わせていた。今もスカリーの返事を待つ間、頬杖をつきだるそうに眼を伏せてい
る。確かに熱が引いた後、汗をかいた身体全体はべたべたして不快だ。シャワーを浴びて、頭も身体もすっきりした
いというドゲットの気持ちは、分からないではない。答えたスカリーの口調は医者モードだった。
「いいわ。ただし、絶対に傷口を濡らさない事。長い時間お湯にあたらない。この二つは守って頂戴。」
「OK。ボス。」
スカリーはちょっと睨むと更に続けた。
「食事の前に傷を診るわね。」
ドゲットはえっと言うと顔をしかめた。
「当然よ。傷口が完全に塞がって、抜糸がすむまで毎日消毒しなければいけないわ。それとも病院へ連れて行っても
らいたいの?」
スカリーの最後の言葉にドゲットは震えあがると首を振った。スカリーは満足げに頷いた。
「よろしい。で、食事は何処で取るの?寝室まで運ぶ?」
「まさか。ここで食べるよ。」
「じゃ、シャワーが終わったらここに戻って。処置が済んだら食事出来るようにしておくわ。」
「OK、ボス。」
ドゲットが従順そうに相槌を打つのを見て、スカリーは冷蔵庫の扉を開け林檎を取り出した。林檎を手に振り返ったス
カリーは、すぐに立ちあがってシャワーに行くのだろうと思っていたドゲットがまだ座っているのを認め、何をしているの
だろうと訝った。椅子の背に凭れ斜めに座ったまま、ドゲットはスカリーが使っていたマグカップを、放心したようにじっ
と見詰めていた。それは不思議な眼差しだった。
「コーヒー?」
スカリーは鎌をかけた。ドゲットは、はっとしてスカリーを見ると、一瞬何を聞かれたか判らない様子を見せたが、すぐ
に苦笑いして首を振った。そして視線を再びマグカップに戻すと抑揚のない声で言った。
「縁が欠けてる。」
「ええ。でも使えるわ。」
ドゲットは黙って頷いた。スカリーは更に言葉を続けた。
「コーヒーを飲もうとマグを探したんだけど、あなた以外のはこれしか見つからなくて。いけなかったかしら。」
「いいや。」
伏し目にそう言ったドゲットの浮べた微笑は、スカリーの眼に哀しげに映った。突然すっと立ちあがったドゲットは、シ
ャワー浴びるよ、と言って唐突にキッチンを出ていった。後に残ったスカリーは、不可解なドゲットの行動に戸惑ったも
のの、すぐに思い直して食事の支度に取り掛かった。

 スカリーが食事の支度を終え、2階から薬一式を取って来てテーブルの上に並べていると、後ろから声を掛けられ
た。
「僕としては右側のセットの方が好みだな。」
はっとして振り返ると、何時からそこにいたのだろう。ドゲットがキッチンの入り口に凭れ、腕組みをしてスカリーを見て
いた。スカリーは勘の鋭い方なのに、何時もドゲットの突然の登場に驚かされた。
「あなたの好みは関係無いわ。」
スカリーは手を動かしながらドゲットの様子をさっと見た。ドゲットはスカリーの言いつけ通り、スウェットの下を履いた
だけで、上半身は裸だった。まだ湿っている首に白いタオルを巻き、髪から垂れる水滴を拭いている。そのまま歩み
寄ったドゲットは、手に持ったTシャツを椅子の背にかけると、右側のトレイの上に乗っているコップを取り上げた。冷
蔵庫の扉をあけスポーツドリンクを出しコップに注ぎ、シンクに凭れ喉をならして飲み干す。
 その様子を黙って見ていたスカリーは、何故ドゲットの気配を読み取れないか合点がいった。立ち居振舞いが優雅
で動作に無駄が無い。贅肉の全く無い上半身は、ドゲットの動きにつれ漣の様に筋肉が動く。それはしなやかで敏
捷な猫科の捕食動物を連想させた。さしずめワイルドキャットかクーガだわ。そう、少なくとも飼い猫ではない。何故な
ら・・。
「何か?エージェント・スカリー。」
スカリーの視線に気づいたドゲットが聞いた。慌ててスカリーは視線を逸らすとドゲットに座るよう促した。いくらか湿っ
たガーゼを取り外しながらちらりとドゲットを見上げ先ほどの続きを心の中で呟いた。何故なら、近寄れば逃げようとす
る野生の猫。
 今回も処置する間ドゲットは酷く緊張している。スカリーの手が肌に触れるたび僅かにたじろぐ。決してスカリーの顔
をまともに見ようとしないし、とにかく一刻も早く終わって欲しいという風情なのだ。処置が終わると、拷問から開放さ
れたといった顔付きで、Tシャツを着る。スカリーは薬やガーゼを片付けながら、明日から毎日病院へ行き消毒する様
に命令するが、返事をしないドゲットにスカリーは駄目押しをした。
「それが出来ないというなら、私が毎日する事になるわね。どちらがいいのかしら。」
「・・・・病院に行くよ。」
そう言って深深とため息をつき恨めしそうな眼をしてスカリーを見上げた。スカリーは頷くと慌ててドゲットに背を向け、
いそいそと給仕にかかった。危なかったわ。どうしてもあの眼を見ると、プリンスを思い出してしまう。スカリーは緩ん
だ頬を見られないよう顎を引き締めると真面目な表情を作った。
 ドゲットは病上がりとは思えない食欲で、あっという間に皿の上に乗っている料理を平らげてゆく。スカリーはその様
子を向い側に座りコーヒーを飲みながら黙って観察していた。満足げな様子で美味しそうに食事をとる男の様子は女
にとって好ましく映る事は必須だ。スカリーとて例外ではない。そして不思議な事にアイダホから帰って以来、締め出
そう無視し様としていたドゲットの存在が、今は少しも煩わしいものでは無くなっていた。あれほど気詰まりだった沈
黙さえ、今は寛いだ雰囲気に身を置くことが出来た。
 従って食事が一段落したドゲットとの会話も、お互い何の違和感ないまま、自然な調子で始まった。
「あの時、川で何があったの?」
「報告書に書いたとおりさ。」
ドゲットは林檎をかじると肩を竦めた。スカリーは味も素っ気も無いドゲットの報告書を思い浮べ、小さくため息をつい
た。
『川で1度目の攻撃を受ける。応戦するが逃走。直後ステファニャクのキャビンで二度目の攻撃。10発発砲するも被
弾は確認出来ず。』
「報告書ね。出来ればもう少し詳しく知りたいわ。」
ドゲットは林檎を飲みこむと、椅子の背にゆったりと凭れ、頭の後ろで手を組み合わせ宙を見詰めると、状況を説明し
始めた。
 急いで川まで行くと、ボートが岸から離れオールが流されていた事。直後に攻撃され、川の中でオール一本で応戦
しなければならなかった事。銃を抜こうにも、予想以上に敵が俊敏で力が強く、攻撃が熾烈でその暇が無かった事。
まるで人事の様にドゲットは淡々と話す。しかし彼女も直に攻撃された事があったので、その様子を容易に想像出来
たし、又直後に見たドゲットの傷の深さから、どれだけの危険に彼がさらされたかと思うと、ぞっとして眉を潜めた。
「何故急に攻撃を中断したのかしら。」
「さあ、分からん。ただ考えられるのは、僕は奴に押さえつけられ身体ごと水に漬かって防戦してたが、奴は決して水
中には入ろうとはしなかった。僕は海兵隊にいたから水の中でもかなり長く息が続く。しかし奴は違ったんだろう。そ
れに奴の攻撃は上から襲うのがパターンだ。だが僕の場合、奴にとっては攻撃するには足場が悪すぎた。気を失い
かけて、溺れる寸前の僕の止めを刺すのは容易かったはず・・」
「ちょっと待って?今何て言ったの?」
語気を鋭くして聞き返すスカリーに、ドゲットはしまったと言う顔をして眼を逸らすと、いやなんでも無い、などと言葉を
濁した。しかしこういう時のスカリーはしつこい。
「いいえ、確か今あなたは、気を失い溺れる寸前で、止めをさされて当然だったって言ったわ。違う?」
「・・・まあ、おおよそは。」
「信じられない。それでよくあの時私に大丈夫だ、たいしたこと無いなんて言えたわね。」
「そうだったかな。」
「ええ、同じ事を昨日も私に言ったのを、覚えてないとは言わせないわ。」
ドゲットは顎を引くと気まずそうに額を擦り、視線をあらぬほうへ泳がせると黙ってしまった。スカリーはその様子を見
ながら、こうして尋ねなければ、この事実は決して彼自身の口から出る事は無かっただろうと確信していた。そして又
昨日何故傷口が開いてしまったかも、決して彼女に言う気は無いのだ。その行為がドゲットの何処から来るのか、ス
カリーにはなんとなく分かり始めていた。
 スカリーは病上がりで、憔悴したドゲットが、返答に詰り居心地悪そうにしている様を見て、今日はこのくらいにして
おいてあげようと話しの矛先を変えた。
「エージェント・ドゲット。あなたは少し危険を顧みないで行動に移す傾向があるようね。」
「危険を顧みない?僕が?何時?」
「単独でボートに戻った時と、ライサンダ−の聞き込みの時よ。」
「ああ、それか。でもそれは君の思い過ごしだ。」
「そうかしら。あの時私も一緒にボートまで行っていれば、少なくともこんな怪我を負わせられる事はなかったはずだ
わ。犠牲者の酷い有様を見れば、こうなる事は充分予測がついたのに、止めたのはあなたよ。エージェント・ドゲッ
ト。」
「・・・・だから、僕が危険を顧みないとでも。」
「そうよ。」
「それは、少し違う。」
スカリーが眉を潜め咎めるような目つきで睨むと、ドゲットは両肘をテーブルにつき身体を乗り出した。
「それについては説明させてくれないか。あの時君の言うように二人で行く手もあった。しかし、僕は島についた時か
らずっと、奴の気配を感じていた。気のせいとかじゃなく、ずっと何かの視線を首筋に感じてたんだ。」
「何故、言わなかったの?」
「勘だからさ。説明できない。とにかく奴は絶対あの近くにいると、僕は確信していた。だからあの時僕ら二人が一緒
に動く事は、あまり得策とは思えなかった。」
「何故?」
「うん。一つは君が言っていたように、蝙蝠男は焼死体に付いたアーニ−の臭いを追っていた。となると、焼死体の検
死解剖をした君にもアーニーの臭いが移っていたはずだ。そんな君がのこのこ出ていってみろ。マイロンを助けるどこ
ろか、格好の標的になる。その点僕は焼死体に触っていなかった。あの場合君と一緒じゃない方が、僕の身がいくら
か安全だった。加えて、マイロンのところに行くにしても、僕のほうが君よりボートの扱いは遥かに上手い。マイロンの
安全を確認するには一番の早道だろう。それに君をアーニーのキャビンへ残していった方が、アーニ−にとっても君に
とっても、安全を確保するには最善の方法だと思ったからさ。」
「つまり、二人で行くより一人で行ったほうが、リスクが少ないと判断した。」
「そうだ。」
「蝙蝠男が近くにいると確信していて?」
ドゲットは黙って肩を竦めた。言われてみれば確かにドゲットの言う通りのように思える。スカリーはコーヒーを入れに
立ちあがると、ドゲットに背を向けコーヒーをマグに注ぎながら思った。でもそれは囮というのよ。彼女は覚えていた。
自分はアーニ−の臭いが移っていないというドゲットが、アーニ−の顔を覆ったバンダナを剥ぎ取ったのを。それで彼
には蝙蝠男にとって充分なほど臭いが移ったはずだ。勿論、ドゲットはそんなことは承知だったのだろう。しかしアー
ニ−のキャビンで、彼の悲しい半生の告白を殆ど押し黙って聞いていたドゲットの様子から、彼がアーニ−に深く同情
していた事は、その表情から読み取る事が出来た。スカリーに、君はここにいろ、と言った時のドゲットの低い声から
は、静かな怒りと決意が感じられていた。その声の厳しさに、スカリーは反論できず押されたのだ。
 スカリーがマグを手に振り返ると、ドゲットはフォークを玩びながら何かを考え込んでいる。スカリーは話題を変えるこ
とにした。
「じゃあ、ライサンダ−の件はどう説明してくれるの?」
「え?」
ドゲットは我に返ると、目を瞬き聞き返した。
「聞き込みの時。犬があなたを襲わないという確証は無かったわ。」
「そうかな。」
「違うというの?自分が一度も吼えられた事がないから、とか言わないで欲しいわね。」
「ああ。・・・なんだ覚えていたのか。」
ドゲットは意外そうにスカリーの顔を眺めた。スカリーが平然と見返すとすぐに、まあいい、と首を振り理由を説明し始
めた。
「ライサンダ−の屋敷を見てどう思った?エージェント・スカリー」
「そうね。素晴らしい豪邸だわ。」
「そう。ケビンの言うところの”地獄の犬屋敷”からは程遠い。僕はNYPDにいたころ、捜査中危険な飼い方で犬達を
飼っている人間の住居をいくつも見て来た。そのどれにもライサンダ−の屋敷は当て嵌まらない。君も見たろう。門か
ら続く芝生がきれいだったのを。とても20頭もの犬が放し飼いになっている芝の状態じゃない。しかもそれだけの数
の犬がいるというのに、僕が門からはいるまで、犬の吼え声は皆無だった。庭が荒れていない。無駄吠えをする犬が
いない。これはつまり、犬がよく訓練され、ストレスが無いと言う事だ。そういう犬の扱いなら、なんとかなると踏んだ
んだ。」
そこで言葉を切ったドゲットは、にやりとして付け加えた。
「ま、尤も犬に吼えられた事が無いっていうのも、理由の一つである事は確かだけれど。」
その時、ドゲットはスカリーが僅かに俯き、口元を引き結ぶのを認め、探る様に彼女を見た。スカリーは慌ててマグカ
ップを覗き込み、こみ上げてくる笑いを押さえ様とした。その様子を不思議そうに見ていたドゲットの頭に閃くものがあ
った。
「もしかしたら、君がさっき寝室で笑っていたのは、あの、えー、あの時、僕が車の中で言った事に関係してるの
か?」
スカリーはマグから視線を上げてドゲットをちらりと見ると、顔一杯に微笑を広がらせ黙って頷いた。ドゲットが更に聞
いた。
「でも、何で又そんな事を今ごろ?」
まさかドゲットに、犬の顔をダブらせていたから、とは言えない。スカリーはさあ、と言葉を濁らせると肩を竦めた。ドゲ
ットは、まいったなと呟き、照れくさそうに指を髪に走らせた。身の置き所が無いくらい照れてしまっているドゲットは耳
の先が真っ赤だ。何時もはあまりそういった感情を現さないドゲットの様子は好感が持てた。スカリーは些か気の毒
になり、この辺でもう開放することにした。シンクにマグを置きテーブルに近寄るとトレイに手をかけて聞いた。
「おかわりは?」
「え?ああ、いや、もう充分。美味かったよ。」
「ただのチキンスープよ。まだ残っているから、よければ又明日暖め直してどうぞ。」
「うん。そうするよ。ありがとう。エージェント・スカリー。」
「当り前の事をしただけよ。礼には及ばないわ。それより、もう薬を飲んで休む時間よ。」
スカリーは急に改まって真顔で礼など言われ、今度は彼女が照れる番だった。それを悟られないようにスカリーは、
わざと事務的な声で言ったのだ。ドゲットは頷くとスカリーが差出した薬を黙って飲み下した。その間スカリーはトレイ
をシンクに運び食器を洗い始めた。
「手伝おう。」
又だわ。又ドゲットの動く気配を感じなかった。スカリーは隣に立ちスカリーを見下ろすドゲットを振り仰ぐと厳しい声で
命令した。
「馬鹿な事を言ってないで、寝室に行って頂戴。」
「しかし、そこまで君にやらせちゃ悪い。」
「こんなこと別になんでもないわ。それより又熱が上がって仕事を休まれる方が迷惑だわ。」
「・・それはそうだが。」
「わかったら、さっさと行って。私の事は気にしなくていいわ。これが終わったら勝手に帰ります。戸締りは・・・」
「玄関マットの下に合鍵がある。それを使ってくれ。鍵は明日返してくれればいい。」
「そうさせてもらうわ。」
ドゲットは頷くとシンクに背を向けた。すぐに寝室に向うかに見えたドゲットだったが、暫し躊躇すると腕組みをして再
びシンクに凭れてしまった。スカリーは食器を洗う手を止めると咎めるようにドゲットを見上げた。だが俯いたドゲットの
瞳が深く沈んだ色をしているのを認め、黙って作業を再開した。食器を全部洗い終えフキンを取るとその間ずっと押し
黙っていたドゲットの前に立った。
「何?」
「うん。」
ドゲットは又黙ってしまった。スカリーはその様子を横目に見ながら、食器を拭き始めた。ドゲットのこの沈黙は今まで
のとは違い、何かを言いあぐねている様に思われたからだ。待っていれば話すだろう。暫くドゲットは思いつめた表情
で考え込んでいたが、やがて意を決した様に、短いため息をつくとスカリーの方に向き直った。
「エージェント・スカリー。僕は結局アーニ−・ステファニャクを助けられなかった。」
スカリーは手を止めドゲットを見上げた。
「あなたは怪我をしていた。あの状況では無理よ。」
「しかし、僕は君らに命を助けられたようなものなのに、彼を死なせてしまった。」
「私達があなたの命を?どういう事?」
ドゲットは眉間に皺を寄せ眼を伏せると、辛そうな口調で言った。
「僕はあの時川で溺れ、あのまま意識を失っていたら、溺死していただろう。だがほんの一瞬、君とアーニ−の姿が
頭を過った。奴が今僕の止めを刺さないという事は、どういう事か。その途端まるで霧が晴れるように意識がはっきり
したんだ。こんなところでまごまごしている場合じゃない。一刻も早く僕は君達の元へ戻らなければならない。その思
いが僕を奮い立たせた。僕は君達に命を助けられたんだ。」
ドゲットは眼を上げると、スカリーの眼をまっすぐ見詰めた。スカリーは言葉を失っていた。ドゲットがそんな事をずっと
考えていたとは思っても見なかった。スカリーを見詰めるドゲットの青い瞳は、今の彼の心を映してか、何時もより灰
色がかった藍色をしている。人の死を悼む心に色があるとしたら、きっとこういう美しい色をしているのだわ。スカリー
は魅せられた様に、ドゲットを見詰めている自分に戸惑っていた。突然ドゲットは身体を起こすと、醒めた口調で言っ
た。
「それなのに僕は、アーニーを救えず、マイロンの生死さえ確認できずにいる。なんとも情けない話さ。」
そしてかける言葉が見つからず、立ち尽くすスカリーを後に残し、物憂げな足取りで寝室へと去って行った。去り際
に、明日は病院に寄ってから出勤するから遅刻すると、スカリーに告げた。
 階段を登り寝室のドアが閉まる音が聞こえるまで、スカリーは身動きする事が出来なかった。ほんの一瞬、肩先を
触れ合うぐらいの関わり方しかしていないアーニ−の死に、ドゲットがあれほど責任を感じていたとは驚きだった。怜
悧な容貌の裏にはこんなにも繊細で暖かい感情を隠し持っていたのだ。これをスカリーに告白する事が、ドゲットにと
ってどれほど困難であったかは、話し始めるまでの長いインターバルから容易に想像出来た。それなのに、気の効い
た慰めも言う事が出来ない、頑なな自分の性格をスカリーは呪った。






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