M U S E

  【T】

 朝方降り始めた雨が、霙に変ったのは、カーシュのオフィスに呼ばれた時刻とほぼ同じ頃だった。暫く待つように
と、秘書に言われ椅子に腰掛けたスカリーは、秘書の背後に広がるどんよりした空を見詰め、未だ現れないドゲットを
思った。先日終わったオクラホマのケースの報告書について話があるから、翌朝9時半オフィスまで来るようにと、ス
カリーとドゲットに召集が掛かったのは、昨日の夕方だった。連絡を受けたスカリーがオフィスを見渡せば既にドゲット
の姿は見当たらず、何時もより随分と早い帰宅時間に妙な違和感を覚えたが、気を取り直して、携帯電話に連絡し
てみるものの、出ない。自宅も留守で、仕方なく留守番電話に伝言を残した。
 ドゲットを待つ間、スカリーはこの呼び出しの理由について考えを巡らせていた。土曜日の朝早くわざわざ出勤しろ
という理不尽な召集も、カーシュの嫌がらせの一部と思えば納得出来るが、昨日提出したばかりの報告書について
というのが解せなかった。大体いつもこちらで提出する報告書は、大なり小なり上で問題になり、その度に二人の内
どちらか、最悪の場合は両方がカーシュに呼び出され、更なる詳細を求められる。だがそれは大抵、提出してから1
週間は経過していた。昨日の今日で、いきなりカーシュにしかも休日呼びつけられる事など、前代未聞だ。
 報告書の何に問題があったのだろう。内容についてなら、例えどんな風でもカーシュの気に入るはずなどないし、そ
れは何も今に始まった事ではない。では、何か不備でもあったのだろうか。スカリーは報告書を書いていたドゲットの
様子を思い浮べた。この3日間というもの、ドゲットは何時になく、苦心して報告書を纏めていた。
 仕事中、この場合は報告書等を作成中のペーパーワークにおいて、ドゲットはかなり手際の良い方だと言えた。殆
ど口を開かず、素晴らしい集中力で進めて行く。タイプミス、資料の不備など一切無く、仕上りは長年モルダ−にその
作業の大半を押し付けられていたスカリーから見ても、完璧に近い。確かにドゲットの報告書はアイダホのケースを
含めその全てが、モルダ−の独創的で文学的とも言える報告書に慣れ親しんだスカリーにしてみれば、無味乾燥と
しか言いようがない。しかし、元来報告書とはそういった物であるのが普通で、今までが少し常識からかけ離れ過ぎ
ていたと言えよう。
 それにしても、ドゲットが報告書を提出期限ぎりぎりまで、仕上げられなかった例は一度も無く、大抵は1日2日の
余裕を残しての提出だった。それが、今回はどう言う訳か遅々として進まず、とりあえずサインだけとドゲットに言わ
れスカリーがまだ途中の報告書にサインしたのが、昨日の朝だった。その後ドゲットは期限一杯の正午丁度に、報告
書をカーシュのオフィスに届けたはずだ。サインした時半分以上出来ていた報告書に、さほど問題があるとは思えな
かった。それでは一体何が。
 スカリーは椅子の背に凭れると、頬杖を付き目を伏せた。いいえ、気がかりなのは別にあるわ。スカリーはもう気が
付いていた。自分の心を掻き乱しているのが、報告書についてカーシュに呼ばれた事ではなく、ここ数日間のドゲット
の様子だと。


 確かにオクラホマのケースは、常軌を逸していた。だが、それがどうしたというのだろう。このケースに至るまで、ド
ゲットはもう既に何件もの常軌を逸したケースに当ってきている。確かにそこにあったと言えるのに、言葉だけでは到
底説明不可能な、摩訶不思議な出来事や生物を、目の当たりにしている。いい加減、このXファイル的現実に慣れて
きても良い頃だ。
 スカリーは、非現実的な事を目の当たりにしたり、未解決にしか思えないケースを途中でも閉じなければならない
時、その度にドゲットの無言で問いかける、何故という視線、時には口に出して問うこの問いかけに出来うる限り答え
ていた。そして又、真実が得られなくともあきらめなくてはいけないと言う現実も教えてきたつもりだった。その度にド
ゲットは、納得できないという様子ではいたが、眉間に皺を寄せたまま、黙ってその指示に従っていた。・・・オクラホ
マのケースまでは。
 今回スカリーは、捜査当初からドゲットの様子が、少しずつ何時もと違うと時間が経つにつれ感じ始めていた。彼は
何を焦り苛立っていたのだろう。デクスター地域病院での、母親の怒りを買ったビリー・アンダーウッドへの対応。詰
問するスカリーへの突き放すような返答。スカリーはオクラホマにいる間中、暫しドゲットの廻りにぐるりと見えない壁
が張り巡らされているような気がしてならなかった。
 そして、ドゲットの態度で何より奇妙に感じられたのは、一番不可思議で注目すべき事実である、ビリーの生物学
的異常に殆ど興味を示さ無い事だった。失踪した少年が10年の月日を隔て失踪した時と全く同じ姿形で現われた
ら、まずそちらに着目するのが普通の反応だろう。ところがドゲットは、それは二の次とばかり、ビリーがどうやって戻
ったか、犯人逮捕の手がかりはと、躍起になっている。しかも、夜遅くまで何を調べているかと思えば、持出し禁止の
少年記録を取り寄せ、法律違反だとスカリーに詰め寄られても、犯人を挙げる為だと取合わない。
 ドゲットが法律違反を?この事実はスカリーの不安を煽った。何かがおかしい。しかも捜査中は何時も、当然の如く
スカリーと行動を共にしていたのに、今回は気がつくと、黙って何処かに行ってしまっている。スカリーはしばしばドゲ
ットを探さなければならなかった。
 やがてスカリーは捜査が進むと同時に、ドゲットの瞳に見慣れ無い表情が過るのに気付いた。それは、ほんの一瞬
浮かんではあっという間に消えてしまうので、はじめは気のせいかと思っていた。しかし、異常な行動をするビリーを、
施設に預けるべきだと提案した時や、彼を助ける義務があると主張するドゲットに彼女がどうやってと切り返した時、
ビリーの身体的特徴を指摘し同意を促した時等、返答に詰まり俯いたドゲットの表情に、説明のつかない哀しげな色
が浮かんでは消えた。
 そしてそれが、決定的になったのが、シャロンという霊能力者の言葉だった。
『あなたも幼い子供を失った』
思いもつかなかったその言葉に、愕然として振り返ったスカリーが見たドゲットは、その途端水でも浴びせられたかの
如く顔を強張らせ、続いて懐疑的に眼を細めると、霊能力者を凝視していた。その直後急変したシャロンにスカリーが
かかりきりになり、やっとシャロンが落ち着きほっと一息ついた時には、その場から立ち去っていた。
 相変わらずもの言わぬビリー、取り乱すビリーの母親、具合の悪いシャロンと一人で対応している内、次第にスカリ
ーは腹が立ってきた。それは何も、ドゲットが自分一人に仕事を押し付けて姿を眩ませてしまったからばかりではな
く、彼がスカリーを拒絶していると感じたからだ。以前の自分を顧みた時、この腹立たしさは理不尽なものなのだろ
う。しかし、ユタのケースが終わってからスカリーは、はっきりとドゲットに自分はパートナーであると宣言している。そ
れなのに何も語ろうとしないドゲットの沈黙は、些か不愉快だった。
 しかし、一段落つきドゲットの姿を捜し求め、ようやく居間の窓越しに車の中で身じろぎもせず座るドゲットの横顔を
認めると、今度は腹立たしさより不安が募ってくるのを覚えた。一体何時からドゲットはあそこにいたのだろう。何時
からあんな、無表情な眼をして、暗闇を見詰めていたのだろう。彼の眼差しの先には一体何が。
 スカリーが助手席に乗り込み、シャロンが正常に戻ったと告げる間も、ドゲットは前を向いたまま何も映さない眼をし
て、頑なに口を閉ざしている。スカリーにしてみれば、何も聞かず事後処理全てを引き受けたのだ。全部を話して欲し
いとは望まなくとも、何かそれに関した答えを窺わせる発言を聞きたかった。が、ドゲットの身体から発する強い拒絶
の気配から、その気は無いのだと直感したスカリーの、関心ないみたいね、と言った言葉は傷つき皮肉な響きを漂わ
せていた。
 だが、その後スカリーはドゲットの眼に再び例の表情が過るのを認めた。それは、重い口を開いたドゲットが騙され
たとシャロンの言動を強く否定したので、録音テープを逆回転して聞かせ、流れ出た子守唄に続けてスカリーが小さ
く歌った時だった。ふっとその一瞬ドゲットの廻りから、張巡らせれた壁が消え、彼の心にすとんとその歌が届いたよ
うにスカリーは感じた。眼を細め聞き入る様に耳を欹てるドゲットの顔を窺いながら、聞える?と問いかけたスカリーの
声は柔らかかった。すると彼はその言葉に呼応するかのように小さく頷き、眉間の皺の奥から覗く瞳からは、冷たく
嘲笑的な光が消え、無防備な素顔を晒すジョン・ドゲットがそこにいた。
 このまま彼の心に触れたいと先を続けようとしたスカリーの目論見は、しかし失敗に終わっている。何故なら、その
直後から事件は急展開し、その数時間後には犯人逮捕、事件解決という、思いもしなかった早さで終結に向ったから
だ。何時に無く冷静さを欠き、神経を尖らせたドゲットは、その時にはもう、己の廻りに完璧に壁を築き上げてしまって
いた。
 翌朝、発見されたビリーの遺体に対面する両親を見ていたドゲットは、強い口調でスカリーに詰め寄った。信じられ
ん、納得出来ない、一件落着か?矢継ぎ早に尋ねるドゲットに、答えたスカリーの口調は苛立ちに満ちていた。夕べ
といい今といい、どうしてこうなってしまうのだろう。こんな風にしか私達は話し合えないのだとしたら、この組み合わ
せに未来など無い。数回の押し問答の末、上手くドゲットを納得させたとはとても思えなかったが、これ以上の会話
は無意味だとスカリーは感じていた。
「私はただ、あなたの役目は終わったと言ってるだけよ。」
その言葉を聞いた途端、色を失い黙ってしまったドゲットは、縋るような眼をしてスカリーを見詰め返した。ドゲットのそ
の視線には戸惑いを感じたが、相変わらず壁の向こうにいる事には変りはないのだ。疲労の限界に来ていたスカリ
ーは、最早これ以上付き合いきれないとその場を離れるしかなった。


 カーシュのオフィスのドアから、スキナーが顔を覗かせた。我に返ったスカリーが立ちあがると、近づいてきたスキナ
ーが声を潜め、ドゲットの所在を聞いた。
「夕べの内に連絡はついているから、もう来ると思うわ。」
「会って話したのか?」
「いえ、留守番電話に。」
すると、スキナーはふん、と言って顔を顰めた。未だスキナーはドゲットに強い不信感を抱いている。
「50分の遅刻だぞ。」
「ええ、そうね。」
「携帯は?」
「さっきから、連絡してるけれど、繋がらないの。」
苦りきった顔で腕組みをするスキナーを見上げ、スカリーは尋ねた。
「カーシュは何て?」
「報告書の件だ。」
「それは、知ってるわ。でも、それの何処に問題が?」
するとスキナーは、怪訝そうに聞き返した。
「君は承知の上でサインしたんじゃなかったのか?」
「どう言う意味?」
するとスキナーは、秘書がインターホンを受け、オフィスに入るよう告げたのを聞き、言った。
「自分で見たまえ。」
スカリーは妙な顔をしたまま、スキナーが開けたドアをすりぬけ、カーシュのオフィスに入った。
 カーシュは何時ものもったいぶった態度で二人を椅子にかける様促すと、腰掛けたスカリーを見詰め尋ねた。
「エージェント・ドゲットはどうしたのかね?」
「連絡はついています。もう現れる頃かと。」
「ふむ、既に50分も過ぎているが?勿論君はエージェント・ドゲットの遅刻の理由を確認したんだろうな?」
「多分渋滞に巻き込まれたのだと・・」
するとそれを聞いたカーシュは、ふふんと鼻先で笑った。
「土曜のこの時間にかね?彼からも同じ言葉を聞きたいものだ。」
ぐっと返答に詰まったスカリーに更にカーシュは言葉を続けた。
「エージェント・スカリー。察するに君はパートナーの動向をしっかり把握していないように、見受けられるが。」
「そのような事はありません。」
「そうかね。では、このふざけた報告書にサインしたのも、納得しての事なのだな。」
カーシュは意地悪く言い放つと、テーブルの上にファイルを投げ出した。スカリーは語気を強め言い返した。
「ふざけた?何の事でしょう。私がサインした時には、特に問題は無いと判断しましたが。」
「しらばっくれるのは止め賜え。これを見てもまだそう言えるのか?」
カーシュはそう言うと、スキナーに顎をしゃくりスカリーにファイルを手渡すように指示した。警告するような眼をしたス
キナーから手渡されたファイルを開き、スカリーは思わず息を呑んだ。そこには、昨日サインしたものとは、全く違う内
容の報告書が、スカリーのサインつきで挟まれていた。
 その時、最悪のタイミングでカーシュのインターホンのランプが点滅し、オフィスに現れたのは報告書の製作者であ
るドゲットだった。脱いでいたコートを椅子の背にかけ、そのまま何食わぬ顔でスカリーの隣に座ったドゲットは、耳障
りな口調で遅刻の理由を尋ねるカーシュに素っ気無く答えた。
「ガス欠で。」
スカリーは思わず顔を顰めてドゲットの横顔を凝視した。ガス欠ですって?そんな言い訳、今時子供でも言わない
わ。案の定、カーシュのくどくどした嫌味のオンパレードになった。こうなるのは分かりきっているはずなのに、もう少し
なんとか言いようが無かったのかしら。と、隣のドゲットを盗み見れば、真面目腐った顔をカーシュに向け、姿勢良く腰
掛けたまま、身動きもしない。海兵仕込みだわ。スカリーは些か呆れ気味に小さくため息をつくと、カーシュの嫌味が
納まるまで、俯いてやり過ごそうと決めた。
 妙な音が聞こえる。何だろう。俯いていたスカリーは僅かに眉を顰め、耳を欹てた。が、直にそれが隣から聞える事
に気付き、そっと下からドゲットの廻りを見まわした。すると、その音がドゲットが椅子に掛けたコートの裾から滴り落
ちる水滴の音だと判明し、これほどずぶぬれになる状況を推し量り、疑問を抱いた。確かに外は霙だ。雨は早朝から
降っていた。しかし、お互いいつもと同じ出勤時間に家を出たとしたら、傘を持たずに出るなど考えられない。
 スカリーは膨れあがってくる疑問にドゲットの横顔を見詰めた。カーシュ言うところのふざけた報告書について、ドゲ
ットは先ほどからカーシュの質問の長い前置きを黙って聞き、質問されれば簡潔に答えていた。しかし、その返答が
木で鼻を括ったようなものばかりなので、当然の如くカーシュの怒りを買い、更なる罵倒を浴びせられている。
 黙って前を向いたまま、悪びれる様子も無くカーシュを見詰め返すドゲットを見ているうち、スカリーはオクラホマから
燻り続けていた不安が、胸に広がって行くのを感じていた。
 それから1時間後。カーシュも疲れたのか、ようやく最後に本日午後4時までに再度書き直した報告書を提出する
ようドゲットに約束させると、最早早く出て行けと言わんがばかりに、インターホンを取り上げ秘書に別の用事を言い
つけ始めた。3人は無言で、スキナーを先頭にオフィスを出た。スカリーはその時、立ちあがったドゲットに眼を移すと
同時に、どきっと微かな衝撃を覚えた。
 何故だろうと、コートを掴み斜め前を歩くドゲットの様子を観察すれば、直にああ、と納得しこっそりとドゲットを上から
下まで眺めまわした。服が違うのだ。ドゲットは、何時もの代り映えしないビジネススーツではなく、仕立ての良さそう
な高級ブランドのスーツを身に纏っていた。
 普段のドゲットはあまり服装に凝る方とは言えなかった。スーツの種類も何の変哲も無いビジネススーツを、スカリ
ーの知る限りでは、色違いで3着。それを、とっかえひっかえ着てるようにしか見えず、Yシャツとネクタイも幾等か種
類は多そうだが、やはり流行やブランドとは無縁の産物に見えた。ただ、お世辞にも高級とは言えない衣服も、何時
もきちんとプレスされている事や、服装センスと着こなしが洗練されている為、ドゲットのスーツ姿からは、野暮ったさ
など窺えない。
 しかし、それでも渋い光沢のある黒のスーツをさりげなく着こなすドゲットは、嫌でもスカリーの眼を引いた。明らか
によそ行きの格好をして、ドゲットは何処に行く気なのだろう。パーティ、あるいはデート。しかし、それが今夜の予定
なら、一旦家に帰って着替えるのが普通だ。では、この服装は夕べからの延長なのだろうか。そう考えると、昨日の
早い帰宅時間も納得出来たし、携帯電話から留守番電話のメッセージを聞いたのであれば、昨日泊まった所からそ
のまま出勤したとも取れる。
 スカリーは眼を伏せると、心の中で呟いた。いいえ、それは無いわ。
「どうかしたのか?」
スキナーの声にはっとして顔を上げると、廊下に出ようとドアノブに手を掛けたドゲット共々スカリーを振り返り、怪訝
そうな顔をして見ている。何でもないわ、と言ってドゲットと一緒にエレベーターに向おうとすれば、スキナーがオフィス
を出た所で彼女を引きとめた。それを見たドゲットは、ファイルを上に掲げ、先に行く、と言ってエレベーターに消えた。
 オフィスの外でドゲットを見送ったスキナーは、エレベーターのドアが閉まると同時に尋ねた。
「どうしたんだ、あれは?」
「・・・あれって?」
するとスキナーは、妙な顔をしてスカリーを見下ろした。
「今さっきのドゲットの態度だ。なんだ、一体。カーシュにあんな口を。・・・まあ、大方予想はつくが。」
「そう?」
それを聞いたスキナーは益々妙な顔になった。
「エージェント・スカリー。勘が鈍ったんじゃないのか?」
スカリーはちらりとスキナーを見上げ、黙って腕を組んだ。その様子にたたみ掛けるようにしてスキナーが言葉を続け
た。
「ああやって、わざと怒りを買う振りをして、Xファイルを潰そうと言うカーシュの目論見に荷担してるんだ。ドゲットの点
数稼ぎだ。」
「そうかしら。」
「違うとでも?」
意外そうに問い返すスキナーの視線を感じながら、スカリーはドゲットの消えたエレベーターを見詰め彼の様子を思い
浮べた。
「さあ、何とも言えないわ。でも、紙に書いてあるものが全てではないのよ。」
「何の事を言ってるんだ?」
「・・・・自分でも良く分からないの。」
そう言って、スカリーは小さくため息をつきスキナーを見上げ、急に話を変えた。
「それより、ごめんなさい。とばっちりで休日出勤させられたんでしょう。」
それを聞いたスキナーは、怪訝そうな顔をしたが、スカリーがその場を離れたがっている気配を察すると、気にするな
と言って自分のオフィスに去って行った。

 スキナーと別れたスカリーが、地下のオフィスに戻ると、デスクに向い報告書を作成し直しているはずのドゲットの姿
は見当たらず、あるのは、コート掛けにぶら下がったびしょぬれのコートだけだった。ファイルはドゲットのデスクに置い
てある。まさか、もう書き直したわけではあるまいと、広げてみれば案の定手付かずのままだ。
 スカリーは昨日と全く別物の報告書を見詰め、忌々しさに唇を噛んだ。これは、何なの?スカリーがサインした時
は、何時も通りの几帳面な内容で、付随する資料もほぼ揃えられていた。ところが、この報告書には、何も無い。中
身が無いのだ。オクラホマに出向した日付。誘拐された子供の名前。逮捕者の名前と罪状。それだけだった。肝心
の、オクラホマに出向した理由と、ビリー・アンダーウッドに関する全ての記述が抜けていた。
 報告書の上の方にたった数行、中間は真っ白で下の方にスカリーとドゲットのサインが並んでいる。これでは、カー
シュにふざけた報告書と言われても反論出来無い。しかも、自分のサインまで。した覚えの無い書類へのサインを、
ドゲットがどうしたかなど、考えたくも無い。
 それにしても、ドゲットは何処に行ったのだろう。スカリーはファイルを閉じデスクに置くと、見慣れないドゲットのコー
トに眼を移した。すると、先ほどスキナーと交した会話が不意に蘇って来た。これら全てが、スキナーの主張通り、ド
ゲットの点数稼ぎとは、スカリーには思えなかった。この数ヶ月ドゲットと行動を共にし、徐々にではあるが、彼の人格
を理解してきたつもりだった。
 当初、ドゲットはがちがちの既成概念に囚われた、頭の固い人間としか思えなかった。しかも、カーシュの口利きで
Xファイルに配属されたとなれば、その経歴が示すような強い出世願望を見込まれた、カーシュの思惑の具現者と映
った。加えて上司に対する礼儀正しい態度や、節度のある言動から、ドゲットは至極当り前の常識人で、エキセントリ
ックなパートナーに長年付き合っていたスカリーからすれば、捜査員としては優秀かもしれないが、人間としては凡庸
な男と捉えてしまったのもやむを得ない。
 ところがその見解は今現在180度変っていた。確かにドゲットは頭が固いかもしれない。しかし、その許容範囲は予
想外に広く、事実だと認めれば自分の見識を覆すような事でも、あっさりと受け入れた。又、あれほど懸念されていた
カーシュとの繋がりも、確かにドゲットの口からカーシュに対する批判的な発言は一切なかったが、少なくとも彼の言
動の裏にカーシュの存在を感じさせる事など、只の一度も無かった。
 そして予想外だったのが、ドゲットの性格だった。無口であまり表情の動かないドゲットが、実は感情豊かで複雑な
精神構造を持っているなど、彼の経歴とその手による何件もの報告書から推し量る事は不可能だ。スキナーに言っ
た、紙に書いてあるものが全てでは無い、とはそう言う意味合いがあったのだが、実際ドゲットと行動を共にしていな
いスキナーへ、いくら説明しても理解してもらえるかどうかは甚だ怪しい。
 ジョン・J・ドゲット。彼を一口で言い表すのは難しい。何故なら、スカリーは彼ほど、自己顕示欲の乏しい人間を知ら
なかった。それなのに、けして押し付けがましいわけではないその存在感は絶大で、行動を共にすればするほど、揺
るぎ無い信頼を寄せる様になった。しかし、ドゲットはそれらを主張した事など一度も無く、只黙って影の如くスカリー
に寄り添っていたに過ぎない。
 確かにドゲットは、言葉が足りないところがある。そしてそれは彼自身の事になるとより顕著になった。スカリーが私
生活の話を殆ど持ち出さないせいもあるが、ドゲットは更に徹底して、その話をしなかった。思い起こしてみれば、親
しくなってくれば必ず出るであろう、異性関係の軽いジョークや、些細な家族の話題等、今までドゲットの口から出た
記憶は殆ど無い。ドゲットは未だ謎の多い人間だった。
 そしてずっと心に引っかかっている、オクラホマでのシャロンの言葉。あの時、間違い無くシャロンはドゲットに向っ
て、あなたも幼い子供を失った、と言った。そう言われた時の強張ったドゲットの表情をスカリーはあれから何度も思
い返していた。
 もし、この言葉が事実ならドゲットは過去に辛い経験をしていることになる。幼い子。それがドゲットの子供なのか、
近親者なのか、どういう状況でそうなったのか、失ったとは実際どう言う意味なのかそこまでは分からない。スカリー
は今まで数回、ドゲットの名前を自分のコンピューターに打ちこんで、彼に関して更に詳しく検索しようと試みては、そ
の度に思い留まり止めている。
 それは、以前のようにそんな事は自分には関係無いと割りきろうとする為ではなく、何故ドゲットが語ろうとしないの
か、その心情を慮った時、やはり今は時期ではないと判断せざるを得なかったからだ。
 スカリーはため息をつくと、自分のデスクに赴き椅子に深く腰掛け考え込んだ。最近のドゲットは明らかに今までの
彼とは違っていた。オクラホマの出来事、報告書、遅刻、カーシュへの態度。カーシュには実しやかに返答していた
が、彼の人となりを多少とも理解している今となっては、全てが、少しずつちぐはぐなのだ。それを、いちいち問い詰め
ても、オクラホマから戻ってからもあまり態度に変化のない今、きっと彼は何も言ってはくれないだろう。それどころ
か、却って頑なに己の殻に閉じ篭ってしまう。
 スカリーはそこまで考えると、思わず苦笑いを浮べた。何故ならそれは、以前の自分そっくりだったからだ。そう考え
ると、自分達はよく似たところがある気が、しないでもない。スカリーは思わず顔を顰め、首を振った。あの、ジョン・ド
ゲットと私が?いくらなんでも、勘弁して欲しいわ。しかしそれとは裏腹に、その事実を全く否定しきれず、又それをそ
れほど悪くは捉えていない自分自身の心境に当惑していた。
 いきなり、スカリーは胃の辺りを押さえた。嫌だわ、鳴るほど減っていたのかしら。ドゲットを待ちながら物思いに耽
って時を忘れていたが、既に時刻は正午を過ぎていた。妊娠してからというもの、スカリーは毎朝朝食をきちんと取る
ようにしていた為、空腹はそれ程でもないとはいえ、あと少し経ったら、耐え難い物になるだろう。
 スカリーは妊娠初期に見られるはずの悪阻が、比較的軽いのを密かに神に感謝していた。もしこれで悪阻が酷かっ
たら、直に妊娠がばれてXファイルどころでは無くなる。今のところ最もスカリーの近くにいるドゲットにすら、悟られな
いでいる。これが後数ヶ月したら、隠しとおせるものではなくなるのは、承知していた。しかし、取合えずそれまでの
間はここを離れる事など出来はしない。
 お腹が減った、何か無かっただろうかと、思い巡らせ眉根に皺を寄せた。デスクの引出しには、モルダ―の好物で
あるひまわりの種が幾袋も入っていたが、そんな物は見たくも無い。幾等悪阻が軽く、今現在空腹だからといって、
以前から美味しい思ったことの無い食物を口に運ぶなど考えられない。大体、この7年間どれだけモルダ―に薦めら
れても、食べなかったのだ。
 しかしそうなると、ここには空腹を満たしてくれるような物は何も無い。スカリーは仕方がないと諦めて、立ち上がっ
た。このまま、ランチに出かけても良かったが、ドゲットの所在が分からない今、オフィスを離れるわけにはいかなかっ
た。スカリーは次第に腹が立ってきた。
 大体どういうつもりか知らないが、これを作成した張本人が、何故ここにいないの?提出する書類を間違えたなど、
よくも私のいる前で、言えたもんだわ。それなら、サインは一体どうしたというの?このふざけた報告書に、私はサイン
した覚えなどないわ。おまけに資料が一つも無いのは、どう言うわけなの?入れたつもりだった?ついうっかり忘れた
ですって?
 スカリーはドゲットのデスクからファイルを取り上げると、両手で握り締め忌々しげに眺めた。この腹立たしさは、空
腹だからだけではない。腹立ちよりも、押しても引いてもびくともしない壁を目の前にしての、成す術の無い焦燥感
だ。ドゲットは、何かを直隠しに隠していた。それが、四六時中彼の心を捉え、何時もの自分を見失っている。その事
実に本人は気付いているのだろうか。
 その話に及ばないよう、細心の注意を払っている今のドゲットの心情は、スカリーにも理解出来る。これがもし、触
れられたくない過去にまつわる話であったら、やはり同じ態度をしただろう。放っておいてもらいたい。そう言う態度で
いるのも、よく分かる。しかし、業務に悪影響が出るとなっては、話が別だ。
 何とかしなくては。スカリーはファイルを広げ、白紙同然の報告書を見下ろし唇を噛んだ。しかし、何をどうすればい
いのだろう。スカリーはこの時になって初めて、自分はドゲットについて殆ど何も知らない事に思い当たり愕然とした。
スカリーがドゲットについて知っている事と言えば、瀟洒な一軒家に独りで暮し、読書家で家ではあまり食事をせず、
極端な病院嫌いだと言う事ぐらいだ。
 これでは、ドゲットが今何に心を奪われ、鬱々とした状態から抜け出せずにいるのか、大して役には立たない。しか
し、だからと言ってドゲットの知らないところで、経歴以上の事を詮索する気にはなれない。スカリーは軽いジレンマに
陥り、うめいた。
 暫くそのまま立ち尽すスカリーだったが、やがて長い溜息と共に、ファイルを閉じるとドゲットのデスクに置いた。とに
かく今はこの報告書を仕上げ、話はその後だわ。そこからは、ドゲットの出方次第、そのくらいしか今のところ出来る
事は無い。
 となれば、この報告書を早く提出出来るように彼の手助けをすれば良いのだ。報告書のタイプはドゲットに任せると
して、資料を揃えるところから始めようと、スカリーは廊下へと出た。
 薄暗い廊下の両脇にある棚には、うずたかく資料が積まれている。ドゲットは赴任してからというもの、手が空くと
棚の整理をしているので、最近では随分と探し易くなった。しかし、それにしてもこの7年間、モルダ―が何もかもと溜
めこむ為、整理が追いつかず、何度それを注意しても、自分は分かってるからと、全く手付かずのまま、スカリーすら
さじを投げるほど、その量は膨大だった。
 スカリーは棚を見上げ、肩を竦めた。よくこの棚を整理しようと思い立ったもんだわ。必要な資料を探しながら、そう
言えばとドゲットの自宅を思い浮べた。そう言えば彼の自宅は何処も整然としていた。アイダホのケースの後不意に
訪れた彼の家の状態から、あれが彼にとっての普通だとしたら、この棚はちょっと眼に余る散らかりようだわね。
 スカリーはふっと思い出し笑いを浮べた。亡くなった父親がやはりそうだったのだ。ウィリアム・スカリーは稀に娘の
家に泊まり来ると、必ず辺りを片付けていた。別に嫌なわけではなかったが、呆れて止めるように言えば、しまったな
という面持ちで、中々軍隊生活の習慣は抜けないもんだと、笑っていた。従ってドゲットの几帳面さも恐らくは、父と同
じく軍で養われたと考えるのが妥当だろう。
 スカリーはようやく探していた資料を入れた箱を見つけ、足を止めた。箱は棚の上の方に乗っている。脚立はと探せ
ば、直近くにこれまた殆ど棚と化し、幾つも箱が乗っている。この脚立を使う為には、まずこちらの箱を全部動かさな
ければならない。スカリーは面倒くささに首を振った。そこで脚立は諦め、背伸びをして手を伸ばせば届くだろうと、試
みた。
 一杯に伸び上がれば、なんとか両手の指先だけが箱に触ったので、押したり引いたりしながら徐々に位置を前にず
らし、少し傾ければ両手で箱をしっかり掴めそうになった。ところがその途端、隣の箱も一緒にぐらりと傾いたのだ。慌
てて両手で押さえようとしたが、二つとも予想外に重く、とても支えきれず、ああ崩れると、スカリーは思わず眼を閉じ
た。
「おっと。」
すぐ後ろで声がした。崩れてくるはずの箱が、降って来る気配が無いので、竦めた首を伸ばしながら恐る恐る目を開
け上を見上げれば、スカリーの背後から伸びた片手が、手を一杯に広げ両方の箱を押し戻していた。驚いて肩越しに
振り仰げば、思いがけないぐらい近くにドゲットの顔があった。
「エージェント・ドゲット。」
ドゲットは黙ってスカリーの顔をさっと見下ろしたが、すぐに箱に眼を移すと、これかと言ってスカリーが取ろうとしてい
た箱を片手でひょいと掴んで下ろし、箱の縁をぶら下げて持った。その一連の動作をあっけとられて見ていたスカリー
の鼻腔を、微かな香がくすぐった。何だろうと妙な顔をして、鼻をひくつかせているスカリーを、怪訝そうに見下ろすド
ゲットの表情に我に返ったスカリーは、自分があまりにドゲットの近くにいるのに気付いた。
「エージェント・ドゲット。今まで何処に行ってたの?」
「ランチ。」
スカリーが少し身を引きながらそう尋ねれば、ドゲットは簡潔に答え首をオフィスに傾け、戻るよう促した。するとドゲッ
トの動きに合わせ、彼の身体からふわりと芳しい香が漂い、スカリーはふっと眩暈に似た感覚を覚え眼を伏せた。だ
がすぐに我に返ると、既に一足先に歩を進めるドゲットに追いすがり、スカリーは語気を強め問い返した。
「何ですって?」
「ランチタイム。」
スカリーは更に無断でオフィスを離れた理由を問い詰めようと口を開きかけた途端、目の前に茶色の紙袋を差出され
た。
「これは、君に。」
思わず受け取り面食らっているスカリーに、涼しい顔でドゲットは言った。
「まだだろ。」
「何なの?」
「チャイニーズ・フード。休日も働く勤勉なアジア人に、こんな時は感謝すべきだな。」
「あなたの分は?」
「済ませてきた。」
ドゲットはそう言ってオフィスの入り口で立ち止まると、ランチ袋を持ち数歩後ろで立ち尽くしているスカリーを振り返っ
た。その途端スカリーは思わずはっとして、息を呑んだ。
 スカリーは今まで、ドゲットの容姿に特に何の感慨も持たなかった。確かにユタの病院での看護婦の態度等から、
彼が女性にとって十二分に魅力的に映るのは承知していた。しかしそれが自分にも当て嵌まるとは思っても見なか
ったのだ。
 ドゲットはこんなに背が高かったのだろうか。スカリーは今までドゲットに、モルダ―やスキナーといる時のような体
格差を感じた事は無かった。彼らといる時は、上から見下ろされているような威圧感を絶えず感じていた。しかしドゲ
ットが幾等近くに立っていても、彼からそんなものは感じられない。彼は何時もひっそりと傍らに立ち、即かず離れず
寄り添うな位置にいた。それが、あまりに自然だった為、ドゲットがすらりと背が高く格好の良い男性だったと今の今
まで実感出来ずにいた。
 全てが今日着ている、高級そうなスーツのせいだと言ってしまえれば簡単なのだが、やはりそうとばかりは言えそ
うに無い。渋い光沢を放つ黒いスーツは、まるで誂えたかのようにぴったりと身体にフィットし、広い肩幅と締まったウ
エストを強調して、見事な逆三角形を形取っている。スーツの下に着ているシャツの色はごく薄いアイボリーで、それ
に合わせたくすんだ灰色がかったブルーのネクタイには、よく見れば小さな銀の星が散ばっている。見た感じではシ
ャツもネクタイもシルクのようだった。フォーマルなデザインではない黒のスーツは、彼の身体のシルエットをすっきりと
スリムに見せた。そんな格好で片手にぶら下げているのが、薄汚れたダンボール箱なのが、妙な取り合わせだった
が、それでも彼は非常に上品だった。
 何故だろう。経歴で知るドゲットは、けして裕福で家柄の良い家庭の出身ではなく、上流階級とは無縁の人生を送
って来たようだ。服装センスや着こなしは成人してから培われた物だとしても、センスや着こなしだけではなく、ドゲッ
トの人間としての品格がその佇まいとして現れているとしか言いようがない。
「エージェント・スカリー?」
ドゲットが訝しげなドゲットの声に我に返ったスカリーは、自分が一瞬ドゲットに見惚れていたのに気付き、頬に血が
上るのを悟られないよう顔を背け、ばつが悪そうに視線を泳がせた。その様子にドゲットは、眉間に皺を寄せ不安そう
に問い掛けた。
「嫌いだった?」
「え?」
ドゲットが黙って指し示したので、ああ、と言ってスカリーはランチ袋を持ち上げ、口の端を歪めぎこちない表情で、首
を振った。それを見たドゲットは些か安心した様子で、ドアを開けるとそのまま戸口に立ち、スカリーが先に入るのを
待った。
 レディーファーストね。そして、ランチ。スカリーはドゲットの立つ脇を通りぬけ、自分のデスクに向いながら、どうして
こう、この男は気が廻るのだろうと、不思議に思った。ドゲットはスカリーが空腹な時や、喉が乾いている時、絶妙なタ
イミングで食事の申し出や、飲み物を差し出す事があり、その度にスカリーは面食らった。スカリーはどういうわけか、
そういう生理現象を露わにするのが不得手で、7年行動を共にしたモルダ―の前でさえ、それらを悟れないよう知らず
知らず注意を払っていた。ところが、ドゲットには全く通じない。現にドゲットは初対面の時から、スカリーの喉の乾き
に気付き水を差出している。最もその水は全く別の用途に使われてしまったのだが。
 直後ろを付いて入って来たドゲットが、コート掛けに上着を脱いで掛けている。すると又先ほどの香がふっと漂ってき
た。スカリーはデスクにランチ袋を置くと、ドゲットに見られないよう眼を閉じ、その香をそっと吸い込んだ。何だろう。い
い香。爽やかで少し甘い。
 ドゲットは今までコロンの類を身につけ仕事に来たりはしなかった。短い髪は洗いっぱなしで整髪剤を必要としない
ようだったし、たまに泊りがけの仕事の早朝などで車に乗り合わせると、シェービングローションの柑橘系の香が微
かにするくらいだ。ドゲットにはシャンプーや石鹸の匂いがぴったりする。心ならず胸一杯に清しい香を味わいながら、
それが自分の勝手な思い込みだと、認めざるを得なかった。
「気分でも悪いのか?エージェント・スカリー?」
はっとして眼を開ければ、ドゲットがキャビネットの前からスカリーの顔を窺っている。暫し我を忘れて、ドゲットから漂
う香に酔い、ぼうっとしていたなんて、まるで年端のいかない小娘のようではないか。嫌だわ。スカリーは内心舌打ち
すると、何でもないと頭を振り、平静を装った。
「そう。じゃ、冷めない内に食べたら?」
「ええ、勿論そうさせてもらうわ。それより・・。」
すると、ドゲットは片手を挙げてそれを制し、自分のデスクにつきながら答えた。
「小言はカーシュだけで、充分だよ。直にかかるから、勘弁してくれないかな。」
「小言じゃないわ。ただ、私には本当の話を聞かせて欲しいの。」
ドゲットは眼だけをスカリーに向け問い返した。
「何の事だ。」
「何故報告書が、変っていたかよ。」
スカリーはドゲットに向き直ると、デスクに凭れ腕組みをして返答を待ち構えた。
「カーシュに言ったとおりさ。間違えたんだ。」
「じゃ、私が最初にサインした報告書は何処にあるの?」
「もう、無い。」
スカリーは眼を見張ると身体を起こした。
「何ですって?無いとはどういう事なの?」
「ついうっかりシュレッダーにかけてしまったんだ。」
そう、事も無げに返答するドゲットにスカリーはつかつかと歩み寄り、コンピューターの画面越しに立った。
「エージェント・ドゲット。あなた、一体どうしたの?」
「別にどうもしてないさ。」
「そうかしら。最近のあなたを見てると、とてもそうは思えないわ。」
「気のせいだろう。」
「いいえ。少なくともあなたから、ついうっかりなどという言葉が出る事事態、十分おかしいわ。」
「君は僕を買かぶり過ぎてるよ。エージェント・スカリー。」
ドゲットは肩を竦めると、コンピューターの画面に眼を戻し、仕事を始めようとした。
「じゃあ、さっきカーシュに言っていたのは全部本当だとでも言うの?」
「勿論。嘘を言ってどうなる?」
「あくまで故意にしたんじゃないと・・。」
「くどいぞ。」
怒気を含んだドゲットの口調に、スカリーは言葉を飲み込んだ。しかしドゲット自身、自分の声音にはっとした顔をする
と、2、3回咳払いをして決り悪そうに言った。
「OK。分かったよ。ようするに君は休日出勤させられたんで怒ってるんだろう。それは、悪かった。謝る。」
「そんな事を言ってるんじゃないわ。」
「何だっていいさ。とにかく今はこいつを時間までに仕上げなきゃならん。悪いが、仕事にかからせてくれないかな。」
「エージェント・ドゲット。私は・・」
「エージェント・スカリー。」
苛々した口調でドゲットはスカリーの言葉を遮った。
「もうこの話は終わったんだ。これ以上仕事の邪魔しないでくれないか。」
その言葉にスカリーはかっとし、ドゲットを睨みつけた。
「邪魔ですって?一体誰のせいでこうなったと思ってるの?」
「だから、謝っただろ?別に君は帰っても構わないんだぜ。」
「何を言ってるの。じゃ、私のサインはどうするつもり?」
するとドゲットは眼だけをスカリーに向け、含みのある顔でにやりと笑った。スカリーは直にぴんとくると、信じられない
と眼をぐるりと回し、腹立たしげに首を振ると息を吐き出した。
「冗談じゃ無いわ。私に悪事の片棒を担がせる気なの?ちゃんとした報告書を確認してサインしないうちには、帰らな
いわよ。」
「賢明だね。じゃ、僕は仕事にかかるから、君は飯でも食べてたらいい。」
そう言うとドゲットはスカリーの返答も待たず、報告書の作成に入ってしまった。スカリーはその様子を不機嫌そうに
見詰めていたが、くるりと踵を返し、自分のデスクに戻ると、深深と椅子に腰掛けた。
 何を言っても無駄だ。跳ね返されてしまう。スカリーは首を振ると、あきらめたように小さく溜息をつき、目の前にある
ランチ袋に手を伸ばした。そもそも、俄仕立てのパートナーなのだ。自分でさえ容易に心を開いたわけでもないのに、
それを相手に要求するなんて、随分とおこがましい行為だった。それでも、こうしてあからさまに拒絶させられるの
は、不愉快だし、腹も立つ。でも、これ以上は無理だわ。スカリーはランチを広げながら、一抹の不安と共にその事実
を受け入れなければならなかった。
 それから、数時間。二人は黙々と仕事を進めた。その間ドゲットは普段のドゲットに戻ったかのように振舞い、スカリ
ーはその態度に些かほっとしていた。多分先ほどの言い争いで、ドゲットも最近の自分の様子がおかしかったと気付
いたのだろう。それならそれで、スカリーも聞きにくい話題に触れずに済み、ドゲットも不快な思いをせずにいられ、お
互い都合が良かった。
 もう大丈夫だろうと、3時過ぎにスキナーから呼出があった時、スカリーはそう考えちらりとドゲットの様子を盗み見
た。報告書の作成は滞りなく進み、その殆どが出来あがっている。ドゲットの様子にもおかしなところは見受けられな
い。スカリーは立ちあがり、スキナーのところに行くと告げ、ドゲットが眼も上げず黙って頷くのを確認してからオフィス
を後にした。
 スキナーの呼出は大した用ではなかったが、それでもオフィスに戻った時には4時近かった。深閑としているオフィ
スを見渡しドゲットの姿を探せば、彼のデスクにファイルとメモがあり、既にもぬけの空だ。何処へ行ったのかと、メモ
を取り上げれば、スカリー宛に短く用件が書かれていた。
『出来あがったので先に帰る。悪いが報告書にサインしてカーシュに届けて欲しい。ドゲット。』
スカリーは慌てた。急いで報告書にざっと目を通し、ついで一緒に挟まれている資料を確認した。良かった。今度は
大丈夫だわ。スカリーは急いでドゲットのサインの隣に自分のサインを書き入れ、ファイルを片手にオフィスを出た。全
く、一言ぐらい断ってから帰ってもいいんじゃないの。スカリーはちゃっかり最後の締めを、自分に押し付け帰ってしま
ったドゲットに向けて文句たらたらだったが、報告書もドゲットも元に戻ったと安堵し、足早にカーシュのオフィスへと向
かった。



                                                                           
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