【U】

 
 スカリーは、フロントガラス越し見える人影を見詰め、眉を顰めた。何時までああしているつもりなんだろう。スカリー
がこの場所に車を止めてから、もう15分は経つ。その間、眼の前の光景にあまり変化は無かった。スカリーは再び、
不安が胸一杯に広がって行くのを覚えていた。
 スカリーが、見覚えのあるピックアップが停車しているのを反対車線に認め、確認しようと少し先でUターンし、15メ
ートルほど離れた所から様子を窺っていると、案の定ドゲットが携帯電話を片手に車を降りてきた。こんなところで一
体何を。と、ドゲットの様子をそれとなく観察していると、電話で何事かを話している。ドゲットは手短に用件を済ませ、
電話を切りコートのポケットに仕舞った。
 勿論、電話の内容は聞えはしなかったが、彼の様子から何らかのトラブルらしく、スカリーが見守る中、暫く車の廻
りを所在無くぶらついていたドゲットは、唐突に空を見上げ立ち尽した。車通りの疎らな道路脇で、自分の車の直近く
にスカリーの車が停車しているなど、全く気付きもせず、端から見れば途方に暮れているような風情だった。
 だが、それが10分近く同じ格好でいるとなれば、話は違ってくる。ただ単に車のトラブルで、途方に暮れているとは
思えなかった。夕闇の迫る凍てつく冬の道路は、街路灯が付き始め丁度その真下にいるドゲットの姿をくっきりと浮
かび上がらせていた。
 スカリーはオフィスを出た時に感じていた安堵感が、自分の早計であったと自覚せざるを得なかった。これを見る限
りでは何一つ改善されてはいない。ドゲットは相変わらず何かに心を囚われている。しかも、それを聞き出す試みは
既に失敗している。スカリーは、舌打ちした。どうすればいい。このままそっとしておくべきだろうか。ドゲットもそれを
望んでいる様だった。しかし、スカリーにはオクラホマから戻ってから、心の片隅にずっと引っ掛かっている事があっ
た。
 それを思い出すと、やはりこのまま放っておくなど出来はしない。スカリーは心を静め成すべき方法を模索した。暫く
眼を伏せて考えたスカリーは顔を上げると心の中で呟いた。
 そうだ。彼が私に接したのと同じようにすればいいのだ。私がドゲットを拒絶し、遠ざけようとしていた時、彼はどうし
ただろうか。彼はただ何も聞かず、私の側に寄り添い、苦しさから発する私の苛立ちを黙って受けとめてくれていた。
彼を捉えている問題から開放できる力が、私にあるとは思えないけれど、何かの捌け口ぐらいにはなれるかもしれな
い。そうする事で幾等かでも彼の気持ちが軽くなるのなら、試してみる価値はあるわ。
 スカリーは心を決めると、携帯電話を取りだし、マーガレット・スカリーに今夜泊まりに行く予定をキャンセルすると告
げた。マギーは最初少し怒ったものの、やがて母親らしい気遣いの元、仕事なら仕方ないけれど、無理をしてはいけ
ないと忠告し、約束の延期を承諾した。
 スカリーはエンジンを切らずに車を降りると、あまりの寒さに身震いしてコートの襟を掻き合せた。午前中降り続いて
いた霙は、正午過ぎには止んでいたが、その後から急激に冷え込み、夕方からはちらほらと粉雪が舞い始めてい
る。この寒さの中をドゲットは平気なのかしらと、スカリーはドゲットの2メートルほど手前で立ち止まった。
 相変わらずドゲットはスカリーに気付く気配は無い。黒いカシミヤのコートの襟を立て、両手をポケットに突っ込み、
飽く無き風情で空を振り仰いだまま、身じろぎもせず佇んでいる。ドゲットの吐く息が白く見えなかったら、その様子は
まるでひっそりと立つ彫像の如く映り、生きた人間のようには感じられない。
 だがそれは、不思議に美しい光景だった。しんと冷えた空気の中、街路灯の白い光に映し出された黒を纏うドゲット
の姿は、まるで寂寥とした冬景色を描いた一枚の絵画か、モノクロームの風景写真に似ていた。黒いロングコートが
時折風にたなびき、振り仰いだ真っ暗な空から、ドゲットの寂しげな横顔に白い雪が降りてくる。見上げた瞳の色は、
闇を映し、深い淵でも覗き込んでいるように、暗く蒼い。憑かれたかの如く一点を見詰めるその表情は、あまりにも無
防備に、ドゲットの心に宿る苦しみと哀しみを滲ませていた。
 スカリーはドゲットに近寄ると、躊躇いがちにそっと声をかけた。気付かない。もう一度。今度はドゲットの肘に手を
かけ、名を呼べば、ドゲットは頭を戻し、ふっと視線を巡らせスカリーを見下ろした。遠いところにいる。スカリーは自分
を見詰めるドゲットの、まるで違うものを見るかのような視線に気付き思った。目の前にいるスカリーを映さないドゲッ
トの視線は、スカリーを不安にさせた。スカリーが、ドゲットの肘にかけた手に力を込め名を呼べば、ドゲットはゆっくり
と眼を閉じ、やがて見開いた時には何時もの彼がいた。
「エージェント・スカリー。ここで何を?」
「それは、私のほうが聞きたいわ。あなたこそこんな所で何をしているの?トラブル?」
スカリーが心配そうに優しく問いかければ、ドゲットは、ああ、と言ってピックアップに視線を移し簡単に説明した。
「ガス欠だったから、ガソリンを買ってきて補充したんだが、動かなくて。・・・色々やってみたんだが、どうやら本格的
に故障したらしいんだ。参ったよ。」
「・・じゃ、本当にガス欠だったのね。」
「そう言っただろ。・・・・ははぁ、嘘だと思ってた?」
「そんな事はないわ。」
ドゲットは僅かに口元を歪め、疑わしそうにスカリーを見た。スカリーは、咳払いすると聞いた。
「で、これからどうするの?」
「ああ、今さっき修理サービスを呼んだから待ってるところなんだ。」
「ここで?何も車の外で待つことは無いんじゃないの。寒くて凍えてしまうわ。」
するとドゲットは、うん、と言って横を向いてしまった。スカリーはその様子にピンと来る物があった。ドゲットが何か突
つかれたくない問題がある時にする仕草だ。これは変だわ。スカリーは慎重に言葉を選び尋ねた。
「どうして中に入らないの?風邪をひくわよ。」
「・・・中も外もあまり変らないからさ。」
スカリーはその返答に顔を顰めると、どう言う意味かとピックアップに近づいた。
「窓が割れてる。車上荒し?」
スカリーが割れた窓に顔を近づけながら聞けば、後ろをついて来たドゲットが口の中で何事かを言った。
「え?何て言ったの?」
「僕が割ったんだ。」
スカリーは思わず振り返り眼を瞬いた。ドゲットは決り悪そうに視線を泳がせ先を続けた。
「鍵を中に入れたまま閉めたのさ。おまけに財布と携帯電話も。最もそれに気付いたのはカーシュのオフィスだったか
ら、本当は今日一日気が気じゃなかった。」
「急いで帰ったのはそう言うわけだったのね。じゃ、その為にガラスを?」
「うん。・・・まあ、そうだ。」
「財布と携帯電話まで。どおりで今朝連絡つかなかったはずだわ。・・・まさか、ここから歩いたの?」
「ああ、間に合わないとは思ったが、とりあえず。」
スカリーは信じられないと呆れた様子で首を振り更に尋ねた。
「財布が無かったなら、ランチ代やガソリン代はどうしたの?」
「デスクの引き出しに幾等か置いてあるんだ。」
スカリーは腑に落ちない点が幾つかあるものの、それをここでとやかく言って、せっかくこうして普通に接してきている
ドゲットを刺激したくなかった。ついてないわねと、一応納得した振りで頷けば、それを見たドゲットは視線を道路の彼
方に向け、言った。
「まあ、そう言う訳だから、後は修理サービスが来れば何とかなる。」
「・・・だから?」
「・・だから、心配いらないから、君はもう帰ったほうがいい。」
「それは出来ないわ。」
「何だって?」
スカリーの返答にドゲットは思わず声を上げた。するとスカリーはドゲットに向き直り、まっすぐ彼の眼を見据え、静か
な口調で断言した。
「それはあなたが怪我をしているからよ。エージェント・ドゲット。」
ドゲットはほんの少し眼を見張ると、黙ってスカリーを見詰め返した。スカリーは更に言葉を続けた。
「ガラスに血がついてたわ。あたなのでしょう?エージェント・ドゲット。ガラスで手を切ったのね。」
スカリーはドゲットの先ほどからずっとポケットに入れたままの、コートの膨らみをさっと見た。ドゲットは襟元に顔を埋
め、不機嫌な顔で何事かを言い繕おうとした。
「・・それは・・。」
「否定しても無駄よ。エージェント・ドゲット。あなたは知らないかもしれないけれど、私はFBI捜査官なの。」
スカリーは澄ましてそう言うと、いたずらっぽい眼をしてドゲットの瞳を覗き込んだ。ドゲットはスカリーの視線を眩しそ
うに避け、掠れた囁き声で答えた。
「大した傷じゃない。」
「それは医者が判断する事だわ。エージェント・ドゲット。ああ、これも知らないのかもしれないけれど、私は医者でも
あるのよ。」
スカリーはそう言って胸を張ると、からかうような顔つきでドゲットを見た。ドゲットはちらりと上目にスカリーを見てか
ら、暫く下を向いていたが、やがて諦めたように溜息をつくと、眼も上げずに聞いた。
「OK。分かったよ。どうしたいんだ?」
「そうね。差当たり、私の車の中でその傷を診せてもらおうかしら。」
「断ったら?」
「勿論、救急車を呼ぶわ。」
ドゲットは顔を顰め眉間に皺を寄せるとスカリーを睨んだ。その視線を平然と受けとめ、むしろ愉快そうな口調でスカリ
ーは付加えた。
「私は本気よ。エージェント・ドゲット。さ、どうする?私の車に乗って傷を診せるか、救急車に乗って病院まで行く
か。」
「・・・・・君の車だ。」
「いい選択ね。そうと決れば早く乗って頂戴。ここは寒いわ。」
そう言うとスカリーは踵を返し、さっさと自分の車に乗り込んだ。運転席に座ったスカリーは暖房の温度を上げ、ダッシ
ュボードからタオルを取り出すと、未だ同じ所から動こうとしないドゲットを眺めた。大丈夫。彼は来るわ。すると、ドゲ
ットは俯いたままゆっくりと歩を進め、不承不承助手席に乗り込んで来た。
 スカリーは、座ると直に又ポケットに手を突っ込んでしまったドゲットの目の前に、タオルを差出した。
「髪を拭いたほうがいいわ。そのままじゃ風邪をひくわよ。」
ドゲットは黙って受け取ると、ようやく両手を出してタオルを使い、髪を乱暴に拭いた。すると又ドゲットが動くにつれ、
ふわっと爽やかな香が漂う。スカリーは率直に疑問をぶつけてみた。
「何の香り?」
するとドゲットはタオルを返しながら、怪訝そうにスカリーを見た。
「今日はずっとあなたから、いい香がするのよ。」
「僕から?」
ドゲットはそう言ってから、鼻を自分の肩や胸に近づけ、くんくんと匂いをかいでいたが、急に顔を強張らせ動きを止め
た。
「コロンか何か?」
「え?ああ、・・・いや。」
返事になってないわ。言い澱み唐突に口を噤んでしまったドゲットは、無表情にすっと窓の外へと頭を巡らせた。スカ
リーはその様子に胸を衝かれた。これは、今までとは違う。拒絶するわけではなく、こうしてスカリーの前で、あまりに
簡単に心を何処かへ漂流させてしまう事など、今までに無かった。外を眺めるドゲットの横顔は青ざめ、何かをじっと
耐えているかに見えた。
「手を診せて。」
スカリーがドゲットに向き直り、顔を覗き込みながらそう問いかければ、ドゲットははっとして眼を瞬かせ我に返った。
振り返ったドゲットはスカリーの眼に宿る柔らかな色を認め、ぎこちなく身体の向きを変えると、血の滲んだ白いハンカ
チを捲いた左手を差し出した。
 スカリーは身を乗り出すと、ドゲットの手から慎重な仕草でハンカチを取り去った。大した事はないと言ったドゲットの
傷は、掌のほぼ中央にざっくりと5cmほど、未だ血を滲ませ口を開いていた。スカリーは顔を顰め、咎めるような視線
をドゲットに向ければ、いたずらが見つかった子供のような眼をして、俯いている。
 スカリーはドゲットの傷口を丹念に調べながら、車に乗り込むまでの不機嫌な雰囲気がドゲットから無くなっている
の気付いた。氷のように冷えきり強張ったドゲットの左手に触れながら、スカリーはドゲットからオクラホマ以降張巡ら
せていた壁がなくなり、丁度あの時、ビリーの家の前の車の中で話した時と同じ空気が漂っていると感じていた。
「ガラスの破片は入っていないようだけれど、ちゃんと消毒して傷口を塞がなくてはいけないわ。」
スカリーは優しく諭すような声で告げ、再びハンカチを包帯代わりに捲き、止血する為きつめに縛った。その途端、あ
っ、と言って身体を引いたドゲットが痛みに顔を歪ませたのを認め、スカリーは咄嗟にドゲットの左手を両手で包み込
み尋ねた。
「ごめんなさい。痛かった?」
するとドゲットはその言葉が終わらない内に、まるで火にでも触れた如くスカリーの両手から左手をひったくると右手
で押さえた。他意の無い純粋にドゲットを気遣った仕草を、反射的に彼が撥ね付けた格好になり、些か傷ついた風情
のスカリーだったが、それをした本人の方が意に反する行為だったらしくうろたえ気味にスカリーを見詰め、口篭もっ
た。
「・・・悪い。そんなつもりでは・・。」
「いいのよ。気にしないで。」
スカリーは微笑み首を振って見せたが、ドゲットは相変わらず眉間に皺を寄せたまま、ふいっと又あらぬほうを向いて
しまった。暫く二人とも黙って座っていた。しかし、スカリーはこの沈黙が、決してお互いの距離が離れた為ではない
ものと確信していた。
 ドゲットは椅子の背に凭れ、膝の上に置いた左手を無表情に眺めていたが、唐突に口を開いた。
「あの歌は・・・。」
「え?歌って?」
「子守唄。」
「ああ、ALL THE PRETTY LITTLE HORSES ね。」
「うん。・・あれは、子守唄としちゃポピュラーな歌なのか?」
スカリーは微笑むとドゲットの顔を覗き込んで答えた。
「ロニ―が知ってるくらいですもの、そうかもしれないわね。私が小さな子供の頃も、よく母が歌ってくれたわ。あなた
はどう?」
それを聞いたドゲットは俯いたまま、微かに笑った。しかし、その笑顔はまるで痛みをこらえ無理に笑っているようにし
か見えず、スカリーの胸を抉った。そしてそのままドゲットは、虚ろな笑顔を顔に貼りつかせ、視線を落とし黙ってしま
った。
 哀しい眼をしている。スカリーはドゲットを覆い尽くす哀しみの色を払拭したかった。今尋常ではないドゲットを目の
当たりにして、これほど胸が締め付けられるように感じるのは、何故だろうかと、スカリーは心の奥を探った。そしてそ
の時初めてスカリーは、自分が知らずにどれほどドゲットを当てにし、心の支えにしていたのか思い知った。今やドゲ
ットは、スカリーの無くてはならないパートナーとしての位置を、確実に築いていた。
 そうよ。パートナーですもの。心配して何が悪いの。スカリーはそっとドゲットを見ながら、慎重に言葉を探した。耳を
傾けてくれなくてもいい。でも、彼の哀しみを紛らわす何かの役に立ちたい。警戒させないような何気なさを装い、スカ
リーは静かに語りかけた。
「子守唄と言えば、以前から不思議に思っていた事があるの。」
ドゲットは聞いてか聞かずか、相変わらず下を向いたままだ。スカリーは構わず先を続けた。
「ハイスクールの頃、子守りのアルバイトを良くしたわ。乳児から幼児まで、いろんな子供の面倒を見たのよ。どの子
もみんな違っていて、可愛かった。でも、一つだけてこずることがあったわ。それは、子供って、どうしても泣き止まな
い時があるの。空腹なわけでもない、眠いわけでもない、勿論病気なんかじゃないのよ。いろいろとあやして見るの
だけれど、何をしても駄目だった。本当に困ったわ。でもね、不思議な事に母親が帰って来て、抱上げ子守唄を歌う
と、どんなに泣いている子でも例外無く泣き止んでしまうの。その様子を見ながら、何時も何故なんだろうって、ずっと
思っていたわ。」
スカリーは一旦言葉を切ると、ドゲットの顔をちらりと見た。ドゲットは動かない。
「ちょっと前、兄のところに赤ちゃんが生まれたお祝いをしに行ったの。そうしたら、ようやく長年抱いていた疑問が解
けたわ。そこで私、ほんの一時だけ、独りで赤ちゃんを見なくてはならない状況になったの。最初は良かったわ。で
も、案の定どうしようもなく泣かれて困り果てていたら、義姉が来てベビーベッドに寝かせ、そっと身体を撫ぜながら、
子守唄を歌って聞かせたのよ。そうしたら・・・。」
スカリーはふっと笑い、首を傾げドゲットを見た。
「幸せそうに眠ってしまったわ。」
すると、虚ろな表情のまま俯いていたドゲットの口元が、微かに綻ぶのを認めた。スカリーは心が踊りそうになるのを
堪え、平静を保ち先を続けた。
「その様子を見ながら、歌とは、こういうものなんだと思ったわ。・・・子守唄は何故、泣いている子供を眠らせるのだと
思う?何が泣いてむずかる幼子を眠りへと誘うのかしら・・・。歌詞?いいえ赤ちゃんは言葉など理解できないわ。じ
ゃ、メロディ?違うわね。幼い子供はある一定の音域しか聞き取れない。それなのに、全ての幼子は眠ってしまう。何
故なのかしら?」
スカリーは問い掛ける様にドゲットを見詰め、一つ一つ言葉を選びながら柔らかな声で語り掛けた。
「多分それは、母親が自分の愛しい我が子の魂を、安らかにしてあげようと願い、愛情で包もうとして歌うからじゃな
いかしら。それが歌を通して子供に伝わって、安心して眠ってしまうのね。」
ドゲットが不意に大きく息を吸い、目を伏せゆっくりと吐き出した。怪我をした左手をきつく握り締め、右手で左腕を抱
いている。痛みを堪えている様に見えるその仕草は、何かが彼の心の琴線に触れ、揺れている感情を悟られないよ
うにしているかに、スカリーの眼には映った。スカリーは気付かない振りをして先を続けた。
「・・・・私、時々思うのだけど、歌っていうのは、祈りに近いものだと感じる時があるの。子守唄だけじゃなく、本当に
一流の歌手が歌う歌には、やはり、母親が我が子に歌う子守唄のような力があるんだと思うわ。」
スカリーは一旦言葉を切ると、その先を続けようか一瞬迷った。これを人に話すのは初めてだったからだ。しかし、自
分が高みにいて相手を慮る事ほど傲慢な事は無いのだと、既に承知している。自分が歩み寄らずして、心など開い
ては貰えないのだ。スカリーは声を落し躊躇いがちに、先を続けた。
「・・・・何年か前、凄く辛い出来事があって、苦しんだ時期があったわ。その苦しみは誰かに分かってもらえるようなも
のじゃなく、誰にも吐き出す事が出来ず本当に辛かったわ。辛くて悲しくて、酷い毎日だった。」
スカリーはちょっと息をつくと、眉を顰めた。ドゲットは相変わらず同じ格好のままだったが、訝るような眼をして前を向
いていた。
「よく、苦しみや悲しみは時が解決してくれる。なんて言うけれど、そんなのは、経験した事の無い人が言う単なる気
休めだと知ったわ。解決なんてしない。只、慣れるだけなんだわ。心の一部分が麻痺したようになって、何も感じなく
なってしまうのね。毎日虚ろな心を抱え、表面はなんでもない風を装いながら、本当は最悪の状態だったのに、自分
では気が付かなかった。」
スカリーは眼を伏せ、ふっと微笑んだ。そうだわ。今回もあの時と同じだったけれど、こんなにも早く立ち直れた。
「あの日私は仕事帰りの車の中で、何気なくラジオを聞いていたの。その時だった。信号待ちの交差点であの歌が
流れたのは。ソプラノ歌手の歌う美しい歌曲だったわ。思わず聞き惚れてしまい、後ろの車にクラクションを鳴らされる
まで身動き出来なかった。車を走らせ全曲終わるまでの間、気がつけば泣いていたわ。どうしてかは分からない。・・
そう、まるで彼女の声が染み入るように身体全体を包んで、麻痺していた感情を解放してくれたとしか、言いようがな
いわ。」
スカリーは静かに微笑むと、ドゲットの横顔を見詰めた。
「歌詞はラテン語かイタリア語のようでよく聞き取れなかったから、何の歌なのか分からなかったわ。でも、彼女の声
は人間の声というより、神に与えられた楽器を奏でているみたいに美しかった。その歌はまるで天上の音楽のように
私の心に響いたの。何も感じず傷つき乾ききった心に暖かい水が歌声と共に満ちてくるようだった。・・・私はその時
まで、自分の苦しみが何かによって癒されるなど、絶対にありはしないと思い込んでいたわ。けれど、その時ばかり
は違っていた。」
その時ドゲットが不意に視線を巡らせ、スカリーの眼を捉えた。眼が合った途端スカリーは、ドゲットの抱えているもの
の大きさにたじろいだ。私は無駄なことをしているのかもしれない。彼は孤独の中に身を置き、誰にも縋らず泣き言も
言わず、たった独りですべての重圧に耐えている。ドゲットの魂は、凍てつく闇を見据え彼を苛む苦痛を享受し、それ
に耐えようと試みているのだ。自分の話など、戯言にしか聞えないだろう。しかし、ドゲットの瞳の奥に宿る救済の色
をどう解釈したらいいのか、スカリーは判断しかねていた。気のせいではない。ほんの一瞬、ドゲットはまるで助けを
求めるように、スカリーを見た。だが、今スカリーに出来る事は、話し続ける事だけだった。無力感に襲われながらも、
スカリーは先を続けた。
「あの日私は、歌のもつ力は、こんなふうに発揮させられるんだと実感したわ。あの歌は丁度子守唄のように私に作
用した。苦痛が無くなったわけではないけれど、少なくともそれを緩和できる余裕を心に与えてくれたわ。そしてそれ
を無し得る事が出来るのは、歌の意味を理解しそれを聞く全ての人に伝えられる本当の意味での歌い手。Muse
と呼ばれる人達なのね。」
突然、助手席の窓を叩く音に二人はぎょっとして、外を見た。そこには会社のマークの入ったキャップをかぶり、紺色
の作業着を着た男が腰を屈めて車の中を覗き込んでいた。ドゲットは直自分の呼んだ修理サービスと認め、スカリー
に不可思議な視線を投げた後、無言で車を降り、修理サービスの男を、自分のピックアップに案内して行った。
 スカリーはその様子を眺めながら、自分が話す間ずっと黙っていたドゲットを思い浮べた。そしてある決心をすると頷
き、車を降りた。これから自分のする事は間違ってはいないと、自分自身に言い聞かせながら、彼らの後を追ってピッ
クアップを目指し、歩き始めた。


 どうして自分はここにいるのか、ドゲットは意外な成り行きに呆然としていた。目の前にある洗面台の上には、見な
れない物ばかりが並んでいる。鏡に映った自分は、アンダーシャツにズボン姿で大判のタオル片手に、心もとなく辺
りを見まわしている見知らぬ国に迷い込んだ異邦人のようだ。
 ドゲットは暫く躊躇った後、タオルを洗面台に置くと衣服を脱ぎ始めた。全くどうしてこうなってしまったんだ。故障し
たピックアップの側でぼんやりしている自分の前にスカリーが現れてからというもの、すっかり彼女のペースだった。
結局、修理工場行きになったピックアップが牽引されて行くのを眺めながら、どうやって自宅に帰ろうか思案する間も
なく、送るから、傷の手当てをするから、と半ば強引に車に乗せられ、あれよあれよと言う間にスカリーの自宅に引っ
張り込まれ、身体が冷え切ってるから、温かいシャワーを浴びて来なさいと、タオルを渡され、コートと上着、シャツま
で血の染みを取るからと脱がされ、バスルームに追いやられてしまった。
 ドゲットは怒って居丈高に食って掛かるスカリーの対処方は慣れていた。軽く受け流す術も、撥ね付ける術も、臨機
応変に対応出来る。ところが、こんな風に自分に接するスカリーは初めてで、内心非常に困惑していた。まるで、ドゲ
ットが次に何を言うのか分かってるかのように先を読み、その返答全てに余裕の笑みを浮べ、微妙なユーモアを交
え、受け答えるのだ。
 ドゲットは独りになりたかった。しかし、そうする為にスカリーの申し出を断り異論を唱えても、馬鹿な事をと言った風
情で、全く取合おうとしない。ドゲットはそんなスカリーを説得するのが、段々面倒になってきていた。どうせ、何処に
いても変らないのだ。只でさえ、何時もの半分以下も思考が定まらない。仕事中はなんとか集中力を保っていたが、
それも今はふっつりと緊張の糸が切れ、千路に乱れる想いは心の大部分を占め、はっと気が付けば、スカリーの気
遣わしげな視線とぶつかった。
 面倒になった時点で、最早ドゲットに勝算は無かった。口篭もり、返事らしい返事もしないドゲットなどお構いなし
に、スカリーは自分のペースで事を運び、今現在ドゲットはこうして彼女の自宅のバスルームで、言われるがままに
衣服を脱いでいる。ドゲットは自分自身に呆れ果てていた。いくら今日が大変な一日であったからと言っても、この現
実はあまりに不甲斐なさ過ぎる。
 ドゲットはアンダーシャツを脱ぎ、ベルトに手をかけた途端、左手に走る鋭い痛みに顔を顰めた。何をやっているん
だ、俺は。後で処置するから濡らさないで。スカリーの厳命が聞えた。ドゲットは苦笑いすると、その後スカリーが付
加えた言葉を思い出し小さく溜息をついた。勿論あなたはそんな無作法な真似はしないと思うけれど、洗面台の上の
キャビネットは勝手に開けたりしないで頂戴ね、と、スカリーは、まるで母親のような口調で言い、タオルを渡し身体
の芯まで暖まるまで出てはいけないと念押しした。
 脱いだ衣服を洋服かけにかけ、シャワールームに入ると熱いシャワーを頭のてっぺんから身体に浴びる。ドゲットは
俯いたまま眼を閉じた。疲れていた。身体も精神ももう限界だった。どうでもいい。何をするのも、何かを考えるのも、
只ひたすら面倒だった。ドゲットは首を振り両手を壁につくと、流れ落ちるシャワーの水流に身を任せ、長い間身動き
もせず立ち尽くしていた。

 スカリーはドゲットをバスルームに追い遣った後、手早く自分の着替えを済ませ、冷たく湿ったドゲットの衣服を一纏
めに抱えてランドリールームに赴いた。抱えたドゲットの衣服からは、仄かに例の香が漂う。本当に何だろう。ドゲット
の様子から察すると、コロンではなさそうだった。だとしたら、何かの移り香なのだろうか。もしこれが女性からの移り
香だとしたら、この出で立ちにも納得出来るものがある。しかし、納得出来ないのは、親密なデートをしたとは思えな
いドゲットの、あまりに憂鬱な雰囲気だった。
 ドゲットのコートと上着をハンガーにかけながら、何気なく眼に入ったブランド名は、アルマーニとあった。普段のドゲ
ットと、アルマーニを結びつけることは困難だったが、上等の服を着ても決して見劣りするタイプではないと、これで見
事に証明されたと言える。
 見事。ええそうね。あの光景は美しかった。しかし、それは、怖いぐらいぴんと張り詰めた冷気の中で、触れたら壊
れてしまいそうに、儚く見えた。その光景の一部である、ドゲットの佇まいがそう思わせるのだろうか。スカリーはそこ
で不意に、部屋に通した時のドゲットの表情が眼に浮かび、口元を綻ばせた。
 中々部屋に入ろうとしないドゲットは、スカリーに半ば脅迫されるような形で、躊躇いがちに歩を進め、居間の中央
に立った。ポケットに両手を突っ込み、俯き加減に立ったまま、辺りを見回すことも、話しかける事も憚るといった風情
のドゲットは、戸惑い困り果てた眼差しをスカリーに向けている。
 何時もの冷静で落ち着いた物腰はすっかり陰を顰め、まるで十代の若者が初めて異性の部屋を訪れたように、所
在無く立ち竦み、側に寄れば後じさりでもしそうな雰囲気だ。別に噛みつかないのに。スカリーはドゲットのそんな様
子が可笑しかった。何時もと形勢逆転だわ。そしてこんな時こそと、スカリーは矢継ぎ早にあれこれ指図して、ドゲット
の鼻面を良いように引きずりまわす事から、ある種の快感を得ていた。
 悪いパートナーね。スカリーはドゲットのシャツの袖口に、数滴付いた血の染みを水洗いしながら、ちょっと反省し
た。しかも、家族やモルダ―以外の人間を滅多に自宅に招き入れた事など無い自分が、こうも強引に、まだそれほど
お互いを知り合ったわけではないパートナー、それも独身男性を部屋に入れるなど、普段の用心深さからは飛躍的な
大胆さに、我ながら驚いていた。
 でもそれは多分、相手がドゲットだったからだろう。これは何も彼が、男性として意識しない類の存在だからでは無
い。むしろドゲットは、非常に男性的だと言える。しかし、仕事中のドゲットはスカリーをけして差別的に扱わず、全く
同等に見なした。それどころか、控えめではあるが、賛辞と尊敬をもってスカリーに接している。これは彼女の自尊心
をくすぐった。と、同時に、そう出来るドゲットをスカリーは密かに評価していた。
 ドゲットと同年代で同じ経歴を持つ捜査員が、果たしてどれだけ彼と同じ態度を取れるだろうか。ましてや、スカリー
にはモルダ―と共に長年培われた不名誉な評判があるのだ。不愉快だったが、あからさまにしないだけで、心情的
にはカーシュの態度が、恐らくは殆どの捜査員の一致するところなのだろう。
 そう考えると、ドゲットが何故他の捜査員と同じではないかが、不思議に思えてくる。しかしそれも今のスカリーには
不思議でも何でもなくなっていた。徹底した、現場、現実主義。何時も事件の只中に身を置き、全てを自分で確かめ
真実を見極めようとしたきたドゲットの姿勢が、曇りの無い眼でスカリーを見詰め、下した評価だからだ。
 ドゲットがXファイルの価値を正しく評価し、それら全てを認めた訳ではなくとも、少なくともある種の称賛の意がある
事を、スカリーは感じ取っていた。そしてそれに長年関わってきたスカリーの功績を、決して蔑ろには取っておらず、そ
の事実はスカリーの誇りを満たした。モルダ―やスキナー、ローンガンメン以外の関係者に評価されるのは、やはり
嬉しかった。
 従って、ドゲットはパートナーとして、スカリーになんら警戒させるような振るまいをしてこなかった。では、パートナー
ではなく独りの男性としてはどうなのだろうか。
 普段のドゲットを一言で言い表すとしたら、大人だという一言に尽きるだろう。スカリーに対する彼の態度は、今時希
少価値でもある紳士的態度で、最近ようやく増えてきた会話やジョークにも下品で下世話な物言いは皆無だった。嫌
味でも大げさでもない、保護的な仕草も、ユタで交したワニとカメの例え話の如く、ごく自然に彼の本質から現れたも
のとしか思えなかった。
 従って仕事中ドゲットと二人だけでいても、普通なら妙齢の独身の男女が感じるであろう居心地の悪さなど、殆ど感
じられない。それどころか、ドゲットのゆったりとした受け答えや物静かな雰囲気は、彼女の心を落ち着かせた。時
折、ドゲットが側にいるだけで、思いも寄らない心の平安が得られている事を発見し、困惑する自分がいた。
 ドゲットには、何をぶつけても受け入れてもらえるという、懐の深さと大きさがあった。それが即ち、彼が如何に精神
的に成熟した男性であるかという事実を物語っていた。そしてこの事実があったからこそ、今こうして、何の抵抗も無
く自宅に招き入れる気になったのだ。
 そんなドゲットが、実は子供のように病院が嫌いで、自分の身体にはまるで無頓着なのがスカリーにはアンバラン
スに映った。それがたまにどうでもいい、という投げやりな風情に見えるのが些か気にいらなかった。しかもそのこと
に触れようとすると、必ず隠すか拒否しようとする。今回もそうだった。スカリーは先ほど、何気なく触れたドゲットの裸
の腕が氷のように冷たかったのを思い出した。こんなに凍えているのに平然とし、傷の手当てさえ終わったら直にで
も帰ろうと言う魂胆がドゲットから窺え、思わず強い口調で、シャワーを浴びるように命令したのだ。思えばアイダホの
ケースの後、ドゲットが病院嫌いであるという弱点を暴いておいたのは幸運だった。あれが無かったら、良いようにス
カリーは誤魔化されていただろう。
 スカリーは最近になって、一見してポーカーフェイスのドゲットの様々な仕草に、その内面が映し出されているのを
発見し、それとなくドゲットを観察していた。あまり癖の無いドゲットだが、話を続けたくない時の生返事とそれに続くし
かめっ面、失言したときの視線の動き、照れると赤くなる耳、考え込む時は俯き左手を顎に添える事など、注意して
みれば結構あった。しかしその中でも、最もよく目にするのが、両手をポケットに突っ込んでいる姿だった。
 子供みたいね。初めて見た印象はそうだった。確かにスーツのズボンのポケットに、両手を突っ込んでいる大人に
お目にかかった事はあまり無い。落ち着き年相応に見えるドゲットのその格好を見た時、野性的な少年が同じ格好
で躊躇いがちに微笑んでいる姿が眼に浮かんだ。どうしてかしら。スカリーは不思議だった。あまり行儀の良くない格
好なのに、ドゲットには不遜な雰囲気が無い。
 やがてそれを何度も眼にすると、スカリーには徐々にそれが、ドゲットが心の動揺を悟られたくない時や、気持ちを
静めようとしている時の仕草であると確信するに至った。多分ポケットの中の手は、固く握り締めているのだろう。己
の感情を悟られぬ為に、手の動きを封じているのかもしれない。
 そしてそんな時のドゲットの表情は、なんとなく身の置き所が無い不安そうな雰囲気を漂わせ、それはちょうど背伸
びした少年が、自分の存在理由を確かめたくて、廻りを見渡す心細そうな顔付きに似ていた。ドゲットが繊細な感受
性と、豊かな感情を何故そうまでして押し殺そうとするのか、スカリーには理解出来なかった。その全てが、タフであ
らねばならなかった、ドゲットの経歴に由来するとは思えないし、タフガイである証明をしようなどと、ドゲットは思いつ
きもしないだろう。
 スカリーはそこまで考えて小さく溜息をついた。なんと手ごわいパートナーばかりに私は当ってしまうのかしら。しか
し、モルダ―は、変っているという点を除けば、何時もスカリーに理解を求め、自分の方を向いていて貰いたいタイプ
で、その点で非常に分かりやすかったし、やりやすかった。が、逆にドゲットは普段接しやすい分、こうした時の心の
内を推し量れず、対処の仕方が困難だった。
 スカリーはなんとか染みを落したシャツの皺を伸ばしてハンガーにかけ、コート、上着と共にバーに吊るした。スイッ
チを弱いドライに設定し、ランドリールームを後にしたスカリーは、キッチンに赴き食事の支度に取りかかった。
 休日に造り置きしてあるビーフシチューを二人分解凍し皿に移して、バケットを暖めクリームチーズを添えパン籠に
乗せる。ロケットとパプリカの簡単なサラダは塩胡椒で薄く下味をつけ、ドレッシングをかけずにサラダボールに盛付
けた。
 キッチンテーブルに二人分セットした後、ドゲットを待ってから食事にしようか迷ったが、自身の空腹には勝てなかっ
た。別に恋人じゃないんだから、何も鼻付き合わせて食べる必要はないわ。そう言い訳して、さっさと食事を済ませて
しまった。最も、彼女には他にもう一つやるべき事があった。
 スカリーは、ドゲットの夕食の上にラップをかけると、流しの上のキャビネットから救急箱を取り出し、その隣に置い
た。
「・・・上を、・・着てはいけないんだったかな。」
躊躇いがちに声をかけられ振り返ると、キッチンの入り口にドゲットが立っていた。スーツのズボンを履き、上半身裸
のドゲットは、手に持ったアンダーシャツをスカリーに見せると、問い掛けるように首を傾げた。
「ええ、そう。傷の処置が終わったら着てもいいわ。それまで、これを着ていて。」
スカリーは用意しておいた、こげ茶のサテンのガウンをドゲットに差し出した。ガウンを受け取ったものの、どう見ても
男性用のガウンにドゲットは当惑してスカリーを見た。スカリーはその視線の意味を一瞬理解しかねたが、直に納得
すると呆れた口調で付加えた。
「亡くなった父のものだから、気を回す必要はないわ。泊まる時使っていた物で、クリーニング済みだから、別に構わ
ないでしょう。」
ドゲットはそれを聞いて些かほっとした表情になり、黙って頷くとガウンに袖を通した。スカリーは、ドゲットを座らせ救
急箱から消毒液を取り出し、ドゲットの正面に座り、左手から血が滲んだままの湿ったハンカチを慎重に外した。
 処置する間ドゲットは、相変わらず一言も声を発せず、痛みに顔を歪ませたりもしなかった。無表情な眼をして、俯
いたまま、手元を見詰めている。スカリーは消毒を終え、傷薬を塗ってから絆創膏で傷口を塞ぐと包帯を捲き始めた。
すると、それまで表情の硬かったドゲットの口元がふっと綻ぶのを認めた。丁度スカリーも同じ事を思い浮べ、釣られ
るようにくすりと笑い、それを見咎め、おやっという表情をしたドゲットに、慌てて言い繕った。
「どうせあなたほど上手く出来ないわ。言ったでしょう。臨床は苦手だったの。」
「そんな事は無い。君が思うほどじゃないさ。」
ドゲットに真顔でそう言われ、スカリーは照れくささに咳払いして誤魔化すと、救急箱をしまいながら立ちあがり言っ
た。
「そこに食事の用意をしておいたから食べて頂戴。」
「いや、僕はもう帰るよ。」
「・・・その格好で?」
スカリーは腰に手をやり、無遠慮にドゲットを眺めまわした。するとドゲットは落ち着き無く辺りを見まわし、スカリーに
尋ねた。
「そう言えば、僕の上着は何処にあるんだ?」
「ランドリーよ。」
「え?」
「エージェント・ドゲット。私はいい加減、この類の会話に飽き飽きしてるの。それにあんなに濡れた上着を着て、この
寒さの中帰ったら、肺炎になるわよ。上着は今乾かしているから、乾くまでその格好でいるのね。その間食事をする
ぐらいの時間は充分にあるんじゃないかしら。」
「・・しかし」
「ランチのお礼よ。それとも、ビーフシチューは嫌い?」
「いや、・・好物だ。」
「それは良かったわ。じゃあ、まだ暖かいから冷めない内にどうぞ。」
ドゲットは躊躇った後、諦めたように肩を竦め、黙って皿からラップを外した。スカリーはそれを見て満足そうに頷き、
血の付いたハンカチとバスルームの湿気を吸ったアンダーシャツを取り上げ、キッチンから出て行ってしまった。

 ドゲットに食事を取らせる事に成功したスカリーは、ハンカチを洗いアンダーシャツと一緒に干してから、納戸へと赴
いた。暫くその中で何かを探していたスカリーはやがて箱を二つ抱え出てくると、居間のコーヒーテーブルまで運ん
だ。テーブルの上に二つを並べて置き、前に膝立ちすると、その一つの蓋を開ける。中のものを眺めたスカリーは懐
かしさに、胸が熱くなった。
「探し物?CD?」
不意にドゲットの声が頭上から聞え、驚いて振り仰げば、腰を屈めたドゲットがコーヒーを片手に後ろから覗き込んで
いる。ええ、と頷き再び箱に向き直ると、中に手を入れ、CDを何枚か取りだしては、一枚一枚タイトルを確認し始め
た。ドゲットはその様子を興味深そうに眺めていたが、直に側に膝を付くとスカリーに、見てもいいかいと聞いた。
「勿論。それより、もう食べ終わったの?」
「え?ああ、うん。美味かったよ。ありがとう。」
スカリーは下を向いたまま、どういたしまして、などと呟いた。ドゲットはもう一つの箱の蓋を開け、思わず驚嘆の声を
上げた。
「随分あるな。」
その声に意外そうな響きがあるのを感じ取ったスカリーは、素早くドゲットの顔を見て何気ない口調で言った。
「全部が私のじゃ無いわ。」
案の定ドゲットは、怪訝そうな顔付きでスカリーの横顔を見詰めた。スカリーは相変わらずCDのタイトルを読みながら
さらりと告げた。
「姉のメリッサが、譲ってくれたの。私の生活には潤いが欠けてるからなんですって。不思議ね、亡くなる丁度1ヶ月
前だったわ。結局これが姉の形見になってしまった。」
ドゲットの表情が曇るの認め、慌てたスカリーは話を変えようとCDに注意を向ければ、何気なく取った一枚に思わず
ほくそえんだ。スカリーはその一枚を反転させ、ドゲットにジャケットを見せると、からかうような口調で話しかけた。
「あなたに似てるわ。」
「『The Nightfly 』、ドナルド・フェイゲンか・・。」
「知ってるの?」
「持ってる。」
「あなたが?これを?」
スカリーはドゲットとAORの組み合わせがしっくりこず思わず聞き返せば、ドゲットは決り悪そうに補足した。
「僕に似てるからと、昔付き合ってた女性がくれたんだ。」
スカリーはあら、と言って冷やかすような視線をドゲットに送れば、照れくさそう眼を逸らし鼻を擦っている。スカリーは
その様子が可笑しかった。まじまじとジャケットを見詰め、聞き返した。
「それって、何時の話?」
「・・そいつが発売された時だから、・・・82、か83年頃だったかな。」
「そうなの。・・・・と、言う事は、この時からこの彼に似てたなんて、あなたって随分老けた若者だったのね。」
それを聞いたドゲットは身体を起こし、スカリーの顔を睨んだ。しかしスカリーが顔を背け笑いを堪えているのを発見
し、悪かったなと呟き苦笑した。ああ、良かった。スカリーはその笑顔を見て、ほっとしていた。ようやく、ドゲットの笑
顔を引き出せたのだ。スカリーはこの和やかな雰囲気を維持したくて、更に会話を続けた。
「何時もは何を聴くの?」
「・・・・ドン・ヘンリーはソロになってからも、よく聴くな。」
「イーグルスね。他には?」
「マイルス。」
スカリーはちょっと考えてから、首を傾げドゲットを見詰め確認するように言った。
「マイルス・デイビス。」
「そう。」
ドゲットはスカリーの先を促すような視線に気付き、箱の中のCDを繰りながら話を続けた。
「NYPDでの最初のパートナーっていうのが、ジャズマニアで熱狂的マイルスファンだったんだ。彼には仕事のノウハ
ウも教わったけれど、付録も付いてきたって訳さ。」
スカリーは頷くと、ドゲットの君は?との問いかけに、機嫌よく応じた。それから二人は暫く音楽談義に花を咲かせ
た。幸いメリッサのCDコレクションは多岐にわたっていて、話題には事欠かなかった。お互い自分の前の箱から、CD
を取り出しては聞いたことがあるだの、それについての思い出だのを、語り合うのは楽しかった。
 スカリーはドゲットと、こんな風に寛いで世間話が出来る自分に驚いていた。それと言うのも、ドゲットが素晴らしい
聞き役で、豊富な知識をひけらかすわけでもなく、スカリーの言う事に面白そうに相槌を打ち、愛情の篭った暖かい眼
差しでじっと見詰め、決して自分を前に押し出そうとはせず、終始熱心に耳を傾けているからだった。そんなドゲットの
様子を見れば、ケビンの態度など当然と言えば当然と言えよう。現にこうして、モルダ―といる時は殆ど聞き役になっ
ていたスカリーですら、ドゲットに話を聞いて貰いたいという誘惑には勝てないでいる。
 モルダ―以外と、こんなに知的好奇心を満たすディスカッションが楽しめるとは、実際驚きだった。殆どがスカリーが
話してたとはいえ、それに対するドゲットの短い返答には、普段のドゲットがあまり見せない、軽妙洒脱で上質なユー
モアが溢れていた。スカリーはこの会話と雰囲気を思う存分楽み、出来れば終わらせたくなかった。しかし、唐突に、
それは終わってしまった。
 スカリーが話しながら、目当てのCDを探し当てドゲットに見せようと、何気なく視線を巡らせれば、手に持ったCDを
不可思議な眼をして見詰めるドゲットの横顔があった。何を見てるのかと手元を覗き込めば、それに気付いたドゲット
が咳払いをして肩を竦めた。
「いや、変ったCDがあるなと思ってさ。」
「・・・『クジラの歌』ね。以前メリッサと水族館に行った時、メリッサが小躍りして買った物だわ。」
「聴いたことが?」
スカリーはしたり顔で頷くと答えた。
「ええ、それはそれは、何度も。」
ドゲットは薄く笑い、ややあってからそれを箱に戻し、思い詰めた口調で切り出した。
「・・・・今日は、・・その、済まなかった。まさかこんなに早く、しかも君やスキナーにまで召集がかかるとは思わなか
ったんだ。」
スカリーはその言葉を噛締めると、目を細め訝るようにドゲットを見た。
「・・・つまり、ついうっかり、じゃ無かった?」
「ああ。」
ドゲットは低く返答した後、もの思わしげに俯くと、左手で唇を擦った。スカリーは、ドゲットを責める気にはなれず、そ
れより何故彼がわざと報告書を差し替えたのか、その理由が知りたかった。ドゲットは今それを告白しようとしている
のかもしれない。スカリーはもう暫く待っていれば話すだろうと、黙ってドゲットの顔を見詰めていた。
 ドゲットは考え込んだまま、緩んできた包帯の巻き終りを、上手く止めようと試みていた。しかし心ここに在らずとい
った風情でする為、必然的に何度も何度も繰り返す事になる。その機械的な仕草はスカリーの眼にやるせなく映っ
た。スカリーはドゲットの右手から、やんわりと包帯を奪うと、少し解いてから丁寧に捲き始めた。突然、独り言のよう
にドゲットが口を開いた。
「・・・・あのケースでの、僕の役目は何だったんだろう。」
「役目?」
スカリーが何の事かと聞き返せば、ドゲットは俯いたまま言葉を続けた。
「君が僕に言ったんだ。僕の役目は終わったと。・・・僕が果たした役目とは、何だ。」
「決っているわ。事件を解決し、犯人を逮捕する事。」
「そう、・・・そうなのか。」
「そうよ。そしてあなたは立派に成し遂げたわ。事件は解決し犯人も逮捕された。」
「解決。」
スカリーは包帯を捲き終り、再び黙ってしまったドゲットの顔を覗き込んだ。ドゲットは眉間に皺をよせ、じゃあ、と言っ
て躊躇い、一旦言葉を切った。それから不意に顔を上げ、真摯な眼差しでスカリーを見詰め、尋ねた。
「じゃあ、あの子は何の役目があって現れたんだ?」
「・・・・・ビリー・アンダーウッド?」
「エージェント・スカリー。僕はこの際、もうあの子が何であろうと構わない。既に死んでいるのに何になって現れたか
など、どうだっていいんだ。どうせそいつを解明するには、膨大な時間がいるんだろう。僕が知りたいのは、ビリーが
何故今になって現れたかという、理由だ。」
ドゲットは視線を落し先を続けた。
「僕は帰ってから、ずっと考えていた。何故今になって、一体何の為に当時の姿のままでビリーは現れたのか。」
「ビリーが何であるかを度外視して説明するのなら、それはきっと、なんらかの超自然的力で弟の危険を予測し、そ
れを知らせる為と考えるのが妥当かもしれないわね。勿論、科学的根拠などないわ。」
スカリーが柔らかな声でそう答えると、ドゲットはうん、と頷き左手を無意識に摩り暫く考え込んでいたが、やがて呟く
ように言った。
「・・・・10年。10年か。長いな。エージェント・スカリー、アンダーウッド夫妻は10年という年月を、どうやって過ごして
いたと思う。ある日忽然と愛する息子が消える。何処に行ってしまったのか、生死も分からず、出来うることは全てし
尽くした、あの夫婦が送ってきた10年間は、どんなものだったんだろう。」
スカリーはドゲットの言葉に、思わず自分とモルダ―を重ね合わせ胸が熱くなり、眼を瞬かせると顔を背けた。ドゲット
はそんなスカリーには、全く注意を向けず、両手を組み合わせると、その手をじっと見詰めた。
「彼らはこの10年間というもの、ビリーの事を考えない日は無かったはずだ。昼も夜も、事件当日を繰り返し繰り返
し、心の中で再演し続け、答えの出ない問いをずっと自分に問い掛ける。何が悪かったんだ。どうすれば良かったん
だ。あの時ああしていれば、こうしていれば。・・・それは事件が解決するまで決して終わらない、果てしない責め苦
だ。そこへ、10年前と同じ姿で息子が帰ってくる。幻なんかじゃない。言葉を話せなくとも、触れることが出来る。抱き
しめる事が出来る。柔らかい頬に頬ずりし、日向臭い子供の匂いを嗅ぎ、確かに戻ってきたと実感できたんだ。10年
間夢に見ていたことが、実際起きたんだ。父親はともかく、母親の喜びは、計り知れない。」
唐突にドゲットは言葉を切ると、ぎゅっと眼をつぶり、深く項垂れると目頭を手で押さえた。声の調子が変だ。
「しかし、結局のところ、終わってみればぬか喜びだったんだ。ビリーはとっくの昔に死んでいた。・・・ビリーが現れた
のは、確かに弟の危険を阻止する目的もあったろう。だが、もしかしたら、ビリーは両親の苦しみに終止符を打つ為に
現れたのかもしれない。ビリー自身の事に決着がつかねば、彼ら夫婦は一生苦しみ続けなければならなかったん
だ。」
いきなりドゲットはテーブルに肘を付くと両手で頭を抱え、吐き捨てるように呟いた。
「畜生、・・だからどうだって言うんだ。」
スカリーは思わず眼を見張り、ドゲットの俯いた顔を凝視した。
「子供は死んでいた。二度と帰らない。彼らに残ったものは、何も無い。」
苦りきった声でそう言ったドゲットは、髪を握り眼を見開いたままじっと床を見詰めている。スカリーはそんなドゲットの
傍らで、この会話の行きつく先を予測し、我知らず慄いていた。しかし覗き込んだドゲットの瞳に宿る、怒りと悲しみを
認め、思わずそっと彼の肩に手をかけようとした。が、その指先が触れるか触れないかのうちに、ドゲットは僅かに身
を引き、両手をテーブルの上に下ろすと、背筋をしゃんと伸ばし正面を見据えた。続く抑揚のないドゲットの声はスカリ
ーの胸を深く抉った。
「子供は永遠に帰らない。彼の存在が失われてしまった今、あの夫婦に、ビリーについて残されたものは、生きてい
た時の思い出と、それに続く10年の苦しみだ。・・・・事件が解決し、ビリーの死が確認されたとなれば、ビリーに関
する思い出も、・・・・彼に関する、苦しみや悲しみさえも、全て家族だけのものだ。・・・それを僕らのような部外者が、
土足で踏み荒らすような真似をしては、いけない。」
「・・・・だから、報告書にビリーの名前を載せなかったのね。」
「馬鹿だったよ。・・・それとこれとは別に考えなければいけなかった。どうかしていたんだ。」
ドゲットは哀しげな微笑を浮べ、掠れた声で済まなかったと呟き、長い溜息を吐き出した。そして2、3回咳払いをする
と思い出したようにテーブルの上のコーヒーを啜った。
「喉が痛むの?」
心配そうにドゲットの様子を眺めていたスカリーの問いかけに、ドゲットは警戒するような眼をして短くいや、と答え
た。ところが却ってその仕草がスカリーに、確信を抱かせてしまった。
「隠しても無駄よ。今そんな顔をしたわ。飲み込む時痛むんでしょう。」
「大した痛みじゃない。」
スカリーは大きく頷きながら、黙って向いのソファーを指差した。ドゲットが迷惑そうな顔付きをして顔を背けたので、ス
カリーはすっくと立ちあがり、厳命した。
「エージェント・ドゲット。ソファーで休んで。」
ドゲットはとんでもないと言った風情で、大丈夫だと口の中で言ったが、スカリーの厳しい言葉に結局は従わざるを得
なかった。
「あなたに仕事を休まれたら、一体誰が報告書の説明をカーシュにすると思っているの?今日提出した報告書が戻っ
てくるまで、あなたには万全の体勢で控えていてもらいたいの。風邪なんかひいたら承知しないわ。」
スカリーが見守る中、ドゲットはのろのろとソファーに移動し、渋々身体を横たえた。ところがそうして見ると、予想外
に寝心地が良かったらしく、自然と長々と身体を伸ばし、クッションに頭を預けすっかり寛いでしまっていた。スカリー
は、その様子を満足そうに見てから、ちょっと待っててと言い、暫くキッチンに引っ込んでいたが、やがて湯気の立っ
たマグカップを持って戻って来た。手渡されたマグカップを覗き込みドゲットが尋ねた。
「何だい?」
「ホットワイン。」
得意げに答えるスカリーの顔を、ドゲットは情けない顔で仰ぎ見た。
「そんな顔しないで、薬だと思って飲んで頂戴。意外と美味しいのよ。引きはじめの風邪はこれで大抵治ってしまう
わ。」
ドゲットは顔を顰めたまま暫くマグカップを見詰めたまま躊躇っていたが、ちらりと見上げたスカリーが呑まなきゃ許さ
ないわといった目つきで見下ろしているのを認め、小さく溜息をつくとちびちびと飲み始めた。スカリーは微笑みなが
ら、全部飲むのよと付加え、ドゲットが、ううとか、ああとか唸るのを横目に、テーブルの上を片付け始めた。箱の蓋を
閉め、先ほど捜し当てたCDを手に振り返り、顔を顰めたままホットワインを飲んでいるドゲットにスカリーは言った。
「昼間話した曲。かけてもいいかしら。」
ドゲットは上目にスカリーの顔をさっと見てから、両手で持ったマグカップに眼を戻し、物憂げな声で構わないよと、呟
いた。スカリーはプレーヤーにCDをセットし、音量をBGM程度に絞るとテーブルに戻り箱を重ねた。
「あの曲だけかけてもいいんだけど、気に入ってるアルバムだから、最初からかけるわ。ちなみに最後の曲が例の曲
なのよ。」
ドゲットは眼も上げずに頷き、最早不服そうな顔もせずワインを飲んでいる。スカリーは、ドゲットの様子から、疲労の
色が濃いことに気づいた。暫くそっとしておこうと、箱を抱え納戸にしまうと、今度はランドリールームへとドゲットの衣
服の乾き具合を見に赴いた。
 スカリーがすっかり乾いたドゲットの衣服一式をハンガーに吊るし、一纏めに抱え居間に戻った時は、それから30
分ほど過ぎていた。コートかけに衣服を吊るし、やけに静かなドゲットの様子を、足音を忍ばせ覗き込めば、案の定ぐ
っすりと眠っていた。スカリーは直に寝室のクローゼットから毛布を持って戻ると、ドゲットの身体をそっと覆った。ドゲ
ットは空になったマグカップを胸の上で、握り締めたまま眠っている。スカリーは枕もとに膝をつくと、起こさないよう慎
重にドゲットの手からカップを外した。すると、ドゲットは僅かに身じろぎしスカリーの方に寝顔を向け、再び動かなくな
った。
 スカリーは暫くそこに留まり、ドゲットの寝顔を眺めていた。少し、痩せた。スカリーは眉を顰め、用意した夕食が殆
ど手付かずだったのを思い出した。最近ドゲットが何かを口にするところを見かけていない。他人の事には気が廻るく
せに、自分のこととなると、まるで心配されるのが、不当であるかのような態度をとる。スカリーは、車の中でドゲット
の手を取った時や、先ほど肩に触れようとした時の様子を思い起こした。
 反射的に身を引いた。あれは、無意識の行動だった。傷の手当てや、包帯を捲いたりという時に触れても、大した
抵抗は示さない。しかし彼を気遣ったり、親しみを込めて触れようとすると、途端にすっと離れてしまうのだ。最も顕著
だったのが、車の中での動作だった。何かを怖れている。何かは分からない。だが、ドゲットが何か自分に関する事
柄を考えている時に寄り添おうとすると、まるでシャッターを下ろすように相手を遮断し、一気に自分を覆い隠してしま
う。
 スカリーは小さく溜息をついた。そして毛布から出ている彼の腕を、そっと中に戻しながら、ドゲットの寝顔に、深く刻
まれた眉間の皺や、疲労の浮き出た青ざめた顔を眺めた。パートナーなのに。あなたは私の心配してもいいけれど、
私はそうしてはいけないの?エージェント・ドゲット。あなたの心をこれほど苦しめる原因は何?でももし、今それを告
げられても、私はあなたに何もしてあげられない。私には一握の力も無いんだわ。スカリーは唇を噛んだ。スカリーは
只、これだけはドゲットに告げたかった。自分がパートナーであると言う事。何時も側にいて、必要ならいつでも手を差
し延べようと控えていると言う事を。
 丁度その時例の曲ががスカリーの耳に入った。この曲はドゲットに聴かせたくてかけたのに、これじゃ無理ね。その
場で曲が終わるまでドゲットの顔を眺めていたスカリーはある事を思いつき、マグカップを持って立ち上がるとその場
を、そっと離れた。
 
 何の音だろう。スカリーは僅かな物音に暫く眼を閉じたまま考えていた。が、直に玄関のドアが閉まる音だと思い当
たると、慌ててベットから飛び起きた。ナイトガウンを羽織り、居間に赴けば既にドゲットの姿は無く、窓から外を見れ
ば走り去るタクシーが見えた。後部座席の人影は、見覚えのある後姿だ。
 スカリーは溜息をつくと窓辺を離れた。時刻は午前1時を廻ろうとしている。何気なく視線を巡らせればコーヒーテー
ブルの上にメモが置いてあった。
『食事をありがとう。ドゲット』
短く書かれたメモの隣にはきちんと畳まれたガウンがあった。ドゲットは帰ったのだ。スカリーがシャワーを浴び、部屋
の灯りを落とした時はぐっすりと眠っていたのに、一体何時目を覚ましたのだろう。自分がベットに入ってから、一時
間も経ってはいなかった。スカリーはメモをガウンの上に置くと、仕事机に赴いた。
 コンピューターを立ち上げ、添付ファイルを開ける。そこにはオクラホマから戻った日に、ケビンから届いたメールに
添付されていた、写真が入っている。届いた日にすぐ開いたのだが、あまりの容量に時間がかかった。何故なら、ケ
ビンがこちらに来た時使用したデジタルカメラが、保安官事務所の備品で事件関係の写真が50枚以上、ケビンの撮
った写真はようやくその後に10枚ほどあったからだ。ケビンのメールには、備品を持ち出して父親に凄く怒られた事、
自分達の写真だけ送りたかったけれど、どうすればいいか分からなかったからとりあえず全部送った事、デジタルカメ
ラを扱ったのは大学生の従兄だから上手く撮れてるでしょうと自慢げに結んであった。
 スカリーはケビン達の写真を次々とクリックし、画面一杯に拡大して眺めた。NYの街角をプリンスと歩くケビン。それ
に続く観光名所を巡る数枚の写真。野球場でのケビン。確かにどれも上手く撮れていた。しかし秀逸だったのがその
後の数枚だった。それは、多分近所の公園なのだろう。1枚目は広い芝の上を、ケビンとジーンズにトレーナー姿のド
ゲットが和やかにキャッチボールをしていた。別の1枚ではプリンスと一緒になってボールを追いかけているドゲット
を、カメラの方を向いたケビンが指差し大笑いしていた。次の1枚は高く上がったフライ受けようと待ち構えるケビン
と、芝に座り暖かな眼差しでそれを見守るドゲットの横顔が写っていた。
 ケビンはともかく、ドゲットのこんなにも伸びやかで寛いだ表情を目の当たりにし、スカリーはこちらが彼の本質であ
ると思わざるを得なかった。血なまぐさい事件現場や、薄暗い地下のオフィスなど、この写真のドゲットからはあまり
にもかけ離れていた。煌く陽光と、爽やかな空気、緑成す大地に置かれて、初めてドゲットは、彼本来の姿に戻り、
無邪気に犬と戯れ、子供と遊び、笑い、走り、自然な呼吸で心穏やかな時間を過ごしている。
 スカリーは最後の写真を拡大した。あまり動きの無いこの写真は見るたびに彼女の心を揺さぶった。が、それは同
時に、微かな胸の痛みを齎した。そこにはケビンとドゲットが並んで写っていた。満面に笑みを浮べたケビンが、ドゲ
ットの腕に自分の腕を絡ませ彼を見上げ、ドゲットは少し俯き加減にケビンを見詰めていた。しかし、その表情はかろ
うじて口元に微笑を浮べているものの、僅かに顰めた眉と困惑したような眼差しが相俟って、スカリーには物淋しい
表情に見えて仕方なかった。
 こんな顔をしていてはいけない。スカリーはオクラホマから戻り、この写真を見るたび何時も思っていた。それは、人
生に絶望し幸せを諦めた人間のする顔だった。ドゲットも又、汀に佇み暗い淵を見詰め続けている。凍えているのは、
心なのだ。スカリーは哀しかった。ドゲットの固く凍った心を溶かせない、自分の無力さが厭わしかった。




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