狼は還る


                               【プロローグ】

 夜は闇よりも濃く、闇は夜よりも深く、澱んだ空気の奥底で息を潜め、ひたすら時を待つ獣がいる。痩せさらばえ老
いた毛むくじゃらの身体に生気は無く、吐く息は毒を臭わせ、それでもその濁った黄色い目だけはらんらんと虚空を見
詰め続けている。深い森の奥、如何なる生き物さえ足を踏み入れぬ不毛の洞穴で、老獪な狼はもう長いこと、只そう
やって寝そべっていた。
 その夜。新月が黒い影で覆われる時、突如老狼はむっくりと立ち上がり、洞穴の外へ出た。徐々にかけ始める新
月を見上げ、真っ赤な口を耳まで引き上げ、狼は笑った。邪悪な人の笑い声が辺りに木霊する。すると、我が身の声
にうっとりと眼を細め、老狼は月に向かって叫んだ。
「待っていたぞ。」
月を覆い隠す黒い影に、狼の哄笑が不気味に響き渡っていた。
 
 同じ時、アクイラの城で美しい妻の傍らに眠っていた男が、嫌な胸騒ぎに目を覚ました。眠っているであろう妻に気
付かれぬよう半身を起こせば、その妻に不安げな声で話しかけられた。
「あなたも?」
「ああ。・・・嫌な感じだ。」
2人はベッドから降り、寄り添って窓の外を見やれば、見えるはずの満月が影に食われている。不吉な黒い影に美し
い顔を曇らせ、妻が呟いた。
「良くないことが起こる。気のせいじゃ無いわ。私には分かるの。あなたもでしょう?エティエンヌ。」
エティエンヌと呼ばれた男はそれには答えず黙って月を睨んでいたが、不意に身体を翻すと、ベッドにかけてあったマ
ントを纏った。
「何処へ?」
「聖堂に行ってくる。」
「私も行くわ。」
そう言って妻が、同じくベッドにかけてあった自分のガウンに手を伸ばせば、その手をそっと押さえ、男は妻の眼を覗
き込んだ。
「君はここにいなさい。見回るだけだ。大丈夫。何も無いだろう。心配要らないから、先に眠るといい。」
「嫌です。一緒に行きます。」
「イザボー・・・。」
突然彼女はきっとして分からず屋の夫を睨みつけた。
「じゃあ、何かあったら?何かがいたら?何かにされたら?私はもう二度と、あんな思いはしたくありません。けれど、
あなたに何かあっても、離れていたら何も出来ないわ。あの時、誓ったでしょう?」
「しかし・・。」
「私のことを心配しているなら、無用です。」
そして手早くガウンを纏ってから、ついっと夫のマントの襟元を両手で掴んで引き寄せ、当惑げなその瞳をいたずらっ
ぽく見上げて囁いた。
「何故なら、この国最高の騎士が、私を守ってくれるのですから。」
それを聞いた男は、柔らかく微笑みイザボーの身体を抱き寄せると、その花びらのような唇にそっとキスをした。愛情
を確かめ合うように唇を重ねた2人は、固く抱きあったまま、窓の外を振り仰いだ。
 月は黒い影に侵食しつくされようとしている。闇は増すばかりだ。

 

 ある博物館。その日の夜遅く、ドゲットとスカリーは欧州から届いた非常に古い、数々の歴史的展示物の警備に当
っていた。博物館の展示物の警護にFBIが駆り出されたのは、この一年の間立て続けに各地で起こった美術品の窃
盗団が、次に狙うのがこの展示会の展示物にあるという、匿名の情報があったからだ。
 『中世の宝飾品。その歴史と由来』そう銘打ったこの展示会には、欧州の各国から、様々な宝飾品が数多く集めら
れていた。宝石をちりばめた黄金の王冠。首飾りや指輪。剣や盾。搬入は夕方から始まり、つい今しがた全ての展
示が終了していた。搬送の為に使われた木箱や梱包紙を職員が慌しく片付けている間、ドゲットはセキュリティール
ームで監視カメラの確認と、スカリーは博物館内の見回りを、分担して行っていた。
 全てのカメラチェックが終ったドゲットは、展示会場から戻らないスカリーに終了を告げようと、博物館の警備員に監
視を任せ、セキュリティールームを後にした。職員は既に引き上げ、照明を最低限に落とした人気の無い博物館は、
深閑としている。ドゲットは一部屋ずつ異常が無いか確認しながら、メインホールの監視カメラに映っていたスカリー
の下へ向かっていた。
 その頃スカリーは、展示物の最大の目玉が飾られている王冠や、宝飾品が置かれた広いホールにいた。しかし彼
女が立ち止まって眺めているのは、王冠の飾られたガラスケースではなく、ホールの隅に置かれた小さなガラスケー
スに収まった、みすぼらしい革製品とオリーブ程の大きさの素晴らしいエメラルドがはめ込まれた金の指輪だった。
 中央に置かれた贅を尽くした王冠や首飾りなどに比べれば、明らかに見劣りするが、場違いな革製品と豪奢な指
環という取り合わせが却ってスカリーの眼を惹いた。ガラスケースの脇にある説明書きには、この展示物の由来がま
ことしやかに書かれている。
『年号不詳。恐らくは十字軍遠征直後の時代かと推測される。フランス南西部のアンジュー公国の美姫がアクイラの
大司教の呪いを受け、鷹に変わったという伝説がある。革製品は鷹の足緒。指輪は大司教が呪いに使ったもので、
これら二つは昨年まで、アクイラ聖堂の隠し部屋に封印されていた。地震によって偶然発見された隠し部屋に厳重に
鍵を掛けられた鉄の箱には、次のような戒めが後世の者へ向け刻まれていた。月闇に覆われし時赤き血が邪
悪な狼を蘇らせるだろう。狼は血を呼び魂を喰らい復讐する。汝、安らぎを求めるなら仲間と共に
繋がりを絶て。囚われた魂は月の力で解放される。真の心にて狼は・・・この後は破損が激しく判読
不能。』
 呪い。鷹に変わったお姫様。封印された部屋。ファンタジーの世界ね。スカリーは、ロマン溢れる中世の世界を思い
描き微笑んだ。科学が発達しなかった暗黒時代、人間は不可思議なものや理解出来ない現象を、魔法という言葉で
一括りにして、納得していた。そんな時代に生きる人達は、現代人よりもっと素朴で純粋だったに違いない。人間が
呪いで鷹になるなど、ありえないと断定しているスカリーは、封印されていた二品を眺めそう思った。
 が、確かにその指輪にはめ込まれたエメラルドには、当時の人達がそう信じたような、禍々しい光がある。宝石とは
思えない波動を、その光から感じとったスカリーは、その怪しい光に危うく魅入られそうになったが、不意に何かに引
き戻されるように我に返った。眼を瞬かせ身体を起こしたスカリーが、覚えのある人の気配に振り返れば、案の定そ
こにいたのはドゲットで、彼は腕を組み少し離れたホールの柱に凭れ、彼女を見ていた。
 何時の頃からか、時折ドゲットがこうして黙ってスカリーを見詰めていることに、スカリーは気付いていた。そんな時
の彼の瞳は、安らぎに満ち、慈しむような眼差しで暖かく彼女を包んだ。スカリーはその度に、項の辺りがざわざわと
波立ち、些か鼓動が早くなるのを自分ではどうしようもない。しかもこの眼差しが何を意味するのか、スカリーには計
りかねたし、それを尋ねようにも当のドゲットさえ意識している訳では無いのだろう。
 スカリーは気まずげに咳払いすると、素っ気無い口調でドゲットに向き直った。
「エージェント・ドゲット。何時からそこに?」
「ああ、うん、今だ。見回りは終ったのか?」
「ええ。ここで最後よ。何故声をかけてくれなかったの?」
「何だか深刻な顔付きで覗き込んでるから、邪魔しちゃ悪いかなと思ったんだ。何を見ていたんだい?」
そう言ってドゲットはスカリーの横に歩み寄り、ガラスケースを覗き込んだ。続いて脇にある由来を読み、ふうんと言う
風に頷いた。しかしドゲットの顔に、不快そうな影が過ぎるのを認め、それを目ざとく見咎めたスカリーが、何なの?と
尋ねれば、ドゲットは不意にガラスケースから引き剥がすように身体を起こし、僅かに眉を曇らせた。
「好かんな。」
ぶっきらぼうにそう答えたドゲットは、面白く無さそうな顔付きで、スカリーに戻ろうと促した。興味が無いと言うより、
その指輪事態に嫌悪を感じているといった表情のドゲットの態度に、やはり彼も何か感ずるとことがあるのだろうか
と、スカリーは何となく、くすぐったいような気分を味わっていた。以前から、ふとした拍子に、実に自分と良く似た感性
をドゲットが示すことがあり、その事実はスカリーを当惑させていた。
 今も何気なくドゲットの隣に並び、ちらちらと彼の顔を仰ぎ見るのだが、天窓から入る月明かりに照らされたドゲット
の顔に、スカリーの戸惑う訳など書いてあるはずもなく、その視線に気づいたドゲットの問いかけるような眼差しに、
却ってどきりとしてしまう。だがこんな時のドゲットは、スカリーが話しかけない限り黙して語らず、スカリーの気持ちに
気づいているかは、その静かな表情から推し量ることは不可能だ。
 何か話してくれないだろうか。そんな風にスカリーが思うようになったのは、やはり最近で、それは別に間が持たな
いとか、気まずい雰囲気を解消したいとか、そんな類のものではない。只単にこうして2人、気安い静寂が流れる瞬
間に、ドゲットの話す声を聞きたいという、抗いがたい誘惑にも等しい願望だった。
 この願望に気づいた当初、スカリーはうろたえた。こんな願望は恋人に向けてこそ正当化されるが、同僚に求める
など果たしてあっていいものなのだろうか。しかしざわつく心とは裏腹に、低く柔らかな口調でゆったりと語りかけるド
ゲットの声を聞いていると、彼の持つ強さや暖かさが、何の抵抗も無く自分の中に流れ込み、スカリーに常に付きま
とう不安や苛立ちを、嘘にように消し去ってしまう。
 麻薬のようだわ。ある時、スカリーは事件の報告をカーシュにしているドゲットの横で、ふとそんなことを考えてい
た。分かりきった報告の中身などそっちのけで、ただただドゲットの話す声の中に、深く身を委ねていると、暖かな春
の海に身体を漂わせているような心地よい浮遊感に、現実に立ち戻るのが困難になる。麻薬でトリップしたらこんな
感じなのだろうか。カーシュへの返答をドゲットに任せ、隣でスカリーは深刻な表情を装いながら、全く別の場所へ飛
翔するという、密かな楽しみを見つけたことに、ほくそえんでいた。
 するとそんなスカリーの心を読んだかのように、何気なくガラスケースを眺めていたドゲットが不意に足を止め、何か
言いたそうな眼をして、スカリーを振り返った。その眼差しの意味が分からず怪訝そうなスカリーに、ドゲットはくいっと
顎をしゃくって大きなガラスケースの前に誘った。それは、等身大のガラスケースで、中には真っ黒な甲冑一式と、凝
った装飾が施された素晴らしく大きな剣が一振り、展示されている。ドゲットはスカリーが隣に並ぶのを待って、口を
開いた。
「同じ宝石でも、こっち方がいい。」
「剣ね。あなたらしいわ。」
「僕はあまり華美な装飾がされてるものは好きじゃないんだが、こいつは違う。普通の剣より刃渡りも幅も並外れて
る。剣の格が違うんだな。宝石が少しも見劣りしない。きっと名のある騎士が所有していたんだろう。」
「そう言われてみればそうね。使い込んだ美しさがあるわ。」
スカリーの言葉にドゲットは、嬉しそうな顔で頷いた。
「君もそう思うかい?そうなんだ。こいつは飾り物じゃない。この甲冑の持ち主と数々の死地を潜り抜けてきた、彼の
守り神みたいなものなんだ。鞘や、柄についた無数の剣の傷がそれを物語ってる。・・・何だい?」
スカリーは、ドゲットがこんな風に眼を輝かせて語る姿に馴染みが無く、ちょっと意外そうな顔で彼を見ていたのだ。そ
ういえば以前、この類の講釈を聞いたことがあると思い出し、ドゲットの見かけによらない一面を、からかうように問い
かけた。
「何だか、あなたもこういった剣を持ちたいみたいね。」
「僕が?まさか。こんな馬鹿でかい剣、振り回すことも出来ないさ。」
「そうかしら。あなたの腕力なら、可能かもしれないわよ。」
「腕力って、僕はレスラーじゃないんだぜ。そんな力は・・・。」
そこでドゲットは、はっとして口を噤んだ。隣でスカリーは口元を抑え、俯いている。しまったと言う顔でドゲットは舌打
ちすると、忌々しげにスカリーを睨んだ。
「笑うな。」
「笑って無いわよ。勿論、あなたはレスラーでは無いわ。」
「当たり前だ。」
「元海兵隊。」
「そう。」
「元NYPD。」
「そうだ。」
「で、今はXーファイル勤務のFBI捜査官。」
「その通りだ。」
「そして、腕力も強い。」
「そ・・・。」
思わず頷きそうになるドゲットの様子に、スカリーは吹き出した。エージェント・スカリー、とドゲットは語気を強めて窘
めるが、そんなものが見せ掛けだとスカリーには、とうの昔に知れている。最早笑いの止まらないスカリーを、初めは
憮然と眺めていたドゲットだったが、やがて参ったな呟き、にやにやと顔を綻ばせた。中々笑いの収まらないスカリー
の気を逸らそうと、ドゲットは話を変えた。
「さっきの指輪の宝石。あれはエメラルドだろう。」
「ええ、そうよ。あの大きさのものは滅多に無いわ。」
「そうだろうな。だが、僕としちゃあ、この剣の真ん中にある奴の方が、好みだ。」
ようやく笑いの収まったスカリーは、ドゲットが指し示した箇所にある宝石を見て、あら、と声を上げた。どうかしたの
か?と方眉を上げ問いかけるような表情のドゲットに、スカリーは2、3回咳払いをし理由を話した。ドゲットは覚えて
いたのだろうか。
「月長石。青みがかってるからブルームーンストーンね。」
スカリーの返答に、ああ、と溜息とも取れる言葉を発し、ドゲットは改めてその石を覗き込んだ。何処か妙な素振りの
ドゲットに、スカリーは尋ねた。
「・・‘ああ’、って何なの?どういう意味かしら。」
ドゲットは不思議そうに見上げるスカリーの眼差しに、暫し言い澱んでいたが、やがて居心地の悪い顔でこう答えた。
「・・・ムーンストーンは、以前君から聞いたことのある石の名だから覚えていたが、こいつがそうとは知らなかった。」
「え?じゃあ、あなたあの時、どんな石か知らずに相槌打ってたの?」
「いや、そういうわけじゃないさ。・・・だから、図鑑を見たり所見を読んだことがあったから、知識としては知っていた
が、こんな風にきちんと、宝石として研磨された実物を、間近で見ることなんて、滅多に無くてね。言われるまで分か
らなかった。」
「じゃあ、何だと思ったの?」
「それは・・・そのう、てっきりオパールかなと・・」
「オパール!?・・・まあ、乳白色ってところは同じだけれど、オパールとはかなり違うわよ。・・・まさかとは思うけど、
オパールがどういう石かは、知ってるんでしょうね。」
「・・・多分。」
と、頼りない様子のドゲットに、スカリーが疑わしそうな眼差しで見上げたので、咄嗟に返したドゲットの言葉は、些か
言い訳めいた響きが、無きにしも非ずだ。
「何しろ宝石なんて、盗品の押収品とか、事件絡みの証拠や遺留品としてしか、見たことが無いからな。僕が見る時
は、何時もガラスケースから出た後で、出る前の状態のものを見る機会は、殆ど無かったんだ。」
「デパートの宝石売り場にも行かないの?特別な人へのプレゼント選びとか・・。」
「茶化すなよ。安月給は承知してるだろう。」
そしてドゲットは、ふうん、こいつがねえ、などと言いながら、ばつの悪そうな面持ちで、再びガラスケースを覗き込
む。以前ムーンストーンを持ち出したのはスカリーの方で、その時のシチュエーションを振り返れば、ばつが悪かった
のは彼女なのに、これでは逆だ。しかし、薄暗い常夜灯と大きな天窓からの月明かりに照らし出されたドゲットの横
顔は、心なしか、赤い。
 照れている。スカリーは、そっと笑みを零した。多分、この石がムーンストーンだと分からなかったのは本当だろう。
しかし、何時もならあっさり流すようなところなのに、それ以後の会話は、彼にしては随分と余計だ。つまり、これは彼
流の照れ隠しなのだ。照れ臭さゆえ多弁になってしまったドゲットの様子は、スカリーに好ましく映った。こういうことを
上手く言い繕えない男性に出逢ったのは暫くぶりで、知れば知るほど新たな発見のあるドゲットの内面に、新鮮な驚
きを禁じえない。
 良くも悪くもこんなに意外性のある人間だなんて、組んだ当初は思いもよらなかったわ。スカリーはそんなことを考え
ながら、さあ、行こうか、と身体を起こし向き直ったドゲットの瞳を見上げた。ムーンストーン。今夜も月が出ている。ス
カリーは青みがかった銀色へと変化したドゲットの瞳の色に、ほんの一瞬心を奪われた。
 次の瞬間、見上げたドゲットの瞳に影が過ぎり、何かが割れるような音と共に、きらきらと月明かりを反射する光の
破片が、2人の頭上へと降り注いでいた。

 襲撃は素早かった。天窓を割りロープを使って進入した黒装束の窃盗団は、あっという間にドゲットとスカリーを拘束
し武装解除してしまった。武器を取り上げられ部屋の隅に追いやられた2人は、手を頭の後ろに組まされたまま、マ
シンガンを鼻先に突きつけられ、身動きが取れない。
 スカリーを乱暴に突き飛ばした男に、口を開きかけたドゲットは、その途端マシンガンの台座でしたたか顔を殴ら
れ、唇から血を流している。時折、眼を瞬かせ首を振るのは、脳震盪を起こしているせいだと、スカリーは隣で何も出
来ない自分に焦れていた。しかし、少しでもドゲットの方に動こうものなら、直ぐにマシンガンで押し戻される。
 大丈夫だ。気が付けばドゲットの眼がそう語っている。スカリーは突然むかっ腹が立ってきた。この言葉が一番信用
出来ないのに、それで私が安心するとでも思ってるのかしら。スカリーは怒ると、冷静になるタイプだ。直ぐに臨戦態
勢にチェンジした。
 窃盗団の狙いはやはり目玉の宝冠だったのだ。中央のガラスケースに黒装束の男が3人へばりついている。しか
し、このガラスケースはケース自体にロックがかかっており、割られたり傷がつくと、直通で警察に通報が行く。ここへ
の進入は、セキュリティーシステムを外部から凍結させたのだろうが、このガラスケースはそうは行かない。
 2人がケースの横で見張りに立ち、1人はPCをガラスケースのコンピューターキーにケーブルでつないで、ロックを
解除しようと動いている。そして後の2人が、スカリー達の両脇でマシンガンを突きつけているのだ。スカリーは素早く
状況を分析した。
 終始無言で的確に作業を進めるその姿は、手馴れたプロ集団と言えるだろう。今までの手口でも、盗みはしても、
殺人には至っていない。彼らを見ても、武器を所持しているのが、2人。他の3人は、盗み専門で例え武器を所持して
いても、大した腕では無さそうだ。この両脇にいる2人さえ制圧出来れば、活路は開ける。後は騒ぎを大きくして、セ
キュリティールームにいる警備員に気づかせればいいのだ。しかし、黒装束の上からでも分かる、如何にも武闘派と
いう体格のこの2人に、自分はともかく脳震盪でふらふらしているドゲットが、太刀打ち出来るのか。スカリーは唇を噛
んだ。
 するとその時、ドゲットが小さく咳をした。眼だけ動かしてドゲットの方を見れば、俯いたままドゲットはスカリーをさっ
と見る。ドゲットは一度は咳を何とか押さえたが、その後は上手く行かないようだった。マシンガンの男に銃で小突か
れる度に、胸を押さえ必死で収めるのだが、肩で息をし如何にも苦しそうだ。心配のあまり銃を突きつけられているの
も忘れ、覗き込もうとするスカリーだが、やはりマシンガンに遮られる。
 しかし、三回目に遮られた時、かっとしたスカリーは思わず男に向き直り、強い口調で言い放った。
「エージェント・ドゲットは、最近肺の手術をして治ったばかりなのよ。胸を小突くのは止めるように言って。」
黒装束の男はスカリーの剣幕に思わず、うろたえた眼の動きをした。スカリーの外見から似ても似つかぬ口調に、ち
ょっと意表をつかれた格好だ。しかし、その時ドゲットの咳は、どうにもこらえようが無くなり、激しい咳き込みに思わず
胸を押さえ膝を床に着いてしまったのだ。
 ドゲットを小突いていた男は舌打ちをすると、振り返りガラスケースの3人が未だ手間取っている姿を確認してから、
マシンガンを肩に担ぎなおし、忌々しそうにドゲットの腕を掴んで、乱暴に立ち上がらせようとした。だが、銃口が反れ
たその一瞬を、ドゲットは待っていた。
 ちらりとスカリーの視線を捉え、勢いよく立ち上がると掴まれた腕の拳を肘を軸にして、男の顔面に叩きつけた。ご
きっという音と共に鼻から血を流しうずくまる男から、マシンガンを奪おうとするドゲットに、スカリーを見張る男の銃口
が向けられた。しかしその途端体当たりしたスカリーに、男は数メートルも飛ばされ、駆け寄ったスカリーは男の手か
ら離れた、マシンガンを奪おうとするが、ほぼ同時にマシンガンを掴んだ2人は、マシンガンを挟んで揉み合いにな
る。
 一方ドゲットは、男のマシンガンを奪おうとするが、こちらの男はスカリーが相手をしている男より、体格や仕草から
数段上の人間らしく、さすがのドゲットも分が悪かった。とにかくマシンガンを構えられては面倒なので、接近戦で尚
且つマシンガンを奪わなくてはならない。しかも、注意していないと、何時後の3人が加勢に来るか分からないのだ。
 しかし、どうやら3人は中々解除出来ないロックと、外の見張りに精一杯で、こちらのことに構ってる暇は無さそうだ
った。だが裏を返せば、この2人はそれだけ後の3人に信頼されているということになり、決して油断出来ない相手と
も言える。それでなくとも時折ドゲットは、眼が霞み相手の動きがぶれて見えてしまい、それを悟られないことに必死
だった。
 その時だった。ドゲットの眼の端に、スカリーが大きく突き飛ばされ、その拍子に離れたところへ飛ばされたマシン
ガンと、突き飛ばした男が、腰のホルダーに手を動かす姿が映った。思うより早く体が動いた。咄嗟に目の前の男の
片腕を掴んだドゲットは、渾身の力で投げ飛ばし、背を打ち息が出来ない男を尻目に、スカリーの元へと駆け出した
のだ。
 一方スカリーは、突き飛ばされ倒れる既のところを、ガラスケースに掴まり何とか堪えた。マシンガンは部屋の隅に
飛ばされている。男は既に腰のホルダーから、何かを取り出していた。あ、不味い。そう思った瞬間だった。自分の目
の前に黒い影が覆い被さり、続いて、がしゃん、とガラスの割れる音が聞こえた。
 何が起こったのか、スカリーは直ぐに事態を把握した。黒い影はドゲットだった。彼は咄嗟にスカリーを庇うように胸
に抱き、続く衝撃で片手をガラスケースに付いたのだ。しかし、その小さく華奢なガラスケースはドゲットの全体重に、
抗う術も無く砕け散った。
 スカリーは、汗びっしょりで青ざめたドゲットが、身体を離しながら、荒い息の合間から掠れた声で、大丈夫かと囁く
のを聞いた。しかし、それを聞くドゲット本人の肩には大きなサバイバルナイフが刺さっており、ガラスをぶち破った右
手は血まみれなのだ。スカリーは、顔を顰め、ドゲットを睨んだ。
「私は大丈夫よ。エージェント・ドゲット」
すると、ドゲットは気丈なスカリーの口調に、にやりとし、身体を起こして振り返った。
「それは良かった。だが、この状況は、非常に良くないな。エージェント・スカリー。」
ドゲットに投げられた男がマシンガンを2人に向かって構えていた。もう1人も、マシンガンを取りに部屋の隅に走り、
直ぐにも戻って来るだろう。今度動けば、容赦なくマシンガンの掃射が始まるのは眼に見えてる。万事休す。ドゲット
の横に寄り添うように立ったスカリーは、思わずドゲットの顔を振り仰いだ。しかし、2人は目の前の敵より、もっと恐ろ
しい魔手が伸びようとしていることに、未だ気づいていなかったのだ。
 窓ガラスが無くなった天窓に、ほぼぴったりと月が収まった時、それは起こった。ドゲットの腕から垂れた血は、指
先を伝いガラスケースの中の指輪の上に落ちていた。その指輪とは先ほどの豪奢なエメラルドの指輪で、彼の血が
落ちるたび、鳴動するかのように震え、まるでスポンジのように一滴残らずその血を吸い込んでしまう。そして時が満
ちる。月の光が天窓から、まっすぐに指輪を照らした。
 ぐわん。という空気を揺るがす衝撃に、思わずその場の全員が棒立ちとなり、辺りを見回す。続いて、心が凍るよう
な哄笑がホール全体に響き渡り、銃を構え右往左往する彼らに、スカリーは、逃げるのは今だと、ドゲットの腕を掴ん
だ。ところが、ドゲットはその場に立ち尽くし、動こうとしない。
 スカリーは、何事かとドゲットの顔を振り仰いだ。すると、ドゲットは血まみれの右手を抱え、掌に視線を落としてい
る。その掌には黒い幾筋もの、煙のような筋が渦巻き、その先を手繰れば真っ直ぐにガラスケースの指輪に繋がって
いるのだ。そしてその煙は、見る間にドゲットの身体全体を覆おうとしている。
 ドゲットは、信じられないという眼でスカリーを見つめ、次の瞬間彼女を押し、自分から遠ざけた。これから起こること
を、まるで予見していたかのような行動だが、同じように感じていたスカリーは、腕が離れる既のところで、ケースに
手をつき踏み止まった。そして再びドゲットの身体に身を寄せると、この嫌な黒い煙の元である指輪を何処か遠くへ、
やってしまおうと、今や黒い靄に包まれた指輪に、手を伸ばした。
「待っていたぞ。」
不気味な声が木霊し、辺りの景色が歪んだ。するとまるで、断末魔のような叫び声を上げ、目の前の窃盗団が次々
と床に倒れ、のたうち出した。何事かと眼を見張るスカリーの前で、窃盗団は一人残らず、人外の物へと変わって行
く。それと同時に、ゆらゆらと歪みはっきりしなかった風景が、徐々に形を成し、ふと気づけば、見たことも無い石造り
の祭壇の前に立っていたのだ。
 ドゲットは何処だろうか。隣に視線を巡らせたスカリーは、思わずぎょっとして、数歩後退った。そこには、隣で腕を
掴んでいたはずのドゲットの姿は無く、本人だけが抜け出たようなドゲットの衣服一式と、その上に腹ばいになった大
きな狼が、困ったような水色の眼で、スカリーを見上げている。あら、この眼。どこかで。と、スカリーが思った矢先、い
きなり黒い獣が祭壇の上から彼女の頭上に落ちてきた。防ぐすべなく獣と共に床に投げ出されたスカリーは、したた
か頭を打ちつけ意識が遠のく中、沢山の獣の唸り声と争う音を、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
          



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女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理