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アクイラ


 ナバールとイザボーは、聖堂に近づくにつれ高まる胸騒ぎに、眉を顰めた。自然と早くなる歩みは、次第に小走りに
なり、聖堂の前まで来た時には、2人ともうっすらと汗をかき、息を弾ませていた。
 アクイラ聖堂は、相変わらず陰気な石の壁に囲まれ、まるで周囲を威圧するかのように聳え立っている。ナバール
が正面の扉に近づこうとした時、聖堂の中から、複数の獣の声が微かに聞こえた。ナバールは、はっとして持ってい
た剣の柄に手をかけ、イザボーを庇うように自分の後ろに下がらせた。
 イザボーはナバールの背後にまわり、しっかりと彼のマントの端を掴んでいる。その感触に気づいたナバールは、
扉に手をかけたまま肩越しに振り返り、不安そうな面持ちのイザボーを見下ろすと、安心させるかのように微笑んだ。
無意識にとった子供のするような仕草に気づいたイザボーは、ぱっとマントを離し、続いて極まり悪そうに微笑むと、
肩を竦める。
 ナバールはくすりと笑い扉に向き直れば、再び聞こえる尋常ではない物音に、表情を厳しくした。肩越しにちらりとイ
ザボーを振り返れば、何時持ち出したのか、彼の弓を構えて準備は整ったと言う顔で、頷く。ナバールは彼女と弓を
交互に見比べ、諦めたように首を振ってから、やおら真顔になり、力いっぱい扉を開け放った。
 その途端、ざあっ、というすさまじい風圧が2人を襲った。ナバールは咄嗟に自分のマントの中にイザボーを庇い、扉
の影に身を翻せば、聖堂の中から風を伴い、黒い獣の一群が外へ向けて飛び出し、二人が追い縋る暇もなく、闇夜
の中に溶け込むように、走り去る。背伸びしながら獣の行方を確認するイザボーが、鋭い声でナバールに問いかけ
た。
「何なの!?あれは?」
「・・・・・・・・狼だ。」
忌々しげに言い捨てたナバールは、不意に踵を返すと、聖堂の奥へと足を向ける。その後にイザボーも続きながら、
不吉な予感に胸が押しつぶされそうになっていた。頭の中では、ナバールの声が木霊する。狼。狼。狼。何故、狼な
の?何故よりにもよって、この聖堂にあんなに沢山の狼がいたの?嫌だ、考えたくない。
「何かいる。」
ナバールの緊張した声音に、イザボーははっとして顔を上げた。鋭い視線の先を手繰れば、祭壇の手前に横たわる
人影と、その前にうずくまる黒い影が眼に入った。何かしらと口を開きかけたイザボーを、しっ、と片手で制し、ナバー
ルは剣を抜くと、腰をかがめ鞘を床に置いた。そしてそのままの姿勢で、音も無くそろそろと祭壇に歩み寄る。
 ようやく何の姿が判別出来るぐらいに近寄れば、そこにいるのが身動きしないで倒れたままの若い女と、その少し
前に腹ばいになった大きな狼だと見て取れた。月明かりの中浮かび上がった姿は、身体の上半分が濃い銀鼠色、
鼻面から腹と四肢が雪のように白い大きな狼で、その瞳は湖水のような蒼い色をしている。倒れた女の生死が気に
なり、ナバールが剣を構えたまま何度か近寄ろうとするが、その度に狼は白い牙を剥き、より一層激しい唸り声を上
げ、猛然と吠え掛かる。
 凶暴な狼の様子は、今夜の獲物を獲られまいとしているのか、女を守ろうとしているのか、ナバールには判断しか
ねていた。すると、イザボーがナバールの背後から肩にそっと手をかけ、囁いた。
「見て。怪我をしているわ。」
そこでナバールは改めて目を凝らし、狼の全体を観察すれば、右肩に大きなナイフが深々と刺さり、右の前足は肩の
傷とずたずたに裂けた足先の傷から流れ出る血で、ふさふさした白い毛皮がべったりとくっついている。手負いか。
厄介だな。と呟き、次の瞬間はっとして、息を呑んだ。
「どうしたの?」
「・・・・・ただの狼ではない。・・見なさい。」
搾り出すような声で言うとナバールは狼を指差す。ナバールの指し示すものを認め、イザボーは真っ青になった。
「まさか。・・・・そんな。」
絶句したイザボーは思わずナバールの腕にしがみ付いた。ナバールは、小刻みに震える彼女の肩を抱き、それでも
油断無く剣は狼に向けたままだ。
 と、その時、不意に狼は唸るのを止めた。腹ばいになったまま、首を傾げナバールの方を賢そうな眼で、じっと見つ
める。
「何かを見てるわ。何かしら?」
「分からん。しかし、襲う気配はなさそうだ。」
ひそひそと話す2人の会話を聞き分けたかのように、頭を低くしたまま狼は不意に立ち上がり、ふらふらっとナバール
の足元に近寄った。そして狼は、思わず体を引き身構える2人など、頓着しない様子で頭を突き出し、ナバールが構
える剣の柄あたりを、その濡れた鼻面で、とん、と押した。何かを合図するかのようなその仕草に、2人は思わず顔を
見合わせた。
 もう一度狼は、しっかりとナバールの視線を捉え、くるりと身体を返し今度は女の下へ向かう。女の身の危険を案
じ、イザボーがナバールのマントを引けば、肩越しに、様子を見よう、と囁かれた。ナバールにはこの狼が、何か意味
のある行動を取ろうとしていると、思われてならなかったのだ。
 狼はゆらゆらと上体を揺らしながら、おぼつかない足取りで女に近寄ってゆく。相当血を流してしまったのだろう。幾
ら強靭な体力の獣でも、既にその限界に来ていることは傍目にも明らかだ。傷ついた右足は、床から離れるたびに、
血の足型を残す。その様子をナバールは、沈痛な面持ちで見つめていた。
 ふらつく身体を保ちようやく女の下へ辿り着いた狼は、ちらりと振り返ってからおもむろに女の襟首に牙を剥いた。
喉笛を喰い千切るのかと、思わず剣を構え身を乗り出したナバールだが、次の瞬間剣を引いた。何故なら狼は、女の
衣服の襟元を銜えると、じりじりと後退りながら、ナバールの元へ女を引きずり始めたからだ。
 ナバールは、感動に胸を打たれたような顔で、イザボーを振り返れば、悲しげな眼差しとぶつかった。ナバールは小
さく首を振ると剣を床に置き、方膝を着き獣を待った。狼はもう手の届く距離まで近づいている。だが、そこまでだっ
た。ぐらりと上体を傾かせた狼は、どうっ、とナバールの眼の前で力尽き倒れたのだった。
 弾かれたように2人はすぐさま駆け寄り、イザボーは女を、ナバールは狼を、申し合わせたように分担して様子を診
た。
「この人は大丈夫よ。気を失ってるだけです。彼は?」
ナバールは、狼の背中をそっと撫でながら、眉間の皺を深くする。
「衰弱している。手当てをしたいが、夜が明けてからの方が良いのだろう。」
そして羽織っていたマントをイザボーに差し出し、これを、と言って女の方に首を傾げた。イザボーが女の身体にマント
をかけている間に、ナバールは慎重に狼を抱き上げ出口へと向かう。エティエンヌ、と呼ぶ声に、ナバールは振り返ら
ず答えた。
「館へ連れてゆく。直ぐにその者も連れに戻るから、君は付いていて上げなさい。」
一刻の猶予もないと言う風に、足早に去ってゆくナバールの背を見送りながら、イザボーは女の側にぺたりと座り込
んだ。改めて女の顔を覗き込めば、短く切りそろえた赤い髪に整った美しい顔をしている。この辺りでは見たことの無
い人間だし、着ている衣服も、初めて見る妙な形だ。何処か遠い異国の人間なのだろうか、と不安になるが、女の首
から覗くネックレスの先に光る銀の十字架に気づいた。少なくとも異教徒では無いことに、安堵しかけたが、十字架を
身に着けていても、容易く信じられる理由は無いことに思い当たり、憂鬱な溜息が漏れた。
 見上げると、天窓から月が見える。月を覆っていた影は、最早僅かになり、月は再びその光を取り戻していた。


「何処の国の人かしら?持ち物に刻印されている文字だと、イングランド?」
「さあ。見当もつかない。ここにあるものは、見たことの無いものばかりだ。十字軍に遠征した父上でさえ、このような
ものは持ち帰らなかった。」
イングランド?十字軍?スカリーは次第にはっきりと聞こえ始めた言葉に、小さく身じろぎした。しかし、次の瞬間倒れ
る直前の記憶が蘇り、がばっと飛び起き立ち上がろうとして、思わず片手で後頭部を押さえた。
「駄目です。横になっていなければ。」
柔らかいく押し戻され、はっとして声の主を見れば、見慣れない古風なドレスを纏った美しい女性が、スカリーを覗き
込んでいる。しかも素早く辺りを見回せば、蝋燭の明かりにゆらゆらと照らされた石造りの室内が見渡せた。スカリー
が横たわっていたのは、凝った造りの繻子織の寝椅子で、不思議そうに身体を起こすスカリーの背には、金糸の刺
繍を施してあるクッションがあてがわれる。スカリーは、安心させるかのように優しく微笑みかける女性に、真っ先に
浮かんだ疑問をぶつけた。
「ここは?あなたは誰です?」
「ここはアクイラ。聖堂に倒れていたあなたを、私達の館に運んだのです。私は、イザボー・ド・アンジュー。」
イザボーは答えてから、顔を上げ窓辺にいるナバールを示し彼の名を告げる。
「あそこのいるのが、私の夫。エティエンヌ・ナバール・ド・アンジュー。ここの領主でもあります。」
「領主?」
ええ、と頷きイザボーは、自分達と周りの様子に更に混乱している風情の女が、気の毒で仕様が無かった。しかし、
これから彼女には確認しなければいけないことが、山ほどある。暫くそっとしておいてやりたいが、夜が明けかかって
いる今、そんな余裕は無い。混乱した顔のまま、彼女は矢継ぎ早に尋ねてきた。
「私の他に誰かいませんでしたか?」
「いいえ。」
「あの部屋、・・いえ聖堂ね、その付近にも?」
「見ませんでした。」
「白人。男性。ダークブロンドの短い髪で、眼は青。背が高く痩せ型で、怪我をしているから・・。」
「いなかったわ。」
スカリーは、イザボーの返答に苛々と辺りを見回し、部屋の中央にある小さな円卓にドゲットの衣服と持ち物が、置か
れていることに眼を留め叫んだ。
「あの服よ!あの服の持ち主なの。彼を見なかった?」
イザボーは哀れむような眼をして、悲しげに首を横に振った。スカリーは唇を噛んで俯いたが、直ぐに、きっとして身体
を起こし、再び尋ねた。
「今年は何年?」
「え?」
「西暦何年なの?」
「1290年です。それが何か?」
1290年!?スカリーは信じられないと、口の中でその年号を呟き、突如イザボーの制止を振り切って窓辺に走った。
木の格子が嵌ったアーチ型の窓の掛け金を乱暴に外し、勢いよく外に開け放す。その瞬間、スカリーは息を呑んだ。
 明け方の薄闇に映し出された屋外の風景は、彼女が思い描く世界とはかけ離れていた。眼下に広がる粗末な木
造の家並み。街を取り囲む城壁の向こうには、何処までも続くなだらかな丘陵と青々と茂った森が見える。林立する
ビルも、舗装されたコンクリートの道も、行きかう自動車も、見慣れたものが何一つとして無いのだ。
 ここは何処なの?アクイラ?その響きに覚えがあった。スカリーは窓枠を両手で握り締めたまま、目まぐるしく頭を
回転させ始めた。アクイラとは、あの博物館にあった指輪が発見された所だ。そして1290年と言えば、丁度十字軍が
終焉を迎えた頃になる。スカリーは推理の行き着く先に、身震いした。信じたくない。これは夢なのだ。
 しかし幾ら眼を凝らしても、外の風景に変化は無く、あるいはこれら全てが幻覚で、自分が錯乱しているのではと疑
ったが、脈拍も体温も極めて正常であるから、その可能性も無い。スカリーは窓を背にして凭れ掛かると、唇を噛み
締め天井を振り仰いだ。そして大きく深呼吸すると、冷静に判断を下した。
 混乱から徐々に回復しつつあるスカリーに、それまで黙って窓の近くに控えていたナバールが声をかけた。
「そなたの名前は?」
「・・・ダナ・スカリーです。」
最早スカリーの返答は、落ち着きを取り戻しつつある。ナバールは先ほどからスカリーの様子を密かに観察していた
が、彼女には水準以上に知識と教養があり、優れた頭脳の持ち主であると見抜き、心の内で安堵していた。何故な
らそれは、これから話し起こることを彼女が理解する上で、非常に重要な要素になる。無知蒙昧な女に、騒ぎ立てら
れるのは、余計な混乱を招くだけだ。
 ナバールはスカリーの前に立つと、慎重に言葉を選びながら語りかけた。
「そのおかしな成りを見れば、異国から来たのであろうが、今はそなたの話を聞く暇は無い。先に片付けなければな
らぬことがあるのでな。話はその後だ。今申していた、あの衣装の持ち主はそなたと一緒にここに来たのか?」
「分からないわ。私達の世界からここに来る直前までは、私の隣に立っていた。けれど、気づいた時には祭壇の前
で、その時には既に服だけだったわ。」
「服だけ?・・・ふむ。男の名は?」
「ジョン・J・ドゲットよ。」
ナバールは、思案しながら口の中でその名を呟き、再びスカリーに眼を向けた。
「ドゲットの風体は、今のとおりで間違い無いな。」
「ええ。」
「何処を怪我しているのだ?」
「右肩にナイフ、右手はガラスで切ったばかりの傷が。」
ナバールは確認するかのように小さく頷くと、努めて冷静な口調で先を続ける。
「ジョン・ドゲットかは分からぬが、その条件に見合った者を連れてきてある。会いたいか?」
「何ですって?何処にいるの?直ぐに会わせて!」
その時スカリーは、ドゲットの安否を気遣うあまり、ナバールの微妙な言い回しにまで、気が回らなかった。ナバール
の顔に一瞬躊躇いが過ぎったが、振り払うように踵を返すと、こっちだ、と、スカリーを部屋の奥の一段高い場所に据
えた、天蓋つきの寝台に案内した。ナバールは寝台の枕元に立ち、人目を隠すように覆ったクリーム色の絹モスリン
の布を開けて、支柱に結びつけると、肩越しに振り返り、くいっと、寝台のほうへ首を傾げた。押しのけるように前に進
み出たスカリーは、そこに横たわるものを覗き込み思わず絶句した。
 そこには狼が1頭、スカリーの方を向き横たわっている。まるで人が眠るように、枕に頭を乗せ、掛け布団を首まで
かけた姿は、何となく御伽噺の1シーンを見ているかのようだ。悪い冗談だわ。スカリーは険しい眼をして振り返り、ナ
バールに食って掛かった。
「何なの?これは?」
「狼だ。知らぬのか?」
「そんなことを聞いているんじゃないわ。どういうつもりなの?私が捜してるのはドゲットなのよ!彼は何処?何処にい
るの?」
ナバールは眉を曇らせると、宥めるような口調で尋ねた。
「この狼に見覚えは?」
「狼に知り合いはいないわ。」
「そう言わず、よく見るのだ。本当に見覚えがないか?」
スカリーは真剣なナバールの口調に、もう一度狼を覗き込みやはり知らないと首を振る。するとナバールは悲しそうな
眼をして、そうか、と呟き物憂げな仕草でスカリーを退け寝台に腰掛けた。そして狼の顔を眺めたまま、感情を含まな
い平坦な口調で言った。
「俺は今まで、沢山の狼を見てきた。だが、青い眼をした狼に出会ったのは、これが初めてだ。」
スカリーはその言葉で気を失う直前、ドゲットの服の上に寝そべっていた狼の姿を思い出し、はっとしてナバールの顔
と狼を交互に見た。ナバールは、狼の頭をそっと撫でながら、更に言葉を続ける。
「この狼は怪我をしている。右肩に刺さったナイフに見覚えは無いか?足先の傷には?」
言葉が終わると同時にナバールは、布団の端をめくり、狼の上半身を露にして見せた。スカリーは慌てて寝台に身を
乗り出し、狼の右肩に刺さったナイフを見た途端、あっと声を上げた。サバイバルナイフ。窃盗団の一味が自分に向
かって投げる姿を鮮明に覚えている。そして、自分を庇い肩口にこのナイフを刺したまま、大丈夫かと囁く声は、未だ
耳元に残っている。スカリーは狼の足先を見た。血で染まった毛皮に覆われたそこは、それでも無数の切り傷が見
え、白いシーツを赤色に変えていた。
 スカリーは震える指先で、狼の肩に刺さったナイフに触れた。今やスカリーは寝台の上に乗り、狼の身体に覆い被
さるように傷の具合を見ていた。銀色に縁取られた灰色がかった毛皮に手を埋め、鼓動が弱っていないか調べる。ス
カリーは狼の身体を調べながら、心の中では、信じたくない気持ちで一杯だった。
 だって、どうやって信じろと言うの?でもこのナイフ。柄にあるイニシャルは、ドゲットが私に背を向けたときに確認し
たものと同じ。それにこんなに精度のいいナイフが、この時代にあるとは考えられない。だが、しかし・・・。信じられな
い。信じたくない。もしこれがドゲットなら、どうすればいいの?私に何が・・・。
 千路に乱れる思いは、スカリーの表情を曇らせ、まるで狼への接触が、彼女の心を落ち着かせるとでもいうのか、
知らず知らずの内に、愛しむように狼の全身をさすっていた。だが次の瞬間スカリーは、血まみれの足先から垣間見
えたものに、背筋が凍るような戦慄を覚え、思わず身を引いた。
「よく似たものを、見ただろう。」
ナバールの苦悶に満ちた声で、スカリーは我に返った。見上げたナバールの顔は、奇妙に歪み、激しい怒りを漲らせ
ている。スカリーは再び、狼の足先を覗き込んだ。狼の前足には、エメラルドを煌かせた金の環が、がっちりと嵌って
いる。大きさは違うが、環の部分に施された装飾と、何よりその禍々しい光を放つエメラルドを見間違えようが無い。
 身体を起こし振り返ったスカリーの顔を見たナバールは、黙ってその場を離れ窓辺へと移った。窓を開け放ち、窓枠
に凭れたナバールは確認するように呟いた。
「この狼が誰か、理解出来たのだな。」
スカリーは認めたくなかった。しかしこの状況では、認めざるを得ない。そんな顔をしていたのだろう。
「認めたくなくとも、その眼で見れば、嫌でも認めることになる。」
「その眼で見れば?言われなくても見てるわ。でも・・・・・・。いいわ、あなたの言うことを信じて、この狼がドゲットだと
しましょう。だったら何故怪我をしているのに、手当てをしないの?私が気を失っている間、そのくらいのことは出来た
はずよ。」
スカリーは何処か言動に含みのあるこの男が、信用出来ずにいた。しかし鋭く詰問するスカリーの言うことなど、最早
ナバールの心には届いていなかった。憂鬱な表情で腕を組むと、狼の姿をじっと見詰め、誰に言うともなく呟いた。
「手当てする時ではなかった。だが、もう直ぐだ。・・・・・・まさか再びこの光景を眼にしようとはな・・。」
「エティエンヌ・・。」
何時来たのか、イザボーがナバールの身体に身を寄せ、夫の顔を心配そうに見上げている。ナバールはイザボーの
身体に腕を回し、固く抱き寄せると、ちらりと外に視線を投げてから、何のことか分からないという顔をしたスカリー
に、陰気な声で警告した。
「始まるぞ。・・・・眼を逸らすな。」
これから何が始まろうとしているのか。尋常ではない2人の様子が、スカリーの不安と緊張を高め、訳を聞こうと口を
開きかけた途端、窓から差し込む朝日に眼が眩む。思わず手を翳したスカリーだったが、眼の端に捉えた異変に、は
っとして棒立ちになった。
 日の光が見る見るうちに部屋の中を満たし、その光を反射するように狼の身体全体がオレンジ色に発光している。
オレンジ色の光は次第に強くなり、やがて正視できないほどになった。スカリーは手を翳し眼を細め、何とかその姿を
見定めようとしていた。するとスカリー達が見守る中、次第に狼の輪郭がぼやけ、その中からぼんやりと人型が姿を
現し始め、狼の姿と入れ替わるように今度は人型の姿の方が、次第にはっきり形を成してきたのだ。
 一瞬とも永遠とも取れるような時間に、それは終わった。今やそこには、毛皮に覆われた狼の姿は無く、傷つき血を
流している男が、固く眼を閉じ横たわっているだけだ。
 スカリーは、床に膝を着き、躊躇いがちに手を伸ばすと、汗で濡れたドゲットの頬にそっと触れた。ドゲットの頬に指
先が触れた瞬間、得も言えぬ感情が、どっと、胸に溢れ思わず眼を瞑り唇を噛んだ。ああ、彼はここにいる。確かにこ
こにドゲットはいる。その思いだけが、スカリーの心を満たし、突如涙が溢れそうになる。
「傷を診よう。」
静かなナバールの声は、同情に満ちていた。その声で我に返ったスカリーは、涙を悟られぬように目頭を押さえ、さっ
と頭を上げ、毅然とした口調で返答した。
「手当ては私がします。私は医者なのです。それに彼は私の・・・・・。」
スカリーは不意に口を噤んだ。どうかしたのかと、心配そうに見守る2人に、くるりと振り返ったスカリーは、涙を堪え
精一杯冷静な表情を創ると、こう宣言した。
「私は彼の主治医なのです。手当ては任せて下さい。」

 ドゲットの治療に、大して時間はかからなかった。何しろこの世界には、スカリーの求める医療品など無いに等しく、
結局のところ、ナイフを抜き傷口をアルコール消毒した後、煮沸消毒した針と糸で傷を縫い、清潔な布で覆うぐらいし
か、出来ることは無いのだ。スカリーは、イザボーの手助け無くては、とてもこの世界では、怪我の治療がまともに出
来なかっただろうと痛感していた。
 イザボーはスカリーの求めるものを、部屋の外に控える小間使いに命じ、ものの数分で支度を整えた。おかげでス
カリーはこの客室から一歩も出ずに、全ての用事を済ませることが出来たのである。
 ドゲットの治療をしながら、スカリーとイザボーはお互いのことを話した。まずイザボーが、自分と呪いの話を。そして
次にスカリーが、自分達は未来から来たと告げ、こうなった経緯を。お互いがお互いの話を、始めは信じられない面
持ちで聞いた。しかし今目の前にある現実は、動かしようも無く、最終的には2人とも深い溜息をつき、受け入れたの
だった。
 すっかり治療が終わったスカリーに、朝食を手ずから運んでイザボーは言った。
「私は少し外します。何か食べて休んだほうが良いでしょう。ここは暫く人を遠ざけますから、何かあったら寝台横の
呼び鈴を引いてください。私が直ぐに駆けつけます。ああ、心配なさらないで。何も閉じ込めようと言うのではありませ
ん。落ち着くまで人目を避け、この部屋から出ないほうが無難だからです。昼食時に様子を見に参ります。」
「ご主人は何処へ?」
「インペリアス・・・・。力になれそうな人を捜しに。」
ふっと悲しげな微笑を浮かべ、休んで下さい、と言い残しイザボーは部屋を出て行った。後に残ったスカリーは、ドゲ
ットの枕元に椅子を運ぶと深々と腰掛けた。これからのことを考えると、正直頭が痛い。眼が覚めたドゲットに何と言
えばいいのだろうか。自分でさえ、未だ整理が付かない出来事を、彼にどうやって説明すればいいのだ。
 私達は、呪いにかかり、2000年から1290年のヨーロッパにタイムスリップしたの。あなたは夜の間は狼に変わって
しまうのよ。スカリーは心の中でドゲットに言う台詞を呟き、肩を落とすと項垂れた。馬鹿げている。とても正気で言っ
てるとは思えない。スカリーは両肘を寝台につき、ドゲットの顔を覗き込んだ。
 何も知らずに眠っている彼が、この事実を知ったとき、どんな反応を示すのだろうか。スカリーは暫く考え込んだ。
が、直ぐに考えるのを止めてしまった。無駄だと気づいたからだ。何故なら、幾ら想像力を総動員しても、自分が人で
無いものになったらどんな風に感じるかなど、結局のところ当事者にしか分かりようの無いことだからだ。
 スカリーはドゲットが汗をかいているのに気づき、サイドテーブルの水を張ったたらいに、さらしを浸し水を固く絞る
と、丁寧に汗をぬぐった。額に手を乗せれば、発熱している。傷によるものだとは分かっているが、化膿止めも解熱剤
もないこの時代では、こうして汗をぬぐい、身体を冷やす以外に方法は無いのだ。するとその時、ナバールが去り際、
苦りきった顔で言った一言が蘇った。
「死にはしない。その傷も二日も経てば治っていよう。」 
あれはどういう意味なのだろう。イザボーも全てを話してくれたわけでは無さそうだ。呪いをかけられたのは、イザボー
だと博物館の説明書きにはあったが、他にも何かあるのだろうか。美しく聡明な領主の妻、イザボー。今話した限り
では、スカリー達の苦難に、理解と同情を示し、悪い人間には見えなかった。しかし、ナバールは・・・。
 逞しく思慮深い領主、ナバール。教会以外すっかり荒廃していたアクイラの街とその周辺の村々を、2年の月日を
かけ、豊かで平和な土地に変えたと、イザボーは夫のことを語った。この夫婦が寄り添う姿は、まるで宗教画から抜
け出たように美しい。だがスカリーには、何処かよそよそしく、時折嫌悪感に満ちた眼で自分達を見るこの男の態度
が、妙に引っかかった。ナバールは何が気に入らないのだろう。只単によそ者を警戒しているようには見えない。
 その時、スカリーはドゲットの右手の中指に嵌ったエメラルドの指輪に眼を留めた。シーツを切り裂いて作った幅広
の包帯の間から覗く邪悪な光は、一層輝きを増したような気がする。手当てをしながら、どうにかして外そうと試みた
が、無駄だった。その指輪はまるで彼の肉体の一部であるかのように、がっちりと食い込んで、びくとも動かないの
だ。
 この指輪。これが全ての元凶だ。これがスカリーとドゲットを遥か過去の世界に運び、ドゲットを狼に変えた。ドゲット
を元に戻し、自分達の時代に還るには、この指輪が鍵になるはずだ。その為に、自分が出来ることは何なのか。しか
し、幾ら明晰な頭脳の持ち主でも、呪いを解くなど、雲を掴むような話に、正直何から手を付けたらいいのか、さっぱり
分からない。スカリーは、途方に暮れるとは、恐らくこんなことを言うのだろうと、憂鬱な眼差しを指輪に向けた。
 するとその手が僅かに動き、続いてそこから走る痛みで、微かにドゲットが呻いた。はっとして顔を覗き込めば、数
回瞬きをして、うっすらとドゲットは眼を開けた。スカリーが見守る中、暫くぼんやりと天井を見詰めていたドゲットだっ
たが、やがて物憂げに視線を巡らし、誰かを探し始める。スカリーがドゲットの傷ついていない方の肩にそっと手を置
き、名を呼べば、声に反応しスカリーの姿を探し当てると、滲むような笑みを浮かべ、掠れた声で言った。
「エージェント・スカリー。・・ここで何を?」
「あなたの看病をしていたのよ。エージェント・ドゲット。気分はどう?」
ドゲットはゆっくりと答えた。
「・・・眠い。・・・ここは、何処だ?」
「アクイラよ。」
「・・アクイラ?・・アクイラ。聞いた名だ・・。」
しかしその後が続かない。どうにも眠気が勝ってしまい、上手く思考を繋ぎとめて置けないようだった。スカリーは小さ
く溜息をついて、掛け布団を直しながら優しく囁いた。
「眠ったほうがいいわ。エージェント・ドゲット。」
「・・・済まない。・・・・・・疲れて・・。」
ドゲットは再び眠りに落ちていった。
  
 ドゲットは結局夜まで目覚めることなく、昏々と眠り続けた。スカリーは彼の側でうつらうつらと仮眠を取り、用意され
た食事も、固いパンとチーズをワインで流し込むだけに留め、殆どの時間をドゲット直ぐ近くで過ごした。夕闇が迫る
頃、2人分の夕食を運んできたイザボーは、ドゲットの様子を見てから、心配そうにスカリーに告げた。
「この調子だと、目覚めることなく彼は狼に変わるでしょう。お独りで大丈夫ですか?」
スカリーはドゲットの横顔を見ながら、黙って首を横に振った。後でこの事を知った時、ドゲットなら絶対にそんな姿を、
他人に見られたくは無いはずだと、即座に判断したからだ。イザボーは何も言わず、出て行った。
 スカリーは再び、この摩訶不思議な現象に立ち会わなければならなかった。座ったまま窓の外に眼を向ければ、遥
か水平線に日が落ちてゆくのが見える。眼の端にオレンジ色の発光が映り始め、それをスカリーはまともに見ること
が出来ずにいた。
「眼を逸らしてはいけない。」
はっとして顔を上げれば、戸口にナバールが立ち、スカリーを見詰めていた。その眼の厳しさがスカリーの目を射抜い
た。スカリーがナバールに気おされ、無意識にドゲットの姿に視線を転じれば、今まさに狼の姿に変わろうとしてい
る。狼に変わる一瞬、ドゲットはその瞳を見開き、スカリーの姿を捜し求めた。思わず身を乗り出し、側にいることを知
らせようとしたが、その時には既に全てが終わり、厚い毛皮に覆われた狼が、再び寝そべっていた。
 スカリーは力なく、どさりと椅子に腰を落とした。落胆した姿の彼女には、ナバールの声は慰めとも、戒めとも取れる
響きに聞こえた。
「人間の記憶は無くとも、その狼に危険は無い。そなたを襲うことは絶対に無いのだ。今宵は狼が出歩かぬよう、決
して側から離れるな。」
「この怪我では無理だわ。」
スカリーがそう答えた時には、ナバールの姿は消えていて、あまりの素早さに幻かと疑ってみるが、寝椅子に掛け布
団が増えている所を見れば、やはりここに来ていたのは間違いない。スカリーは太さが変わって、解けてしまった包
帯を巻き直しながら、衰弱が激しく怪我も酷いこの狼が出歩くなど有り得ないと、ナバールの不躾な物言いに少し憤
慨していた。だがその直ぐ後に、この言葉の意味を嫌でも思い知ることになる。
 何故なら、程なくして目覚めた狼は、何度もよろよろと立ち上がろうとして止まない。その度にスカリーが、言葉を厳
しくして、制止しようとするのだが、如何せん野生の狼が人の言葉を解するわけなど無く、只不思議そうな瞳をスカリ
ーに向けるだけで、同じ動作を再び繰り返す。見る見るうちに、包帯には血が滲み始めた。
 思い余ったスカリーは、寝台の上に乗ると、立とうともがく狼の横に身体を横たえ、そっと頭を撫でながら、宥めるよ
うな口調で囁いた。
「あなたは怪我をしているのよ。横になっていなければいけないわ。エージェント・ドゲット。」
スカリーが繰り返しそう呟きながら身体をさすれば、やがて狼は腹ばいになり前足を組み合わせ、その上に顎を乗せ
前を向いたまま、おとなしくなった。そしてスカリーの手の感触に、気持ちよさそうに眼を細め、身動きしなくなったの
だ。
 スカリーは狼の隣に寝そべり、その身体を満遍なくさすりながら、野生の狼の隣にいると言うのに、少しも怖く無い
のは、これがドゲットだと分かっているからだろうかと訝った。それに良く考えれば、こうして触れているのが裸のドゲ
ットなのだと思い当たり、思わず苦笑を漏らした。そう言えば狼に向かって、エージェント・ドゲットと呼ぶのも、妙な感
じだ。この場合はジョンと呼ぶ方が、あなたには相応しいのかもしれないわね。その時スカリーは心細さもあったのだ
ろう。狼の毛皮の手触りと、密着した体の暖かさが心地よく、イザボーから聞いた変わった時の記憶は残らないという
気安さから、ひとりでに言葉が漏れた。
「あなたは何と呼ばれたいの?ジョン。」
すると狼は、まるでその言葉が分かったかのように、頭を巡らし、物問いたげな哀しい蒼い瞳でスカリーを振り仰い
だ。その瞳の蒼さと深さは、スカリーの心を抉った。身体は狼になっても、この瞳は紛れようもなく、ジョン・ドゲットの
ものなのだ。再び顎を前足に乗せ、何処を見ているのかあらぬほうを向いてしまった狼の、しょんぼりとした姿は心細
げで、胸がかきむしられるような、悲哀に満ちている。
 何とかしなければ。スカリーは固い決意と、冷えてきた大気に思わず身震いした。ふと見れば窓の外に月が見え、
ひっそりと夜の冷気が入り込んでいる。スカリーが窓を閉めようと立ち上がれば、狼は何事かという風に腹ばいになっ
たまま上体を起こす。スカリーはそんな狼に向かって、そのままという風に手で制し、訳を告げた。
「窓を閉めるだけよ。何処にも行かないわ。」
手早く部屋中の窓を閉め、寝椅子にあった掛け布団を手に戻ったスカリーは、狼の身体を布団で覆おうとした。しかし
狼はまるで何かに警戒するかのように、上体を起こし窓の方を見詰め、緊張を漲らせたままだ。これを一晩中続けて
いたら、益々衰弱してしまう。スカリーは仕様が無いと溜息をつき、掛け布団をめくると、狼の隣に身体を滑り込ませ
た。
 先ほどと同じように、身体を撫で口をついた言葉は、ドゲットだけでなく自分自身にも言い聞かせていたのだろう。
「そんな風にしていたら、身体が休まらないわ。身体を休めて早く元気にならないと、明日からやることが山ほどある
のよ。エージェント・ドゲット。あなたを必ず元に戻してあげるわ。どうすればいいか、今は分からないけど、必ず何か
方法があるはずよ。それを探し出し2人して元の世界に戻りましょう。きっと出来るわ。私とあなたなら・・。」
その時点でスカリーは潜り込んだ布団の中が狼の体温で温まり、次第に募る眠気をどうすることも出来なくなってい
た。眠い。そう言えば殆ど眠っていないんだわ。私が眠れば彼も眠るかもしれない。少しだけよ。彼が眠るにつく、そ
れまでの間眠って、又直ぐに起きればいいんだわ。その考えはぬくぬくと身体が温まり、疲れきり瞼を開けていること
が困難なスカリーには、素晴らしい思いつきに感じられた。
 スカリーはすっぽりと首まで布団に潜り込むと、暖かな毛皮にそっと身体を寄せた。埃っぽい獣の匂いが鼻腔をくす
ぐり、ふさふさした毛皮の手触りが、心地良かった。こうしていると、不思議と心が安らぎ、全て上手く行くような確証
の無い安心感で満たされる。
 少しだけ。ほんの少しだけ、この感触を楽しもう。スカリーはその時、自分がどれほど疲れているか、認識していな
かった。不安で心細いのは、自分の方で、確かなこの安らぎに縋りたい一心だったのだ。そうやって先に寝息を立て
始めたのはスカリーの方で、蒼い目を細めた狼は、何処を見ているのか闇を透かし、影の蠢く匂い嗅ぎ、危険が無い
ことを察知すると、躊躇いがちにスカリーの髪に鼻面を埋め、ゆっくりと眼を閉じた。
 無意識に寄り添う、この奇妙なカップルに、最早月夜の冷気は届かない。夜明けは、未だ遠いところで、目覚めの
時を待っていた。




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