海市
              


                            【 プロローグ 】


「落ち着いたか?」
囁くようにしかしはっきりとスカリーの耳に届いた声の持ち主を、スカリーは躊躇いがちに振り仰いだ。泣いた後の酷
い顔を誰にも見られたくない。だが、彼女のそんな心配は、単なる杞憂に過ぎなかった。何故なら彼女の前に立つ男
は、広い背中を向けたまま、ゆったりとドアに凭れ、その視線は、遥か前方に定められたまま、動く事は無かったから
だ。
 子供を撃ったという、例えそれが眼眩ましだったとしても、そのショックから涙し悄然と立ち去ろうとするスカリーを、
離れた所に止めてあった警察のワゴンまで導いたのはドゲットだった。後部ドアを開け放したまま、空っぽの車の荷
台に掛けるように促したドゲットは暫くその場を離れていたが、やがて水の入った紙コップを両手に戻ってくると、黙っ
て差出した。そして、自分も水を飲みながら、スカリーに背を向けて立ち車のドアに凭れると、慌しく出入りする捜査
員達を眺めていた。そうした経緯を経て、長い沈黙の末発せられたその言葉は、まるで今までずっと世間話をしてい
た延長のように、ごく自然な響きで彼女に届いた。
「遅くなったな。家まで送ろう。」
「・・・でも、事情聴取が。」
「未成年者がいるんだ。それは無い。明日の朝、保護者と弁護士が付き添ってしきり直しだ。君もその時で構わんだ
ろう。」
「・・そう。じゃ、あの子達は・・。」
「さっき警察がパトカーで自宅まで送ったよ。」
「そうだったの。」
スカリーは物憂げな声で相槌を打つと、再び黙って彼方に視線を巡らせているドゲットの背中を見詰めた。スカリーの
座る位置からはドゲットの表情は見えなかったが、普段と全く変らない低い声を耳にし、呆れるほどの自然体で立つ
彼の見なれた後姿を眺めるうち、今まで乱れていた心が、不思議と静まってくるのを感じていた。
「行けるか。」
「・・ええ。」
ドゲットの問いかけに、スカリーは立ちあがり彼の横に立った。するとドゲットは素早くスカリーに視線を走らせたが、
何も言わずドアを閉め、スカリーの手から空になった紙コップを取り上げた。そして自分のコップと重ね小さく握りつぶ
し、気まずそうに視線を逸らすスカリーを、自身の車のある場所へと誘い歩き始めた。
「キーを。」
「え?ええ。」
差出されたドゲットの手にスカリーは車のキーを渡し、そのまま二人は黙って歩いた。幾つものランプが点滅し、連絡
を取合う制服警官や刑事達がそこかしこで仕事を進める中を、縫うようにして歩を進めるドゲットの腕や肩が時折スカ
リーの身体にあたる。その度にスカリーは些か身体を固くして身を引くのだが、ドゲットは構う事無く歩いている。何時
もは必要以上にスカリーとの接触を避けているのに、これは少し妙だった。自分に泣き顔を見せたスカリーに対する、
馴れ馴れしい態度の現われなのだろうかと、不快な表情を浮べたが、何度目かの接触の時にそれは彼女の早とち
りだと悟った。よくよく注意してみればその接触は、ドゲットが自分達に近づいてくる捜査関係者とスカリーの間を、遮
る位置につくために起こっていた。それも、言葉をかけてくる人間だけではなく、擦れ違う全ての人間に対しても、まる
で楯になるように移動している。
 スカリーはそう気づいた時、俯いたまま苦笑した。確かに得たいの知れない犯人を撃ち殺した自分が、好奇の眼に
晒されているのは承知していた。通り過ぎる二人に向けられる警官達の囁き声、盗み見るような視線と僅かなジェス
チャー。何を言っているのか大方想像が付く。よくある光景と堂々としていればいいのだが、今回は違っていた。動揺
した後の自分の姿をじろじろ見られるのは、プライドの高いスカリーにとって正直耐えられない現実だった。
 ワニ。小さくて弱々しく動くものを保護する本能。スカリーはすぐ横を歩くドゲットの、広い肩先からそれに続く固い顎
のラインと、精悍な横顔をそっと仰ぎ見た。ワニにしては、ちょっと魅力が有り過ぎるわ。これが、ドゲット以外の人間
に示された態度なら、スカリーは憤然として撥ね付けただろう。しかし、不思議とドゲットにはそうならない。それは多
分、ドゲットがこの行動を意識して行なっているわけでは無いと、確信しているからだ。無意識の行動を批難するほ
ど、スカリーは頑なでは無い。突然ドゲットが立ち止まり、スカリーの思考は遮られた。何事かとドゲットの視線の先を
窺えば、校舎の入り口に立つ校長がドゲットの名を呼び手招きしていた。
「ちょっと行ってくる。車で待っていてくれ。」
ドゲットの言葉にスカリーが頷くのを確認し、彼は走り去った。又だわ。他に人はいないのかしら。スカリーは車に乗り
込みながら、校長の元へと向うドゲットの後姿を眺め、小さく溜息をついた。
 それから、10分後。助手席でドゲットを待つスカリーの元に現れたのは、本人では無かった。40才前後の女性制
服警官は、ドゲットに送るよう頼まれたと、運転席に乗り込んできた。詳しくは聞いていないが、少し時間がかかるか
ら先に帰るように言っていましたよ、とドゲットから預かったキーを指し込みながら、警官は言った。
 ドゲット以外の人間に運転させるくらいなら、自分で運転して一人で帰った方がましだとスカリーは思ったが、それを
口にする間もなく警官は車を発進させていた。しょうがないと諦めたスカリーは、窓に頬杖をつくと眼を伏せ、自分の
廻りに話し掛けられたくない雰囲気を張巡らせた。落ち着いた物腰の女性警官は、ちらりとスカリーに視線を走らせる
と、納得したような顔をして終始無言で運転を続けた。
 そのままいつしか眠ってしまったのであろう。スカリーが警官の声に眼を覚ました時は、既に自宅前だった。ぼんや
りした頭のまま、車を降り玄関まで送ってくれた警官に礼を言って、ここからどうやって戻るのか尋ねれば、相棒とこ
の先で待ち合わせているからと告げ、ゆっくりベッドで休んだ方がいいですよと付加え警官は去って行った。
 部屋に入ると同時に、電話が鳴った。スカリーは慌てて駆け寄ると、受話器を取った。
「ダナ・スカリー。」
「ドゲットだ。無事に戻ったようだな。送れなくて済まなかった。」
「いいのよ。気にしないで。」
それを聞いた電話口のドゲットがふっと黙り込んだ。ドゲットの声は一瞬でスカリーの思考に懸かった靄を取り去っ
た。が、しかし顔が見えない沈黙は、再び漣のように波紋を投げかける。
「エージェント・ドゲット?」
「あ・・ああ。そうだ。明日の事情聴取は10時と決った。僕は直接行くから警察で落ち合おう。」
「分かったわ。」
沈黙。ざわつく心を押さえスカリーが声をかけた。
「エージェント・ドゲット?どうかした?」
「え?・・ああ、いや、何でも無い。もう、遅いから早く寝たほうがいい。じゃあ、明日・・。」
「エージェント・ドゲット、待って。あなた今何処にいるの?」
用件だけ伝え、さっさと切ろうとするドゲットの様子に、スカリーは慌てて切り返した。すると、ドゲットは暫し言い澱
み、やがて辺りを憚るような低い口調で答えた。
「・・・・子供の家だ。」
「何ですって?子供って?」
「クエンティン。」
「どういう事なの?分かるように説明して。」
電話口のドゲットが小さく息を吐いた。
「担当のソーシャルワーカーが急病で来られない。」
「他のソーシャルワーカーは?」
「この地区担当のもう一人は、トレバーのところに行っている。」
「だからといって、どうしてあなたが?母親は?」
「母親は3年前に離婚して、今はマイアミだ。父親が死亡した時連絡をとったが、音沙汰がないそうだ。」
「・・じゃ、校長に呼ばれたのはその話だったのね。」
「そう。近くに近親者が居ない。」
「でも、学校の担任では駄目なの?校長だっていたでしょう?」
沈黙。どうしてこんなに黙り込むのかしら。ドゲットの様子に思い巡らせた時、スカリーの頭にある情景が浮かんだ。
何かに気を取られている。スカリーが口を開こうと息を吸ったと同時にドゲットの返答が聞えた。
「彼の希望だ。」
「彼?クエンティンがあなたを?」
「そうだ。」
「何時?」
「家まで送った警官にソーシャルワーカーから連絡が入ったんだ。当然子供を独りにはさせられない。で、彼が僕
を。」
「でも、クエンティンとあなたって何時の間に親しくなったの?会って話したのは父親が死亡した時だけじゃなかった
かしら。」
「そうだ。」
「それも、あの時彼は殆ど私と話していたわ。」
「そうだったな。」
「エージェント・ドゲット。あなた、学校側に押し付けられたんじゃないの?」
「ああ、それは無い。」
「でもクエンティンが、担任や校長より近しい大人として、あなたを選ぶかしら。」
「いや、彼の方で僕を指名してきたのは、本当だ。その訳は、・・・多分・・・。」
再び口籠り黙ってしまうドゲットに、柔らかくスカリーが先を促せば、やや躊躇いがちな声で返事が返ってきた。
「多分、何?」
「・・・・それは多分、・・・僕が彼の父親と同じ位の年格好に見えるからだろう。」
ああ、とスカリーは目を伏せた。失言だった。今度はスカリーが黙る番だ。
「エージェント・スカリー?」
「え?・・ああ、今、クエンティンは?」
「キッチンで眠っている。」
「キッチンで?」
「居間にあったソファーを動かした。」
「何故そんなことを?」
「ああ。自分の部屋や居間は怖いらしい。朝まで側にいると約束させられたよ。」
「・・可哀相に。」
スカリーのその言葉にドゲットは、深く息を吸いややあって押し殺した声で呟くように答えた。
「・・うん。暫くは辛いだろう。」
「じゃあ、あなたはこれからどうするの?代わりのソーシャルワーカーは?」
「ああ、今夜はここに泊まるから、明日は2人で警察に行くことになるな。ソーシャルワーカーについては、トレバーの
方に連絡がはいるから、明日警察で彼らと落ち合えば分かるはずだ。」
「そう。・・・早く母親に連絡が付くといいわね。」
「そうだな。」
しみじみとした口調で答えたドゲットは、じゃあ明日と言って電話を切った。受話器を置いたスカリーは、長い溜息をつ
くと、重い足取りで浴室へと向かった。今日起こった全てのことを、もう一度考え直したかった。熱いシャワーはそれを
助けてくれるだろう。とっちらかった感情や、雑念を洗い流せば、全てがすっきりとなるはずだ。シャワー後の自分の
状態を思い巡らせ、スカリーは洗面台の鏡に映る自分に疲れた顔で微笑んだ。しかし、彼女はその時はまだ気づい
ていない。これは終わりではなく始まりだったのだと。






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