【T】


 カーシュとの疲れる会見を終えたスカリーが、戻ってきた報告書をファイルキャビネットにしまっていると、デスクで書
類を読んでいたドゲットが声をかけた。
「終わりかい?」
「ええ。」
「犯人の死体が安置所から消えてるのにか?」
「警察のミスで片付けられたわ。これ以上の捜査は打ち切り。何時もの事ね。」
スカリーが肩を竦め溜息混じりに答えると、ドゲットは黙って頷いた。あれから3日。死者3名を出した連続殺人事件
は、被疑者死亡というかたちで書類送検され、未だ謎の部分を残しながらも、形式上事件は終結、後は地元警察に
一任し、FBIは手を引くことになった。捜査を続けたくとも、こうしてカーシュに呼ばれ、はっきりと宣告された上に、報
告書が戻ったとなれば、最早二人に出来ることなど残っていなかった。
 スカリーは自分のデスクに戻るとコンピューターのファイルを呼び出し、終了日時を書き込んでから電源を切った。続
いてデスク上の書類や資料を片付けながら立ち上がったスカリーは、やはり同じくして立ち上がったドゲットが、読ん
でいた書類をA4のマニラ封筒に入れ、古ぼけたダンボール箱にしまい仕事を終了させているのを認めると、開放感
がじわじわと込上げて来るのを覚えた。
 そういえば、もうそんな時間だわ。腕時計を見れば、珍しく定時の勤務終了時間だ。その時、スカリーが帰ろうとコ
ートを羽織ながらドゲットに話しかけたのは、こういうタイミングで一日の仕事が二人同時に終わることなど滅多に無
かったせいかもしれなかった。
「週末の予定は?エージェント・ドゲット。」
「ええっと・・。ああ、人と会う約束がある。」
ドゲットはちらりとスカリーを見たが、相変わらずデスクの上を片付けている。俯いたままドゲットが聞いた。
「君は?エージェント・スカリー。」
「特に何も。この週末はゆっくり休養を取るつもりよ。」
「そりゃあ、いい。」
ドゲットは頷きながら、口元を綻ばせた。帰り支度の終わったスカリーはドゲットのデスクの前に立ち、片付けに余念
の無いドゲットの様子を所在無さそうに眺めていた。が、その視線に気付いたドゲットが訝るようにスカリーを見上げ
たので、咄嗟に口をついた言葉は彼女の思惑からは遠く離れていた。
「私はもう帰るけれど、あなたは?エージェント・ドゲット。」
「いや。」
「・・何が?帰らないという意味?」
「そう。」
「でも、もう終わりでしょう。他に何をするというの?」
「うん。・・まあ、色々と。」
「色々って。・・・・棚の整理?」
「・・・ああ。うん。」
「今どの辺り?」
「95年3月。」
「捗っているの?」
「ある意味では。」
と、突然ドゲットはスカリーに向き直ると、妙な顔をして尋ねた。
「何だ?」
「え?」
「この会話の意味さ。何が言いたいんだ?」
既にデスクは綺麗に片付き、一つ残ったダンボール箱に両手をかけ、ドゲットは真面目腐った眼をしてスカリーの瞳を
覗き込んだ。スカリーがドゲットの眼差しから、逃れるように視線を漂わせると、ドゲットは益々妙な顔をしてスカリーを
見詰める。普段からあまり遠まわしな物言いをしないスカリーの、奥歯に物の挟まったような言葉はドゲットを困惑さ
せている。スカリーはちょっと咳払いをして、極まり悪そうに切り出した。
「今夜は何か予定があるの?エージェント・ドゲット。」
しかしスカリーのこの質問は、ドゲットの眉間の皺を深くしただけだった。黙って首を傾げるドゲットにスカリーは些か
苛立ちを覚えた。どうしてこの男はこういう事に疎いのかしら。只でさえ、この手の会話は苦手なのに。しかし、何が
言いたいのかさっぱり分からんといった風情のドゲットをそのままに、宙に浮いた話を最早止めるわけにはいかず、ス
カリーは躊躇いがちに言葉を続けた。
「もし、何も予定がないなら・・・そのう、棚の整理は又この次にして、・・・ええっと、夕食を一緒にどうかと思って。」
ドゲットは一瞬はっとした顔をしてスカリーを見詰め、続いて、笑っているとも、困惑してるとも取れる何とも形容し難い
顔つきのまま、俯いて首の後ろを擦った。それを見たスカリーは、この申し出にドゲットは断りの意思をどう伝えるか、
迷っていると察し、些か慌て気味に、ごめんなさいと謝れば、不思議そうにドゲットは聞き返してきた。
「何が?」
「別に断っても構わないのよ。」
「・・・しかし・・。」
「先約があるんでしょう?」
「先約?・・・ああ、先約ね。」
「エージェント・クレイン?じゃ、棚の整理は彼が上がるまでの時間潰し?」
「まあ、そんなとこだ」
やっぱりと、したり顔で頷くスカリーの様子に、ドゲットはほっとした顔をすると、済まなそうに微笑んだ。
「悪いな。せっかくの誘いなのに。」
「いいのよ。気にしないで。これから幾らでも機会はあるわ。」
「そうかな。」
「あら、心配しなくても、こんな事で誘わなくなったりしないわよ。」
「いや、そういう意味じゃなく、こうやって週末に二人同時刻に仕事が終わるなんて珍しいだろ。」
ドゲットのその言葉に今度はスカリーがはっとして彼を見詰めた。
「どうかした?」
「いえ、私もさっき同じ事を考えていたから。」
何気なくそう告げたスカリーの言葉に、ドゲットは、ああ、といって無表情に小さく頷いた。短い沈黙の後、ドゲットは
箱を両手で持ち上げながら、少しおどけた口調で言った。
「断ったお詫びに、エレベーターまで送ろう。夜道は危ないからな。」
スカリーは、両手に箱を持ったまま器用にドアを開け、彼女が出るのを待つドゲットの脇を通り抜けながら、何時も気
まずくなる既のところで、ドゲットのさりげない態度に救われてる自分に気づいた。スカリーは自分がFBIの男共にな
んと形容されているか、よく知っていた。真面目でお堅いエージェント・スカリーは、口を開けば仕事の話。お高く留ま
って、笑顔も見せない。囁かれている陰口等は、無視すればいいのだが問題は別にあった。美しい容貌とは裏腹
の、上司に対する歯に衣着せぬ発言や強気の態度は、氷のような硬質で冷たい第一印象を人々に与えた。言うな
ればその印象は、全ての人がスカリーと話す時、自然と身構えてしまうという、捜査員の彼女にとってあまり有難くな
い現実だった。勿論それは、モルダーも例外でなく、今でこそ考えられないが、スカリーが赴任したての頃は、何かを
言う度にそっと彼女の顔色を窺う不安げな瞳にぶつかった。自己主張著しいモルダーでさえそうだったのだ。それ以
外の凡庸な捜査員にとってスカリーは、彼女の卓越した容姿と能力へのコンプレックスも相まって、どちらかといえば
煙たい存在なのだった。
 スカリーは当たり障りの無い会話を交わしながら、俯き加減に耳を傾け相槌を打つドゲットの横顔を上目使いにちら
りと見た。そう言えば初対面の時から、ドゲットは誰とも違っていた。まるで構えたところが無い。スカリーに限らず彼
が誰かの前で、緊張したり身構えたりしているのを見た事があっただろうか。覚えが無い。不思議な人だわ。
 不思議と言えば、もう一つ。スカリーは生来が、真面目な性格のせいか、親しい人達との会話においては聞き役に
回っていることが多く、そしてそれは、モルダーといる場合はより顕著なものとなっていた。ところが、ここにきて彼女
は、恐らく生まれて初めて聞き役から開放されていた。
 最も、無口なドゲットといれば、果てしの無い沈黙の世界に身を投じることを、覚悟せねばならないのだが、それは
決して気まずいものではなく、心地良いことのほうが多かった。それどころか、放っておけば何時までも黙っているド
ゲットの傍らで仕事をすることに、安らぎさえ覚える。
 FBI本部内での同僚や上司などとの接触、事件現場での捜査関係者との対応で心を煩わせられる日常は、スカリ
ーの精神を疲弊させる。モルダー失踪直後、一人になって考え事をしたり気持ちを落ち着ける為に、一日の内ある一
定の時間を資料室で過ごす日々が続いた。しかし、何時の頃からかそんな必要は無くなっていた。
 それは、スカリーが不意に押し黙り、物思いに耽ったとしても、ドゲットがその妨げになることなど、只の一度も無か
ったからだ。彼はまるで、空気のように辺りに溶け込んだ。暫くして我に返ったスカリーが顔を上げ、そこで初めてドゲ
ットがずっと側に居たことに気付くのだ。勿論そんな時も、ドゲットは煩わしい質問や、思わせぶりな視線を送ったりし
ない。黙って仕事を続けるか、スカリーが気まずそうにしていれば、何事も無かったかのように、中断した話の続きを
再開させた。
 スカリーは、最近になってこれが捜査員としてのドゲットに、非常に有利に作用していると確信し始めた。彼は、人
の感情を読み取る能力に長けている。最初無口で表情の動かないドゲットが、外部の人間と接する時、何故か容易
く心を開かせ、滞りなく聞き込みや事情聴取を済ませるのが意外だった。事件現場での地元の警察関係者、動揺し
ている事件の目撃者、悲しみにくれる被害者の家族。そんな人間が、まるで、ドゲットとは旧知の仲であるかのよう
に、口を開いた。
 何か特別なテクニックでもあるのかと、それとなく観察してみたが、大した成果は得られ無かった。彼は終始物静か
な雰囲気で、話す相手をじっと見詰め、先走って口を挟んだり遮ったりしない。あくまで相手の胸の内から自然に発す
る言葉を、受け止めることにだけ専念する。それだけだ。
 だが殆ど全ての人間が、話し終わると、満足感で心を満たされた顔つきになった。話を聞き終わったドゲットは、短
い感謝の言葉と共に勇気付けるようにそっと腕に触れるか、大きな手で力強く握手をし、僅かに微笑みかける。する
と、今までの怜悧な眼差しや厳しい表情からは信じられないほど、親しみやすく暖かな笑顔に変わった。
 ドゲットはよく笑う男では無い。仕事に入れば殊更その回数は減る。例え笑ったとしても、大抵は口の端を歪めてに
やにやするか、面映そうに僅かに微笑むだけだ。しかしこんな時に見せる笑顔は、そのどれとも違い、ひと目で惹き
つけられ、何か心の奥底にそっと触れる、不思議な魅力に満ちていた。
 時折見せるこの笑顔にはスカリーにも見覚えがあった。ドゲットの心からの笑顔は、それを向けられた人間を暖かい
空気で包む。するとまるで、大好きな先生に褒められた子供の如く、自分が何か素晴らしいことを成し遂げたような誇
らしさと充足感で、胸が一杯になってしまう。そして彼と共にいた人間は、必ずといっていいほど、もう一度この笑顔を
自分に向けてもらいたくなるのだ。それがやはり、同じように他の人間にも作用しているのは、彼らの顔を見れば一
目瞭然だった。Xファイルに転属された彼が、以前の同僚と変わらず付き合っていられるのも、納得できる。
 話し手に才能が必要なように、もし聞き手に、天賦の才能がいるのだとしたら、まさしくドゲットはそれに当て嵌まる
だろう。スカリーはこの年になって、初めて自分が思ったより話し好きな人間だったと発見し、そう思うたびに可笑しい
ような嬉しいような、妙な感情が湧き戸惑いを覚えずにはいられなかった。
「帰宅時間にぶつかったな。」
スカリーの思考はドゲットのその声に中断された。ドゲットが漏らした言葉は、局内の人間が揃って駐車場へのエレ
ベーターを使う為に、中々地下まで降りてこない事を示唆していた。エレベーターの乗降ランプを眺め、思わず溜息が
出たスカリーに、ドゲットが微笑みかけた。
「素晴らしい境遇だな。」
「ええ。たまに定時で終わればこの始末だわ。」
「もっと仕事をしろってことなのか。」
只でさえオーバーワークな部署にいるのに何をいうのかと、スカリーはわざと不機嫌な顔を作り、上目に睨んだ。眼が
合ったドゲットは、ちょっと咳払いをすると、極まり悪そうに付け加えた。
「冗談だ。」
「あなたが言うと、冗談には聞こえないわ。」
呆れた口調のスカリーの視線を避けたドゲットの眼に、降りてくるランプの点滅が映った。ああ、と思わず声を上げた
ドゲットの視線を追ってスカリーも思わず安堵の息を吐き出した。しかし、その時ふと見たドゲットの横顔に、形容し難
い複雑な表情が浮かぶのを認め、眉を顰めた。この手のやり取りは、ドゲットの得意とするところでは無かったのか。
しかし、エレベーターが開きスカリーの為に、ドアを抑えるドゲットの顔からはもうそんな表情はきれいさっぱり消えて
いて、変わらない和やかな口調で、良い週末をなどと言われれば、幽かに浮かんだ疑問など、あっという間に何処か
へ行ってしまっていた。


 暫くの間、ドゲットはエレベーターの前で、箱を抱えたまま佇んでいた。ぼんやりと閉まったままの扉を眺め、ふと我
に返ると顔を上げた。誰もいなくなったオフィスの廊下を見渡し、手にしたダンボール箱に気付いた。これを戻さなけれ
ばと、踵を返し所定の場所まで歩く。そこは廊下の一番奥、未だ整理のついていない雑然とした棚の更に奥まった所
だった。幾つかの箱をどかし、ダンボール箱を棚に戻すと、不意に疲れた溜息が漏れた。箱に両手をかけたまま、額
をスチール棚に押し当てる。そのままドゲットは眼を閉じて、ひんやりとしたスチールの感触に浸っていたが、不意に
吹き出すと、笑い始めた。
「エージェント・クレイン。」
笑いながらドゲットは首を振り、片手で箱を乱暴に叩いた。最早笑い顔は消え去り、奇妙に歪んだ顔で、小さく息を吐
き出しオフィスに戻りながら呟くドゲットの声を、聞く人はいない。
「素晴らしい境遇だ。」
その響きが、乾いた皮肉に満ちたものでも、誰に憚る事があろうか。ドゲットは今、独りだ。


 スカリーが駐車場に止めた車を発進させ出口へと向かっていると、車の脇で同僚と談笑するクレインの姿が眼に入
った。その前を通り過ぎバックミラーに映る彼らを見ながら、暫くしたらあの中にドゲットも混ざるのだろうと推測し、複
雑な気分になった。課が代わっても彼らはドゲットの仲間のように振舞っている。しかし、スカリーにはそんな仲間は
いない。唯一そう呼べるのは、モルダーとドゲットだけだ。しかし今、この時、スカリーは独りだった。





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