【V】

 翌朝、スカリーが最終的な診察を受け、医局で薬を貰いドゲットを待つ為病室へ戻ろうとしていると、後ろから不意
に呼びとめられた。背中の傷に触るのでゆっくり身体ごと振り返ったスカリーに、ナースステーションの受付に礼を言
って保安官の制服を着た初老の男が近寄って来た。
「失礼ですが、エージェント・スカリー?」
「ええ。そうですが、あなたは?」
「ああ、申し遅れました。チオリノ保安官です。電話では何度か話していましたが、こうして会うのは初めてかな。」
スカリーは驚いて目を見張ると、にっこりして保安官の差出した手と握手を交わした。
「・・・あなたが。初めまして、ダナ・スカリーです。」
「今日は見舞いに来たんだが・・、退院だそうですね。もう、すっかり?」
「ええ、少しまだ痛みますが、傷も塞がり抜糸も済んでますから。」
すると保安官は、立ち話も何だからと、廊下の突き当たりにある、ウェーティングルームへと誘った。そしてスカリーを
ソファにかけさせ、自動販売機からコーヒーを二つ買うと、一つを手渡した。
 二人は暫く世間話を含めたぎこちない会話をしていたが、話が事件に及ぶと途端に保安官の口調も滑らかになっ
た。彼が担当した容疑者の様子等を話すのだが、大方ドゲットから聞いていた事と大差無いものの、一つだけ聞いて
いない事実に、スカリーは怖気をふるった。それは証拠として残っているべき、彼等の神の残骸が、直後の捜索で跡
形も無いという事実だった。スカリーは眉を潜め尋ねた。
「でも、あの時確かドゲットは3発発砲したように記憶してるわ。いくら彼の射撃の腕が素晴らしくても、たった3発で跡
形も無くなるなんて・・。」
「しかし、私達が住民を拘束しバスの中を隈なく探したが、あんたらが言うような化物はかけらも無いんだ。」
「私達が嘘を言ってるとでも?」
スカリーが些か気分を害した口調で問い返せば、保安官は慌てて訂正した。
「いや、そうじゃない。あんたらの言う事に間違いは無いだろう。実際ミルサップ達もその存在は認めてるんだ。ただ、
どうして私達が到着する僅かな時間内に跡形も無く、消え失せてしまったかが問題なんだ。」
「どう言う事?」
すると保安官は顔を顰め、言い淀んでいたが、スカリーが促すと心底気持ち悪そうに答えた。
「ああ、それがどうやら、その、彼等が一つ残らず、うう、食べてしまったらしい。」
スカリーは絶句すると、顔を背けた。あの気持ち悪い軟体動物を食べるなど、しかも自分の背中に寄生していた奴
だ。考えただけで吐き気がする。これをまだ弱っているスカリーに告げずにいてくれた、ドゲットの気遣いが嬉しかっ
た。青ざめたスカリーの様子に失言したと、保安官は居心地悪そうにしていたが、やがてそれとなく話を変えた。
「しかし、あんたの相棒は中々面白い男だな。」
「え?彼が面白い?」
これは初耳だった。スカリーでさえ、最近になってようやく、ドゲットが卓越したユーモアのセンスを持ち合せているの
を知ったぐらいだ。ほんの数日一緒に仕事をした保安官に、それが分かるとは当然思えない。怪訝そうなスカリーに
保安官は更に続けた。
「普段は冷静なのに、いざとなると結構無茶をするようだね。いつもああなのか?」
「何について言ってるのか分からないわ。」
「昨日の事を聞いてないのか?」
スカリーが頷くと、保安官は昨日取調室で繰り広げられた、ミルサップとドゲットの攻防を詳しく話した。スカリーはそ
の間黙って聞いていたが、終わるとほんの少し顔を曇らせ呟いた。
「そう。そんな事が・・。」
保安官はスカリーのその表情に、自分が来たのは苦情を言う為だと思ったに違いないと判断し、慌ててそれを打ち消
した。
「いや、誤解しないで貰いたい。今日来たのは別にそれを咎め様って言うんじゃないんだ。むしろその逆だよ。これは
ここだけの話にして欲しいんだが、実際あのミルサップには手を焼いた。私が保安官になって今まで扱った中でも、
一番厄介な相手だった。やっと事務所の留置所から追い出せてほっとしてるよ。だから、あれほど胸がすっとした時
は無かったんだ。彼には感謝してるくらいさ。ま、ブライアンがどうかは、知らんがね。」
保安官は一旦ここで言葉を切ると、頭を掻きスカリーの顔色を窺いながら本音を打ち明けた。
「実を言うと、今日ここへ来たのも、昨日の一件で是非君に会いたくなってね。」
「私に?」
「ああ、エージェント・ドゲットご自慢の相棒は、一体どんな人間なんだろうってね。」
「そう。で、ご感想は?」
「そりゃもう、納得したとも。昨日のドゲットの態度もよく分かる。いや、気を悪くしないでくれ賜え。別に悪気は無いん
だ。田舎者のする事と笑ってくれ。」
「そうね。でも、一つだけ訂正するわ。」
「何かね。」
「私はエージェント・ドゲットご自慢の相棒じゃないわ。彼が私を自慢するなどありえない。」
スカリーは保安官の眼を見詰め、きっぱりと言い切った。すると保安官は驚いた様子で首を振った。保安官は、初対
面のドゲットが、相棒が事件の発端を記憶していたと言った時、ほんの少し誇らしげに語るのを、そして又、この二日
間保安官が彼女の行動を称賛した時、一瞬子供のように得意げな表情が顔を過るのを、記憶していた。それに加え
て昨日の出来事だ。何時ものドゲットとあまりにギャップがあるので、余計にそれが際立って保安官の心に印象深く
残る事になったのだろう。
「エージェント・スカリー。あんたがどうしてそう思っているかは知らんがね、それはあんたの勘違いだ。私がそう言っ
たのは、別に冷やかしでも誇張でもない。実際そう感じたから言ったまでだ。それに、昨日の一件で、私は久々に捜
査中のパートナーシップの素晴らしさを思い出したよ。」
スカリーが複雑な表情で返事に詰まると、保安官は優しい眼でその様子を眺め尋ねた。
「エージェント・ドゲットとはもう組んで長いんだろう?」
「いいえ。・・・半年も経っていないわ。」
「ほう、それは意外だな。てっきり長く組んでると思っていたが、半年か。」
黙って頷くスカリーに、しみじみとした口調で保安官は言った。
「エージェント・スカリー。君はいい相棒を持ったな。」
「でも、彼にとっては・・」
「何を馬鹿な。あんたは彼があんたの事を言う時の様子を知らんから、そんな事を言うんだ。自信を持ちなさい。君達
は良いチームだ。」
保安官がスカリーの肩に手を置き言った口調は、先輩が後輩に教え諭すような響きがあった。スカリーが物思わしげ
な顔で黙って頷くのを認めた保安官は、満足そうににっこりすると、今日は大陪審なんで、と言って去って行った。
 スカリーは暫くウェーティングルームのソファに、思い詰めた表情で座っていたが、やがて憂鬱そうな眼をして立ちあ
がり病室へと戻っった。

 ドゲットが退院手続き終えスカリーの病室に現れたのは、約束の9時半から10分ほど経ってからだった。スカリー
は傷に触らないよう背中の刳れた葡萄色のセーターを着て、物憂げな仕種で着替えをバッグに詰めていた。用意が
出来たかと尋ねるドゲットが、自分の背中に大きく貼られているガーゼをどんな顔で見ているのか、スカリーは降り返
らずとも分かっていた。案の定ドゲットが、そっと息を吐き出すのが聞えた。スカリーがそのままバッグに荷物を詰め
ていると、ドゲットはそれを悟られ無いように話を今日の大陪審の方へ持っていった。カルトメンバーが宗教の迫害だ
と主張していると、信じられんなという口調でドゲットは言ったが、スカリーには先ほど得た保安官の情報があったの
で、その主張は充分予測が付いていた。
「信心とは恐ろしいわ。あの化物が神とは・・・。」
さして驚きもせず言った言葉だったが、この言葉によって二人の脳裏にはっきりと、彼等の神の姿とそれに付随する
出来事が蘇ったのは言うまでも無い。ドゲットはスカリーがこちらを向いてないのに気まずそうに顔を背け、スカリーは
忌々しそうに長いため息を吐き出すという、妙な沈黙が流れた。スカリーはバッグを閉じると、意を決しゆっくりと振り
返った。
「それより、あなたに謝らなければ。単独行動した事よ。もしかしたら命がなかったわ。」
「ああ、危なかった。」
何を言い出すのかと訝しげなドゲットだったが、スカリーのその言葉に返した声は厳しかった。スカリーはやはりと思
わずにはいられず、大きく頷きながら更に言葉を続けた。
「もう二度と・・・。」
「嬉しいよ。」
だが、言葉とは裏腹なドゲットの表情にスカリーは口元を綻ばせた。思ったとおりね。それじゃなかったらあのドゲット
の眼は何を意味するというの。スカリーは荷物を取ろうと身体の向きを変えた拍子に、自分の背中を見るドゲットの視
線に気づいた。私はこれを確かめなくてはいけないわ。スカリーがバッグを持とうとするのを、横から手を伸ばしドゲッ
トは黙ってバッグに手をかけた。一瞬戸惑うスカリーだったが、有無をも言わさぬ視線で答えたドゲットに、抗う術も無
くバッグから手を離した。
 先に立って病室を出るドゲットの後を押し黙って歩いていたスカリーが、沈黙を破り話を切り出したのは、ソルトレー
クの空港へ向う車中だった。
「さぞ、扱い難い女だと思っているでしょうね。」
ドゲットは運転しながら、思い詰めた顔で前を向いているスカリーをさっと見た。スカリーが何を言い始めたか、理解し
かねたドゲットは黙って視線を戻す。スカリーは更に言葉を続けた。
「いいの。分かっているわ。今回の事件でこれほどまであなたの手を煩わせてしまったのは、すべて私の責任よ。ど
んな事件でも単独行動すれば、どういう結果を招くか分かっていたのに、検死の一つぐらいと高を括っていたんだ
わ。」
スカリーは言葉を切り、そっとドゲットを盗み見た。ドゲットは何を考えているのか、黙って前方を見詰めたままだ。
「その結果、私自身が事件の被害者になるなんて、捜査官失格ね。」
「君は巻き込まれたんだ。」
そう言ったドゲットの声には、苦々しげな響きがあった。
「そう。でも、それは私一人だから起きた事よ。自分自身が招いた失策だわ。あなたが差し延べた手を払っておきな
がら、いざとなるとこうしてあなたに頼らざるを得ない事態を引き起こす。」
「君が引き起こしたんじゃない。」
「でも結局は同じ事だわ。私が入院していなければ、あとは保安官と支局員にまかせてD.Cに帰れたはずよ。私の容
態が安定した時、カーシュにあなただけでも戻る様に言われたんでしょう。それを無視したとスキナーに聞いたわ。そ
の気持ちには感謝するけれど、庇ってもらう必要はないのよ。私が単独行動をして失態を招いたのは紛れ様もない事
実よ。」
「別に庇ってなどいない。」
「では何故、カーシュやスキナーに、私があなたに何も告げずここに来ていたと言わなかったの?」
「必要無いからだ。」
「必要無い。・・・私は時々あなたが何を考えているのか分からなくなるわ。どうして事実を曲げてまで、私を庇う
の?」
「エージェント・スカリー。何度も言うが、君を庇ったわけじゃない。それに、事実を曲げてはいない。」
「そうかしら、私の行動を正しく報告していないのよ。これは事実を曲げた事にはならないの?」
ドゲットは答えず、ふいっと顔をスカリーから背けると片手で唇を擦っている。スカリーは隣にいるドゲットが、突然自
分から遠ざかろうとしている気配を感じ慌てた。こうしてドゲットが一回相手を遮断してしまうと、再び引き寄せる事が
困難になる。
「いいわ。あなたが、あくまでそう言い張るのなら、そう言う事にしておくわ。エージェント・ドゲット。でも、これだけは言
わせて。あなたが今回の事で、私のことをどれだけ腹立たしく思っているかは、理解出来るわ。それを私にぶつけな
いのも、あなたが私の体調を気遣っての事だと承知してるつもりよ。それだけの事をしでかしたんですもの、そう思う
あなたを責めやしないわ。」
突然ドゲットはハンドルを切ると、州道の脇に車を止めた。一呼吸おいてから、強張った表情で前を向いているスカリ
ーに尋ねた。
「何が言いたいんだ。」
スカリーは大きく息を吸うと、ドゲットに向き直った。
「私が言いたいのは、そうやっていつも必要以上に気遣われても、私にはなんのメリットも無いって事なの。むしろそ
の逆だわ。失敗は失敗だと、きちんと指摘して貰わなくては私自身の為にならないのよ。だからあなたが腹立ちをぶ
つけてくれたほうが、私にとっては・・」
「君に腹など立ててない。」
「嘘。」
「嘘?何故?」
「エージェント・ドゲット。それじゃ聞くけど、私の背中を見る時、どうしてあんな眼をして見るの?あの顔を見ればあな
たが怒っていないなんて誰も思わないわ。いいえ、私の気のせいだなんて、言わせない。私の眼は飾り物じゃな
い・・・」
「ああ、もう、止めてくれ。」
「何ですって?」
語気を強めスカリーが問いただすと、ドゲットは不機嫌そうな表情でため息をつき言った。
「OK。分かったよ。確かに僕は腹を立てていた。それは認める。でも、それは君にじゃない。」
「私じゃない?まだ、私を・・」
「そうじゃない。別に君を気遣ってるわけじゃなく、本当に君に腹を立ててはいない。」
スカリーは眉を潜め、怪訝そうにドゲットの顔を振り仰いだ。ドゲットは暫く忌々しそうに視線をあらぬ方にさ迷わせて
いたが、やがて肩を落としスカリーの眼をさっと見た。
「君にじゃなく、・・・僕にだ。」
「どうして?あなたに一体何の非が・・」
「ある。僕は君から連絡を受けたとき、すぐに君の元に来るべきだった。それをしなかったのは僕の判断ミスだ。」
「何を言うの。その申し出を私は断ってるのよ。あなたがそんな風に思うのは間違ってるわ。」
「それは違う。君が断ろうと僕はここへ来なければいけなかったんだ。どんな事件でも捜査中は何が起こるか分から
ない。たとえそれがどんな場合でも、君がどう判断し様とも、僕は君の所在が分かった時すぐに動かなければいけな
かった。それを僕は怠った。」
ドゲットは一旦言葉を切ると、怒りに満ちた眼でまっすぐ前を見据えた。スカリーは黙ってドゲットの横顔を見詰めてい
た。
「君が何故一人でここに来たのか、それは僕にとって大した意味はない。僕に遠慮したのか、一人で捜査したかった
のか、例え君にどんな理由があろうと別に構わない。問題は君にそうさせた僕にある。・・・君が僕を、モルダーと同
等に扱いたくない気持ちは、充分理解出来る。彼との絆を、君がどれほど大切に思っているかも、分かっているつもり
だ。だから、僕は今まで、あえて君には必要以上に立ち入らない様にしてきた。だが、それが時と場合による事を、
迂闊にも忘れていたんだ。一旦事件に関わったら、あらゆる事に細心の注意を払うべきだった。それなのに、肝心の
ところで引いてしまった。」
ドゲットは眼を伏せると、拳を握り締め額に押し当てた。
「そうやって出遅れた為に、君が払った代償はあまりにも大きい。命さえ危なかった。君に、僕が君の傷を見るたび、
どんな気持ちになるか分かるか?あの時確かに君からあいつを取り出すには、ああするしかなかった。だが、君の背
に一生残るような傷を付けたんだぞ。あのナイフの感覚が、どれほど忌まわしくこの手に残っているのか、君には分
かるまい。僕が君の背を見るたび、腹立たしそうな顔になるのは、僕の犯した間違いを見せつけられ、自分が許せな
くなるからからだ。」
突然ドゲットは拳をハンドルに叩きつけた。
「くそ。同じ事の繰り返しだ。」
スカリーは思わず息を呑んだ。これほど激しい怒りを見たのは初めてだった。眼を見張るスカリーの気配に、はっと我
に返ったドゲットはそっと息を整え、車のエンジンをかけながら呟く様に言った。
「さあ、もういいだろう。この話は終わりだ。」
車を発進させる為、後ろを確認しようとするドゲットとスカリーの眼が一瞬合った。が、どちらとも無く視線を逸らし、そ
のまま空港につくまで、二人とも自分の中に篭り、一言も声を発せず過ごした。

 三時間後。とっくにソルトレークを飛立っているはずのドゲットとスカリーは、空港内のレストランにいた。二人が乗る
はずだった飛行機のエンジントラブルで、離陸が大幅に遅れている為だ。突然ぽっかり空いてしまった時間に戸惑っ
たものの、昼食でもとドゲットに誘われレストランへと赴けば、昼食時間が少しずれた為か、レストランはがらがらだっ
た。
 窓際の席についた二人は、気まずい雰囲気のまま、押し黙って昼食をとった。スカリーが注文したのは、病院の食
事よりはるかに美味しいサンドウィッチだったが、正面に座るドゲットが素晴らしい早さで食事を終わらせ、コーヒーを
飲みながら新聞を読んでいる姿を見ていると、味など分からなくなってしまった。
 スカリーはずっと車の中での会話を思い出していた。スカリーの思っていたとおり、ドゲットの怒りはスカリーに向け
られていたものではなかった。それはチオリノ保安官に昨日の出来事を聞いた時から、ほぼ予測していた。保安官か
ら話を聞いた時、普段の彼を知るスカリーは、ミルサップごときに過剰に反応するドゲットの言動に懸念を抱いた。何
故彼は過敏に反応したか。考えるまでも無い。ドゲットはスカリーの命が脅かされた事に責任を感じ自分を責めてい
る。
 アイダホのケースの時からドゲットには、捜査に関わる人間の事故や人命に強い責任感を持つのは分かっていた。
これがスカリーであったらなおさらだ。しかし、先ほど車の中でスカリーは唖然としてドゲットを眺めていた。あの時の
ドゲットの発言は、スカリーがドゲット以外の人間しか内に住まわせず彼を排除しているのに、それもすべて丸ごと引
き受けようというものだ。彼女はこんな人間を今まで見た事が無かった。そして突然爆発した怒り。スカリーは今は静
かな眼をして新聞を読むドゲットの、あの一瞬が瞼に焼きついて離れない。叩きつけた拳の強さ。握り締めた関節の
白さ。射るように煌く眼は暗い輝きを放ち、吐き捨てるように言ったざらついた声は痛みに満ちていた。この人は知れ
ば知るほど、分からなくなる。
 サンドウィッチを食べ終わり、食後のコーヒーを飲もうとしたスカリーは、手首に巻かれた包帯が緩んで解けかかっ
ているのに気づいた。縛られていた時暴れて捻挫したので、湿布を押さえる為の包帯だったが、今日の看護婦が不
慣れだったのだろう。スカリーは忌々しげなため息をつき、仕方なく左手で右手の包帯を巻きなおし、巻き終りを止め
ようとした。が、何度やっても少しも上手く出来ない。止めようとすると巻いた所が緩み、又巻き直す。利き手ではない
とはいえ、いい加減苛々し始めていると、いきなり包帯を巻く手を捕まれテーブルに下ろされた。
「貸しなさい。」
ドゲットはそう言って、驚いて手を引っ込めようとするスカリーの右手を自分の方に引き寄せた。更にスカリーが辞退
する素振りを見せれば、上目にスカリーの眼を見詰め、スカリーの手を掴んだまま黙って反対の手を差出した。何度
やっても上手く出来なかったところを見られている以上従わざるを得ない。スカリーが渋々包帯を渡せば、ドゲットは
湿布をきちんと整えきれいに巻いて行く。その際スカリーに痛みを与えないよう、細心の注意を払い彼女に触れてい
る。まるで壊れ物を扱うかのようなドゲットの仕種には、いつも居心地の悪い思いをさせられる。
 その時突然ふっとある事を思い出し眉を潜めた。私はこの手の感触を知っている。するとその表情を見咎めドゲット
が聞いた。
「痛む?」
「え?・・いいえ。」
答えたスカリーは改めてドゲットの手元と彼の顔を見詰め直した。夢。そうだ。あの夢で私の手を掴んでいたのは彼
だったんだわ。どうして分からなかったのかしら。しかし、すぐに答えは出た。ドゲットはいつも注意深く彼女に接して
いた。アリゾナでベッドに横たわるスカリーの手に、触れないよう苦心してカードを挟んだり、何かを手渡す時や狭いと
ころをすれ違ったり同じファイルを覗き込む時など、いつも一定の距離を保ち、そこから踏み出す事は無かった。少なく
とも平時、意識のあるスカリーには、絶対自分から触れようとはしなかった。必然的にスカリーは真っ先にドゲットの
可能性を捨てたのだ。しかし、今彼女の手首に包帯を巻くドゲットの手から伝わる感触は、間違い無くあの夢と同じだ
った。
「どこか、具合が悪いのか?」
包帯を巻き終わったドゲットが、妙な顔をして手元を見ているスカリーに聞いた。スカリーは慌てて眼を瞬くと手首を動
かして見せた。
「上手いもんだわ。」
「病院嫌いは伊達じゃない。医者の君に誉められるとは、喜ぶべきかな。」
「残念ながら、それは無理ね。臨床は苦手だったの。」
ドゲットはちょっと愉快そうに口の端を歪めると、再び新聞に眼を戻した。スカリーはきれいに巻かれた包帯を見なが
らコーヒーを啜り、何気ない口調で言った。
「残らないそうよ。」
ドゲットが黙って眼だけをスカリーに向けた。
「背中の傷。担当医が教えてくれたの。外科医でもああは上手く切開出来ないだろうって。その後の応急処置も的確
だったから、自分のしたのは縫合しただけだと、笑っていたわ。」
ドゲットは疑わしそうな顔をしていたが、それでも少し安心したように頷いた。スカリーはさっきの話を蒸し返すつもり
は無かったが、それでも何かを言わずにはいられなかった。それが例え言い訳めいて聞えようと、あそこまでドゲット
を問い詰め、言いたくない事まで言わせてしまったのだ。又黙って新聞を読もうとするドゲットに、スカリーは更に言葉
を重ねた。
「今思えば、一人で検死に来るなんて本当にどうかしてたわ。でも、あの時はそうするのが自然な気がしたの。アイダ
ホのケースは上手くいったわ。それは喜んで良いはずなのに、素直に喜べない。喜んではいけないような気がしてな
らなかった。それは・・」
スカリーは何と言っていいか分からず、考え込んだ。するとドゲットが口を挟んだ。
「二人で捜査したからだ。」
「ええ、そう。・・・そうね。私にはまだその事実を受け止める準備が出来ていなかった。でも、現実はあまりにも早く時
間が過ぎて行く。だから、きっと一人で何かをしてみたかったのかもしれない。一人でもやって行けると証明したかっ
たのかも。」
ドゲットは黙って頷きコーヒーを飲んでいる。スカリーは両肘をテーブルにつくと、ちょっと躊躇ってから言い難そうに先
を続けた。
「それに、あなたは何時も週末、忙しそうだったわ。先週だって・・。」
「僕が?」
「ええ。Xファイルに移ってからも、前の同僚から週末誘われていたでしょう?その度に先約があると言って、断ってい
たのを知ってるのよ。」
「先約?」
「ええ。そういって二回に一回は断ってるのを何度も見たわ。」
ドゲットは眉間に皺を寄せ考えていたが、コーヒーカップを置くと言った。
「ジーン・クレイン。」
「ええ。」
「ふむ。クレインはいい奴だ。捜査官としても優秀だし性格もいい。」
ドゲットはそこで言葉を切り、腕組みをして真面目腐った顔をスカリーに向けた。
「ただ、酒が入ると壊れたオーディオのようになる。クレイン家のホームパーティに行くには、まずそれを覚悟しなきゃ
ならない。」
「壊れたオーディオ?」
「そう、オートリヴァース。」
ドゲットは片手をくるくる回して見せた。真面目そうなクレインが、と意外そうにスカリーは頷いた。
「そして、もう一つ。これが、一番厄介なんだ・・。」
ドゲットは身を乗り出すと、辺りを見まわし声を顰めて打ち明けた。
「クレインのワイフが、いや実に良い人なんだが、僕が行くと必ず独身の女性を紹介するんで困ってるんだ。」
スカリーは釣られて身を乗り出したものの、ドゲットの打ち明けた話には些か戸惑った。だがすぐにある事を思い出
し、納得して相槌を打った。
「ああ、それはそうでしょうね。」
するとドゲットは、不思議そうな顔でスカリーを見詰めた。
「ごめんなさい。悪いとは思ったんだけど聞えちゃったの。先週クレインが、最近付き合いが悪いのは、スペシャルデ
ートがあるからだな、って言ってるのを。そんな人がいたら、やはりそれはまずいわよね。」
ドゲットは腕組みをしたまま、スカリーを無遠慮にじろじろ眺めた。
「エージェント・スカリー。君、最近新聞やニュースを見てないだろう。」
「え?そんな事はないわ。人並みに見ているつもりよ。」
ドゲットが突然何を言い出すのか測りかねた、勿論、これはスカリーのはったりだ。するとドゲットは、ふふんと含み笑
いを浮べ、まあいいと口の中で呟き、急に何かを思いつくと至極当り前の口調でスカリーに告げた。
「先週一緒に過ごした僕のスペシャルデートの相手が、君に会いたがっていた。帰ったら郵便受けに電話番号を記し
たメモが入ってるから電話してくれないかな。」
「私に?」
「そう。是非話がしたいそうだ。」
スカリーは顔を顰めた。どうして私がドゲットの彼女と話をしなけりゃいけないの?上目にドゲットを睨むと、既にそ知
らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。しょうがないわ。今回は彼の言う通りにするしかないわね。スカリーは肩を竦めると小
さくため息をついた。
 通りかかったウェイトレスにコーヒーのお代わりを貰ったスカリーは、窓の外を眺めた。まさかこんなに長く、ユタにい
るとは思わなかったわ。コーヒーカップを戻そうとして、身体を捻った拍子に背中の傷が痛み、僅かに顔を顰めた。そ
のまま、カップを置くと今度は捻挫した手首が痛む。満身創痍ね。スカリーは痛んだ手首をさすろうと、セーターの袖
口をまくれば、少しの緩みもなく巻かれた包帯が眼に入った。均等の幅で寸分の隙もなく、巻き終わりはきっちりとた
くし込まれている。きつ過ぎず、緩すぎず、動かしても少しも苦にならない。大したものだわ。そっと包帯撫ぜていると
自分に注がれている視線に気づき眼を上げれば、ドゲットが心配そうな顔で尋ねた。
「痛むのかい?」
「ええ、少しね。」
「腫れは引いてるようだが。」
「すぐに治るわ。」
「背中は?」
「痛み止めを飲んでいるから、何とも。でも、やっぱり急に動くと痛いわね。」
ドゲットはまるで自分が何処か痛いような顔付きになると、顎を引いて黙り込んだ。スカリーはドゲットの気持ちを思う
と居たたまれなくなり、話を変えようと話題を探した。ドゲットに悟られ無いようにあちこち視線をさ迷わせて考えてい
ると、ふとドゲットの手が眼に留まった。スカリーはテーブルに両肘をつき、手を組み合わせると、静かな口調で語り
かけた。
「モルダ−が失踪してから、よく同じ夢を見たわ。悪夢よ。それこそ、失踪直後は頻繁に見てうなされたわ。でも、最
近はだいぶ減ってきていたの。」
スカリーが言葉を切ってドゲットの様子を見れば、視線を逸らしあまり興味の無さそうな顔で新聞を小さく畳んでいる。
スカリーは構わず先を続けた。
「ついこの間も、夢を見たわ。あれは病院で目覚める前だった。・・・・不思議ね、あの時ははっきりと覚えていたの
に、今は断片的にしか思い出せない。」
「夢とはそういうものだ。」
まるで話を終わらせよういう投げやりな口調に、スカリーは眉を潜めた。ドゲットは椅子に凭れコーヒーを啜りながら、
気の無い素振りで窓の外を見ている。自分に関係無いからこんな態度なのかしら、とスカリーは訝ったものの、とりあ
えず最後まで続ける事にした。
「そうね。でも、生々しく覚えていることがあるの。私は暗闇の中で、あの化物から逃げようとしていた。でも、どんなに
頑張っても立てなかった。寒くて、疲れて、もう諦め様としていたわ。そうしたら、誰かが私の手を力いっぱい引いて立
ちあがらせてくれた。その人と手を取り合って、そこから一目散に逃げたわ。」
スカリーは眼を伏せると、自分の手を見詰めた。
「私は始め、私の手を引いているのはモルダ−だと思っていた。走りながらモルダ−の名を呼び、助けを求めた
わ。・・・・でも、違っていた。」
スカリーは唐突に口を噤むと、右手を開きまるでそこに誰かの手があるかのように、左手で掌をそっと撫ぜた。そして
柔らかく手を握り締めると唇に当て、その感触を思い出し眼を閉じた。そのまま夢見るような声で呟いた。
「そう、モルダ−じゃなかった。」
そしてふいに顔を上げまっすぐドゲットの眼を見詰めた。話の間中ドゲットは俯いて、空になったコーヒーカップを玩ん
でいたが、スカリーの視線を感じ、探るような目つきで上目にさっと見た。ほんの暫く躊躇っていたドゲットが、意を決
し尋ねた声は僅かに恐れを含んでいた。
「で、誰か分かったのか?」
スカリーは首を傾げドゲットを見ると、静かに微笑んだ。ドゲットは眉間に皺を寄せ、不思議そうにスカリーを見詰め返
した。スカリーが何と言って打ち明けようか、言葉を探さなければならなかったのは、こうして面と向って本人に告げる
には、あまりに気恥ずかしい出来事だったからだ。何気なさを装って曖昧に微笑んでいたが、意識するほどの事では
ないわと、自分に言い聞かせ口を開きかけた途端、ドゲットが立ちあがった。時間だと言ってドゲットが視線を向けた
電光掲示板に、二人の搭乗する便の離陸時間が示されていた。スカリーは些かほっとして立ちあがろうとすると、素
早く彼女の後ろに回ったドゲットが椅子を引いた。複雑な顔のまま口の中で礼を言い立ちあがったスカリーが、ボスト
ンバッグを持とうとすれば、当り前の仕草で彼女からバッグを掠め取りさっさと前を歩いて行く。
 レストランの支払いや搭乗手続き等を済ませる間、スカリーのした事と言えば、手ぶらでドゲットの後ろに立ってい
る事だけだった。この扱いにスカリーは憮然としていた。確かに今日退院したばかりとはいえ、自分の事ぐらい自分
で出来る。世間一般のひ弱な女性達と一緒にしないで欲しいと、何食わぬ顔で前を歩くドゲットに告げたかった。する
とむすっとしているスカリーを振り返り、何時もののんびりした口調でドゲットが聞いた。
「離陸時間が変ったから、臨時の滑走路まで、下の出口から50メートルほど歩くんだが、大丈夫か?」
「勿論。何も持っていないんですもの。」
そのつっけんどんな物言いに、ドゲットはおやっと言う顔をすると、スカリーが隣に並ぶのを、歩を緩め待った。スカリ
ーはドゲットの横に並び不機嫌な声で言った。
「エージェント・ドゲット。気を使ってくれるのは嬉しいけれど、残念ながら私はそういうタイプの人間では無いわ。自分
の事は自分で出来ます。バッグを返して。」
「君は手首を痛めている。」
「手は二本あるのよ。」
「成る程。」
ドゲットがそう言ったので、スカリーはすぐに返してくれるものだと左手を差出した。所がドゲットは、あろうことかスカリ
ーのバッグを反対の手に持ち替えて、すたすた歩いて行く。慌てて追いすがり睨みつけながら再度返す様に要求す
るスカリーだったが、それに答えたドゲットの返答には、多いに当惑させられてしまった。
「エージェント・スカリー。君、ワニがカメと共棲出来るのを知ってるかい?」
「は?何を言い出すの?」
「いいから。・・で、どうなんだ?」
「いいえ。・・でも、何の関係が・・」
「まあ、聞けよ。体長4、5メートルにもなるワニは獰猛で、側で動く物には何にでも襲いかかる。普段は川辺でじっと
して動かないが、いざ獲物と見ればその動きは素早く、狙われた獲物はひとたまりもない。だが、そんなワニも子育
ては、慎重だ。自分の身体があまりに大きい為、孵化したばかりの子ワニをうっかり潰しかねない。そんな事になれ
ば種族が滅んでしまう。そこで彼等には、小さくて弱々しく動くものは保護しなければいけない、という本能がインプッ
トされているんだ。それを上手く利用しているのが、カメなんだ。カメは丁度子ワニと同じ位の大きさだ。そして彼等の
動きは遅い。従ってどれだけワニの近くにいても、襲われる事は無い。彼等は外敵に狙われる事なく、ワニのおこぼ
れを食べ、安全に暮らすというわけさ。」
そしてドゲットは、煙に巻かれまいとドゲットの話を頭の中で反復しているスカリーの為に、通用門のドアを押さえた。
スカリーは考え込みながら、ドアを通りぬけ滑走路へと出た。あ、と思った時には既に遅く隣でドゲットは何事も無か
ったかのように歩いている。こういう扱いを止めさせようとしていたのに。スカリーはドゲットの様子を横目で見ながら、
自分がつっかかるのを、実はドゲットが面白がっているのではないかと疑った。だとしたら、これはまずいわ。スカリー
は苛立ちを収め平静を装い聞き返した。
「ワニ。」
「そう。ミシッシッピーワニ。僕の故郷にも棲息している。」
「カメと共棲する。」
「本能の成せる業だ。」
「・・・・小さくて、弱々しく動くもの、ね。」
「ふむ。中身はともかく、今のところ、そう見えないわけではないな。」
そう言ってドゲットはタラップの一段上から、にやりと笑ってスカリーを見下ろした。こうなるとスカリーにも、ドゲットがこ
ういったやり取りで、スカリーの出方を見ては密かに楽しんでいる事など、確かめるまでも無かった。要するに自分を
ワニになぞらえているのね。本能だから大目に見ろと。確かに私はあなたより小さくて、今は背中が痛いからこんな
風にしか動けないけれど、ワニとカメに例えるなんて、悪趣味だわ。とは思ったものの、それほど腹が立ってない自分
に驚いた。しかし、自分のすぐ前を二人分のバッグを軽々と持ち、悠然とタラップを上るドゲットを見ていると、このまま
素直に納得するのは、些か癪に障る。スカリーはある事を思いつき、足元を見ながら何気なく話しかけた。
「エージェント・ドゲット。」
「何か。エージェント・スカリー。」
「あなた、又、モーテルでディスカバリーチャンネルを見ていたでしょう。」
それを聞いたドゲットは、ふふと笑い鼻の下を擦った。
「娯楽の少ない街なんだ。」
「私が入院しているのに?」
「そう、君といると蝙蝠男と戦ったり、野良犬になったり、ワニになったりと、結構忙しい。」
「だからって、ディスカバリーチャンネルばかりを見るのは、どうかと思うわ。」
「何事も勉強だ。この分野は疎いからな。」
「相変わらず勉強熱心なのね。まあ、確かにプレイボーイチャンネルを見て、例え話をされるよりは、ましかもしれない
わ。」
スカリーのその返答に、くっくと喉の奥で笑うドゲットの目尻に細かい笑い皺があるのを、その時初めてスカリーは気
が付いた。笑いを含んだドゲットの低い声は、スカリーの耳に心地よく響いた。
「まいったな。それにしても、なんで分かったんだい?」
「それは、パートナーですもの、そのくらいすぐ分かるわ。」
突然ドゲットが立ち止まったので、危うくぶつかりそうになったスカリーはどうかしたのかとドゲットを仰ぎ見た。ドゲット
は僅かに眼を見張り、食い入るようにスカリーの眼を見詰めている。スカリーがその眼差しにはっとした瞬間、日の光
に眼が眩みタラップを踏み外しそうになった。既のところを、力強く腕を掴み、ぐいっとスカリーの体勢を立て直したドゲ
ットは一瞬青ざめた彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「ええ、ちょっと眼が眩んだだけ。何しろ私はあなたより、小さくて・・」
「弱々しく動くもの。」
答えたドゲットの俯き静かに微笑んでいる横顔から、何故かスカリーは眼が離せないでいた。





ep
ep

トップへ
トップへ
戻る
戻る
dog fiction top



女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理