【V】


 無法地帯だな。ドゲットは一歩自宅に足を踏み入れた途端、呟いた。重い足取りのまま、居間のソファーにコートも
脱がず腰掛け、スタンドの薄明かりに照らされた部屋を見渡した。テーブルの上には、配達されたままの状態で積ま
れた新聞、ビールの空き缶、丸めて放り出されたネクタイ、スーツの残骸。仕事机まで眼をやれば、未開封の郵便物
や仕事関係の資料が山のように積み重なっている。床のあちらこちらには綿埃が舞い、よく見ればうっすらと自分の
足跡が見える。
 ドゲットは、自嘲気味に笑い、ソファの背に凭れるとぼんやりと宙を見詰めた。しかたがない。夏と冬。何時ものこと
だ。ドゲットは眼を閉じた。だが、今年は何時もの冬より酷かった。毎年この季節をどうやってやり過ごすかは、大抵
決っていた。仕事。抱えきれないぐらいの仕事をこなす。毎日を仕事一色に染め、他の何も入り込む隙を作らないよう
に、毎日を隙間無く仕事で埋める。そうすれば、なんとかこのシーズンを乗り切る事が出来た。
 しかし、今回オクラホマから戻ってから、ドゲットはそうする事が困難な事に気付いた。この事件はドゲットにとって、
特別だった。オクラホマにいる時は、かろうじて保っていた平常心などとっくに何処かに行ってしまった。オフィスで仕
事をしているときは、緊張している為かまだ良かった。しかし、それも日増しに抑制が効かなくなり、そこかしこに兆候
が現れ始めていた。
 そしてついに昨日の朝、それは起こった。二日酔い気味の重い頭をすっきりさせようと、出勤前の僅かな時間、濃
い目のコーヒーが入り終るのを、シンクに手をつき待っていた。報告書の期限は昼までだな、等とぼんやりと考えてい
ると、突然背後を何かが通り過ぎる気配を感じ、身体を固くした。
 幻。俯き眼を閉じると自分に言い聞かせる。幻だ。静かに息を吐き出し、握り締めた拳を解く。ゆっくりと眼を開け、
そっと背後を振り返る。勿論、何も居はしない。ドゲットは首を振ると、コーヒーメーカーから入ったばかりのコーヒーを
マグカップに注いだ。すぐ後ろ、腰ぐらいの高さを、走る過ぎる後ろ姿が、視界の隅を過る。手が震える。鼓動が早く
なる。はっと我に返れば、カップからコーヒーが溢れ、床に流れていた。くそ、もう限界だ。こんなに頻繁なのは初めて
だ。何とかしなければ。ドゲットは床を拭きながら独り言ちた。
 しかし、昨日の夕方までのことを、実はドゲットはよく覚えていなかった。機械的にオフィスに行き、スカリーにサイン
を貰った報告書を眺めていると、次第にこれを提出するのは間違っているとしか思えなくなっていた。一旦そう思い始
めると、もう止められなかった。スカリーの眼を盗んで、報告書をもう1つ作り、何食わぬ顔でカーシュに提出したの
だ。そして、これ以上オフィスに留まっていると、全てに襤褸が出そうで、一目散に逃げ出したのだ。
 ドゲットはオクラホマから戻ってから、スカリーを避けていた。彼女は勘が鋭い。この2、3日というもの、オフィスでふ
と眼を上げれば、彼女の気遣わしげな瞳とぶつかった。誤魔化し切れるものじゃない。そんなことは承知している。し
かし、何があってもその話題は避けたかった。そして今は、何も聞こうとしない、スカリーの沈黙が有難かった。
 ドゲットは夕暮れの街を、宛も無く歩いた。今月に入り、街は既にクリスマスの飾りつけを施され、週末でもあり人が
溢れていた。家に独りでいるよりはと、雑踏の中に身を置いてみたのだが、大した違いは無かった。家族。家族。家
族の群れ。
 ドゲットはその時の状況を思い出し、自分の今の衣服を見下ろした。こいつはここ数年の内で為出かした、一番馬
鹿げた行いだったな。ドゲットは、溜息をつくと両手を膝の上で組み、額を乗せた。眼を閉じると、あの光景がありあり
と瞼に浮かんだ。
 少年と若い夫婦。3人は幸せそうに連れ立って歩いていた。少年の仕草や両親の眼差し、和やかな家族の会話。
そういったものが、まるで磁石のように、ドゲットを引き寄せた。ブティックの店員に声をかけられるまで、自分が1時
間以上もその家族の後を、つけ回していたとは、気付かなかった。3人は、初めてのフォーマルなクリスマスパーティ
の衣装を買おうとしていた。
 少年の不服そうな声。なだめる両親。ドゲットはその様子に気を取られ、店員の進められるままに、スーツ一式とコ
ートまで買わされていた。俺はいいカモだったな。苦笑いをしてドゲットは立ちあがった。この馬鹿げた服のせいで、
暫くは寂しい財布と格闘せねばならなかった。
 キッチンに赴いたドゲットは、グラスを用意した。シンクの上のキャビネットからジム・ビームを取り出すと、半分ほど
注ぐ。流し台には同じ銘柄の空瓶が林立し、汚れたグラスがその間に積み重ねられたままだ。ドゲットは顔を顰める
と、一気に飲み干した。喉を焼くアルコールが、身体の中を駆け巡るまで暫く俯いていたが、ふっと何かの香が漂う
のを感じ、顔を上げた。
 ああ、これか。ドゲットはシンクに置いたバケツに、今朝までは固い蕾だった花が一輪、爽やかな香を放って咲いて
いるのを認めた。スカリーが、コロンと間違えたのはこの香だった。
 買い物を済ませた家族をドゲットは、物陰から見送った。何をしているんだ、俺は。このままでは、どうにかなりそう
だった。ドゲットはこの状態から抜け出したかった。しかし、その為にはどうしても避けては通れない道に足を踏み入
れねばならず、その現実に怖れ慄いていた。
 突然、幾重にも重なった騒がしいクリスマスソングの中から、あの子守唄が聞えた。ドゲットは雑踏の真中で立ち竦
むと、耳を欹てた。優しい聞き覚えのある声で、その歌は途切れ途切れに彼の耳に届いた。呼んでいるのか。ドゲッ
トは何かが自分の背中を押すのを感じ、眼を閉じると、決心した。丁度その時、花屋の店先でその花が眼に入った。
白百合。清らかで凛とした姿が、眼に美しかった。誘われるように両腕一杯買い込んで、家へ帰ったのだ。
 しかし、自宅の留守番電話に残されたスカリーの伝言は、ドゲットを暗い気分にさせた。翌日を全てその計画に当
て、上手く行けば月曜には、何時もの自分に戻れるはずだった。思案の末、ドゲットは、まだ夜が明けない内に、ロン
グアイランドに向け出発した。昨日買ったスーツを纏い、助手席には白百合の花束。急げば一旦家に戻り、着替えて
出勤出来る筈だ。

 ロングアイランドについた時には、雨が降り始めていた。ドゲットは花束を抱え、足元に眼を落したまま、冷たい霧雨
に打たれじっと佇んでいた。・・・お前は今、何処にいる?

 ドゲットは、ジム・ビームで満たしたグラスを手に、居間に戻りソファーに深深と腰掛けた。結局、ロングアイランドに
行った事は、良かったのか、悪かったのか、今日一日を思い返してみれば、何とも言えなかった。只、独りになりた
い。そう思う気持ちは強かったが、心も身体も冷え切ったドゲットは、暖房の効いたスカリーの車の中で、傷を診る彼
女の手の暖かさが心地よく、気持ちが解れてくるのを覚えていた。が、スカリーが両手で自分の手を包んだ瞬間、何
かを期待し、曝け出そうという己の弱さに愕然としてその手を払いのけた。
 スカリーの眼に奇異に映ったであろうその態度を、しかし彼女は何も言わなかった。それどころか、どういう風の吹
き回しか彼女自身の話を、ドゲットにしたのだった。
 オクラホマのケース、忽然と姿を消した幼い少年。子守唄、『クジラの歌』、全てに鮮明な記憶が重なり合ってい
た。・・・・この符丁は何だ。極めつけが、あの霊能者の言葉。確かにあの霊能者の言った事は当っている。だが、俺
から、大きな力が流れているとは何の事だ。俺とオクラホマの事件が引き寄せ合ったとでも言うのか。馬鹿げてい
る。現に今朝、ロングアイランドのあの場所からは、何も感じ取れなかった。当り前だ。もういない。俺にも同じ事が起
こるとでも思っていたのか。くだらん。
 ドゲットは、グラスに口をつけると、勢いよく呷った。ひんやりとしたグラスを額に当て、目を伏せると項垂れた。
 ・・・そうじゃない。くだらなくなど無い。羨ましかったのだ。あの姿を、どれだけ望んだことだろう。この腕に再び掻き
抱く事が出来るなら、何だってする。どうしてあれが俺ではないのだ。何故今になって俺にあの家族の姿を見せるの
だ。俺は知っている。彼ら夫婦がこの10年見てきた地獄を。だが、これで終わりじゃないんだ。ここからは、別の地獄
が待っている。
「畜生。俺にどうしろと言うんだ。」
突然、ドゲットはテーブルの上に乗ったもの全てを乱暴に片手で薙ぎ払い、固く握り締めた拳を、力任せに打ちつけ
た。捨て鉢なその仕草は、彼の荒んだ気持ちを如実に物語っていた。
 暫くドゲットは項垂れ、握り締めた拳を見詰め、身体を固くしていたが、長い溜息と共に力を抜いた。どうにもならな
い。全て終わったんだ。ドゲットは首を振ると、握り締めていた左手をゆっくりと開いた。スカリーの捲いてくれた包帯
にうっすらと血が滲んでいる。これをみつかったら、又小言を言われるのだろうと、肩を竦めた。
 不意にスカリーの部屋に入った時のことが思い浮かんだ。部屋に一歩足を踏み入れた途端、心配性の母親みたい
な口調で、ドゲットの世話を焼く。恐らく自分の城だからだろう。スカリーの様子は普段より、毅然とし且つ柔らかく、
寛大で暖かかった。それにしても、まさかシャワーまで浴びて来いと言われるとは思わなかったな。
 あの時、脱いだコートをその辺に丸めて置こうとし、厳しい声で注意されたのを思い出した。何百万ドルもしそうな洋
服を、雑に扱わないで頂戴。思わず自分の身体を眺めまわした。そう言えば、コートを着たままだったと、ドゲットはコ
ートを脱ぎ、コート掛けに掛けようと立ちあがった。何時もの習慣でポケットの中身をテーブルの上に放り投げている
と、内ポケットで妙な物に触った。
 何だろうと、取り出してみれば、入れた覚えの無いCDだ。カラフルなジャケットには『Baroque for Beauty Sleep:
Sweet Dreams for Beautiful Dreamers 』とある。バロック?そこでドゲットはこのCDが、昼間スカリーが話してくれた
曲の入ったアルバムだと思い出した。となると、これをポケットに忍ばせたのはスカリーだと言う事になる。先ほどは
全曲聞く前に、眠ってしまっていた。だからなのか?だとしたら、よほど気に入ってるのだろう。
 そういえば、あんなに早く寝つけたのは暫くぶりだった。オクラホマ以降、ドゲットに安らかな眠りは無かった。浅い
眠りで僅かな物音に飛び起きるか、同じ夢を繰り返し見てへとへとに疲れ果てるか、そのどちらかだった。それが短
い時間だったとはいえ嘘のように夢さえもみず、熟睡できた。まあ、アルバムタイトル通りと言う事なのか。ドゲットは
コート掛けに、コートとスーツの上着を掛けると、居間に戻った。
 ドゲットは珍しく自分の話を聞かせてくれたスカリーを思い起こしていた。あの時彼女は何を言おうとしていたんだろ
う。ドゲットはネクタイを緩め、テーブルの上に置いたCDを見詰めた。聴いてみようか。ドゲットは立ち上がるとCDをプ
レーヤーにセットした。薄暗い部屋の中は、あっという間にバロックの美しい旋律で満ちた。ドゲットは再びソファーに
戻り、荘厳且つ繊細な調べに耳を傾け、これを自分に聴かせようとしたスカリーの真意を探った。
 車の中で彼女は、何気なく過去に起きた辛い体験をドゲットに話した。何故そんな話を自分に聞かせるのかは、大
方想像が付く。オクラホマから帰ってからの自分の不安定さを、守備よく隠し果せていたとはとても思えなかった。ス
カリーが詮索好きな人間では無いと、随分前から分かっていたが、今はうすうす感じ取っているであろう事実を、自分
に匂わせない彼女の品性は見上げたものだった。
 あの時彼女はなんと言っただろう。苦しみは時が解決などしてくれない、慣れるだけだと。その通りだった。悲しみ
や苦しみを、どうすることも出来ず、長い間心の内に住まわせると、それはやがて絶望へと変る。そうやって出来あが
った絶望は、徐々に心を蝕み、喪失と言う名の深い穴に、黒い澱となって沈んで行く。そして何時も身体に、決して暖
まらない、凍った闇を抱えることになるのだ。
 ドゲットはグラスに手を伸ばすと、飲みかけのジム・ビームを啜った。こうしてアルコールに頼っても、仕事に没頭し
ても、何をしてもどうにもならなかった。ドゲットはこの時ばかりは、捜査員としての卓越した能力を呪った。記憶。絶
望と共に幾重にも封印した記憶が、蘇ろうと彼の中でせめぎあっていた。全てが終わったのだと、それを押さえ込み
蓋をしてしまう、それが最善の方法のはずだった。

 しかし、時折耐え難い悲哀が身体中を駆け巡った。俺を救ってくれ。誰か、この苦しみから開放してくれと、心の底
で叫んでいた。

 無理な注文だ。ドゲットは笑った。この俺を、一体誰がどうやって救うと言うのだ。
 丁度その時、流れていた曲が彼女が言っていた曲に変わった事にドゲットは気付いた。スカリーは癒されるはずの
ない苦しみを、この曲によって癒されたと言っていた。ドゲットは眼を閉じると、耳を傾けた。緩やかな旋律と馥郁たる
歌声は、彼の心と身体をまろやかに包み込んだ。曲が終わり、確かに美しく心の洗われるような歌だったが、それが
スカリーに齎したような効果を、ドゲットには与えなかった。
 多分、スカリーでさえもそれは予測していただろう。だが、そうして自分の気持ちを気遣ってくれたと言う事実の方
が、ドゲットには嬉しかった。ドゲットは立ち上がると、その曲だけを、リピートしてかけることにした。今は只、そうする
事で彼女の優しい心に触れ、この部屋のように荒んだ状況を変えたかった。
 ソファーに身体を預けたドゲットは、空のカセットケースの中から、白い紙がはみ出でいるの見つけ、何かとそっと引
っ張り出した。それは小さく折りたたまれた白い便箋で、広げてみると黒いインクで何やら文字が書かれている。流
れるような書体で書かれていたのは、最後の曲の歌詞と、訳詞だった。ドゲットは黙って読んだ。

Nulla in mundo pax    まことのやすらぎはこの世にはなく (A.Vivaldi)

 Nulla in mundo pax sincera  まことのやすらぎは、この世には
 sine felle;pura et vera    苦悩なしには得られない。汚れない真の平和は       
 dulcis Jesu est in te.    優しいイエズスよ、あなたのうちにある。

 Inter poenas et tormenta   辛苦と苦悩のただなかでこそ
 vivit anima contenta     魂は、満ち足りて
 casti amoris sola spe.    まことの愛への希望のうちに生きる。

ドゲットは震える手で、便箋をテーブルに置くと、息を止め眼を閉じた。何かが彼の中で、瓦解し始めていた。片手で
シャツの胸の辺りを握り締め、早くなる胸の鼓動を押さえようとした。しかし一向に納まらない鼓動に、ゆっくりと深呼
吸をしもう一度、詞を読む。ドゲットはテーブルに肘を付くと両手で頭を抱え、眼を見開き、繰り返し読み続けた。歌声
と歌詞が彼の身体中を満たし、何かがひたひたと押し寄せてくる。
 ドゲットはその重圧に耐えきれず、ソファーに身体を横たえた。両腕で顔を覆うと、自分の中から次々と蘇る感情と
追憶の波が、洪水となって溢れ出てくるのを最早止められない。ドゲットは心の内に起きた激しい波に翻弄され、息も
つけずに思った。これが、望みだったのか。
 そして、7年という歳月を経て、暗い穴の底から彼目掛け一直線に浮上してきた名を、掠れた声で呼んだ。
「ルーク。」




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