【 Fire In The Sky 】


 スカリーは、立ち竦んだまま、脂汗が脇腹を流れてゆくのを、感じていた。銃を握る手も、じっとりと汗ばんでいる。し
かし、少しでも身動きしようものなら、目の前にいる2頭のドーベルマンが、一度に襲い掛かって来るだろう。ドゲット
の後を追って来たものの、東の別館近くで見失い、暫く別館の周辺を歩き回っている内、突然茂みの奥から、この2
頭が現れたのである。
 スカリーは、犬のことを失念していた自分を、心の中で罵った。身動き取れないこの状況は、非常にまずい。誰かに
助けを求めたくとも、どういう状況にベンとドゲットが置かれているか分からない今、大声で助けを求めるのは、賢明で
はない。しかし、そうなると自分一人でこの場を乗り切らねばならず、スカリーは必死で頭を働かせた。
 とりあえず犬達は、牙を剥いて唸ってはいないし、敵意を顕にしていない。と言うことは、自分でも何とか、宥められ
るかもしれないのだ。スカリーは背筋を伸ばすと、威圧的に犬達を見下ろし、命令した。
「お座り。そこで止まるのよ。ええっと、・・パム、キム?」
ところが、犬達は知らん顔でスカリーにのっそりと歩み寄ってくる。暗がりで光るドーベルマンの目が、これほど気味
が悪いとは、スカリーは思ってもいなかった。しかし、臆したら負けだと、更に命令口調を強くした。
「パム、キム。止まりなさい。お座り。座るのよ。」
しかし、犬は言うことを聞かない。スカリーは悲鳴のような声を上げ、思わず銃を構えた。
「パム!キム?止まって!」
すると、林の奥から幽かに忍び笑いが聞こえ、声のするほうに眼を凝らせば、笑いをかみ殺しながら、音も無くドゲット
が現れた。
「犬を撃つのかい?そりゃ、あんまりいい考えじゃないな。」
「エージェント・ドゲット。笑い事ではないわ。」
ほっと安心したスカリーが眼だけを向けて非難がましく睨めば、ドゲットはにやついたまま歩み寄り、スカリーと犬の
間に、無頓着に立った。
「名前が違うんだ。サム、ガム。戻れ」
正しい名前を呼ばれた犬達はドゲットの顔を見上げ、そのままくるりと向きを変え、何事も無かったかのように、林の
奥へ姿を消した。一体何時の間に、ドゲットは犬を手なずけていたのだろう。しかし、以前も同じような出来事を目の
当たりにしているのを思い出し、スカリーは不機嫌そうに首を振り、銃を下ろして、身体の力を抜いた。
「で、エージェント・スカリー。ここで、何を?」
「何をって・・・。あなたの後を追ってきたのよ。ベンに何かあったの?」
ドゲットは、ああと頷き、こっちだと首を傾げ、今出て来た方へとスカリーを誘った。ドゲットの余裕のある様子から、差
し迫った事態ではないと判断したスカリーは、カーディガンのポケットに銃をしまうと、黙って後に従った。
 なだらかな斜面になっている林をほんの少し上ったところで、不意にドゲットは立ち止まると振り返り、唇に人指し指
を当て姿勢を低くするように指示してから、スカリーを手招きする。呼ばれたスカリーは足元に注意をしながら、茂みに
隠れるように方膝をつくドゲットの横に同じようにしゃがみ込んだ。すると、ドゲットは目の前にある枝を僅かに動かし、
スカリーに覗くよう促したので、身を乗り出し覗き見れば、そこは東の別館のサンルームが、僅か下方向に見えた。
 深夜だというのに明るい照明を灯し、ガラス張りのサンルームの中央に位置する丸いテーブルにベンが居た。ベン
のすぐ隣では、黒髪の12、3歳の少女が、本とノートを広げ勉強に余念が無い。時折少女がベンを見上げると、その
都度ベンは微笑みながら手元を覗き込みアドバイスをする。
「あれは・・。」
「うん。年恰好からいって、多分マリアだろう。」
「ラテン系の子だったのね。・・・これもベンの日課?」
「そのようだ。」
「何時から知ってたの?」
「着いた当日。」
「じゃあ、毎晩ここに?」
「ああ。」
「何故教えてくれなかったの?」
スカリーはドゲットの返答を待った。が、杳として得られない反応に、ベン達から視線を移し隣のドゲットを振り仰い
だ。ドゲットは、黙ってベン達を見詰めていたが、スカリーの視線に気付くと、咳払いをして、さあ、何でかなと、肩を竦
めて見せた。何か思うところでもあるのだろうか。スカリーは、理由もなく報告を怠るなど、およそドゲットらしからぬ行
為に、そう判断し、話を変えた。
「・・・・昼間聞いた話。どう思う?」
「直ぐには信じられんな。」
「ラナが嘘をついてると?」
「そうも思えない。辻褄は合う。君はどう思ったんだ?エージェント・スカリー。」
「ええ。私も同じよ。それで、夕食前にちょっと調べたの。」
「何か出てきたかい?」
「FBIの彼らに関する情報は皆無と言っていいわ。ベンについては、当たり障りの無い経歴しか出てこないし、ラナ、ビ
リーは例の事件の被害者リストに名前が乗っている程度。例外だったのはリオぐらいね。」
「予想はつく。」
「ええ、ベンに出会うまでは、ありとあらゆることに手を染めていたようだわ。でも、これもFBIではなく、警察のデータベ
ースにあったのよ。」
「警察の。・・・用心深いな。」
「そうね。でも、そこから情報を手繰ると、クラークの名前がヒットしたの。」
「クラーク?元カリフォルニア支局長か。そいつが、どうして警察のデータベースに?」
「4日前に殺されてるわ。」
ドゲットは、僅かに眼を見張ると、スカリーの顔を覗き込んだ。そこでスカリーは、クラークに関する新情報をドゲットに
教えた。その間黙って聞いていたドゲットは、話が終わると頷いた。
「成る程。・・・ラナは、ベンとFBIは3ヶ月前から事態を把握していたと、言ってたな。」
「ええ。私もそれが引っかかっていたので、同じような殺され方をした関係者がいないか調べてみたのよ。そうした
ら、この3ヶ月の間に5人。」
「同一犯か。」
「そう考えるのが妥当ね。しかも、犯人が誰かは、もう分かっている。」
ドゲットは溜息をついた。
「プロ相手か。厄介だな。」
「相手は一人なのに?少なくともこちらには、4人いるのよ。」
「一人だからさ。」
スカリーは納得出来ず、訝しげにドゲット顔を覗き込んだ。するとドゲットは、ベン達を見詰めたまま憂鬱な口調で訳を
告げた。
「そいつが、ベンを狙う理由は何だと思う?」
「・・現金や、兵士を取り戻すことではないわね。」
「勿論。もしそうだったら、わざわざ自分がやったと分かる方法で6人も殺したりしない。あれは、宣戦布告なんだ。」
「じゃあ、怨恨?」
「多分。ベンの手にかかったということが、奴の武闘家としてのプライドを傷つけたんだろう。あるいは、グリーリィの敵
討ちか。そういう奴を相手にするのは、マフィアや軍隊を相手にするより厄介だ。目的はベンの命だから、取引など出
来ないし、目的を達成するまでは決して諦めない。見てろ。奴は捨て身で来るぞ。」
「だとしたら、何故ベンはここから動かないの?元FBIで、彼ほど頭のいい人が、何もしないなんて妙だわ。」
「・・・そいつは、後ろにいる男に聞いた方が早い。」
え?とスカリーはドゲットの顔を見上げれば、厳しい表情で二人の後方に広がる闇を睨んでいる。思わず身体を強張
らせて後ろを振り返ったスカリーの視界に、まるで闇の中から浮かび上がるが如く、リオが現れた。
 全身黒尽くめの扮装で、UZI-SMGを天秤棒のように肩に担いだリオは、チェシャ猫にも似た笑い顔を張り付かせ、
歩み寄ると直ぐ近くにあぐらを掻いて座り、UZIを膝の上に置いた。
「こんな所で密会かと、濡れ場を期待してたのに、色気のねえ話ばっかりで、がっかりさせるぜ。全く。他にやること
無いのかよ。」
二人は、思わず顔を見合わせた。密会?濡れ場?リオは何を言っているの?スカリーは当惑して眉を顰めた。
「あ、そうか。覗きが趣味なんだな?」
ドゲットの眉間の皺が深くなっている。
「するってえと、何だ。二人ともスリルが無いと、燃えないくちか?インテリ女は燃え方が半端じゃ・・」
がちっという音と共に、目の前に銃を向けられ、リオは口を噤んだ。何時取り出したのか、ドゲットは銃を構え、その銃
口はぴたりとリオの額に向けられている。静かな表情からは、何も読み取れない。まるで議会の議長が発言者を指
名するような客観的な目つきで、リオを見詰めている。しかし、その瞳の奥に漲る殺気は、二人にもはっきりと感じ取
れた。リオは、一瞬緊張を顔に走らせたが、直ぐににんまりとして両手を挙げた。
「冗談。・・・軽いジョークだって。マジに取るなよ。・・・ふざけっこなし、行儀よくするから、そいつを下ろせよ。」
「エージェント・ドゲット。銃を下ろして。これじゃ、聞きたいことも聞けないわ。」
「ほら、相棒もああ言ってるぜ。ちっ、参るなあ。堅物はこれだから、始末が悪いぜ。悪気はねえんだ。一々反応すん
なよ。」
「リオ、黙って。エージェント・ドゲット。彼はいいから、仕事をしましょう。」
スカリーの言葉に、ドゲットはリオにじろりと一瞥をくれて、銃を下ろした。リオが、こっそり息を吐き出すのを認め、本
気でリオが緊張していたとスカリーは悟った。気まずい沈黙が三人に圧し掛かる。そんな中、ドゲットは最早リオの存
在など無かったかのように背を向け、リオは落ち着きなく二人をじろじろと眺め回している。スカリーは咳払いすると、
リオに先ほどの疑問をぶつけた。するとリオは、よくぞ聞いてくれましたとばかりに、喜色満面で身を乗り出した。
「そりゃ、あの野郎が相手じゃ、隠れたって無駄だからな。ましてやこっちが奴の居所を掴むのは至難の技だ。それ
なら、守りが万全なここで待ち構えたほうが、有利だからさ。」
「それなら、何故もっと本格的にFBIに保護を求めないの?」
「泣かせるねえ。じゃ、逆に聞くけど、FBIはどういう状況か知ってるのに、なんで何時も警護に二人しか寄こさねえん
だ?」
「・・それは・・・。」
「まあ、そういうことさ。あんたらにゃ悪いが、FBIはベンの命なんざ、屁とも思ってない。大方コルタサルの時と同じよ
うに、何処か近くに別働隊を待機させておいて、終わった頃に駆けつけるつもりさ。」
「でも、ラナの話では、ベン自身の命は危険に晒せないはずでは?」
リオは、顔を歪めると頭を掻いた。デリカシーの無いことこの上ないリオが、躊躇っている。するとそれまで黙って背を
向けていたドゲットが、肩越しに振り返り呟いた。
「代わりを見つけたんだ。」
そして、すっと視線を滑らし、かすかに顎をしゃくって見せた。ドゲットが示す視線の先にいるのは、ベンとマリアだ。マ
リア。スカリーは、突き当った答えの不快さに、眉を顰めた。
「・・・何てこと。」
「そういうことさ。ベンが死んでも、マリアがいる。例え、ベンが死ななくても、これによって引き起こされる騒ぎが、大
事になればなるほど、マリアに対する養育権は危ういものになる。どっちに転んでも、マリアはFBIのものになるって
寸法さ。でも、知っていて何もしなかったでは、FBIも立場がねえからな。とりあえず警護してましたって便宜上、糞の
役にも立たねえ人数を寄こすのさ。結局一番得をするのは、FBIだ。最高の筋書きだろ?しかも相変わらず、やり方が
汚くて、感心するぜ。」
リオは後ろ手を付き、自分の発言の与えた動揺を推し量るように二人を眺めた。事実に加えた毒のある皮肉は、スカ
リーに衝撃を与えたようだった。しかし、ドゲットは相変わらず読み取りにくい表情で、やや俯き加減に一点を見詰め
ている。こいつ、何を考えていやがるんだ。リオは全く先の読めないドゲットが、気に入らなかった。これほど、自分に
瓜二つでありながら、思考も行動も正反対なのが、納得できない。これで、少しは俺に似たところがあれば、可愛げ
があるのによ、などど平静を装いながら考えていると、訝しげなドゲットの視線とぶつかった。すると、珍しいことにドゲ
ットが先に口を切った。
「君は何故ここにいるんだ?]
「・・・何故って、そりゃ・・」
「金か?」
「いいねえ。ベンは唸るほど持ってるからな。」
「だが、君のじゃない。君個人はベンから幾らもらってるんだ?」
「おいおい、野暮なことを聞くなよ。」
「ふざけるな。金しか興味がない男のくせに。」
「失礼な野郎だな。聞いただろ。ダナ。あんた相棒に、口の利き方を教えたか?」
「エージェント・ドゲット。言い過ぎだわ。」
スカリーが間に割って入った。ドゲットは顔を顰め、更に言葉を続けた。
「そうか?だが、事実だろう。君は最初からグリーリィとFBIの繋がりを知っていた。ベンをグリーリィの元におびき寄せ
るのに、一役買っていた。違うか。金さえ貰えば、親でも売るような男だ。そんな君がFBIと切れてる証拠はあるの
か?」
「無いね。」
にべもなくリオは言い放ち、無言でドゲットと睨み合った。直ぐにリオは視線を外し、面倒くさそうに頭を掻いた。
「まあここは、信用してもらうしかねえな。」
「信用?意味を知ってるのか?」
「いい加減にしろよ。だんだん腹が立ってきたぞ。」
「手の内を見せない相手とは、仕事が出来ないと言ってるんだ。君がここにいる理由は何だ?」
リオは眼を細め、ドゲットの顔を見詰めた。
「・・・・ベンといると、飽きねえからな。FBI時代は、あれをするなこれをするなって結構煩かったけど、今は違う。金で
解決出来りゃ、何したって自由だしよ。」
ドゲットは厳しい眼で黙ったまま、リオを見た。彼がリオの返答に納得していないのは、一目瞭然だったが、それ以上
は追求しようとはしない。すると、リオが急に話を変えた。
「ここで、3人雁首揃えていても意味ねえだろ。ちょっと、提案があるんだけど、いいか?」
リオの提案とはこうだ。ベンはこのまま4時半まで別館にいる。その後、屋敷に戻り6時には牧場まで散歩する。自分
はベンが夜ここに来てから、屋敷に戻るまでを毎晩担当するから、早朝の散歩で交代し、その後日中はそちらで受け
持つ。分担したほうが、体力も蓄えられて、効率がいい。リオの言うことも最もだった。スカリーはドゲットの承諾を得
ようと、彼の顔を振り仰いだ。するとドゲットは、何か思いつめた眼をして、じっとベンとマリアを見ている。ドゲットの唇
が僅かに動くのを認め、え?と、スカリーは問いかけた。すると突然ドゲットは立ち上がり、スカリーの腕を掴んで引っ
張り上げたのだ。無理やり立たせるというドゲットの不可解な行動を、咎めるような眼をしたスカリーの視線を避け、顔
を背けたドゲットが言った。
「行こう。」
「お、いいね。俺の言うことを聞いてくれるんだな。」
ドゲットの行動が同意だと判断したリオが、機嫌のいい声を出した。一瞬ドゲットはリオの顔を見たが、くるりと踵を返
し元来た道を帰って行く。スカリーが慌てて後を追いかけようとすると、リオの腹立たしげに呟く声が聞こえた。
「全く。犬はどうしたんだよ。5頭もいて番犬にもなりゃしねえのか?」
「犬はちゃんとしていたわ。只、彼にはそれが通じないだけなのよ。」
スカリーはリオの脇を通り抜けざまそう告げ、妙な顔をするリオを尻目に、ドゲットの後を追いかけた。


 スカリーは数歩前を歩くドゲットの背中を見ながら、先ほどから黙りこくったままの彼の心中を推し量った。リオとの
やり取りを、隣で、はらはらして眺めていたスカリーは、何時になく辛らつなドゲットの口調に戸惑っていた。リオだか
らだろうか。確かに、自分とそっくりな男が、彼にとって耐えられない性格の持ち主だとしたら、あの口調にも頷ける。
実際ドゲットは、食事や警護中、食堂や廊下でばったりリオと出くわす度に、あからさまにリオを避けていた。が、仕
事となれば別だ。ドゲットが仕事中に私情を持ち込むなど、考えられない。
 しかしスカリーは、ドゲットが何かに怒っているような、漠とした感触を肌で感じていた。説明は出来ない。だが、ス
カリーの心の奥底では、彼の言い知れぬ憤りを、感じることが出来た。そこでスカリーは、ずっと気になっていた、聞
き取れなかったドゲットの言葉を、思い出そうと試みた。あれは、なんと言ったのだろう。・・・何かと、終わり。最後は
確かそう聞こえた。
 そこまで考えたスカリーは、唐突に立ち止まったドゲットの背中に、危うくぶつかりそうになり、既のところで踏みとど
まった。どうしたのかとドゲットを見れば、ショルダーホルスターから銃をそっと抜き、左の茂みの方に向けている。そ
の様子にスカリーも緊張を走らせ、持っていた銃を構えた。茂みの奥が幽かに揺れる。何かいるのだ。緊張が漲る。
すると何の前触れもなく、左の茂みから飛びだした大きな黒い影が、二人すれすれに過ぎり、思わず発砲しそうにな
ったスカリーの手を、一瞬早くドゲットが抑えた。庇うように身体を寄せたドゲットがそっと囁いた。
「鹿だ。」
スカリーが眼の端にようやく捉えた影の後姿は、馬にしては小さく、犬にしては華奢だった。雌鹿だ。スカリーは息を
吐き出すと、身体の力を抜いた。ドゲットはSIG−P226をホルスターにしまいながら、スカリーの様子を気遣わしげに
見詰め尋ねた。
「大丈夫か?」
「ええ。平気。でも驚いたわ。」
「そうだな。鹿狩りをするなら、別の時にしてくれ。」
スカリーはちょっとドゲットを睨み、なかなか収まらない動機を抑えようと、胸を押さえ深呼吸を繰り返す。前触れなく
ふわりと上半身を暖かな空気が覆った。ドゲットがジャケットを脱いでスカリーの肩にかけたのだった。はっとしてドゲ
ットの顔を振り仰げば、ドゲットは上目にスカリーを見て面映そうな顔で呟いた。
「震えてる。」
スカリーは、そういえばと、自分の格好を見下ろした。紺のフランネルのパジャマにこげ茶の毛糸のカーディガン。ジャ
ケットにトレーナー、ジーンズ姿のドゲットと比べ、いくら急いでいたとはいえ深夜の張り込みには、あまりに間の抜け
た姿だ。その証拠に、震えているのは、今の出来事に驚いたばかりではなく、東の別館に着いた時からずっと寒かっ
たせいもある。ドゲットの体温が移ったジャケットは、温かかった。思わずその温かさが逃げないように襟を掻き合わ
せれば、それを見ていたドゲットの雰囲気がふっとが和らいだように感じ、誘われるように見上げ微笑んだ。すると、
急に身体の向きを変えたドゲットの、事務的な声がした。
「寒いから、早く戻ったほうがいい。」
「ええ。あなたは?」
「この先を見回ったら、直ぐ戻るよ。」
ドゲットは鹿が消えた方向に、くいと親指を傾げ、スカリーの返事も待たず、茂みの暗がりに消えてしまった。あっとい
う間にドゲットの気配が消え、スカリーは森閑とした林の中に、一人残された。屋敷までは、もうそんなには歩かない
はずだ。しかし、戻ろうと思うスカリーの心と、彼女のとった行動は全く逆だった。自然とドゲットの消えた方へと、足
が向いてしまう。このまま、戻っても良いのだ。しかし、スカリーは聞きそびれた言葉を確認したかった。怒りの元凶を
知りたかった。ドゲットの心を煩わせる全てを、把握しておきたかった。


 おそらく月明かりが、この夜ほど明るくなければ、スカリーにドゲットの後を追うことなど不可能だったろう。細い獣道
を慎重に進み、暫く行った所で、幽かな水音がスカリーの注意を引いた。水音は川の流れるような音ではなく、岸に
打ち寄せるような響きがある。何だろうと耳を澄まし、更に進むと、突然目の前の林が切れ、現れたのは湖だった。
 小さな天然のプールといった大きさしかない、ほぼ円形の湖の周りは、鬱蒼とした林に囲まれ、湖の上空を覆いつ
くさんがばかりの勢いで木々が生い茂っている。深い青緑色の水を湛えた湖面を、木立を抜けた白銀の月明かりが
光線のように降り注ぐ。美と静寂。スカリーは自然の織り成す美しさに、心を奪われ、辺りを見回した。すると、岸辺の
大きな岩に凭れるドゲットの後姿が、シルエットで窺えた。
 驚かさないようにそっと近づけば、数歩手前でドゲットが、肩越しに振り返った。ドゲットは随分前から彼女の気配に
気付いていたのだろう。最早、ここで何を?とは聞かない。スカリーが隣に並ぶまで、黙って湖を見詰めている。
「美しい湖ね。」
「ああ。鹿に教えられた。」
「何を見ていたの?」
何気ないスカリーの問いに、ドゲットは眼を伏せ、ふふと笑った。謎めいた微笑を浮かべるドゲットを、不思議そうに見
上げるスカリーの眼差しに気付いた彼は、ちょっと照れくさそうにして、視線を湖面に移した。
「待ってるんだ。」
「何を?」
ドゲットはすっと手を伸ばし、湖の中央を指さす。
「あの辺から、黄金の剣を持った手が現れるのを。」
スカリーは少し考えてから、眼を細め同じように湖の中央を見詰めた。
「“アーサー王”に現れたような?」
ドゲットはえっと僅かに眼を見張り、それから嬉しそうにスカリーを見下ろした。
「話せるな。」
「活発な兄と、夢見がちな姉の影響よ。」
「ああ、成る程ね。・・・・僕が子供の頃持っていた“アーサー王と円卓の騎士”の本には、N.C.ワイエスの素晴らしい
挿絵がついていて、特にお気に入りの絵が、アーサー王とマーリンが湖で剣を持つ手に遭遇する絵だったんだ。淡い
色調で幻想的な絵だ。子供心にわくわくしたよ。あの手の下にいるのは、誰なんだろう。とか、水の中からアーサー
王はどんな風に見えるんだろう。とかね。それ以来、こんな湖を見つける度に、もしかしたらと思って、つい見入ってし
まう。」
幸せな少年時代。そこに思いを馳せる時、人は自然と穏やかな表情になる。スカリーはこんな風に自分のことを話す
ドゲットを見る内、自然と自分の心も和んでくるのを覚えていた。
「お気に入りは誰?」
「ランスロット。」
「あら、意外と平凡なのね。」
「そうかな。」
「だって、愛と名誉の騎士でしょう。彼にはファンが多いのよ。」
「愛と名誉の騎士?ランスロットが?」
「一般的にはそう言われてるわ。じゃ、あなたはどうして、ランスロットが気に入ってるの?」
「馬鹿だからさ。」
スカリーは理解しかねると、顔を顰めた。その様子にドゲットが、ごく当たり前の口調で説明した。
「だってそうだろう。アーサー王にとても愛されていたとは思えないギネヴィアとは相思相愛だったのに、最後の最後
まで彼女の気持ちに、答えようとはしなかった。」
「愛情と友情の板ばさみで、苦しんだのよ。」
「そうさ。だが、土壇場ではいつも彼女より友情を優先させる。名誉を選んだ。その為に、何度もアーサーに剣を向け
られてるのにだ。その学習能力の無さには、恐れ入るよ。」
「あなた本当にランスロットが気に入ってるの?」
「勿論。僕がランスロットを気に入ってるのは、確かに馬鹿な奴だけれど、彼自身がその事を充分承知してるからさ。
あの物語の中で彼ほど、報われない男はいない。ランスロットは小心で愚かな男さ。とても、一国の王妃をさらい、手
に手を取って逃げ果せる器じゃない。それは本人も承知の上で、それでも、さらわずにいられなかった。かといって、
自分の思いを遂げる大胆さも持ち合わせない。小心な男には過ぎた悩みを抱え、にっちもさっちも行かなくなる。」
「もういいわ。」
「いや、まだ先が・・。」
「いいの。あなたの話を聞いていると、私の中の悠久のロマンが変色しそう。」
呆れたようなスカリーの言葉に、ドゲットは俯いて鼻を擦りにやにやしている。スカリーも思わず顔を綻ばせ、挑戦的
な眼を向けた。
「あなたの説はよく分かったわ。でも、一つ聞きたいんだけど、もしあなたがランスロットだったら、どうなの?やっぱり
彼と同じような事をするのかしら?」
「僕が?まさか。」
答えたドゲットは、視線を遥か湖の上に向けた。
「僕だったら、やっと手に入れたものを、絶対に手放したりしない。他の奴らなど知るか。新天地で彼女と幸せに暮ら
すね。」
「迷ったり躊躇ったりしないの?」
「それは、暇な人間がすることだ。」
「でも、さらって逃げるところまでは同じなのね。」
「そう。馬鹿なところは同じさ。只違うのは、僕はランスロットほど善人じゃない。」
「あら、パートナーが悪人とは知らなかったわ。さすがリオのお兄さんね。」
スカリーの放った小型爆弾は、彼の眼前で見事にヒットした。ドゲットはリオの名前を聞いた途端、勘弁してくれと言う
ように空を振り仰ぎ、大仰な溜息を付きがっくりと項垂れて見せた。やがて項垂れていたドゲットの肩が小刻みに震
えだし、ついに我慢しきれなくなったのか、声を上げて笑い出した。あいつの兄貴なんて止めてくれ、などと言いなが
ら、さも可笑しそうに笑う。その笑顔に誘発され笑いの止まらなくなった二人は、暫し笑いの発作が納まるまで、お互
いの顔を見ることさえままならなかった。
 スカリーが、ようやく笑いが納まり、寛いだ沈黙の中に身をおいたドゲットに声をかけたのは、その少し後だった。
「やっと機嫌が直ったようね。」
「何の話だ?」
「腹立ち紛れにリオに八つ当たりしては、幾ら彼でも可哀想よ。」
すると、ドゲットは顔を顰め、ふっと視線を逸らし呟いた。
「お見通しだな。」
「分からないでいるほうが、無理だわ。」
「まあ、褒められた態度じゃ無かったのは認める。」
「リオ二人を相手にしているような気分だったわ。」
「悪かった。反省する。」
ドゲットは真面目腐った顔をして、殊勝な台詞を言って見せた。しかしスカリーには、そうやって話をはぐらかそうと言
う魂胆など、とうに通じなくなっている。スカリーが何気なく尋ねた疑問を、拒絶しようという素振りは窺えなかったが、
只、それを言葉にするのが、彼にとって難しいという風に、スカリーには映った。
「リオがそんなに癇に障る?」
「リオ?ああ、・・・・リオね。目障りなのは否定しない。」
「やり難い?」
「いいや。あいつはあれで、いざとなれば便利な男だ。銃器の扱いや、身ごなしから判断しても、相当修羅場を踏ん
でるんだろう。」
スカリーはこれまでドゲットがリオに示してきた態度からは、まさかこれほど冷静にリオを評価してるとは思っても見な
かった。そんな顔をしたのだろう。
「何だ?」
「あなたは生理的にリオを嫌ってるんだとばかり思っていたわ。」
「隣にいて楽しい男じゃないのは、確かだ。だが、仕事だからな。そうも言っちゃおれん。」
「じゃあ、さっきのリオに対する態度は、何なの?」
ドゲットは、あれか、と呟き下を向くと、その場にしゃがみ込んだ。何をするのかスカリーが見守っていると、足元の平
たい小石を数個拾い上げ、岸辺に近寄り湖に向かって投げ始めた。水切りだわ。鏡のような湖面を、つい、つい、と
小石が跳ねる。最後にとぷんと、音を立て沈む小石と、幾重にも広がり静かに消えてゆく波紋を、二人は無言で眺め
ていた。スカリーはドゲットの横に並ぶと、ドゲットの顔を仰ぎ見ながら、正直な心情を投げかけた。
「ここは、彼らにとっての理想の地ね。」
「彼ら?」
「ベン、マリア、ビリー。例の事件の被害者全て。」
そうだな、と頷きドゲットはジーンズのポケットに手を突っ込むと、おもむろに尋ねた。
「君はベンとマリアを見てどう思った?」
「どうって?」
「あの様子さ。見たままでいい。」
「そうね。幸せそうだったわ。仲のいい親子のように見えたわ。あなたは?」
「昨日まではね。そう思っていたよ。ただ、あそこにいると、何故か後ろめたいような気分になっていたのも事実だ。」
「後ろめたい?」
「ああ。でも、今日ラナに聞いた話で、納得出来た。」
ドゲットは、俯くと左手で唇を擦った。
「あの二人は奇跡なんだ。」
「奇跡?」
「グリーリィの狂気が生み出した研究が、ここにいる若者にどういう影響を及ぼしたか、君も見ただろう。ビリーは、ラ
ナが付いてるから、まだましなほうだ。だが、他の連中が、ここ以外で生活していくことは難しいだろう。他人との会話
や、共同生活すらままならない。それなのに、実験の始まりであるベンは、見た目にはごく普通の男だ。」
「見た目には?そう言えば、ラナが言ってたわね。ベンは私達とは違うって。確かに、彼の外見は驚くほど若いわ。で
も、彼ぐらい年齢と見た目のギャップがある人間は、ざらにいるわ。他に何かあるの?」
「ベンは殆ど眠らない。リオが根を上げた理由の一つだ。東の別館から4時半に戻り、殆ど眠った形跡無く早朝の散
歩に出てる。君は日中ベンが仮眠を取ってるのを、一度でも見たことがあるか?」
「そう言えば、無いわ。」
「睡眠は人間の三大欲の一つだ。戦場で捕虜になった兵士から、情報を聞きだす手っ取り早い拷問は、睡眠を奪うこ
とだと、君も知ってるだろう。睡眠は三大欲の中でも、最も重要なウェイトを占める。それを必要としない身体のベン
が、精神に異常を来たすことなく成長できたんだ。そして、マリア。実験の最後の一人だ。幼い彼女がどれほどの仕
打ちを受けたかは、他の若者を見れば推して知るべしだろう。だが、マリアは驚くべき短期間で、回復しつつある。あ
の二人は、グリーリィの歪んだ野望が産み落とした、奇跡の申し子なのだと思えてならない。」
その時スカリーは、あの時聞き取れなかったドゲットの言葉の全てを知った。
「歪んだ野望の、始まりと終わり。・・・・ベンとマリアはその象徴ね。」
「そうだ。そしてそこから発生した奇跡の代名詞でもあるんだ。僕が毎晩あそこにいて、居心地が悪かったのは、無垢
で純粋なものを覗き見してるような、そんな気分になってしまうからだ。上手く言えないが、あの二人は特別なんだ。
恋人のように親密で、親子のように似ている。」
「・・・・だから、リオの一言に腹を立てたのね。」
「・・リオか。まあ、それもある。」
「それも?他にもあるの?」
ドゲットは俯くと、足元の湿った砂利を蹴った。片足で地面に穴を掘りながら、言葉を探しているようなドゲットは、急に
動きを止めると、怒りに満ちた目で湖を見詰め、低いがきっぱりとした口調で言った。
「僕はあんな風に、謂れの無い悪意によって傷つけられ人生を滅茶苦茶にされた人間を見るのが、大嫌いだ。そう追
い込んだ元凶が、身勝手な人間や権力だったりすると、無性に腹が立つ。・・・・僕は・・・僕がこの仕事をしていて、
一番良かったと思えるのは、理不尽な暴力や権力に潰されそうな人達の、手助けが出来るってことさ。全てが成功
するわけじゃないし、むしろ報われないことのほうが多いが、それでも手を拱いて見ているだけじゃなく、行動に移す
ことが出来る。」
「・・・そうだったの。でも、今回私達は権力側の人間なのよ。微妙な立場だわ。」
「微妙ね。確かにそうだ。だが、この場合僕ら二人だけというのが、非常に重要なポイントになる。」
そう言ってからドゲットは自分の言った事に、何か思い当たったらしく、そうか、そうだな、などと、独りごち頷く。そして
不意に空を仰ぎ見ると、木立の合間から見える満月を眺め、凄いな、と呟いた。釣られて仰ぎ見たスカリーもドゲット
の言葉に相槌を打つ。都会では決して見ることの出来ない、白い炎のような満月だった。唐突にドゲットが尋ねた。
「君は月にかかる虹を見たことがあるかい?」
「いいえ。文献でしかないわ。あなたは?」
「僕はラッキーなのかな。今まで数回。」
「どんな風に見えるの?」
ドゲットは少し首を傾げると、その時を思い出すようにゆっくりと語りだした。
「月にかかる虹は、昼間見える虹より色彩が淡く、殆ど白く見えるんだ。多分そこには、昼間の虹と同じように、7色の
光の帯があるのだろう。けれど、月の光では弱すぎて、白くしか見えない。月にかかる虹は、脆くて儚い、幻のようだ
ったな。」
ドゲットはそう言うと、僅かに身体をスカリーの方に向け、彼女の眼を見詰め静かな口調で先を続けた。
「ベンがあの空の月だとしたら、ここにいる人間はそれにかかる虹だ。本当は、人間として全てを持っているのに、あ
る一面しか表に現すことが出来ない。彼らにとって、ベンは人間でいられる希望の光だ。・・だがもし、そのベンが失
われたら、どうなる。」
「・・・彼らまで、消えてしまう?」
「このままでは。・・・あるいは。」
そう言ってドゲットは感慨深げに月を仰いだ。するとスカリーの眼の前で、ドゲットの瞳の色がすっと変わった。始めて
見るその色に食い入るように覗き込めば、その様子に気付いたドゲットが、不思議そうな顔で見下ろし、何だ?と尋
ねる。するとスカリーが、躊躇いがちに眼を指差したので、ああ、と片手で両目を覆い乱暴に擦ってから、不機嫌に顔
を撫ぜた。忌々しそうなドゲットの態度は、スカリーには奇異に映った。不思議なものでも見るようなスカリーの眼差し
に、渋い顔でドゲットはこう言った。
「月明かりの加減で、変な色になるだろう。」
「変な色?」
「ああ。殆ど色が無いような。昔女友達にも言われたよ。まあ、確かに自分で見ても気味の悪い色さ。」
ドゲットは、そう言って俯くと顔を顰め、横を向いた。スカリーは、その言葉を言ったというドゲットの女友達が信じられ
なかった。スカリーは、変色して見えたドゲットの瞳を、とても気味が悪いとは思えずにいた。それどころか、月の光を
反射して銀青色に輝くドゲットの瞳は、まるで宝石のように煌いて見える。スカリーは以前から、密かにドゲットの青く
澄んだ眼が気に入っていた為、思わず尋ねていた。
「自分の眼の色が嫌いなの?」
「ああ嫌いだね。薄青くて、冷たそうに見えるだろう。」
「あら、そんなことは無いわ。」
「別に慰めてくれる必要はないんだぜ。気にしちゃいない。」
「慰めてるわけじゃ・・」
「ま、そりゃ、君みたいな深い海のように青い色じゃないからな。」
「あなたの眼だって、変な色じゃないのに。透明で硬質なクリスタルか、月長石のようだわ。」
ドゲットは、ちょっと驚いたように眼を瞬かせると、スカリーの顔を照れくさそうに覗き込んだ。その途端、スカリーは頬
に血が上るのを覚え、俯いた。一体自分は、何を口走ったのだろう。異性の瞳を宝石に例えるなど、まるで口説きの
常套句ではないか。ドゲットがあまり自分の眼の事を卑下して言う為、否定しようと咄嗟に出た言葉とはいえ、ばつ
の悪さに顔も上げられない。するとドゲットが、何時もののんびりした口調で、呟いた。
「月長石。ムーンストーンか。石だな。それって聞こえはいいが、冷たい、って言うのを言い換えただけじゃないの
か。」
「それは・・・」
違う、と言いかけてスカリーは口を噤んだ。何故なら、からかうようなドゲットの眼差しに気付いたからだ。黙ったまま
ドゲットを睨むと、にやりと笑い肩を竦めた。
「さあ、戻ろうか。6時にはリオと交代だ。」
スカリーは話が変わって内心ほっとしていた。さりげなく出してくれた、ドゲットの助け舟がありがたかった。黙って頷く
と、既に一歩前を行くドゲットの後に続いた。

 本当は今夜が限界だったんだ、とドゲットは大きく伸びをして、あくびをする。湖での会話など、まるで無かったかの
ような、ドゲットの態度だった。こういう時の切り替えの速さは、ドゲットの長所でもある。林を抜け、屋敷へ戻る間、二
人は明日からのタイムスケジュールの建て直しを検討しあった。
 話が纏まりすっかり打ち合わせが終わった時には、二人とも自分の部屋の前に来ていた。お休みを言って何気なく
ドアノブに手をかけたスカリーは思わず、あ、と声を上げた。するとその声は、隣でカードキーを差し込もうとしていたド
ゲットの手を止めた。
「どうした?」
「キーを・・・。」
ドゲットは、ははあ、としたり顔で頷き、黙って作業を完了させドアを開けると、くいっと部屋へ首を傾げて、入るように
促す。
「ありがとう。失敗したわ。」
「こんな時の為の続き部屋だ。」
スカリーを先に部屋へ入れ、ドゲットはドアを閉めた。スカリーは自室へのドアを開け、再びお休みを言うために振り返
れば、ベットに腰を下ろし、ショルダーホルスターを物憂げに外すドゲットの姿があった。相当眠そうね。スカリーはそ
の様子に口元を綻ばせ、お休みなさいと声をかければ、凝った首の筋肉をごきごきとほぐしながら、お休みとドゲット
が答えた。
 部屋に戻ったスカリーは、サイドテーブルのホルスターに銃を戻し、そこで自分がまだドゲットのジャケットを羽織っ
ていることに気付いた。返さなければと方袖を脱ごうとして、ふと手を止めた。不思議だ。何故ドゲットは何時も自分
が、直隠しにしている不安を嗅ぎ付けてしまうのだろう。あの時、確かに寒かったし、鹿にも驚いた。しかし、怖さもあ
ったのだ。
 FBI捜査官という職業柄、数々の修羅場も、恐怖の体験もこなして来た。しかし、それでもなお、やはり怖いものは
怖い。今まで、そんな様子をモルダーに少しでも見せようものなら、間違いなくからかわれるに決まっていた。従っ
て、自然とそういう感情は封じ込めるのを常とし、今では自他と共に認める、怖いもの知らずの捜査官のはずだった。
 だが、いくらスカリーでも、原始の頃より遺伝子情報に組み込まれた、暗闇に感じる恐怖を克服するのは、やはり至
難の業なのだ。そしてそういう本能からくる、不安、嫌悪、苛立ち、悲しみ等をいとも簡単に感じ取るのが、ドゲットと
いう男だった。そしてそれに続く一連の行動は、やはり彼の本能的なところから発生する。
 スカリーはジャケットの襟を掻き合わせ、襟元に顔を埋めた。あの時のドゲットの体温と、幽かな彼の体臭が蘇る。
心根が暖かい人なのだわ。こうしていると、まるでドゲットに抱かれているような錯覚を起こしそうになり、はっとして
慌てて首を振り、馬鹿げた妄想を追い払った。手早くジャケットを脱ぎ、片手に持つと、ドゲットの部屋に通ずるドアを
ノックした。
 三回程ノックしても、何の返事も得られず、眠ってしまったのだろうかと、躊躇いがちにドアから覗き込めば、着替え
もせずに、ぐっすりと眠りこけているドゲットの姿が眼に入った。そっと足音を忍ばせ、部屋に入ると、椅子の背にジャ
ケットをかける。同じようにして、戻ろうとしたスカリーは、躊躇った。ちょっと考えてから、小さく息を吐くと、おもむろに
ドゲットに歩み寄った。
 ドゲットは服を着たまま、何もかけずに横たわっている。きちんとベッドメークされた毛布は、マットレスにたくし込ま
れたままだ。いくら、屋敷内の空調が適温に調節されてるとはいえ、明け方の冷え込みはきつい。風邪など引かれ
たら厄介だ。しかしドゲットを起こさずに、毛布をかけるのは、難しいだろう。かといって、着いた当日からベンを昼夜寝
ずに警護していたドゲットを、起こすのは気が引けた。纏まって眠れるのは、暫くぶりのはずだ。スカリーは辺りを見
回し、何か身体にかけるものを探した。
 すると、先ほど自分が借りていたジャケットが眼に留まった。いいものがあったと、手にとって直ぐにドゲットの肩に
かける。しかし、そうなると下半身が寒そうだ。そこで、今度はクローゼットから、ドゲットのコートを出しジャケットの上
からかけた。
 これで、なんとかドゲットの身体全体を毛布代わりに覆うことが出来たと、スカリーは満足げに頷き、サイドテーブル
の灯りを消そうと枕元にしゃがみ込めば、腕組みをしたまま横向きに眠るドゲットの寝顔が間近にある。ドゲットが身
動きもせずぐっすり寝込んでいるのをいいことに、その寝顔をかなり無遠慮に眺め回した。眠っていても難しい顔をし
てる。眉間に皺を浮かべたままの、しかめっ面が可笑しかった。
 ふと先ほど、月明かりで見たドゲットの瞳を思い出した。色が無くて気味が悪い?薄青くて冷たそうに見える?長年
彼が、そんな風に思っていたとしたら、とんでもない思い違いだわ。青みがかった銀色に輝く美しい瞳だった。濁りも
曇りも見当たらない、清清しく涼やかな輝きは、冷たい印象とは程遠い。思わず口をついて出たムーンストーンは、子
供の頃、初めて見た結婚式の花嫁の指を飾っていた指輪だった。それ以来ムーンストーンは彼女の中で無意識に、
清らかで美しく幸福を齎すものの象徴となっていた。
 ドゲットのあの瞳を見たことのある人間は、一体どれ位いるのだろう。ドゲットの様子では人に知られたくはないよう
だった。そうなると、自分はかなり幸運だったのかもしれない。幸運?なんで私が、それを幸運だと思わなけりゃいけ
ないの?そこで突然スカリーは、ドゲットのある言葉を思い出し、耳の先まで真っ赤になった。
 灯りを消しそそくさとその場を離れたスカリーは、自室に戻り窓辺に立つと、両手で火照った頬を押さえた。あの時、
何気なく聞き流していた、ドゲットの言葉が蘇る。
 深い海のように青い。彼はそう言った。スカリーの瞳をドゲットは、そう表現した。それは、あまりにさりげないドゲット
の賛辞だった。ざわつく心を静め、ベッドに入ったスカリーは、自然と口元が綻ぶのを止められない。今夜はいい夢が
見られるかもしれない。白く燃えるような満月の効用を、侮ってはいけない。
 だがその夜、彼らの間に何が起こったのか、後々まで二人が気付くことは無かった。無自覚の行為を人は何と呼ぶ
のだろう。夜は、静かに更けていった。







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