【 月 虹 】


 身体をそっと揺さぶられ自分の名を呼ぶ声に、ドゲットは暫く気が遠くなっていたのかと訝った。顔を顰めて眼を開け
れば、見慣れた顔が、心配そうに覗き込んでいる。前にも、似たようなことがあったな。と、眉間に皺を寄せ不安そう
な自分の顔を、見上げた。俺はこんな顔をしてるのか。情けない顔だ。何か言ってる。何だ。そこで、これは違う。と、
首を振り頭をすっきりさせた。その瞬間、リオの声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?俺が分かるか?」
「あ、ああ。」
小さく頷き返事をしただけで、胸の痛みに息が詰まる。眼を瞑り呼吸を整え、痛みを堪えた。すると、風に乗って酷く
野性的な臭いが鼻をつく。何かと顔を上げると、目の前に大きな馬が佇んでいた。
「何だ。これは。」
「馬だよ。知らねえのか?」
ドゲットは、馬鹿なことを聞くなと言う顔で、リオを睨んでから尋ねた。
「どうしたんだ。」
「ちょっと下ったところに、俺専用の厩があるんだ。ここからは馬で行ったほうが早い。さあ、乗るぞ。」
リオの言った考えがあるとは、このことだったのかと、ドゲットは悟った。確かにリオの肩を借りて道無き道を歩くより
は、数段早いだろう。リオはドゲットなどお構い無しに、再び肩を貸すと慎重な仕草で立たせ、馬の近くに連れて行っ
た。真っ黒な大きな馬は、賢そうな眼をして、おとなしくドゲットが乗るのを待っている。リオはドゲットを下から支え、
何とか馬に跨らせると、ドゲットを少し前かがみにさせ、鐙に足をかけひらりと跨った。ドゲットから手綱を受け取ったリ
オは馬首を、林に向けながら言った。
「俺に凭れろ。息が楽になる。俺の胸はオンナ専用だが、特別に貸してやるぜ。」
「・・大丈夫だ。」
「気絶してた野郎が、何言ってやがる。いいから、言うとおりにしろ。」
「気絶などしてない。」
むっとして反論するドゲットを、リオは、ああそうかよ、などと適当にあしらい、片腕をドゲットの身体に巻きつかせ、無
理やり自分に寄りかからせてしまった。最初は不服そうなドゲットだったが、実際リオの言うとおりだった為、直ぐに身
体を預けてきた。
 リオは馬の手綱を捌きながら、胸に凭れたドゲットの身体が異常に熱いと、気付いていた。小刻みな呼吸も、滝の
ような汗も、全てが良くないサインを出している。早く何とかしたくとも、馬を走らせるのは、今のドゲットには振動がき
つすぎて無理だろう。とにかくこれが最善策なのだ。リオは不安を封じ込め、そう自分を納得させた。ふと、胸に響く
声を感じドゲットの様子を見れば、上を見上げ何かを言っている。まさかうわ言を言ってるんじゃあるまいなと、耳をそ
ばだて、何か言ったか、と尋ねれば、掠れた声で返事が返りほっとした。
「いい馬だと、言ったんだ。」
「そうよ。俺は乗り物には、最高を求めるんだ。馬も、車も、オンナも。」
「下劣なことを言うな。」
「悪かったな。お前とは育ちが違うんでね。」
すると、ドゲットは眼を伏せ、ふふと笑った。俯いて少し咳き込むと、そのまま言葉を続ける。
「・・・・何故ベンを?」
「最初の時か?始末しなかったかって?」
「そうだ。そんな義理は無いだろう?その方が簡単だ。」
「そうだよなあ。確かにそのとおりなんだ。俺がベンを殺す理由も無い代わりに、殺さずにおく理由も無かったかもな。
後のごたごたを考えりゃ、そっちの方が楽だったよな。だがな、俺にはベンを殺せない。」
「何故だ。」
「ベンに初めて会った時、俺は正直たまげたね。腐った汚物の中に、突然水晶の置物が現れたようだったぜ。ああ、
こりゃ違う。こいつは、こちら側の人間じゃない。しかも、何があっても決して、腐った色には染まらない。ああいう人間
は、稀だ。そいつを殺すって事は、つまり俺に人間を止めろってことなのさ。」
「お前も・・・・。」
堪えようの無い咳の為に言葉を途切れさせ、暫く咳き込んだドゲットは肩で息をすると急に押し黙って空を見上げた。
「何だ?続きを言えよ。」
「お前もベンといると人間でいられるってことか。」
「お前も?他は誰だよ。」
「ビリーや、ここにいる連中だ。」
「ははあ、そういや、そうかも知れねえな。」
再びドゲットは、黙ってしまった。リオはドゲットの沈黙が不安だった。嫌な感じだ。唐突にドゲットが言った。
「虹だ。」
「何?夜だぞ。夜に虹なんて出るのか?」
「月にかかって見える。」
リオが半信半疑で空を仰げば、月の近くに白い柱が弧を描いているのが見えた。始めてみる現象にリオは思わず感
嘆の声を上げた。
「へえ、本当だ。初めて見るぜ。綺麗なもんだな。だけどよ、虹って確か7色じゃなかったか?ありゃどう見ても白い
ぞ。」
「7色あるんだ。でも、月の光では弱すぎて、白一色しか見えない。」
その言葉を言った直後、ドゲットは激しく咳き込んだ。無理やり押さえ込もうとするのか、ひゅーひゅーと呼吸に混ざっ
て妙な音がしている。
「無理するな。堪えなくていいんだぞ。」
あまりの痛々しさに堪らずリオがそう声をかければ、荒い息のまま不機嫌に大丈夫だと返事が返ってきた。尚も口を
開きかけたリオに、ドゲットは再び凭れ囁くような声で言った。
「心配するな。治まった。」
「心配?そんなもんするか。お前はそんなにヤワじゃないはずだぜ。」
ドゲットは黙って口元を綻ばせた。リオが自分を元気付けようとしているのが、分かったからだ。それほど、嫌な奴で
はないのかも知れない。空を見上げれば、消えかかっている虹が見えた。
「虹が・・・。」
「ああ、消えそうだな。」
「俺もそうだ。」
「何?」
「あの虹は俺だ。一色あれば、それで・・、足りる。」
「何を言ってるんだ?」
「何故なら・・。」
ゆらりと視界がぼやけ、慌てて首を振る。リオがはっと息を呑んだ。ちょっと息を整えれば、大丈夫だ。喉の奥に引っ
かかったままの言葉を言ってしまおう。
「・・月。・・彼女は。」
ドゲットの身体から急に力が抜け、鞍からずり落ちそうになる既のところを、リオは片腕で支えた。顔色がそれと分か
るほど白い。呼吸が遠い。リオはドゲットの身体を片腕で抱きとめると、馬の腹を蹴った。こうなったらもう、悠長なこと
は言ってられない。一刻を争うのだ。風を切って走り出した馬の背で、リオの心にドゲットの言葉が、木霊のように響
いていた。


 もう無理だ。スカリーは片付け終わったパーティールームを後に、二階に上がった。朝一番の定時連絡は必ず二人
でいれるように。何だって、カーシュはそんなことを、今回に限って取り決めたのだろう。しかも、PCのカメラで確認ま
でさせる念の入れ方だ。寝ていようが起きていようが、着替えの途中でも、とりあえず時間ぴったりにそこに二人の姿
が確認出来ればいいのだ。
 ドゲットはまだ戻らない。何かあったのだろうか。どうすればいい。ベットに寝ているようにみせかけようかとも思った
が、3日前眠っていると言ったら、顔を映せと担当の捜査官に言われたのを思い出した。何か、適当な理由を作らね
ば。ああ、でも時間がない。
 4時40分。あと5分しかない。スカリーはPCの電源を入れた。ドゲットは何故戻らないの。失敗?いいえ、まさか。
こちらの方が絶対的に有利なはずだ。担当には何と言えばいい。食事?トイレ?急病?どれも、駄目だわ。ああ、考
えが纏まらない。スカリーはパスワードを打ち込めず、両手で顔を覆った。
 同時にドアから飛び込んできた男を見て、スカリーは眼を見張った。何も言わず男は洗面所に消えると、顔を洗い上
半身裸で戻ってきた。そのまま、クローゼットを開け乱暴にYシャツと上着を出すと、手早く着替えてスカリーの隣に座
った。湿った髪に指を走らせスカリーを見て言った。
「いいぜ。」
スカリーは直ぐに、FBIの支局にアクセスした。支局と繋がるまで僅かな時間が勝負だ。
「担当者の名前は?」
「ライナス・オコーナー。」
「親しいのか?」
「いいえ。いつも私と話すわ。あなたはそこで黙って座っていればいいのよ。」
「助かったぜ。」
「エージェント・ドゲットは?彼は何処?」
「後で話す。時間だ。」
我に返ったスカリーは、不安を気取られないよう平静を装い、オコーナーを呼び出すと何時もの定時連絡を始めた。隣
ではリオがしかつめらしく頷き、完璧なドゲットを演じている。必要事項を報告しこれで終わりかと気が緩みかけた瞬
間、オコーナーがとんでもないことを、教えた。
「深夜に屋敷で何か騒動があったらしいと報告を受けた。君達を信用しないわけじゃないが、一応確認する為に、こっ
ちから二人向かっている。もう、着くんじゃないかな。まあ、何時もは門まで行って帰るだけだが、今日は君らがいる
んだ。内の捜査員も屋敷に入れて貰えるよう、キャロウェイには話しておいてくれよ。」
何食わぬ顔で連絡を終わらせた二人は、顔を見合わせた。リオが直ぐにドゲットのPCを覗き、声を上げた。
「大変だ。門の外に車が止まったぞ。」
二人は弾かれたように立ち上がると、一階に走った。階段を下りたところでベンとラナに鉢合わせた。急を聞いたベン
は、直ぐに策を立て、3人に矢継ぎ早に指示を出す。
「門からここまで、車で15分だ。その間に、全て整えろ。エージェント・スカリー。君は僕と一緒にセキュリティ・ルーム
に。ラナは僕達が連中を応接室に通したら、頃合を見計らって入ってくれ。リオ。お前はもう一度ちゃんと着替えて来
い。上と下が違うぞ。靴も代えろ。終わったら、応接室で待て。」
4人は無言で散開した。

 二名のFBI捜査官が、応接室のソファーから立ち上がったのは、それから1時間も経っていた。深夜に爆発音が聞こ
えたと通報があったと言う二人の捜査官にベンは苦笑を交え、夕べのパーティーの騒ぎを語った。酔った客のあるグ
ループが悪乗りして、花火を室内で暴発させたのだと、もっともらしい作り話をした。色々と聞きたそうな捜査官の気
配を察したベンは、市販されている花火の危険性について、とうとうと講釈を始め、二人に質問の余地を与え無い。
二人が辟易してきたところで、もういいだろうと話を終わらせ体よく、追い出そうかかれば、今度が部屋を見せろと言
ってきた。平静を装いながら3人は、焦った。残骸を片付けたとはいえ、弾痕の残った壁やひびの入った窓ガラス、そ
してぽっかりと開いた壁の穴。これら全てを隠し果せるところまでは出来ていない。しかし口籠ったベンに、救世主が
現れた。
 ラナだ。ラナは絶妙のタイミングで現れると、全員の視線を釘付けにした。素肌に絹のガウンを纏い、寝起きだと装
ったラナは、胸の谷間と長い足をちらつかせながら、鼻の下を伸ばした捜査官にあいさつし、ことのいきさつを聞いた
途端、素晴らしい剣幕でスカリーとドゲットに当り散らし始めた。自分がどれだけ苦労して部屋の内装に凝ったか。壊
れた調度品一つ一つのの細かい値段。ベンに及んだ危険。役に立たない警護。FBIへの当てこすり。特にドゲットへ
の皮肉は痛烈で、言い返せず苦虫を噛み潰したような顔で、下を向くドゲットは二人の捜査官の同情を誘ったようだ
った。しかしその後、損害賠償がFBIにも及びそうな気配に、二人は慌てて立ち上がった。ラナは、警護に来てそれを
防げなかったから当然よと、無茶な論理を当たり前のように通そうとし、部屋を見るなら見積もりをして頂戴と主張す
る。困った奴だなとベンにそれをやんわりと止められ、その間、スカリーとドゲットが二人に目配せして立ち上がらせた
のだ。とばっちりで無理難題を吹っかけられないうちに退散するよ。と二人は言い残し、車まで見送ったドゲットに、君
もえらい目に合ったな。と、しみじみした口調で言って走り去って行った。この二人からすれば、まさかスカリー達全員
が、ぐるになって自分達を欺いているとは予想だにしていない。従って、ベンと屋敷内に異常さえ見つからなければ、
それで彼らの仕事は終わったのである。
 車の姿が完全に見えなくなると同時に、玄関からベンと普段着に着替えたラナが出てきて、スカリーと共に、リオを
囲んだ。全員が同じ疑問を浮かべリオを見詰める。押し迫った声でスカリーが尋ねた。
「彼は何処?」
「東の別館だ。ジャニスが付いてる。」
「どういう意味?」
リオはむすっとして上目にスカリーを見ると、低い声で告げた。
「怪我をして手術中だ。」
それを聞いた途端、スカリーは踵を返し、駐車場へ向かった。後を追ったラナは、スカリーを追い越すと手前にあった
ジープに乗り込み、
エンジンをかけた。スカリーが助手席に座れば、リオは黙って後部座席に乗り込む。車を発進させるラナの視界に、
門を閉めたら行くよ、と叫ぶベンの姿があった。後ろを振り返り、スカリーが厳しい声でリオに問いかけた。
「一体どうして?」
「折れた肋骨が、肺に刺さったんだ。」
「何時そんな・・。」
「知るか。かたがつくまで、俺だって気付かなかったんだよ。」
「手術って、そんな設備があるの?」
すると、ラナがスカリーの肩に手を置き、優しく言った。
「あるわ。東の別館は医院でもあるの。設備は最新式。ジャニスの外科医としての腕は一流よ。彼女に任せておけば
大丈夫。そうでしょ。リオ。」
リオからの返事がないので、ラナ運転しながらちらりとバックミラー越しにリオを見た。何を考えているのか、リオは座
席の背に凭れそっぽを向いている。リオ、と嗜めるようなラナの声に、ちらりと視線を返し面倒くさそうに言い返した。
「ああ。そうだっけな。ジャニスも、命に係わるような怪我じゃねえって言ってたぜ。」
リオの態度に引っかかるものを感じたラナだったが、隣のスカリーはとりあえずその言葉にほっとしたようだった。更に
スピードを上げたラナの運転は荒っぽかったが、そんな事に構ってはいられない。スカリーは一刻も早くドゲットの無
事を確認する必要があった。
 猛スピードでひた走る3人を乗せたジープが、東の別館に到着した時には、朝日が目映い光を放っていた。ラナの
先導で別館に足を踏み入れ、玄関フロアの奥にある螺旋階段を上りきった辺りから、つんとする消毒液の匂いが鼻を
つく。階段から真っ直ぐに伸びた、広い廊下の突き当りに人影が見えた。足早に近寄れば、両開きの扉脇の椅子に
座るビリーとマリアだった。ビリーはラナを見るとUZIを肩に担いで立ち上がり、その後ろに隠れたマリアが恐々こちら
を窺っている。ラナはビリーの前に立ち、安心させるように微笑み尋ねた。
「ビリー。ジョンは?」
「さっき手術が終わって、ジャニスが見てる。」
「みんなを守ってくれたのね。偉いわ。」
ラナがビリーの頬を優しく撫ぜると、誇らしげに背筋を伸ばした。
「ビリー。ここはもういいから、マリアを食堂に連れて行って。ちょっと早いけれど、朝食を食べなさい。」
ラナの言葉にビリーは頷くと、マリアと一緒に階下に向かった。見送ったラナは、スカリーに目配せすると、扉をノック
した。直ぐに、誰?という返事が聞こえラナが名乗れば、どうぞと声が聞こえた。
 広い部屋の大きな窓際のベッドにドゲットが横たわっていた。その直ぐ隣の椅子に座った術衣姿の女性が、3人の
姿を見るとカルテを手に立ち上がった。スカリーは足早に近寄ると、ドゲットを気にしながらジャニスに自己紹介した。
「FBIエージェントのダナ・スカリーです。」
「ジャニス・フランクリンよ。ベンから話は窺っていたわ。」
「エージェント・ドゲットは?」
ジャニスはカルテを見ながら上目にスカリーを見て答えた。
「肋骨が三本折れていたの。折れた肋骨が肺を傷つけていたので、手術して骨と肺の修復処置をしなければならな
かったわ。あとは左腕尺骨が二箇所。単純骨折なのでギブスで大丈夫よ。カルテを見る?」
スカリーはジャニスの座っていた椅子に腰掛け、ドゲットの顔を覗き込みながらカルテを受け取った。さっとカルテに目
を通してから、ドゲットの様子を確認する。右腕に点滴を打ち、左腕はギブスで固められている。胸から下は白い包帯
で覆われ、毛布がゆっくりと上下している。少し発汗しているのは熱のせいだろう。しかし、眼を閉じた顔は安らかだ
った。
「麻酔で眠っているわ。安心して。命に別状は無いし、安静にしていれば一ヶ月で元通りよ。」
「ええ。そうね。安静にしていれば、ね。」
スカリーは囁くように呟いて、ジャニスにカルテを返した。
「ありがとう。エージェント・ドゲットを助けてくれて。」
「私じゃないわ。お礼ならリオに言って。彼がここに連れてきてくれたのよ。怪我自体はそんなに大事ではなかったの
だけれど、それでも手術が遅れたら、どうなっていたか保障は出来なかったわ。」
その言葉にスカリーが振り返り、リオと声をかければ、それまで扉に凭れ黙っていたリオは身体を起こすと顔を顰め
た。
「よしてくれ。」
リオは、ふんと鼻を鳴らし出て行ってしまった。ラナはその態度に、取り繕うように笑い、疲れているのよ、と後を追っ
た。ジャニスは肩を竦めてスカリーを見下ろし、溜息をついた。
「ラナも苦労するわね。さて私も着替えて、一息つこうかしら。一緒に下でコーヒーでも飲まない?」
「ありがとう。でも、もう少しここにいるわ。」
スカリーのその答えに、ジャニスは小さく頷き出て行った。
 後に残ったスカリーは、ドゲットの枕元に椅子を引き寄せると、今度は念入りに顔を覗き込んだ。額に浮かぶ汗に気
付き、サイドテーブルの上のタオルを取り、そっと拭う。朝日が射し込みドゲットの顔に濃い影を落とした。たった一晩
でげっそり頬がこけ、髭が伸び始めた顔は疲れ果てている。しかし、柔らかく閉じた瞼や僅かに開いた口元が示すそ
の表情は、プレゼントを貰った子供のように満ち足りていた。
 こういうことだったのね。スカリーは、満月の晩、ドゲットが言った言葉を思い出していた。この仕事をして良かったの
は、虐げられた人たちの手助けが出来るからだと語った。あなたの行いは、報われたわ。全て上手く行ったのよ。ス
カリーは心の中で、ドゲットにそう告げた。
 ふと、ドゲットの顔に当たる陽射しが気になり、立ち上がってレースのカーテンを閉めた。窓から下を見下ろせば、ビ
リーが牧場に向かう道を、大きな黒い馬に跨り去ってゆくのが見える。夕べの事件など無かったかのような、のどか
な風景に、彼らに被害が及ばなくて本当に良かったと実感した。確かに自分達のしたことは、重大な服務規程違反
だし組織に逆らった行為だ。しかし、人道的に許されない行いを黙って見過ごすことは出来ない。それはドゲットもス
カリーも同じ気持ちだった。
 スカリーはベッドに近づくと、ドゲットのギブスをそっと撫ぜ、眉を顰めた。ギブスから覗く指が腫れている。何故彼は
何時も、危険の前に簡単に身を晒すのだろう。報酬や賛辞など、何の見返りさえ求めない。まるでこうするのがごく当
たり前のことのように、銃口と標的の間に立ちはだかる。でも、それでは、命が幾つあっても足りないわ。スカリーは
再び椅子に腰掛けると、夕べのドゲットの行動を思い返した。彼がいなければ、危なかった。銃撃戦での素早い判断
と、的確な指示は数多の経験がものを言う。ここにいる全ての人間が、あなたに感謝しているわ。スカリーは微笑ん
でドゲットの顔を、飽きることなく見詰めていた。

 ベンが様子を見に顔を出したのは、その暫く後だった。容態を聞いて安心したベンは、スカリーを階下に誘った。君
も休まないと倒れちゃうよ、と説得されサンルームに赴けば、ラナとリオが窓際で抱き合っているのが眼に入った。些
か驚いたが、夕べ屋敷に戻ったラナの心配の仕様から、二人の関係を何となく察していたので、どこか納得できる。
二人を見たベンはスカリーに目配せして、いたずらっぽく笑うと、テーブルの上のコーヒーをカップに注いだ。続いて、
二人にも声をかけテーブルに呼ぶと、朝食になった。
 ベンは洞窟での出来事をリオに詳しく聞き質した。リオは椅子に凭れ、ラナの肩に手を回したまま、簡単に説明す
る。
「二人で奥の洞穴におびき寄せたのさ。野郎が待ち構えて、俺が奴の背後に回りこんで追い立てたんだ。で、一発
さ。」
「じゃあ、今度こそあいつは確実に死んだんだな?」
「野郎にレイジングブルで頭を吹っ飛ばされたんだ。今も死んでると思うぜ。」
「あの銃を使ったのか。よく当てられたな。」
「あの野郎、俺を餌にして充分引き寄せてから撃ったんだ。」
すると、ラナが突然口を挟んだ。
「ちょっと待って。じゃ、一体何時彼は怪我をしたの?」
「さあな。俺と一緒の時じゃないのは確かだぜ。そいつは、俺よりダナの方が分かるんじゃねえか?」
そう言ってリオは酷く冷静にスカリーを見た。一方スカリーはリオに言われるまでも無く、そのことをずっと思い出そう
と試みていた。
「俺があいつの怪我に気付いたのは、かたがついて戻ろうとした時だ。銃を撃った後、へたりこんだ姿を見た時には
ぎょっとしたぜ。左手に銃は括り付けてあるし、脇腹に触ったら骨がぐずぐずだし。だけどよ、待ち伏せするまでは、普
通だったんだ。ちょっと歩くのが遅えってぐらいだった。その後奴とやりあってたのは俺で、あいつは隠れてただけだ
からな。」
その時、スカリーの脳裏にある光景が思い浮かんだ。リオの、奴とやりあった、という言葉で鮮明に記憶が蘇ったの
だ。スカリーは溜息をつくと、首を振った。
「思い出したわ。私を庇ってあいつの攻撃を受けたのよ。」
「何だよ。結局そういうことかよ。」
突然リオは吐き捨てるように呟くと立ち上がり、窓際に移った。リオの態度に全員が彼を不信の眼差しで見た。視線
を感じたのかくるりと振り返ったリオは、ネクタイを緩め皮肉な笑いを浮かべた。
「あんたの番犬はよく働くよな。」
「何ですって?」
「飼い主の躾がいいから、きゃんとも鳴かねえし、尻尾巻いて逃げたりもしねえ。」
「彼は私のパートナーよ。前にも言ったけれど、失礼な言い方は取り消して欲しいわ。」
「パートナー!ああ、そうそう。野郎はあんたのパートナーだっけなあ。」
「何が言いたいの?」
「別に。」
スカリーは小馬鹿にしたような顔をして口を噤んだリオを、無言で睨みつけた。リオの無礼な態度は、緊張の解けた
スカリーの神経を逆撫でする。その時、今まで黙っていたラナが、怪訝そうに聞いた。
「リオ。あなた、何をそんなに怒っているの?」
「怒ってる?俺が?よせよ。この俺が何に腹を立てなきゃならねえんだ?無事にかたがついて、万々歳なのによ。な
あ、あんただってそうだろう?ダナ。」
そういうリオの口調は言葉とは裏腹に、酷くけんか腰だ。挑発に乗ってはいけないとは思いつつ、気がついたときに
は立ち上がって叫んでいた。
「どういう意味なの!?」
「意味?意味なんてねえさ。ここにいるみんなは怪我も無く、ぴんぴんしてるからな。割り食ったのは、あんたの番犬
だけ、っと違ったパートナーだけだもんな。」
「彼は自分の仕事をしたのよ。もし立場が逆なら私も同じ事をしたわ。」
「パートナーだからか?」
「そうよ。」
「それだけか?」
「そうよ!他にどうしろと言うの。分かっているわ。冷たい女だとでも、言いたいんでしょう。彼には感謝しているわ。で
も、取り乱し縋って泣いた所で、彼の怪我が直るわけじゃないし、そんなことをしても、彼は喜ばないわ。それは私が
一番よく知ってるのよ!あなたなんかには、分からないわ!」
リオは、呆れ果てたように首を振ると、言った。
「ああ、分からねえな。何しろ俺はあいつのパートナーじゃねえからなあ。じゃあ聞くけどよ。この話は知ってるか?」
そしてリオはつかつかとスカリーに歩み寄った。
「夜明け前、月が出てた。あいつに教えられて、俺は生まれて初めて月にかかる虹を見たぜ。その時あいつが何を言
ったか分かるか?」
「ええ。前に聞いたわ。ここにいる若者達を虹に例え、ベンを月になぞらえたのよ。彼らはベンの元でしか人間として
生きて行けない。そう言ったわ。」
「そうじゃねえ。何を言ってるんだ。いいか、よく聞けよ。あの虹を見て俺は聞いた。虹っていうのは7色あるんじゃね
えのか?すると奴は言った。本当は7色あるんだけど、月の光じゃ弱すぎて一色にしか見えない。・・・くそ。その後、
気を失う直前にあの野郎はこう言ったんだ。あの虹は自分だってな。一色あればいいとも言った。畜生、これがどうい
う意味か分かるか?」
リオは一旦言葉を切ると、冷たくスカリーを見下ろし、かつてない強い口調で詰め寄った。
「それはな、あんたが月だからだ。あいつはあんたが月だといい、自分はそれにかかる虹だと言ったんだぞ。月にか
かる虹は一色でいいんだろう。くそ、あいつが何を思ってそんなことを言ったか、あんたにそれが分かるのか?パート
ナーだと?そうとも、俺が聞いたらあんたら二人とも同じように答えたっけな。でも、あんたとあいつじゃ、決定的に違
うんだ。それはな、そうあんたが思う限り、野郎は絶対あんたに対して、一色の自分しか見せねえつもりだってこと
さ。だがな、あんたがもっと強く照らせば、違った色も見えてくるんじゃねえのか!?・・・パートナーか。便利な言葉だ
ぜ。確かにあいつはあんたのパートナーかもしれねえが、同時に人間で男なんだぞ。番犬じゃねえって言い張るんな
ら、もっとちゃんと目を開けて、あいつのことを見たらどうなんだ!!」
リオの言葉の一つ一つがスカリーを撃った。眼を見張り返す言葉もないスカリーを忌々しそうに眺め、やおらリオは部
屋を出て行こうとし、ベンに呼び止められると、不機嫌に答えた。
「洞窟の後片付けしてくるんだよ。銃も回収してえしな。」
「手伝おう。」
ベンはさっとスカリーに視線を走らせ、何も言わずリオの後を追った。二人が去ると後に残ったラナは、気遣わしげに
スカリーの顔を覗き込み、躊躇いがちに話しかけた。
「ごめんなさい。リオの言ったこと。」
するとスカリーは顔を背け、呟いた。
「あなたが謝る必要はないわ。」
「でも、言い過ぎだわ。リオはいつも一言多いのよ。」
スカリーは突然、ラナ、と遮り、窓辺に移った。
「悪いけれど、一人にして。・・一人になりたいの。」
「・・・・そうね。分かったわ。私は母屋に戻ってるから、何かあったら連絡して。」
振り返らず頷くスカリーの後姿に、小さく溜息を付いて、ラナは出て行った。静まり返った部屋の中で一人、スカリー
は窓辺に佇み、虚ろな眼をして、外を見ていた。

 痛いな。身体が重い。何故だ。何があった。銃撃。そうだ。銃撃があった。市街戦?いや、違う。何処だ?ここは、
何処だ。俺は、撃たれたのか?左腕が動かない。そうだ。襲ってきたんだ。あいつは、誰を?胸が痛い。早く彼女を
外へ。彼女?ああ、そうだ。ここは・・。ドゲットは薄く眼を開けた。数回瞬きをして、今度はゆっくりと眼を開ける。白い
天井にカーキュレーターが、音もなく回っているのが眼に入った。視線を巡らせれば、何もない漆喰の白壁と、日の光
をさんさんと取り込む大きな窓があり、こちらに背を向ける見慣れた後姿が確認できた。その姿にほっとした途端、声
が出た。
「エージェント・スカリー。」
自分でも驚くほど、弱々しい声で名を呼べば、スカリーはぱっと振り返り、急いで枕元に駆け寄ってきた。
「眼が覚めた?」
「ここは?」
「東の別館よ。」
ドゲットは、訳が分からず顔を顰めると、スカリーが柔らかく説明した。
「リオがここに運んだの。あなたは肋骨が三本折れていて、手術する必要があったのよ。ここにはその設備が整って
いたから。」
「手術?・・君が?」
「いいえ。執刀したのは、ジャニスよ。」
ドゲットはいまいち把握しきれないといった風情でいたが、急にはっとして頭をもたげスカリーを見た。
「リオは間に合ったのか?」
「ええ。全て上手くいったわ。」
ドゲットは、そうか、と満足げに呟き、枕に頭を埋めた。天井を仰ぎ、ふふと笑い、そのままにやにやしていると、スカ
リーがコップに水を注ぎながら、妙な顔をして見ている。慌てて口元を引き締め、身体を起こすとスカリーの差し出すコ
ップを受け取った。
「何が可笑しいの?」
「いや、何でもない。」
「でも、笑っているわ。」
「いや・・。うん、その、・・・まさか、こんなところで白兵戦をするとは思わなかったな。」
「白兵戦?」
「そう。爆弾。マシンガン。数え切れない銃と弾薬。」
「戦争並みね。」
「全くだ。被害者が出なくて良かった。」
一瞬、スカリーの顔が強張った。ドゲットは手にしたコップを返し、身体を戻すと眼を閉じた。全て滞りなかった。この
事実は彼の緊張を解き、同時に又急に疲労感を募らせた。麻酔がまだ残っていたせいもあっただろう。睡魔に襲わ
れながらも、スカリーの様子が気にかかる。コップを戻す横顔に、何か何時もと違う気配を感じるのだ。ドゲットの視線
に気付いたスカリーは、何?と向き直った。眠気と戦いながらドゲットは、尋ねた。
「エージェント・スカリー。君は、大丈夫か?」
その瞬間、はっと眼を見開き、続いて目元からまるで花が綻ぶような微笑を浮かべ、スカリーはドゲットのむき出しの
肩を撫ぜた。包帯の上を慈しむようになぞり、静かな優しい声で囁いた。
「ええ。大丈夫よ。心配しないで。」
ああ、と頷いたドゲットは最早睡魔には抗えなかった。安心したように眠りに落ちてゆくドゲットを見守り、スカリーは
枕元の椅子に腰掛けた。白い包帯が上下している。ギブスから覗く指は青紫に変色している。ぱたんと、膝の上の
組んだ手に、熱いものが落ち、スカリーは自分が泣いていることに気付いた。
 もう、駄目だ。スカリーは溢れてくる涙を抑えられず、両手で顔を覆った。どうしてなの?何故そんなことを言うの?
被害が無い?君は大丈夫か?あなたは、どうなの?こんなに傷ついて、死ぬような思いをして、それでもまだ人の心
配ばかりしている。・・・いいえ。違う。そうじゃない。
 スカリーは、顔を上げた。流れ落ちる涙を拭おうともせず、躊躇いがちに手を伸ばし、そっとドゲットの頬に触れる。
誤魔化してはいけない。誤魔化されてもいけないのだ。頬から手を滑らせ、汗で湿った柔らかな短い髪をゆっくりと梳
く。首から筋肉の流れに沿って肩に触れ、そっと頬を寄せた。片手をドゲットの胸の上に置き、彼の肩越しにゆっくりと
胸が隆起する様を眺めた。頬から伝わるドゲットの体温と彼の匂いがスカリーを包んだ。
 涙が止めど無く流れ、堪えきれず嗚咽が漏れる。あなたは、虹じゃ無いわ。幻のように儚く消えてゆく人じゃない。
こんなにも、力強く暖かく、ここにこうして、私の側にいる。私は何時も、あなたの心に触れ、あなたの体温を実感して
いたのよ。でも、私が望んだら、あなたは虹のように、消えてしまおうというの?私が望まないから、あなたの一部分
しか見せないの?あなたは何時でも、私の感情を素早く読み取ってしまう。それなのに、自分の感情は覆い隠してし
まうんだわ。確かに、リオの言う通りよ。私は、あなたの違った色を見ようとはしなかった。でも、それでは、いけな
い。そうしていたら、きっとあなたは月にかかる虹のように、消えてしまう。
 スカリーはそう思い至った時、心がすっと冷え辺りが真っ暗になったように感じ、思わず眼を閉じるとドゲットの肩に
強く顔を押し当てた。ドゲットが、消える。私は、それに耐えられないだろう。ドゲットの肩を、スカリーの涙が濡らして
いた。



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