【V】


 使用されていない取調室付きの観察室にドゲットが現れたのは、スカリーがオフィスを出てから10分後だった。ドゲ
ットは、マジックミラーの前で肩越しに振り返ったスカリーに声をかけた。
「おはよう、エージェント・スカリー。」
スカリーはドゲットが横に並ぶのを待って、ちらりと上目に見てから答えた。些か咎めるような口調になってしまったの
は、溜まり気味だったフラストレーションの持って行き場が現れたせいだ。
「おはようじゃないわ。エージェント・ドゲット。何処に行ってたの?」
その問いかけに、うんまあ、と曖昧に言葉を濁したドゲットは、腕組みをしてマジックミラーの向こうを見詰めた。
「彼らは何時?」
「10分ぐらい前よ。追い返そうとした守衛に、あなたに会いに来たと入り口で騒いだみたいね。で、連絡を受けた私
が代わりに。」
「何をしに来たんだ?」
「あなたに大事な相談があるんですって。私じゃ駄目だそうよ。」
「僕に相談?」
「心当たりは?」
ドゲットは俯き上目にマジックミラー越しに動く人影を眺めていたが、ちょっと肩を竦めると、分からないな、という風に
首を振った。そして小さく息を吐き出すと、スカリーに向き直った。
「とりあえず話を聞いてみる。家族に連絡は?」
「あなたに聞いてからと思ったから、まだしていないわ。」
「ああ、それがいいだろう。大した用事じゃないかもしれないから、余計な心配をかけなくてすむ。早くに終われば僕
が彼らを家まで送ればいいんだし。・・・じゃあ、ちょっと行って彼らの相談というのを、聞いてみるか。」
そう言ってドゲットは観察室を出ようとドアノブに手をかけたが、ふと何か思いついたように振り返り、スカリーに尋ね
た。
「しかし、どうして取調室なんだ?」
「ここしか空いてなかったの。それに私達のオフィスに彼らを通したら、後が厄介だわ。何しろあそこには、子供の飛
びつきそうなものばかりが置いてあるんですもの。その点、ここは周りに余計な物はないし、何処からも邪魔が入らな
いわ。」
「成る程。いいアイデアだ。」
ドゲットの含みのある言い方に、スカリーが片方の眉を上げてさっと視線を返せば、にやりと笑って付け加えた。
「上手く隔離したな。」
スカリーの返答を待たず、ドゲットは部屋を出て、取調室に移った。ドゲットが部屋に入ったとき、後ろ向きにデスクに
腰掛け、足をぶらつかせていたトレバーは直ぐに振り返り、ドゲットだと気付くと慌てて下に飛び降りた。おい、とトレ
バーがぼんやりしているクエンティンに声をかけ立たせようとすれば、ドゲットは、いいんだ、と言いながら、入り口付
近にあった椅子を持ち二人の向かい側に置き自分も腰掛けると、同じように2人も座らせた。
 ドゲットはデスクに肘を突いて両手を組み、身体を前に乗り出すと、静かな口調で語りかけた。
「暫くぶりだね。元気だった?」
2人は顔を見合わせると、肩を竦め頷いた。
「そう。それは良かった。確かクエンティンは、先週からお母さんが一緒だと聞いたが。」
2人は再び思わせぶりな眼をして、顔を見合わせると何も答えずドゲットを上目に見た。ドゲットはその様子を特に何
の感情も表さず眺めていたが、ごく自然に先を続けた。
「じゃあ、これからはお母さんとあの家で暮らすのかい?」
何も答えようとしないクエンティンの脇腹をトレバーが肘で小突いた。すると、クエンティンは慌てて首を振り早口に答
えた。
「あの家は売って、ママと一緒にマイアミで暮らすんです。」
「マイアミで?何時?」
「来週の月曜。向こうにはママのお店があるし、ママの家には僕の部屋もあるから。」
「月曜か。随分と急だが、お母さんと一緒なら安心だ。そいつは良かったな。」
ドゲットは安堵の意味を込め、ゆったりとした口調でクエンティンに言葉をかけて微笑んだ。すると、クエンティンはぎこ
ちない笑いを浮かべ困ったようにトレバーを見詰めた。トレバーは厳しい顔で向き直り、声には出さず、ちゃんと言え
よ、とクエンティンを睨む。ドゲットはその様を目を細めて見ていたが、すっと立ち上がり、ちょっと用を思い出した、直
ぐ済むからと言って部屋を一旦出ていった。
 程なく、言葉どおりドゲットは取調室に戻り、彼が入ると、ぴたっと小突きあいを止めた2人の前に、何食わぬ顔で
座った。済まなかったね、そう言いながら先ほどの同じように、ドゲットは話しかけた。
「で、僕に相談があるんだって?」
俯いたまま何も言わないクエンティンの脇腹を、そっとトレバーが肘で突いた。一回。二回。三回目でクエンティンが
嫌そうに身体を捩り、慌てたトレバーが、ドゲットの顔を窺いながら小声で、早く、と急かす。どうやらドゲットに気付か
れないようにしている積もりらしいが、あまり成功しているとは言い難い。ドゲットは少し身を乗り出すと、静かな声で
クエンティンに問いかけた。
「お母さんと、マイアミに行きたくないのか?」
「・・・・分からない。」
クエンティンは、デスクの上を見たまま答えた。
「あの家を離れたくないのかい?」
「それは・・・そのう、でも、やっぱり・・・・・よく、分からないんだ。」
「お母さんが嫌い?」
「ううん。」
「それなら、何故?」
「分からないよ。」
この子は。ドゲットは僅かに首を傾げ、はっきりしないクエンティンの態度を観察した。黙って俯いたままのクエンティ
ンの表情を眺め、彼の心中を推し量っていたのだ。すると、突然訪れた沈黙に耐えられなくなったのか、クエンティン
じゃ埒が明かないとでも思ったのか、トレバーが口を開いた。クエンティンに比べ、トレバーの口調は滑らかではっきり
している。
「ドゲットさん。クエンティンは僕んちで一緒に暮らすことは出来ないの?」
「トレバー。」
「だって、いきなりマイアミなんて、知らないところだし、友達もいないだろ。クエンティンのママはいい人そうだったけ
ど、昼間働いてるから、その間クエンティンは独りぼっちになっちゃう。可哀相だよ。パパに話したら、考えてみるっ
て。もし、パパが良いって言ったら僕んちで一緒に暮らせばいいんだ。」
「ソーシャルワーカーのブリッグスさんには相談したのか?」
「げえ。あんな骸骨ババァには話せないよ。第一僕らの話なんか聞きゃしないんだぜ、あのクソババアは。」
「トレバー。」
ドゲットが厳しい顔で嗜めると、トレバーはしゅんとした顔をして即座に言いなおした。
「・・・・ごめんなさい。でも、この間クソバ・・・じゃなかった、ええっと、ブリッグスさんにその話をしようとしたら、五月蝿
いからあっちへ行ってなさいって。酷いよ。真面目に相談してるのに、僕らが子供だと思って馬鹿にしてるんだ。」
「成る程。それで?」
「だから、僕達パパにもう一度話して、一緒に暮らせるように説得しようと思ってるんだけど、僕らだけじゃきっとまとも
に聞いてくれないから、ドゲットさんにも一緒にいてもらいたいんだけど。駄目かな。」
「ふむ。2人でよく相談したのかい?」
「勿論。何度も話し合ったさ。」
「クエンティン?」
「・・・・うん。」
自信たっぷりなトレバーの横で、クエンティンは相変わらずどっちつかずの顔つきで下を向いたまま答える。ドゲットは
そんな2人の様子をじっと見詰めていたが、急に話を変えた。
「腹が減ったな。君達昼食は?」
一瞬面食らったような2人だったが、顔を見合わせ直ぐに首を横に振った。その様子ににっこりと笑いかけドゲットが
提案する。
「ピザでも取ろう。好みは何だ?」
「サラミ!オニオン抜き!コーラも!」
「僕も!あ、僕はオレンジジュース。」
ああ、分かった分かった。とドゲットはピザと聞いて急に元気の良くなった子供達に、頼んでくるよ、と言い残し部屋を
出た。しかし、ドゲットがそのまま足を向けたのは、観察室だった。ドアを開けると、マジックミラーの前に立ったスカリ
ーが振り返った。
「母親は?」
「今こちらに向かっているわ。20分ぐらいで着くんじゃないかしら。トレバーの父親にはまだ連絡が付いていないけれ
ど、彼の秘書に伝言を頼んでおいたから、折り返しこちらに連絡が入ることになってるわ。」
「そうか。・・・クエンティンの母親の電話の応対は?」
「そうね、落ち着いていたわ。」
ドゲットは、そう、と言って左手で唇を擦りマジックミラー越しに、子供達の様子を眺めた。スカリーはドゲットのそんな
様子が気に掛かった。その視線に気付いたドゲットが、口を開いた。
「・・・・着いたらここに通し、子供達に気付かれないように、僕に教えてくれ。」
「いいけれど、何をするつもりなの?」
「ちょっと気になることがある。」
「何なの?」
「そいつをこれから聞き出すんだ。」
スカリーは小さく溜息を付いた。話す気のないドゲットから、何かを引き出すのは非常に厄介だ。しかし、これに関して
は、事件とは関係無さそうだから、とりあえずドゲットのすることを黙って見守ろうと決め、それでも一応と、釘を刺すこ
とだけは忘れなかった。
「何をするかは知らないけれど、母親が騒いだら中止よ。」
「そっちは君に任せるよ。上手く引き止めてくれ。」
ちゃかり一番面倒なことをスカリーに押し付けて、そのままさっさと部屋を出ようとするドゲットを慌ててスカリーは呼び
止めた。
「ちょっと、何処へ?エージェント・ドゲット?」
「何処って、ピザを頼みに。」
当然のように答えたドゲットは、スカリーの不服そうな表情に首を傾げたが、直ぐに何かに思い当たり、聞き返してき
た。
「ああ、君の好みは?エージェント・スカリー?」
「え?」
「ピザだろ。君の好みはなんだい?」
「結構よ。」
スカリーはドゲットを睨み、つんとして答え背を向けた。急に不機嫌になったスカリーの態度に些か戸惑ったドゲットだ
ったが、仕方無さそうに頭を掻くとドアを閉めた。
 一人残ったスカリーは暫く顔を顰めて子供達を眺めていたが、不意に表情を崩しくすりと笑みを漏らした。失礼ね。
そりゃ確かにちょっとお腹は減ってるけど、そんなにもの欲しそうな顔してたのかしら。全く、あれで気を利かしたつも
りなんだから。スカリーは事件に関するドゲットの注意力や、観察眼の鋭さを高く評価していた。しかし、それ以外の
ことでは、まるで違う。アンテナを張る向きが違うと、ここまで感覚が違ってくるのかと正直可笑しかった。そしてドゲッ
トのアンテナは、どうやら今クエンティンに向いているらしいのだ。
 スカリーが見守る中、宅配ピザが配達され、歓声を上げ飛びつく子供達の姿があった。ドゲットは彼らの側で椅子
の背に凭れ、静かにその様子を見ている。用件を伝えたのに加え、食事ですっかり気分が解れたのか、子供達はド
ゲットに盛んに話しかけ、それに答えるドゲットの口調は、スカリーにも馴染みのあるゆったりと落ち着いた口ぶりだ。
そしてその受け答えは、簡潔だが素っ気無いものではなく、真面目で親しみに満ちていた。
 その姿を見ながらスカリーは、クレインの言葉を思い出していた。
‘何をするわけじゃないのに子供が側を離れない’
‘砂糖に群がる蟻’
確かにクレインの言うことは頷ける。だが、ドゲットが子供に対して、何もしていない訳ではないことに、クレインは気
付いていない。子供達は大人にどう扱われたいのか、それを理解することで子供の態度は違ってくる。押しなべて子
供は大人に話を聞いてもらいたいものだ。そしてそれは、ある程度年齢が上がってくるに従い、一人前に扱ってもらい
たいという欲求も付随してくる。そこのところをドゲットは敏感にキャッチ出来るのだろう。加えてこれが最も重要なの
だが、彼は心底子供が好きなのだ。スカリーは我知らず微笑んだ。理性が未発達な子供は、本能的に自分を好いて
くれるものを見分ける。
 スカリーの思考は携帯電話の呼び出し音で中断された。電話をかけて来たのは守衛で、スカリー達に来客が来た
ことを告げた。スカリーは入り口まで出迎えると伝え、電話を切り、部屋を出ようとして一旦振り返った。マジックミラー
の向こうでは、和やかな雰囲気の3人の様子が窺える。ドゲットが何をしようとしているのか分からなかったが、一波
乱ありそうな気配に目を細め、呟いた。
「お手並み拝見ね。」


「エージェント・ドゲット。電話よ。」
スカリーが取調室のドアから顔を覗かせて声をかけると、ドゲットは片手を挙げスカリーに合図し立ち上がり、ちょっと
待ってて、と子供達に断ってから部屋を出た。観察室と取調室の隣り合ったドアの前で待つスカリーに、ドゲットは声
を顰めて尋ねた。
「着いたのか?」
「ええ、たった今。ここに居るわ。」
スカリーは観察室のドアに首を傾げた。
「どんな様子だ?」
「クエンティンを心配してるわ、直ぐに連れて帰りたいそうよ。」
ドゲットは少し俯くと眼差しを鋭くして更に尋ねた。
「子供達が何をしに来たか、聞かなかった?」
「・・・・そう言えば、彼女からその質問は無かったわ。」
怪訝そうなスカリーに、ドゲットは眉間に皺を寄せ、何かを考え込んだまま黙って観察室に入った。
 クエンティンの母親は、マジックミラーにへばり付くようにして立っていた。ドゲット達が入ってくる気配に、飛び上が
るようにして振り返るとぎこちない笑みを浮かべ、一歩前に進み出る。ベージュのコートを手に、濃紺のニットのアンサ
ンブルスーツを着て、不安げに佇む母親は、クエンティンの面差しとよく似た、年の頃は40前後、中肉中背の地味で
ぱっとしたところのない女性だった。おどおどと視線を動かし、ドゲットとスカリーの表情を落ち着かない様子で窺って
いる。最も、あんな事件の後で、しかもFBI本部に呼ばれたとなれば、大抵の人間が多かれ少なかれそうなってしま
うのは止むを得ない。
 ドゲットはゆっくりと前に進み、まるで隣に引っ越してきた住人が挨拶するような態度で、自己紹介した。
「お待たせしました。僕はジョン・ドゲットです。ええっと・・。」
「ミランダ・ラッセルです。」
「ああ、どうも、初めまして。ミズ・ラッセル。」
ゆったりとしたドゲットの物腰に、クエンティンの母親は些か気持ちが落ち着いたようで、急速に口調が滑らかになっ
て行く。
「ミランダで結構ですわ。それより、クエンティンをありがとうございます。父親が亡くなった後、とても好くしていただい
たそうで、あの子ったら毎日あなたの話ばかりするんですよ。」
「それは、どうも。」
「今日もご迷惑をおかけして、なんとお礼を言ったらいいか。・・本当にありがとうございました。でも、もう連れて帰り
ます。」
世間一般の良識ある母親。格好や態度ばかりでなく、言葉遣いも丁寧でクエンティンの母親としては申し分ないだろ
う。何より我が子を心から心配している。ミランダ・ラッセルは、少なくともスカリーにはそう映った。しかし、ドゲットは
顎の下をちょっと擦ると、躊躇いがちに切り出した。
「もう少しいいですか?」
「何でです?ここにいる理由はもうあの子にはありませんでしょう。食事も終わったようですし。」
案の定、ミランダは顔を強張らせると、語気を強くして尋ねた。ドゲットはミランダの気勢を削ぐように彼女の前を通り
過ぎ、マジックミラーの前に立つと暫く子供達の姿を眺めていた。その様子にミランダは眉を顰め、更に言い募ろうと
口を開きかけた途端、ドゲットはミラーを背にくるりと振り返った。それがあまりに唐突な動きだった為、怯えたようにミ
ランダは一歩身体を引き、警戒心漲らせた眼をしてドゲットを盗み見た。ミランダのその視線に、ドゲットは少し困った
顔付きになり、自然と口調も慎重になっていった。
「・・クエンティンが、マイアミに行きたくないらしいのを、ご存知でしたか?」
「・・・・いいえ。でも、クエンティンの気持ちは分かります。確かに住み慣れたところを離れ、トレバーみたいないいお
友達とも別れ別れで、きっと心細いのでしょう。繊細な子なんです。でも、直ぐに慣れますわ。母親の私がついている
んですから。」
「そうでしょうか。」
「どういう意味かしら?離婚した私は母親失格だと?」
ドゲットのたった一言で、ミランダの目は釣り上がった。しかしドゲットはそれに動ずることなく、口調は穏やかだ。
「違います。只、彼の話を聞きたい・・・。」
「クエンティンがあなたに話すことなんてありません!あるはずが無いわ。それに、どうしてあの子が赤の他人のあな
たに話すの?馬鹿なことを言わないで頂戴!」
痛いところを突かれたと思うと、人間は我が身を守る為に攻撃的になるものだ。ドゲットの懐疑的な一言は、彼女がク
エンティンに感じているであろう負い目を逆撫でした。良識のある母親から一変して怒れる母親となったミランダに
は、ドゲットの宥めるような言葉も遠く及ばず、全身をぶるぶると震わせ叫んだ。
「ミズ・ラッセル。落ち着いてください。僕は・・・。」
「もういいでしょう!あの子の話なら私が聞きます。あなたの手は借りません。さ、あの子に会わせて!連れて帰る
わ!」
踵を返しドアに向かおうとするミランダに、待ってくださいと引きとめようとするドゲットの腕をスカリーがそっと抑えた。
「エージェント・ドゲット。引き止められないわ。」
嗜めるようなスカリーの顔にさっと冷たい一瞥をくれたドゲットは、彼女の手を振り解き背筋をぴんと伸ばして、ドアノブ
に手をかけたミランダに向き直った。
「ミズ・ラッセル。」
その声は今までとは打って変わって、低く厳しい。気おされたミランダはドアノブから手を離し、不安げに振り返った
が、声とは正反対の穏やかなドゲットの表情を認めると、直ぐ様体勢を立て直し、ごくりと唾を呑みこみ肩を聳やかせ
た。
「ミランダです。」
「OK。ミランダ。クエンティンは学校でいじめにあっていた。」
ミランダの表情が一瞬で凍りつく。
「彼をいじめていたのは誰だと思います?・・・あそこにいるトレバーです。」
「・・そんな。嘘よ。」
ドゲットの前で虚勢を張ることが、どれほど難しいか、彼女は知らない。スカリーは、信じられないと、無意識にミラー
に歩み寄るミランダの背を見詰めながら思った。ドゲットはミランダの横に立ち、食事が終わり、丸めたペーパーナプ
キンを投げ合ってふざけている子供達の姿を眺めながら言葉を続けた。
「嘘じゃありません。何なら彼らに聞いてもいい。」
「・・・・分かった。・・分かったわよ。認めるわ。確かに私はあの子について知らないことだらけよ。でも、それがどうだ
というの?」
ミランダは大仰に溜息を付くと首を振り、今までとは違う蓮っ葉な口調で切り返して見せたが、ドゲットを見上げる口
元が小刻みに震えている。動揺を悟られまいとする、今の彼女には精一杯の態度なのだろう。ドゲットは前に向いて
いた視線をすっとミランダに落とし、幽かに微笑んだ。
「知りたいとは思いませんか?」


『ミズ・ラッセル。これだけは、誤解しないで欲しいのです。僕は何も、あなた達の家庭の秘密を暴こうとか、必要の無
い詮索をして、無意味な告発をしようとしてるわけではありません。確かにここは取調室ですが、これはたまたまここ
しか空いてなかったからで、何も子供達を尋問しようなんて考えは全くありません。・・・・僕は只、クエンティンの気持
ちを知りたいのです。彼が、ここで一番多く語った言葉は何だと思います?‘分からない’です。何が分からないので
しょう。本当に彼は分からないのでしょうか。どちらかと言えば、引っ込み思案なクエンティンが、こんなところまで、僕
を訪ねてくれたのは、マイアミに行きたくないという他に、何かを僕に話したかったとは、考えられませんか。』
スカリーはドゲットの言い残した言葉を思い出しながら、再びへばりつくようにしてマジックミラーを覗き込むミランダの
顔を盗み見た。胸の前で両手を握り締め、スカリーが薦めた椅子にも座ろうとはしない。不安がっている。一体何に。
スカリーは離婚したということを除けば、理想的な母親だと思っていたミランダの実像が怪しくなってきたことに気付い
た。
 しかし、ドゲットは何をしようとしているのだろう。クエンティンの何が彼のアンテナに引っかかったのだろうか。する
と、まるでそれを見越したようなミランダの声が聞こえた。
「あの人は、何を考えてるんです?」
「・・・・エージェント・ドゲット?」
「ええ。あの子が、クエンティンが‘分からない’というのは、もう口癖みたいなものですわ。それに、あれくらいの子供
って、みんなあんな風に言うもんでしょう?特にあの子は、優柔不断なところがあって、何を聞いてもはっきり返事が
返ってこないし、結局最後には分からないと答えるから、フランクによく注意されていましたわ。」
「フランク?・・ああ、亡くなった前のご主人ですね。」
「・・・ええ。・・・あの人、・・・フランクは教育熱心で、躾にもうるさかったんです。私達中々子供が出来なくって、やっと
授かったクエンティンをあの人、溺愛してました。クエンティンが生まれた時のあの人の喜びようといったら・・・。」
ミランダは昔を思い出してか、ふふっと笑みを零した。が、スカリーと目が合うと、決まり悪そうな顔で先を続けた。
「だから、クエンティンにかける期待も大きくて、幼稚園や小学校も全部あの人が選んで決めて、あの学校に通う為に
わざわざ引っ越したくらいなんです。あの人学校行事にも積極的で、なのに私、そういうことに疎くて、クエンティンの
同級生の母親達には馴染めなかったんです。・・・フランクにしてみれば、きっとそんな私が、歯痒かったんでしょう
ね。段々擦れ違いが増えて、些細なことで、言い争う日が続いて、結局のところ、私達疲れてしまったんです。」
スカリーはその後も暫く、ミランダの取り留めの無い離婚に関する話を聞かされた。彼女の話を要約すれば、お互い
争うことなく平和的な協議離婚だということらしい。クエンティンの養育権は父親のものだったが、離婚した時仕事も
経済力もない彼女が慰謝料だけでクエンティンと自分の生活を成り立たせることは不可能で、ミランダは結構な額の
慰謝料と何時でも好きなときに息子に会えるという条件で、あっさり権利を手放したのだ。ミランダの言うことは自己
弁護に終始していたが、彼女も彼女なりに一人で必死になって生きてきたのだろう。今はマイアミで成功し、クエンテ
ィンを引き取れるくらいの収入を得てはいたが、それが我が子を育てることを放棄したという負い目となり、少なからず
彼女の心を痛めているのは、その様子から窺い知れた。
「会いに行っても、2人とも上手くやってました。母親がいないということを除けば、彼らには何の問題もない、とても仲
のいい父子だったんですよ。クエンティンと私だってそうです。確かにあの子が最近学校でいじめにあってたなんて知
りませんでしたけど、でも、それだってフランクが生きていれば、彼がきっと何とかしてくれたはずです。あの子がマイ
アミに行きたくないのだって、想い出が一杯詰まっているあの家を離れたくないのと、知らないところへ行く不安が原
因なんです。きっと。なのに、一体何を知りたいというのかしら。」
ミランダは咎めるような視線をスカリーに投げた。
「気になることがあるからと、エージェント・ドゲットは言っていました。」
「ですから、それは一体何なんです?」
「さあ、それは私にも分かりません。彼からはそれ以上聞いていませんので・・」
「そんな。・・・・そんなあやふやなことで、息子はお任せできませんわ。」
スカリーの返答を聞いたミランダはきっとして向き直り、語気を強くして抗議してきた。予測できた反応に、スカリーは
微笑むと、宥めるような口調で語りかけた。
「ええ。お気持ちは分かります。ですが、あそこにいるエージェント・ドゲットは、以前から子供の係わる事件を多く担
当していて、いわばその手の事件のスペシャリストです。事件に係わった子供の扱いには、少なくとも知識と経験が
あり、子供の受けたPTSDについてもよく知っています。その彼が気になることがあるというのですから、ひょっとした
ら、何かあるのかもしれません。なにぶん事件直後、クエンティンの側にいたのはエージェント・ドゲットですから。」
「な、何です?P・・PT・・」
「PTSD、心的外傷後ストレス障害のことを言います。確か学校には専属のカウンセラーがいるはずですが。カウンセ
リングはもう受けましたか?」
「・・・Dr・リーバーマンね。ええ。一度。でも、それっきり。クエンティンは嫌がるんですが、やっぱり無理にでも・・。」
「いえ、無理強いする必要はありません。こういうことは、時間をかける必要がありますから。」
「それなら、彼が今ここでクエンティンにしようとしているのは、一体どうなの?」
「そうですね。でも、先程エージェント・ドゲットも言っていましたが、クエンティンはここに自発的に来たようです。今は
それを重視すべきだと思いますね。大丈夫ですよ、ミズ・ラッセル。決して悪いようにはしません。」
と、スカリーが自信たっぷりに締めくくれば、ミランダも不承不承頷き、それでも息子の様子がおかしくなったら、直ぐ
に連れて返ると主張するのは忘れなかった。
 とりあえずミランダを大人しくさせることに成功したスカリーは、食事の後片付けを追え、さっきと同じように再び子供
達の前に座ったドゲットの背中に心の中で呟いた。とりあえずは上手くやったわ。今度はあなたの番よ。スカリーは、
自分の言ったはったりが、どこまで通用するか、先行きが不安だった。ミランダに言った言葉とは裏腹に、この状況を
決して楽観視出来ず、かといってドゲットが何をするか分からない今は、只黙って彼らを見守るしかなかった。


「じゃあ、僕に聞いてからと言ったのは、クエンティン?」
「うん。僕は別にそんなことしなくてもいいかなと思ったんだけど、クエンティンがどうしてもって言うから。な?」
ドゲットの質問に、はきはきと答えるトレバーの隣で、相変わらずクエンティンは歯切れの悪い物言いで俯いた。
「・・・・どうしてもなんて、僕。」
「言ったじゃないか。パパを説得するなら、ドゲットさんに聞いてからじゃなきゃ嫌だって。」
「それは・・・・。言ったけど。」
「だろ?だから、後はドゲットさんが僕達と一緒にパパに会ってくれればいいんだし。あ、そうだ。ドゲットさん、大丈夫
だよね。会ってくれるよね。」
トレバーはさっきの続きとばかり、ドゲットに向き直ると尋ねた。それを聞いたドゲットは、デスクに両肘を付き身体を乗
り出して、言葉を選びながらこう答えた。
「・・・そうだな。トレバー、君はこれからずっとクエンティンと一緒に暮らしても、構わないんだね。」
「うん。・・・そりゃ、僕はクエンティンに酷いことしてた。そのことは凄く反省してるよ。もう、絶対にそんなことしない。
今度のことで分かったんだ。クエンティンは僕より年下なのに、ずっと勇敢だって。僕達、ちゃんと仲直りしたんだ。親
友なんだ。だから・・。」
「成る程。けれど、一緒に暮らすとなれば、いい時ばかりじゃないぞ。君らのことを色々言う人も現れるだろう。嫌な思
いもするかもしれないし、クエンティンと喧嘩もするだろう。君のお父さんと何時も上手くやれるとは限らない。そこまで
考えたのか?」
「・・・考えたよ。ドゲットさん。でも、僕もう誰も僕の前から、いなくならないで欲しいんだ。」
「トレバー。」
トレバーの思いはドゲットの胸を打った。気丈に振舞っているが、トレバーも又必死で悲しみを克服しようとしている。
ドゲットは暖かい眼差しでトレバーを見詰め、先を続けた。
「君の気持ちは良く分かったよ、トレバー。」
「じゃ、いいの?パパに会ってくれる?」
「ああ。只、その前にクエンティンの気持ちを確めておきたいんだけど、いいかな。」
トレバーは真面目な顔で頷き、隣で今度は自分の番かと、憂鬱そうな表情のクエンティンを覗き込んだ。ドゲットは両
腕を組むと、些か砕けた口調でクエンティンに質問したが、クエンティンの重い口は中々言葉を紡ごうとはしない。
「クエンティン。君はどうなんだ?トレバーと一緒に暮しても構わないのかい?」
「僕は・・、僕・・・。」
「いいんだ。正直に言いなさい。これは大切なことだよ。」
「そんなこと、・・・僕。」
「・・・トレバーがいる前じゃ、話しにくいのかい?」
「・・別に。」
「彼がここにいても?」
「うん。・・同じだから。」
「同じ?」
妙に醒めた口調になったクエンティンの顔を、ドゲットは訝しげに見詰め聞き返したが、クエンティンはそれには答えよ
うとせず、口を噤んで顔を背けたまま視線を合わせようとしない。ドゲットは少し考えてから先を続けた。
「じゃ、話を戻そうか。クエンティン。君はどうしたい?」
「分からないよ。」
「でも、君自身のことだ。君が決めなくては・・。」
「だって。・・・決められないよ。」
「何故だい?」
「だって、そういう大事なことは、全部パパが決めてたから。・・・パパじゃないと、決められないよ。」
「クエンティン。・・・・でも、もう君のお父さんはそうすることが出来ない。君が決めるんだ。」
「そんなこと出来ないよ!」
と、それまで俯いていたクエンティンは顔を上げ、苛々した口調で叫んだ。ドゲットはクエンティンの険しい眼差しを受
け止め、そっと尋ねた。クエンティンの中から、何かが零れ落ちようとしている。
「何故そう思うんだい?君がどうしたいか、それを言えばいいんだよ。」
「だって、・・だって、きっと間違ってるに決まってる。」
「間違い?」
「そうだよ。だって何時も僕が何かすると、必ずそのあとパパが直していた。僕のすることは何時だって正しくないん
だ。・・・だから、パパは僕を見ると、がっかりしたような顔になるんだ。」
「クエンティン。」
「僕は何時だってみんなをがっかりさせるんだ。それは、みんな同じ。・・・トレバーだって、今は仲良いかも知れない
けど、きっと直ぐに僕にがっかりするに決まってる。」
「そんな。違うよ!僕は絶対ならないよ!」
それまで、居心地の悪そうな顔で側にいたトレバーは、クエンティンの言葉に猛然と反発した。すると、そのトレバー
の視線を避けるように顔を背け、クエンティンは再び頑なな表情で息をついた。ドゲットはその表情に些か慌て、トレ
バーの視線を捉えると、クエンティンに気付かれないようそっと目配せをした。
「トレバー。クエンティンの話を聞こう。」
トレバーは直ぐにドゲットの意図を汲んだのか、頷いて大人しく身体を引くと椅子に座りなおした。するとその様子に、
再びクエンティンは話し始めたのだが、ドゲットは時折質問を挟みながら、そのやけに醒めた口調と、諦めたような顔
つきが気になった。
「ううん。なる。僕には分かるんだ。ママだって僕を置いて出て行くくらいだから、君がそうならないわけないよ。」
「お母さんが?何故そうだと思うんだい?」
「ドゲットさん。そのくらい僕だって分かるよ。離婚する前、パパとママは何時だって、僕のことで喧嘩してたんだ。僕
が何時も間違うから、パパもママも苛々してた。ママの方がきっと先に我慢出来なくなっちゃったんだ。だから、出て
行ったんだ。」
「君のお父さんが、そう言ったのかい?」
「・・・ううん。パパはそんなこと言ったりしないよ。僕のせいじゃないってパパは言ってたけど、どんなに考えたって他
に理由が無いでしょう。僕のパパは何でも出来て、会社でも偉くて、絶対に間違わない。そんなパパの子供が僕みた
いんじゃ、ママも嫌になっちゃうよ。・・・パパは、僕の為に何でもしてくれた。でも、僕が何かするたびに、ほら又って
顔して、溜息つくんだ。僕、一生懸命間違えないようにしてるんだけど、パパが近くにいると、頭の中が真っ白になっ
ちゃって・・・。」
「緊張して、上手く出来ない。分かるよ。」
言葉に詰まったクエンティンの後を引き取ってドゲットが言うと、クエンティンは目を見張って切り返してきた。
「ドゲットさんが?嘘だ。僕を慰めようとしてるんでしょ。」
「嘘じゃないさ。僕にもそんな経験はある。」
「まさか。信じられないよ。ドゲットさんが間違えるわけないよ。」
「クエンティン。世の中に、間違わない人間なんていないんだよ。僕も、トレバーも、君のお母さん、そして君のお父さ
んだって例外じゃないんだ。」
クエンティンは勢いよく頭を振ると、きっぱりと言い切った。
「僕のパパは違う。」
「そうかな?」
ドゲットは真面目な口調で問いかけ、クエンティンの瞳を覗きこんだ。すると急に不安げな顔つきになり口籠ったが、
あっという間に体勢を立て直した。
「それは・・・、分からないけど。でも、パパと違って僕が弱虫で頭が悪いのは、間違いないよ。それに・・」
「それに?」
「・・・・それに、僕は悪い子なんだ。」
「悪い子?君が?何故そんな風に思うんだい?」
「だって、僕・・僕。・・・・・言えない。」
消え入るような言葉尻は、話したくても話せない。そんな風にドゲットには聞こえた。何でも分からないと答えるクエン
ティン。なのにある事柄は、非常に確信めいている。それは、全てにおいて曖昧な言い回ししかしないクエンティンに
は不釣合いな言動だった。その確信がどこからくるのか、あと少しで解りそうな気がする。ドゲットは暫く間を置いて、
ほんの少し押してみることにした。
「うん。話したくなければ、話さなくてもいいんだよ。クエンティン。だけど、もし話したら僕に嫌われると思って話さない
んだったら、そうじゃないことを知っておいてくれないか?僕は君のことが好きだし、友達だと思ってる。君が何を話し
ても、それが理由で君を嫌いになったりはしない。」
慎重に言葉を選び静かに語りかけるドゲットの気持ちがクエンティンに通じたのか、クエンティンは困惑した眼差しで
ドゲットを見詰め、続いてほっと小さく溜息をつくと、投げやりな口ぶりで話し出した。
「・・・、いいや、どうせ同じだから。僕、パパが死んだ時、凄く悲しかった。本当だよ。たくさん泣いたし、今でも悲しい
よ。でも、でも僕の心の中では、そうじゃない気持ちもあるんだ。」
「そうじゃない?それは、どんな?」
「きっと、みんなこれを聞いたら、絶対おかしいって思うよ。僕だってそんなの分かってる。でも、やっぱりそう思っちゃ
うんだ。」
一旦言葉を切ったクエンティンは、俯いてデスクの上を睨んだまま、その時初めて心の奥底にあるものを吐露したの
だった。
「僕は。・・・僕はね、パパが死んで悲しいけど、・・・ほっとしてるんだ。」
「クエンティン。」
絶句したドゲットと、隣ではっとした顔をしているトレバーを代わる代わる見詰め、やっぱりという口調でクエンティンは
さっきの説に舞い戻った。
「ほらね。みんなそう思うでしょ。僕おかしいんだ。パパが死んでほっとするなんて、僕って凄く悪い子なんだよ。ね、
だからパパは間違ってないでしょう。パパは絶対に間違わないんだ。」
「クエンティン。それはどうかな。君のお父さんが絶対に間違わないというのは、何時も間違ってしまう君が考えたこと
だろう?僕はそれを信じてしまっていいのかな。」
ドゲットの理屈に暫く考え込んでいたクエンティンは、急に何かに思い辺り、避難がましい目つきで上目に睨んだ。
「・・・・・狡いよ。ドゲットさん。そうやって僕を丸め込もうとしてるんだね。」
「狡いか。・・・そうだな。大人っていうのは、年を取るだけ、狡賢くなるものなんだ。」
「パパは違うよ。」
「成る程。でも、僕は君のパパのような人間じゃないんだ。しょっちゅう間違うし、人を傷つけてしまうこともある。」
「そんなこと・・。そんなはずないよ。ドゲットさんはそんなことしない。」
「クエンティン。期待させて悪かったが、僕はそんなに完璧な人間じゃないんだ。」
「違う。違うよ。ドゲットさんが、そんなはず無いんだ。だって、・・・だってあの時、僕に聞いてくれたじゃない。何処で
寝るって。僕の好きにしていいんだって。ソファーをキッチンに動かすのだって、朝まで僕の側にいてくれるのだって、
全部僕の言ったこと聞いてくれた。僕が一番いい気分でいられるようにしてくれたじゃない。僕にそんな風にしてくれ
た大人は、ドゲットさんが初めてだったんだ。だから、今日だってここに来たんだ。ドゲットさんなら、答えを教えてくれ
る。」
「答え?」
「・・・・僕がどうしたら、一番いいのか。」
「それには、まず君がどうしたいか知らないと。君はどうしたいのかな。本当の気持ちを言ってごらん?」
ここにきてようやくクエンティンに最初の質問をぶつけても、それを受け入れられる状態になったようだ。ドゲットは細
い糸の先にあるクエンティンの心をようやく手繰り寄せたというその感触を信じ、直ぐに切れてしまう糸のようなクエン
ティンとの繋がりを切らさぬよう、慎重な言葉と態度で彼の前に居た。クエンティンは暫く視線をあちこちに彷徨わせ、
躊躇っていたが、ドゲットの動じない暖かな眼差しと穏やかな態度に心を決め、意を決したように顔を上げた。
「僕は・・・・・・。僕はドゲットさんにパパになって欲しいよ。ドゲットさんがパパなら、僕、何時も朝までぐっすり眠れる
と思うんだ。怖い夢だってもう見ないよ。僕が子供じゃ駄目かな?」
「クエンティン。それは・・・。」
その申し出には、流石のドゲットも二の句が継げなかった。クエンティンが、そんなことを考えていたとは、予想だにし
ていなかったのである。ドゲットの一瞬の動揺を目ざとく察知したクエンティンは、さっさと答えを出してしまった。振り
出しに戻ってゆく。
「僕みたいな子供じゃやっぱり駄目なんだね。」
「そうじゃないよ。」
そうしっかりとした声音で否定したドゲットは、それでもがっかりしたように肩を落としたクエンティンの様子に、気持ち
を引き締めた。油断していた。思いもしないことを言ったりしたりするのが子供なのだ。再びクエンティンが心を閉ざす
前に、彼の心を繋ぎとめておかなければならなかった。ドゲットはしょんぼりと俯いているクエンティンの直ぐ脇に椅子
を動かして、薄い肩に手を回し、クエンティンと名を呼び話しかけた。すると、沈んだ声で返事が返る。それはクエンテ
ィンの編み出した定義に従って導き出した、彼なりの解釈だった。ドゲットはクエンティンの凝り固まった定義を、彼自
身の手で解せるよう導かなければならない必要に駆られていた。しかし、その為にはドゲット自身の動揺や焦りな
ど、絶対に悟られてはならなかった。
「・・・・子供がいるんだ。」
「君にパパと呼べる人が決まっているようにね。クエンティン。君がこの先どの家で暮して、そこの家の子供になって
も、お父さんはお父さんなんだ。これは変えることが出来ない事実なんだよ。例え君が僕の子供になっても、君のお
父さんがフランクであることに変わりは無いんだ。忘れたり、無視したりすることは出来ない。」
「そんなことしないよ。」
「うん。勿論そうだね。けれど君は、君のお父さんのことや、君自身のことをもっとちゃんと考えなくてはいけないんじゃ
ないのかな。」
「・・・・どういうこと?」
「君が今お父さんについて思っていることや、君自身それをどう感じているかは、よく分かったよ。でもね、今の感情を
そのままにしておくと、それはきっと一生ついてまわる。君の感じていることが正しいか分からなくてもだ。僕には、お
父さんが亡くなってほっとしている君が、悪い子だとは、とても思えないんだ。」
「・・・・悪い子だよ。絶対。」
「そう思うかい?でも、君のお母さんは君のことを、繊細な子だと言っていたよ。ここのいるトレバーだって、さっき君の
事を勇敢だと言ったぜ。ちなみに僕もトレバーの意見には賛成だな。あの事件の時の君らは、ちょっと無茶だったが、
勇気があると思ったよ。弱虫には出来ない行動だ。」
「あれは、・・・トレバーがいたから・・」
「それだけ?トレバーに誘われたっていうだけで、あんな危険なことをしたのか?」
「それは・・・僕もパパを殺した奴を、やっつけたかったから。」
「ほらね。君は悪い子じゃない。」
「じゃあ、どうしてパパが死んだのにそんな風に思っちゃうの?」
話しているうちに、クエンティンの表情は、次第に穏やかな明るいものへと変わってきていた。これはいい兆候だった
が、最後の質問には慎重にならざるを得ない。ドゲットはクエンティンの瞳を覗き込むと尋ねた。
「このことを今まで誰かに話したことはあるのかい?」
「ううん。無いよ。だって言ったら、気が変になったって病院に入れられちゃう・・。」
「ああ、そんなことはしないよ。じゃあ、そう思って今まで誰にも言わなかったんだ。それは、辛かったね。」
クエンティンの悲痛な訴えに、深い同情に満ちた声でそう答えたドゲットは、デスクの上に投げ出している小さな彼の
手を自分の手で包みこんだ。するとクエンティンはほっとした顔つきになり、縋るような眼をしてドゲットを見上げた。ド
ゲットはその眼差しをしっかりと受け止め、静かな落ち着いた声で語りかけた。
「クエンティン。僕は君の質問には答えられない。何故なら、僕は君のお父さんがどういう人か知らないし、君とお父さ
んが何時もどんな風に過ごしていたか、全く知らないんだ。けれど、その事を一番良く知ってる人が、君の直ぐ近くに
いるんじゃないのかな?」
「・・・・・ママ。」
「うん。そうだね。君のお母さんは、君や君のお父さんをよく知っている。でも、知らないでいたこともあったんだ。君が
お母さんについて知らないでいることがあるようにね。君とお母さんがお互いをよく知り合って、お父さんについて深く
知ることが、もしかしたら君の質問の答えになるかもしれない。それには、君達がもっと一緒に過ごして、そういうこと
の専門家の手を借りた方がいいと思うんだ。違うかい?」
ドゲットの言葉は、クエンティンの心に沁みこむように広がっていった。クエンティンが俯いてじっと考え込んでいる間
に、ドゲットは気付かれないよう肩越しにマジックミラーに視線を投げ、その向こうでこの様子を見守っているスカリー
に向け、合図を送る。そして再び何食わぬ顔で、彼を見守るドゲットに、長い沈黙の末発したクエンティンの言葉には
強い意思が芽生えていた。ドゲットを見上げる彼の眼差しに迷いは無かった。
「・・・・僕、ママと一緒にマイアミに行きます。」
 
 ミラーの前で涙ぐむミランダを、スカリーはそっと促し、連れ立って観察室を出た。2人は無言で廊下の隅にある長
椅子に座り、子供達が取調室から彼女等の元に現れるのを、待った。


 クエンティンを先に車に乗せたミランダは、見送りに来ていたドゲット等3人の元に歩み寄った。礼を言いながらスカ
リーと握手したミランダは、続いて気まずそうにドゲットの前に立ち、躊躇いがちに礼をのべ、尚もぐずぐずと何かを言
いたそうな顔つきでいた。するとドゲットが、何時ものゆったりした態度で話しかけた。
「日程には変更は無いんですね?」
「ええ。仕事の都合で、どうしても月曜には発たないと。」
「ああ、そりゃ仕方ないですね。」
ドゲットが僅かに口元を綻ばせ頷けば、それに勇気付けられたミランダは真摯な眼差しでドゲットを見上げた。
「私この足で、Dr・リーバーマンのところへクエンティンと行くつもりです。今日、あの子が話したことを全部聞いてもら
うんです。」
「それはいいですね。もし、何か僕に確かめたいことがあったら、何時でも連絡してください。僕の連絡先は、クエンテ
ィンに以前メモを渡してあります。それから、これは是非お薦めしたいのですが、マイアミに戻っても、暫くクエンティン
はカウンセリングを継続した方がいいでしょう。Dr・リーバーマンに事情を話せば、誰かを紹介してくれるはずです。」
「そうします。今度のことで、私目が覚めました。あのまま、何も知らずクエンティンをマイアミに連れて行っていたら、
取り返しのつかないことになっていたかもしれません。」
ドゲットは深刻そうなミランダの口調に、ふっと短い溜息を付き、やるせない眼差しを車内のクエンティンに向けた。
「・・・・それはどうか分かりませんが。まあ、これが、彼の深いところで尾を引いたのは、確かですね。」
「ええ。本当に。私、あの、何とお礼を申し上げたらいいのか。これはとても私独りで、どうにか出来るものではありま
せんでした。」
「礼なら、僕よりトレバーに言って下さい。クエンティンをここまで連れてきたのは、彼ですから。」
ミランダに改まって礼など言われ、急に照れくさそうな顔になったドゲットは慌ててその矛先をトレバーに振った。する
とそれを聞いたミランダは、ドゲットの隣で他人事のような顔をしていたトレバーに近づき、力一杯抱き締めると何度も
ありがとうと礼を言うのだった。そして、複雑な顔をしているトレバーに、向こうに着いたら必ずクエンティンに連絡させ
る、そう約束し去っていった。
 3人は親子が乗ったセダンが駐車場の突き当りを曲がり、見えなくなるまで黙って見送っていた。が、車が見えなく
なると同時に、前を向いたままドゲットが言った。
「不服か?」
え?とスカリーがドゲットを見ると、ドゲットは2人の間でむすっとして下を向いているトレバーに視線を落としている。ド
ゲットの問いはトレバーに向けられたもので、それはクエンティンがマイアミに行く決心をしてからずっと仏頂面をして
いるトレバーの態度を見て言ったのだろう。スカリーは口を尖らせて答えようとしないトレバーの様子に、無理も無い
わ、と思わず同情を禁じえなかった。2人の立てた素晴らしい計画は、かたわれの心変わりで頓挫してしまった。しか
も、自分が良かれと思った頼りの人間に相談したが故だ。
 ドゲットはコートのポケットに手を突っ込んでトレバーに向き直った。トレバーの父親は重役会議が長引いて迎えに
来れない為、ドゲットが彼の家まで送る手はずになったのだ。問題があったクエンティンはどうやら上手く納まり、トレ
バーの方は家まで送り一部始終は電話で事情を話しその後は父親に任せれば、この場を終えることも出来る。しか
し、ドゲットはトレバーのこの態度を、このままにしておくつもりは無いようだった。
「クエンティンが君の思うとおりにならなかったのが、そんなに気に入らないのか?」
「・・・違うよ。」
そう返答した後トレバーは、きっとしてドゲットに食って掛かった。
「ドゲットさん、最初からパパに会うつもりなんか、無かったんでしょ。始め僕に言ったのは嘘だったんだ。」
「いいや。嘘なんかじゃないさ。あの時は君のお父さんに会うつもりでいた。だが、あの時君に断っただろう。クエンテ
ィンの気持ちを聞いてからと。」
「ドゲットさんが聞いたから、クエンティンの気持ちが変わったんだ。」
「それは君の言いがかりだ。」
スカリーは思わずぎょっとしてドゲットの顔を見詰めた。その冷たい言葉は、あまりに彼に似つかわしくない。しかし、
言われたトレバーの方は、もっと動揺し顔色を変え猛然と反発する。
「酷いよ!僕だってちゃんとクエンティンの気持ちは聞いてたんだ。何度も何度も話し合って計画立てて、2人でいる
と凄く楽しかったんだ。この先ずっと一緒にいようって、約束したばっかりなのに、全部ドゲットさんがぶち壊したんじゃ
ないか。それを、そんな風に言うなんて・・」
「酷いか。じゃあ、君はどうなんだ?トレバー」
「どうって、・・・何が?」
「君がクエンティンと暮そうとしていたことさ。それは酷くは無いのか?」
「な、何言ってるの?それがどうして酷いことになるって言うの?僕達、話し合って決めたんだよ。クエンティンだって
いいって言ったってさっきから言ってるでしょう?突然頭の悪い大人みたいなこと言わないでよ。」
頭の悪い大人か。ドゲットはトレバーの言葉尻を捉えて、苦笑しながら首の後ろを擦った。
「一緒に暮そうと誘ったのは君なんだろう?トレバー。」
「そうだよ。」
「クエンティンが先に言い出した訳じゃない。」
「そうだけど。・・何が言いたいの?言いたいことははっきり言ってよ。」
ドゲットはじれったそうなトレバーを見下ろすと、すっと背筋を伸ばし腕を組んだ。
「トレバー。君はクエンティンが君と一緒に暮すことに賛成したと言ったが、実際はどうだった?」
「だから、それは、ドゲットさんがそう・・・」
「いや、違う。それは、君がそう思いたいだけだ。クエンティンも君と同じ気持ちだと君は言っているが、それは全て君
がそう思い込んでいただけに過ぎない。君はクエンティンの為と言いながら、肝心の彼の気持ちを何も分かってはい
なかった。それは、認めるべきだ。」
「・・・・それは。・・」
絶句し俯くトレバーは真っ赤な顔をして、その眼には見る見るうちに涙が溜まっていく。スカリーはいくらドゲットの言う
ことが正しくても、子供相手にここまで言及することはないと、思わず口を挟んだ。
「エージェント・ドゲット。クエンティンの気持ちは誰にも分からなかったのよ。それにトレバーだって悪気があった訳で
は・・。」
「君は口を出すな。エージェント・スカリー。」
「何ですって?」
ここまであからさまに言われたのは、オクラホマの報告書の一件以来だった。スカリーは思わず顔を上げ、ドゲットを
睨みつけた。すると、何時もならこうやって強い言葉が出てしまった後のドゲットは、打てば響くように反応するスカリ
ーの気勢を削ぐよう、すぐさま態度を軟化させる。が、今回は正面から向かってきたのだ。スカリーの眼を平然と見返
したドゲットは、低いが揺るがぬ口調で切り返した。
「そうだ。君の言うとおり、クエンティンの本当の気持ちは、ここにいる誰一人として分かってはいなかった。この中で
も最も遠いところにいた君が分からないのは、ある意味当然だ。だが、僕達2人は違う。クエンティンが一番辛く苦し
い時に側にいたのは、僕達2人だったんだ。」
「でも、それだって今日のような機会がなければ分からなかったわ。あなたや、トレバーがそれに気付かなくても、責
められる問題ではないのよ。ましてやクエンティンは意思表示が凄く曖昧で、母親にさえ分からなかったでしょう。そ
れなのにこうやって彼を追い詰めるのは、間違っている。相手は子供なのよ。」
「追い詰める?君は又何か早とちりをしてるな。エージェント・スカリー。」
「どういう意味?」
「僕がトレバーに認めさせたいのは、自分の思い込みと真実とを混同していたことなんだ。別にそのことでトレバーを
責めているわけじゃない。エージェント・スカリー。どうだい?それは間違ってはいないだろう?」
「それは・・、そうだけれど。でも、子供にその違いを分からせるのは難しいわ。」
「難しい?・・・そうだろうか。」
「そうよ。大人だって判断できない時があるわ。」
突然ドゲットは、くっと笑い声を漏らし、苦りきった表情で顔を背けた。一瞬にしてスカリーはかっと頭に血が上るのを
覚えた。
「何が可笑しいの?」
「別に、可笑しくなど無い。」
「今笑ったわ。」
「笑った?僕がか?」
「とぼけるのは止めて。確かに今あなたは笑ったわよ。」
「ふーん。そうだったかな。でも、そりゃ君の思い過ごしだ。エージェント・スカリー。」
何時になくふてぶてしいドゲットの受け答えは、スカリーの神経を一々逆撫でする。しかもスカリーは腹を立てると却
って頭の回転が良くなるタイプで、既に臨戦態勢に入っていた。スカリーはドゲットの顔を睨みつけ、大きく息を吸い口
を開きかけた。が、急にドゲットは白けた顔でスカリーを一瞥し、待てよ、今は君と話してる場合じゃない。そう言っ
て、妙な雲行きの2人の間に挟まれ困惑しているトレバーの方を向いてしまった。そうやってドゲットは、いとも簡単に
その会話から、スカリーを締め出したのだ。そしてあっけに取られているスカリーを無視し、自分達の険悪な会話な
ど、まるで無かったかのような口ぶりで、さっきの続きを始めた。
「トレバー。僕がさっき言ったことの意味は分かるかい?」
「・・・・僕の思い込みとクエンティンの本当の気持ちを、一緒にしてたっていうこと?」
「そうだ。今回君がしたことは、特別悪いことじゃない。人は誰でも、願っていることの通りに物事が進んで欲しいもの
さ。けれどそれはそう思う気持ちが強ければ強いほど、大事な事を見落としてしまいがちになるんだ。君の場合、クエ
ンティンと一緒にいたいという気持ちが強過ぎて、クエンティンがいざと言う時にはっきりと答えないのは何故だろうと
いう、そんな簡単なことを聞けずにいた。そこには多分問い詰めて、自分と反対のことを言われたらとか、迷い出した
らどうしようという怖さもあったんじゃないかな。だから君は、一番重要なことを隅に追いやって、自分の気持ちを2人
の真ん中に置いてしまったんだ。しかもクエンティン自身までが、自分の本当の気持ちが上手く表現できず、何かが
違うと思いながらも、君の気持ちがあまりに強くてそれに引きずられてしまったんだ。違うかい?」
ドゲットが言葉を選びながら、慎重にトレバーに語りかければ、トレバーは口を真一文字に結んだまま、深く頷いた。
「そう。ここまでは分かるね、トレバー。だが、僕が言いたいのはこの先なんだ。いいかい。良く聞くんだ。君はそう願う
気持ちが強すぎて、本当のクエンティンの姿が見えなくなってしまった。けれど今は、クエンティンの心の中が、少し
見えてきただろう?クエンティンが自分をどんな風に思っているか、自分の周りにいる人間をどういう風に見ている
か。それは君の思っていたものとは、違っていたはずだ。なんといったらいいかな。そう、クエンティンの心は、両親の
離婚で傷つき、お父さんが死んだことで、酷く弱ってしまっている。」
「・・・クエンティンは病気なの?」
「そうだな。眼に見えない、心の病気かもしれない。これは、専門のお医者さんに任せた方がいいし、彼がお母さんと
一緒にいる時間を増やせば、クエンティンの弱った心も、徐々に元の強さに戻るだろう。でもそれは、残念だけど君じ
ゃ駄目なんだ。何故か分かるかい?」
トレバーは暫く考えていたが、ドゲットの眼を上目に見てしっかりとした声で答えた。
「家族じゃないから。そうでしょう。」
「そうだ。君は家族じゃない。そして今クエンティンにとっては、家族がいない状態なんだ。クエンティンはこれからそ
れを、たくさんの人の手を借りて、見つけていかなければならない。それが、どれだけかかるか分からないし、上手く
いく保証も無い。」
「きっと上手くいく。大丈夫。」
即座にトレバーが、真摯な態度でドゲットを見上げそう訴えると、ドゲットは目じりに笑みを滲ませ、暖かな眼差しでト
レバー見下ろし微笑んだ。スカリーはその笑顔を見て、はっとした。彼女にもようやくドゲットがトレバーを何処に導こう
としているのか、見え始めた。
「何故そう思うんだい?」
「だって、僕は本当のクエンティンが勇気があるのを知ってる。これって僕がそう思い込んでるんじゃないよ。クエンテ
ィンの勇敢な姿を見たから言ってるんだ。僕はクエンティンを信じる。」
「トレバー。僕はそれを君に気がついて欲しかったんだ。君はクエンティンの親友だと言ったね。確かに今君の出来る
ことはあまりないかも知れない。けれどクエンティンが離れて暮すと意見を変えても、君がクエンティンを信じて友達で
いてあげることは、クエンティンにとって凄く良いことなんだ。」
トレバーはドゲットの言葉を真面目な面持ちで聞いていたが、突然しまったという顔になるとドゲットに訴えた。
「どうしよう。僕、クエンティンに悪いことしちゃった。さっきから何か僕に言いたそうだったのに、無視したんだ。」
「そうなのか?じゃあ、どうしたらいいと思う?」
ドゲットは腕組みをしたまま僅かに身体を乗り出すと、穏やかな口調で先を促した。
「明日クエンティンに会って、ちゃんと話してくる。僕達ずっと友達だって、僕がそう思っていることを、クエンティンに伝
えてくるよ。それで、いいよね。」
「上出来だ。」
ドゲットはにっこりすると、トレバーの肩に手を置いた。すると、それまで悲壮感漂う顔つきだったトレバーは、眼を輝か
せ得意そうにドゲットを見上げ、続いて同意を求めるようにスカリーに視線を移した。トレバーと眼が合ったスカリー
は、それに答えるように、良かったわね、と、微笑みかけ顔を上げた途端、自分を見詰めるドゲットの視線とぶつかっ
た。
 スカリーはさっきの自分の態度が、やはりドゲットとの言う通りと認めざるを得ないこの状態に、些か極まり悪かっ
た。気まずさに何か言ってこの場を凌ごうと言葉を探していると、自分を見つめるドゲットの視線に気付き、胸に僅か
な衝撃を覚えた。咎めるわけでもなく、冷やかすわけでもない。只、憂鬱そうな沈んだ眼差しで、全ての感情をこそげ
落としたような顔をして自分を見ている。この顔。私はこんな顔をしているドゲットを前に見ている。それが、何時何処
だったかと思い出そうとした途端、ふいっとドゲットは顔を背けた。ドゲットは親しげにトレバーの肩に手を回し、じゃ
あ、行こうかと、同じフロア内の自分のピックアップまで誘った。
 ピックアップに乗り込んだドゲットは、トレバーを助手席に乗せ運転席側に回ったスカリーに、この後の自分の予定
を告げた。
「僕はトレバーを送ったら、ここには戻らず直帰させてもらうよ。今日の仕事はもう無いからな。君は?エージェント・ス
カリー。」
「私も、今日の仕事は終わっているから、定時には上がるわ。」
「そうか。今日は付き合わせて済まなかった。助かったよ。」
ドゲットの他人行儀な態度に、スカリーは曖昧に頷き、それを確認したドゲットは、良い週末をと、普段どおりの言葉を
残し、ピックアップを発進させた。スカリーはそれを見送ってから、今日のドゲットの鮮やかな手際に感心したものの、
何故か釈然としない気分を持て余しながら、オフィスへと戻るエレベーターへと向かったのだった。




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