【W】


 スカリーが乗った時は無人だったエレベーターも、帰宅時間が近いせいか、一階ごとに人が乗り込みあっという間
に満員になってしまった。その全てが男性だった為、小柄なスカリーはエレベーターの一番奥に追いやられ、息苦し
さに下を向いたまま、溜息をついた。すると、聞き覚えのある声が、前の方で聞こえた。そっと会話の主を探れば、扉
の直ぐ前に立つ二人連れの後姿に見覚えがあった。
「今日はもう上がりか?エージェント・クレイン。」
「ああ。今、裁判所から戻ったんだが、報告書の残りをATF本部に送れば終わりさ。」
「ATF?ああ、例の武器密売ね。もう裁判か。早いな。」
「切れ者のリーダー、クリス・ライアンの成せる業さ。おかげでこっちは内の報告書も揃ってないのに、証言台に立た
されちまった。」
「ぼやくな、ぼやくな。定時に上がれるんだ。そういうことなら、どうだ今夜?っと、まだ駄目だったっけ?お宅。」
「いいや。実を言うと今日から酒解禁なんだ。」
「そうか。じゃあ、この後一つ解禁祝いといくか。しかし、長かったな。3、4週間経つんじゃないか。」
「まるまる4週間だ。参ったぜ。全く。」
「原因は何だ?」
「クリスマスから新年にかけて仕事を入れたっていうのが、かみさんの逆鱗に触れてな。」
「そりゃ、こんな仕事じゃ仕方ないだろう。無茶言うぜ。」
「いや、その他に、そのう、息子のクリスマスプレゼントを買い忘れたっていう、おまけがあるんだ。」
「ああ、そりゃ・・・・・。文句は言えないな。で、4週間毎日真っ直ぐ家に帰ってたわけだ。」
「そういうこと。毎日毎日悪魔の誘惑を振り切り、週末はかみさんの買い物に付き合ったり息子の相手をしたりと、そ
の涙ぐましい努力が、ついに実ったんだ。今夜はみんなで祝ってくれよ。」
「亭主の鑑だ。よし。そうと決まれば、他の奴等も誘っとくか。場所は何時もの店でいいよな。」
「勿論。ツケで飲めるのはあそこだけだ。そうだ、久しぶりにドゲットも誘うか。」
「ああ、そりゃ無理だ。さっき廊下で擦れ違ったんで声かけたら、何でも外で仕事を済ませそのまま帰るって言ってた
ぞ。」
「何だ、そうなのか。ATFとの一件じゃ世話になってるから、礼も言いたかったんだが。じゃあ、ドゲットは又今度だ
な。」
「あいつも、忙しい男だぜ。俺も最近じゃ、さっぱりだ。」
そこで扉が開き、エレベーターに乗っていた半数以上の人間が降りた。当然ながら地下まで降りる人間は、スカリー
しか乗っていなかった為、その次の階でぞろぞろ人が降りるとエレベーターに残されたのはスカリーだけだった。誰も
いなくなって、窮屈さから解放されたスカリーは、クレイン達の会話に首を捻った。
 今の会話によれば、クレインはここ4週間の間、仕事が終わったら、真っ直ぐ家に帰っている。となると当然、スカリ
ーがドゲットを食事に誘った2週間前も、ドゲットと約束などしていないはずだった。しかも、その後何度か、ドゲットは
約束があると如何にもクレイン達と待ち合わせている素振りで、オフィスに残っている時があった。
 これは一体どういうことなのだろう。スカリーはエレベーターを降りると、暗い廊下を抜け、オフィスのドアを開けた。
すると、トマトソースの匂いが部屋中を漂い、思わず辺りを見回せば、スカリーのデスクの上に宅配ピザの箱が乗って
いる。どうしてこれがと、近寄れば箱の上にメモが貼り付けてあり、手に取ればそこには短く『奢りだ。ドゲット』とあ
る。
 スカリーはメモを眺めながら、デスクを回り椅子にすとんと腰掛けた。駐車場から引きずっていた、釈然としない思い
が自分の中で見る見るうちに膨れ上がってい行く。ドゲットそのもののような、短く素っ気無いメモ書きから、何かを読
み取ることなど不可能なのに、何故か眼を逸らすことが出来ず、その几帳面な文字を見詰めながら、先ほどの疑問を
解こうと試みた。
 クレインが本当のことを言っているのは間違いなかった。同僚も認めているし、何より彼自身がこの4週間の禁酒生
活を公言して憚らない様子だった。ならば、この2週間ドゲットはクレインと約束があると、何故言ったのだろう。考え
れば考えるほど、自分の一番落ち着きたくないところへと、思考が傾いてゆく。
 何度目かの堂々巡りの末、スカリーは苛立たしげに息を吐き出し、空転している思考に決着をつけた。嘘をついた
んだわ。クレインと約束なんかなかった。あれは、自分を避けるための口実なのだ。が、そうなると今度は別の疑問
が頭をもたげる。それならば、何故自分を避けるのだろう。避けられるような事を、ドゲットにしたとでも言うのだろう
か。
 スカリーはメモをデスクに置き、それを睨みながら心当たりを探った。始まりは2週間前の週末、食事に誘った時
だ。あの日の前後に何かあったのだろうか。しかし、何処をどう思い出しても、ドゲットの様子に驚くべき変化は思い
当たらない。が、逆にその日を境に、時折ドゲットがはっきり会話を打ち切る時があることに、気付いた。
 ATFでの担当に関する会話。今日の観察室でスカリーの手を振り解いた態度。そして先ほどの、君は口を出すな、
というあからさまな拒絶。何時の間にかドゲットは、自分との間に見えない境界線を作り、うっかりその境界線を越え
ると、問答無用で締め出されてしまう。
 今朝までは、ふと自分が避けれらているという懸念が過ぎることがあったが、理由がないから気のせいだと片付け
ていた。しかし、こうなると、もう気のせいとは言いがたい。一番手っ取り早い方法は、ドゲットに直接聞けばいいのだ
が、直帰した彼と会うのは月曜の朝だ。3日も先。そんなに先まで、この苛々を持ち続けたくは無いが、追いかけて
疑問をぶつけようにも、何と言えばいいのだろう。私を避けているの?これでは、まるで痴話喧嘩の台詞のようだし、
どうして嘘をついたの?これだって益々妙な響きを含んでいる。
 スカリーは、どうにもならない焦燥感に囚われ、忌々しげにメモを掴み、くしゃくしゃに丸めた。そのまま、行き場のな
い苛々をメモと一緒にゴミ箱にぶつけたのだが、大きく狙いは外れ、丸めたメモはゴミ箱から遠く離れた、部屋の隅
の暗がりへと見えなくなった。
 馬鹿ね。スカリーは溜息をつくと立ち上がり、メモを探しに出向きながら心の中で呟いた。別にドゲットの態度が
少々変わろうが、それがどうだというの?仕事に支障があるわけではなし、彼の作った境界線さえ越えなければ、何
時ものドゲットとなんら変わらないのだ。何も私との食事を断りにくくて、嘘をついたとしても、それをこんなに気に病む
ことはないのだわ。これからもビジネスライクな付き合いをしていればいいのだ。スカリーは、ドゲットのデスクの奥の
暗がりから丸めたメモを探し出し、再びゴミ箱に投げ入れれば、今度は外れることなく、上手く納まった。
 これでよし。ま、こんなに近ければ入るのは当たり前ね。でも、思い悩むのもこれで終わりにしよう。ぱんぱんと両手
を払い、スカリーはドゲットのデスクを回り、自分のデスクに戻ろうとした。ところが、その時に限って何時もは通らない
彼のデスクと壁に挟まれた狭いところを抜けようとし、薄暗さも手伝って、足元がおろそかになっていたのだ。
 はっと気付いた時には、デスクの影に隠れていたダンボール箱に毛躓き、危うく転倒しかけたが、既のところでデス
クにしがみ付いて事なきを得た。身重の身体で、転倒するのは極力避けたい。息を整え体勢を立て直したスカリー
は、我が身の無事に胸を撫で下ろしたが、続いて目に入ったダンボール箱は、とても無事とは言い難かった。
 蓋が外れ中身を部屋の中央に散乱させたダンボール箱に、スカリーは慌てて駆け寄った。幸い中身は全てA4サイ
ズのマニラ封筒ばかりで、拾い集めやすかったが、ふとその封筒に何処かで見覚えがあると記憶を手繰ると、このダ
ンボール箱も何処かで見ていることに思い当った。
 突然蘇った記憶に、スカリーはあっと声を上げた。これは、2週間前ドゲットが帰り際持ってたダンボール箱ではな
いか。あの時も何か読んでいた書類をA4の封筒に入れこの箱に閉まっていた。しかも、ここに散乱している封筒は、
時折ドゲットがこれを持って何処かへ向かうのを私は何度も見ている。この封筒には、一体何が入っているの?スカ
リーが手に持った封筒の裏表を調べれば、表にドゲットの字で、年号と日付のみが書かれている。それ以外、どこを
ひっくり返しても中身を窺わせるような記述は無い。封筒に触った感じでは、何かの書類のようだ。
 しかし、封筒の口が紐できっちりと閉じられている以上、中が何か分からなくてもドゲットの私物である可能性が高
い。勝手に中を覗き見ることは、幾らパートナーでもプライバシーの侵害だ。スカリーは肩を竦めると、封筒を箱に戻し
始めた。どういう順番で入っていたのか箱に少し残った分を見れば、日付順に並んでいる。如何にもドゲットらしい整
理の仕方だ。
 スカリーは床に膝をついたまま、封筒の日付を調べ順番に箱に入れ始めた。すると、おやっと思い、もう一度確認す
れば、一番古いものは1988年とある。これはドゲットがNYPDにいた頃の日付だ。しかも、封筒の数は年を追う毎に
増え始め、封筒の厚さもそれに比例して厚くなる。揃える内封筒の日付はどんどん現在に近くなり、突然スカリーの
手が止まった。
 2000年11月12日。これは、ドゲットがXファイルに配属された日付だ。しかもその後の封筒の日付はスカリーの
記憶に新しいものばかりで、全て彼がXファイルで担当した事件の終了日と一致している。スカリーは、2000年11
月12日以降の日付が書いてある封筒を手元に集めた。
 これは一体何だろう。日付から推理すれば、事件に関係ないとは思えない。が、事件関係の資料は一纏めにして
証拠管理課か、それ以外は廊下の棚に事件毎に整理してある。じゃあ、これにはその他に何が入っているというの
だ。スカリーは首を傾げた。薄さや重さから、これもどうやら中身は紙以外のなにものでもない。
 ややあって、スカリーは溜息をつくと、封筒を箱に戻した。蓋をきっちり閉め、元の場所に置くと、再び自分のデスク
に戻り、椅子に腰掛けた。封筒の中が何であろうと、ドゲットがこの存在を口にしなければ、これ以上は無用の詮索
だ。彼のプライバシーを犯すことになる。この箱は見なかったことにしよう。
 だが、そう思えばそう思うほど、スカリーの脳裏に浮かんでは消える光景がある。それは、駐車場で自分を見たドゲ
ットの顔と、2週間前あの箱を抱えエレベーターを待つドゲットの横顔だった。何処かで見たと思ったのは、あの時だ
ったのだ。沈んだ眼差しに、よそよそしいほど感情の消え去った顔。スカリーはドゲットに、たった一瞬でもこんな顔を
して、自分の側にいて欲しくは無かった。自分に注がれるドゲットの眼差しが気に入らなかった。
 スカリーは勢い良く立ち上がると、置いたばかりのダンボール箱を自分のデスクに運んだ。蓋に手をかけたまま、暫
く迷っていたが、意を決し自分にこう言い聞かせた。私はさっきから同じ事ばかり繰り返し考えている。でも、その疑
問の答えは、もしかしたらこの中にあるのかもしれない。幸いドゲットはもう戻らない。月曜までに元の位置に戻して
おけば、私が中を見たとは分からないわ。
 スカリーは大きく息を吸って蓋を開けると、一番古い封筒を取り出し、椅子に深く腰掛けた。分かっている。私のして
いる行為は、犯罪に近しい行為だ。けれど私は知りたいのだ。何故私を避けるのか。何故嘘をついたのか。あの眼
の意味するものは何なのか。もう、後戻りは出来ない。


 スカリーは、眼鏡を外し暫く眼を閉じ、片手で目頭を軽くマッサージした。凝った肩を動かしながら大きく息を吐き出
して時計を見れば、とっくに午前3時を過ぎている。11時を回った頃までは記憶にあるのだが、日付が変わっていた
のには気付かなかった。結局、封筒の中身は全て読んでしまった。その間、ドゲットの奢りのピザは綺麗に無くなり、
コーヒーを2杯飲んだりした。
 スカリーは食べ散らかした食事の後片付けを、物思いに耽りながら済ませ、最後に残っていた封筒の口紐をしっか
りと閉じると箱に戻した。蓋を閉じようと箱に眼を落とせば、隙間無く詰まった封筒の縁が見える。スカリーは感慨深
げにその様を眺めた。
 封筒の中身は全て、ドゲットのNYPD時代を含め、過去に担当した事件関係者からの手紙だった。それは1988年
の強盗殺人事件の被害者の家族の手紙から始まり、トレバーの父親からの短い手紙で終わっている。最初の5年間
は、事件の件数と手紙の量がそれほど多いわけではない為か、一つに封筒に纏まって入っていた。しかしそれが19
94年後半辺りから、圧倒的に量が増え始め、事件ごとに封筒に纏められるようになって行く。
 そこに綴られているのは、事件に係わった被害者本人、家族、そんな人々の切なる心情だった。これがどういう経
緯で始まったのか、送り手だけの手紙からは、はっきりと推測は出来なかったが、何れにしろ、彼等が捜査関係者の
中で心情を吐露する相手に選んだのがドゲットだったのだ。確かに刑事や捜査官は捜査中、目撃者や被害者、その
家族に自分の連絡先を記した名刺を渡し、捜査の協力を求める。殆どの場合、それは情報提供に使われるのが、大
筋だ。
 ところが、これを読んだ限りでは、ドゲットの名刺は事件が終わってからも別の意図で使われている。ドゲットが扱っ
た事件の犯罪被害者や、その家族が綴るこれらの手紙は、勿論事件を解決してくれたお礼もあった。しかし、その多
くはとても直に聞くことが出来ないような、行き場の無い不満、耐え切れない悲しみ、口に出来ない恨み辛み。そして
抑えられない激しい怒りと憎しみに満ちていた。
 スカリーはこの類の手紙を読みながら、何度も胸苦しさに眼を閉じ、読むのを中断しなければならなかった。それは
どれも捜査関係者には耳の痛い言葉ばかりで、自分達捜査関係者が如何に彼等を、理不尽に扱っているか、まざま
ざと思い知らされた。しかもこの類の手紙はどれも、一通では終わらず、大抵は4、5通続く。そして、スカリーが何よ
り驚いたのは、手紙の文面から、どうやらドゲットはその度に彼等の元に足を運んだり、専門のカウンセラーを紹介し
たりと、何らかの行動に出ているのだ。すると、殆どの手紙は次第に穏やかな内容に変わって行き、徐々に手紙の
間隔が遠のき、やがて途絶える。
 しかもそれはXファイルに転属してからも、何ら変化は無い。アイダホで行方不明になったマイロン・ステファニャク
は、ドゲットだけに居場所を教えあれ以後も、何通かファックスを送ってきていたし、オクラホマで少年院に入れられた
ロニーからのはがきや、アンダーウッド夫妻からの何通かの長い手紙。ヴァージニアでカルト集団を捜査中殉職した
捜査官リーズ、ステッドマン両名の家族からの手紙。刑務所に収監中のマーティン・ウェルズとその家族。夫が金属
に犯されたノラ・ピアス。
 どれもこれも、記憶に新しい人々の、偽らざる心情がドゲットへの手紙には綴られていた。ドゲットは事件が終わっ
てからも、彼等と個人的に会ったり、連絡を取り合っているのだった。連絡が途絶えたもの、継続中のもの、それらの
手紙の差出人全てに面識があるため、スカリーは彼等の手紙の方が、より身近に辛い心中を察することが出来た。
 スカリーは長い溜息を吐き出すと、眼を伏せた。ドゲットの彼等に対する行動には、深く感動させられる。彼等が警
察の紹介した、犯罪被害者支援団体に帰属するカウンセラーではなく、ドゲットに本音を吐き出すのは、ドゲットの行
動を知った今では、おのずと理解できる。が、信じられないのは、ドゲットが彼等の心痛を正面から受け止め、それに
きちんと対処していることだった。
 読むだけでも非常なエネルギーを要するこの手紙を、受け止めるだけでも相当なストレスなはずなのに、それら全
てに対応するなど、普通では考えられない。それをドゲットは何年も続けているのだ。神経が参らないのだろうか。
 スカリーは、ダンボール箱に蓋をし、元の場所へと置くと、コート掛けからコートを外しながら、部屋を見回し、箱を動
かした形跡が残っていないことを確認し長い溜息をついた。結局、私の疑問は何一つ解決しなかったわ。それどころ
か、彼のプライバシーを覗き見した疚しさが、残っただけ。
 オフィスを後にし、駐車場に向かうスカリーの足取りは重かった。ドゲットに関する疑問と疚しさを、これからずっと抱
えて過ごさなければならないと思うと、自然と憂鬱な気分になってくる。しかし、スカリーの足取りを重くする理由は、
他にもあった。
 スカリーはドゲットの知られざる一面を知ってしまった。ドゲットが長年続けていた手紙のやりとりから、彼が犯罪被
害者に示す深い理解と同情はスカリーの心を打った。傷つき打ちのめされた彼等の少しでも助けになろうとする、ドゲ
ットの行動力には感服させられる。それなのに、手放しにその感動に浸れないのだ。それが疚しさからくるものかそう
でないのか分からず、胸の中はもやもやするばかりだ。
 スカリーが自分の車の前で、苛立たしげに舌打ちすれば、車の出払ったがらんとした駐車場では、思いの他大きな
音で響いた。思わずしまったと、首を竦め辺りを見回したが、こんな時間に人がいるはずも無く、自分の些か間の抜
けた行動にうんざりして、見るとはなし彼方へ視線を巡らせば、何かが心に引っかかった。
 何だろうともう一度、慎重に視線を戻せば、見覚えのあるピックアップの姿が飛び込んできた。まさかと思い足早に
近づけば、案の定それはドゲットのピックアップだった。ドゲットはこれに乗って、家に帰ると言っていた。それが、何
故ここにあるのだ。
 考えられるのは一つ。ドゲットはビル内にいる。スカリーは次第にむかっ腹が立ってきた。又私は嘘を吐かれたの?
突然彼女は、きっとして辺りを見回すと、靴音高くエレベーターへと戻り始めた。
 もう、我慢出来ない。こんな状態で週末を迎えるなんて真っ平ご免だわ。些か頭に血が上った状態でスカリーは思
った。解決できないもやもやを抱えたまま、ずっと過ごすなど自分らしくない。ドゲットを探し出し、分からないことは、
直接聞けばいいのだ。何を躊躇うことがあろうか。
 こうなったスカリーの先を阻めるものなど、何もない。


 スカリーがドゲットを探してビル内をくまなく探し回り、最終的にここだろうと当りをつけたのは、屋上だった。人気の
ないオフィスを探し回るうち、ふと思い出したのが、ドゲットが例の封筒を持ってエレベーターに乗る姿だ。あの時ラン
プは何時も上に向かって点滅していた。
 しかしそう当りをつけていざ屋上に着いたものの、そこには人影などなく、灯りを弱くしたサーチライトに照らされてヘ
リポートに無人のヘリが見えるだけだ。こんな所にドゲットがいるのだろうかと、歩を進めると、ヘリの向こうにあるパイ
ロットの詰め所から灯りが漏れている。もしやと思い、近づいて窓から中を覗けば、濃紺のキャップを被った目つきの
鋭い男がデスクに足を乗せ、雑誌を読んでいる。狭い詰め所の中には、彼の他に人影は無い。
 スカリーはこの男に見覚えがあった。FBI専属のパイロットで、過去に彼の操縦するヘリに乗った記憶がある。50が
らみの男の名は、ケネス・クーパーといい、何時会っても仏頂面をして無遠慮に他人をじろじろ見る、あまり人当たり
が良いとは言い難い人間だった。しかし操縦の腕前は、パイロットの中でも群を抜いて素晴らしく、困難な飛行状態
や、危険が伴う場合に重宝がられていた。
 スカリーは、何時も斜に構え、何か言うたびに鼻先であしらうような態度をするこの男が、正直苦手だった。ドゲット
はここにはいないのだし、気難しいクーパーに見つかる前に、他所を探しにいこうと立ち去りかけた途端、不意にクー
パーが顔を上げ、スカリーと眼が合った。しまった、と思ったときには既に遅く、非常な速さでクーパーはドアを開ける
と、スカリーの前に立った。
「出動か?」
「え?いえ、違うわ。」
「じゃ、何だ。俺に何か用か?」
「いいえ。その・・。」
「それじゃあ、さっさと帰るんだな。」
矢継ぎ早に質問を繰り出すクーパーは、用がないと知ると、不機嫌そうに言い放ち戻ろうとした。勢いに押されていた
スカリーだったが、その態度にむっとして声を上げた。
「ちょっと、待って。」
「何だ。まだ何か用か。」
クーパーはスカリーの前に威嚇するように立ちはだかった。スカリーは傲然とクーパーの顔を見上げた。
「人を探しているの。」
「あぁ?人?」
「エージェント・ドゲットを見かけなかったかしら。」
すると急にクーパーは、怪訝な顔をしスカリーの顔を覗き込み、ふんと鼻を鳴らし彼女を何やら胡散臭そうに見なが
ら、ドアノブに手をかけた。その人を小馬鹿にした態度は、スカリーの声を更に高くした。
「ちょっと、私の話を聞いてるの?」
「聞いてるよ。」
「じゃあ、ちゃんと・・。」
「あいつなら、何時もの場所にいる。行ってみな。」
クーパーは突然スカリーの言葉を遮ると、ドアを開けながら言った。それだけ言えばいいだろうと、詰め所に入ろうとす
るクーパーに慌てて、何処なの?と問えば、面倒くさそうな返事が返ってきた。
「点灯しているサーチライトの下だ。」
それだけ言うと、クーパーは乱暴にドアを閉めてしまった。クーパーの失礼な態度は腹立たしかったが、ドゲットの居
場所が分かったのは収穫だった。スカリーはヘリポートを横切ると、一つだけ点灯しているサーチライトめがけて歩き
出した。
 サーチライトはビルの四隅に設置されていて、今点灯しているのは、詰め所から一番離れたところにあり、その前に
は大きな喚起ダクトが立ち並び、どこからも死角になっている。低くごうっと音を立てる喚起ダクトを回り込むと、その
周辺だけが温風とダクトの熱の為、やけに生暖かい。スカリーはここなら、寒風吹きすさぶ屋上とはいえ、長時間い
ても凍えないだろうとドゲットの姿を捜した。
 点灯しているサーチライトは、他のライトとは違い、ダクトと同じ高さのコンクリート柱の上にあり、その隣はやや低い
電圧室になっている。スカリーはライトの下へ行き辺りを見回した。しかし肝心のドゲットの姿はない。更にその周辺を
探し回っていると、頭上から呆れるほどのんびりした声が聞こえ、驚いて振り仰いだ。
「エージェント・スカリー。ここで、何を?」
電圧室の上からドゲットが、顔だけのぞかせてスカリーを見下ろしている。
「こっちが聞きたいぐらいだわ。あなたを探していたのよ。」
「こんな時間に?今までずっとオフィスにいたのか?何をしてたんだ?」
スカリーはぐっと返事に詰まった。本当のことは言い難い。しかし、直ぐに体勢を立て直した。
「それはお互い様だわ。あなたこそ、帰ったんじゃなかったの?」
「ああ、気が変わったんだ。」
ドゲットは事も無げに答えてから、それを聞いたスカリーが顔を顰めるのを不思議そうに見た。
「で、何か事件なのか?」
「違うわ。」
「じゃあ、何だ?」
「あなたに話があるの。エージェント・ドゲット。だから、降りてきてくれないかしら。」
突然ドゲットの顔がふっと暗がりに消えた。上を振り仰いだまま、スカリーは再びドゲットが顔を覗かせるのを待った
が、杳として現れない。焦れたスカリーは、些か甲高い声でドゲットの名を呼べば、うんざりした口調の声だけ聞こえ
る。
「勘弁してくれよ。エージェント・スカリー。僕達はもうオフなんだぜ。仕事の話なら、月曜の朝でも構わんだろう。それ
に、こんな時間までオフィスに詰めていたら身体を壊すぞ。早く帰って休むんだな。」
「仕事の話だけじゃないわ。」
すかさず答えたスカリーだが、ドゲットからの返事は無い。些か苛吐いた声で名を呼ぶと、面倒くさそうな答えが返っ
てきた。
「聞いてるからそこで話せばいい。」
「こんなに離れていては、話難いわ。」
「別に平気だ。声も聞こえる。」
こうなればもう、ドゲットの意図は見え見えだ。ドゲットの何時にない不遜な態度は、それに怒ったスカリーが、このま
ま立ち去ることを望んでいる。しかし、このまま黙って引き下がるようなスカリーではなかった。向こうに降りてくる気
がないのなら、こちらが行けばいいのだ。見れば電圧室のコンクリートの壁には、梯子が備え付けてある。スカリーは
つかつかと近寄り、躊躇うことなく上り始めた。鉄パイプ製の古びた梯子はスカリーが一段上るごとに、ぎしぎし音を
立てる。すると、その音にドゲットが再び顔を覗かせた。
「何をしてるんだ?」
「見て分からないの?上っているのよ。」
つっけんどんなスカリーの言葉に、ドゲットは呆れたように首を振った。そして、あと数段というスカリーの眼の前に片
手を差し出した。一瞬無視しようかと思ったスカリーだが、大人気ない仕草だと直ぐに気を取りなおし、差し出された
手を掴んだ。すると、ドゲットは素晴らしい力でスカリーを引っ張り上げ、急に身体がふわりと宙を浮くような感覚にス
カリーは直ぐには身体がついていかなかった。よろめきながら屋根の上に立とうとするスカリーの両腕を、ドゲットは
正面から両手で支え、バランスを上手く保てたのを確認してから、すっと身を引いた。スカリーは柵も何もない真っ平
らな電圧室の屋根の上から、夜の市街を見渡した。林立するビル街にぽつりぽつりと点灯する窓の明かり、整然と並
ぶ街路灯のラインに沿って行きかう交通量の減った車のヘッドライト。昼間の慌しい喧騒からは、窺い知ることの出来
ない、ひっそりとした街の佇まいだ。何時もの活気のある街とは又違った風情が、スカリーには目新しかった。
「こんなに眺めがいいなんて、知らなかったわ。」
そう言ってドゲットの方をちらりと盗み見れば、サーチライトを設置してあるコンクリート柱の出っ張りに腰かけ、紙コッ
プから飲み物を啜っている。ドゲットがライトを背にしている為、表情が読めないことに気付いたスカリーは、彼の直ぐ
近くまで歩み寄った。
「こうして見ると、DCの夜景も捨てたものじゃないわね。」
スカリーの言うことを聞いてか聞かずか、ドゲットは何も読み取れない表情のまま、俯いて紙コップを見詰めている。
スカリーは、自分がここでは招かれざる客なのだと、改めて認識した。人の領域にずかずか立ち入るような振る舞い
を、ドゲットが快く思うはずは無いのだ。あまりに長い沈黙に間が持たないスカリーが、口を開きかけた途端、ドゲット
が何事かを呟く声が聞こえ、え?と、思わず聞き返せば、スカリーから顔を背けたドゲットは、夜の街に視線を移し、
スカリーに聞こえるかなど、どうでもいいような小さな声で、ぼそぼそと繰り返す。
「・・・・海が見える。」
ここから海など見えようはずはないが、せっかく出来た話の接ぎ穂を失いたくないスカリーは、敢えて違うことを聞い
た。
「海を見るのが、好きなの?」
「落ち着く。」
「でも、ここから海は見えないわ。」
不意にドゲットは顔を上げ、自分の前に立つスカリーを見た。
「何だ?」
短いその質問には、さっさと本題を終わらせて、何処かに行って欲しいという響きが含まれている。
「何か僕に話があるんだろう?」
「ええ。」
スカリーは何と言って切り出そうかと、考え込みながら、ドゲットの隣を指さし、座っても?と問えば、肩を竦めて外側
に少し身体をずらし場所を開ける。その時、ドゲットが何気なく自分の左側から右側に移し変えた封筒を、スカリーは
見逃さなかった。
「それは、何?」
「何でもない。」
そう言ってドゲットは、まるで新聞紙や雑誌のようなぞんざいな扱いで、脇に移した封筒の上に持っていた紙コップを
載せた。スカリーは仮面のようになってしまったドゲットの表情から、自分の部の悪さに内心怯まずにはいられなかっ
た。こういう顔付きをしたドゲットから、何かを引き出すことの難しさを、良く知っているからだ。しかも、今回は自分の
犯した悪事を、彼に言わなければ、この先の展開は見込めない。ドゲットは怒るだろう。今でさえ、機嫌がいいとは思
えない。普段怒らない人物ほど、怒らせたら怖い。スカリーは、気付かれないよう深く息を吸うと、腹を括った。
「知ってるわ。あなたが担当した事件関係者からの手紙でしょう。」
「・・・・読んだのか。」
ややあって答えたドゲットの声音は、スカリーの心に重く沈んだ。しかし、ここで怯むわけには行かない。もう、一歩踏
み出してしまったのだ。スカリーは負けじと、更に言葉を重ねた。
「・・・ええ。付加えるなら、あの箱の中のものは全部。」
「私物だ。」
「事件に関係しているのに?」
「終わった事件だ。それに、その後のことはFBIとは関係ない。」
「何故あなたがそこまでしなければならないの?担当を外れたら後は専門家の手に委ねるのが普通だわ。」
「彼等にそれを言えよ。僕は何も望んじゃいない。向こうが勝手に送ってくるんだ。」
「エージェント・ドゲット。私はあなたが悪いことをしているとは言ってないのよ。でも、あなたのように一つ一つに自分
の時間を割く対応の仕方は、賛成できないわ。」
論旨のすり替えだ。しかし、ドゲットはそんな小手先の業には誤魔化されない。むしろ、スカリーの意外な一面に、呆
れ果てた様子で、切り返してきた。
「驚いたな。」
「何が?」
「君さ。居直るのか。」
「それは・・・・・。確かに、断りもなく読んだのは悪かったわ。でも・・。」
「モラルの問題だ。」
「分かっているわ。でも・・。」
「二度とするな。」
「それは・・・。」
「エージェント・スカリー。勘違いするな。これはお願いしてるんじゃない。」
怒気を含んだドゲットの声にスカリーの胸は痛んだ。これほど怒らせてしまった自分の行為が忌々しい。だがそんなこ
とより、ドゲットに自分の忌むべき行ないを蔑まれるのが、スカリーには何よりも耐え難いのだ。けれど、レースは始
まったばかりだ。自分が仕掛けて、リタイヤするわけにはいかない。スカリーは萎えそうになる心を、必死で奮い立た
せ、持てる勇気を総動員で理論武装し、平静を装いながら強気に言い返した。
「嫌よ。」
「何だって?」
「嫌だと言ったの。」
「自分が何を言ってるのか分かってるのか?」
「分かっているわ。けれど、私はあなたのパートナーなのよ。いくら終わった事件に関する手紙でも、私も係わってい
るのよ。」
「大した詭弁だな。だからと言って読んでいいわけがないだろう。僕宛の手紙なんだぞ。」
「・・・・それについては反省してるわ。でもそうさせたのは、あなたよ。エージェント・ドゲット。」
ドゲットは顔を顰め、怪訝そうにスカリーの顔を見た。
「僕?どうして僕なんだ。」
「あなたが私に嘘を吐くからよ。」
「何のことだ?」
「とぼけるのは止めて。」
「とぼけてなんかいないさ。じゃあ、聞くが、一体何時君に嘘を吐いたって言うんだ?」
「2週間前。」
「2週間前?」
「そうよ。私が食事に誘った時、あなたはクレインと約束があると言って断ったわ。その後も、何度か予定を聞いたら
同じように答えたわ。けれどクレインはこの4週間真っ直ぐ家に帰っているそうよ。今さっきクレイン自身がそう言うのを
聞いたから間違いないわ。勿論、あなたの知り合いもあなたと約束などしていない。これは一体どういうことなの?私
と食事をするのが嫌なら、正直にそう言えばいいのよ。そんなことで傷つくような人間じゃないわ。変に気を回されて、
私を避ける為に嘘を吐かれる方がよっぽど、気分が悪いわ。第一パートナーに嘘を吐かれたら、いざという時に誰を
信用すればいいの?」
ドゲットは畳み掛けるように言うスカリーの言葉を、コートのポケットに手を突っ込み、黙って聞いていた。俯いた視線
は床のある一点を見詰めたままだ。思いのたけをぶつけ、ドゲットの返答を待つスカリーは、彼の反応が気がかりだ
った。するとその彼女の視線を避けるように顔を背け、ドゲットは奇妙に歪んだ笑みを零した。幾ら自分に非があると
はいえ、まるで嘲るような笑みは、スカリーの神経を逆撫でした。気がついたときには、ドゲットに向き直り詰問口調
で詰め寄っていた。
「何が可笑しいの?」
「いや、別に。」
「いいえ。さっきのように、気のせいとかで誤魔化されないわよ。今、確かに笑ったわ。理由を言って。」
次第に甲高くなるスカリーの声に、ドゲットはうんざりした顔で首の後ろを擦った。根負けしたように肩を落とすと、ちら
りとスカリーに視線を走らせてから、ゆっくりとこう言った。
「君がトレバーと同じことをしているからさ。」
「どういう意味?分かるように説明して。」
「僕が君に嘘を吐いたと君は言うが、それは全部君の思い込みだ。」
「何ですって?」
その言葉に思わずスカリーは立ち上がり、ドゲットの正面に立った。すると、ドゲットは少しも動じることなく、宥めるよ
うな声でその理由を説明した。
「まあ、聞けよ。その時の状況を思い出してみろ。僕は一度だって、僕の方からクレインと約束があるとは言ってない
ぜ。」
「でも、先約が・・・。」
「それだって、最初は君が言ったんだ。その時僕ははっきりそうだとは言ってないはずだ。その後日に関しては僕の
言葉どおりだ。」
「先約があるといってオフィスに残っていた日は、どう説明するの?」
「先約があったんだ。」
「ここで、手紙を読むことが?」
「そうだ。僕個人の時間内で何を先約とするか、君に指図される言われは無い。何をしようが自由だ。」
「じゃあ、私を避けていたわけじゃ無いというのね。」
「そうだ。」
スカリーはうろうろと歩き回りながら、矢継ぎ早に出した質問に淀みなく答えるドゲット言葉を、暫く反復していたが、
ふとあることに思い当たり顔を上げると、再びドゲットの正面に舞い戻った。
「おかしいわ。それなら2週間前何故断ったの?あの時、あなたは手紙を読み終え箱にしまっていたし、クレインとの
約束はなかったんでしょう?そうよ、あなたの態度も少し変だったわ。それに、あれからよ。私が避けられていると感
じるようになったのは。」
「あれは・・・・。そうだ。君を避けたんだ。だが、あれ一回だけだ。」
如何にも正論だという、ドゲットの態度が一瞬揺らいだ。それを見逃すスカリーでは無い。
「何故?何故私を避けたの?何かあなたの気に障るようなことをしたなら、遠慮はいらないわ。言って頂戴。パートナ
ーの間に、妙なわだかまりを残したくないの。」
スカリーの言葉に、ドゲットは両手を膝の腕で組み前かがみになると、暫く躊躇っていた。しかし、スカリーの視線に
並々ならない決意を感じたのか、意を決したように前を向き、謎のような言葉を吐き出した。
「軌道修正がまだだったからだ。」
スカリーは訳が分からず、ドゲットの顔を覗きこんだ。ドゲットは相変わらず同じ姿勢のまま、平坦な口調で先を続け
た。
「どういう意味なの?」
「僕がXファイルに転属してパートナーになったのは、ダナ・スカリー。君だと思っていた。」
「そうよ。私の他にはいないわ。」
「その君がフォックス・モルダーの複製だとは気がつかなかったんだ。いや、正しくは複製を目指していると言うべき
か。」
「何のことを言っているのか分からないわ。」
「そうか?君には分かってるはずだ。君は、クエンティン達の事件で僕に視野を広く持てと言った。真実が見えなくな
ると。確かに僕は君の言うように、犯人の姿を見破ることは出来なかった。だが、それは君だって同じだったのだろ
う?君は犯人を射殺したあと僕に言った。自分にはモルダーのように出来ない。その時僕は悟ったんだ。」
そこで一旦言葉を切ると、不意にドゲットはスカリーの顔を見上げた。
「君は、モルダーになりたいんだ。」
「それは・・・・。」
スカリーはその瞳に過ぎった、諦めとも苛立ちとも取れる色を認め、続く言葉の意外さと、口調の冷たさに驚きを隠せ
なかった。絶句し口籠るスカリーに、ドゲットの言葉は厳しかった。
「違うと言いたいのかい?あの事件で君はずっと、真実を見るためには、視野を広くしろと再三僕に言い続けた。しか
し、それは同時に君自身にも言っていたんだ。そして、君の取った捜査方法は、モルダーのそれに乗っ取ったやり方
だった。しかし、そうまでしても、結局君にはモルダーの見えたはずのものは見えてはこなかった。君はモルダーにな
り損ねたんだ。だから、あの時君はその事実に打ちのめされ、泣いたんだ。」
「・・・・違うわ。あなたの言うことは間違ってる。」
「何処が?」
「私が泣いたのは、あの時ほど、モルダーの不在が身に染みたことが無かったからよ。別にモルダーになりたいと
か、なれないとか、そんな理由じゃないわ。」
「そうか?僕にはとてもそうは思えないね。じゃ、君はあの時少年の姿をした犯人を見破れるモルダーに、助けて貰
いたかったとでもいうのか?モルダーがいたら、自分にこの役回りは回ってこないで、なんの躊躇もなく射殺してくれ
るだろうと。まさか、君はそんな自分に都合のいいことは考えちゃいまい。」
「それは・・・・そうだけど・・。でも、私はあの時、初めてモルダーがずっと言い続けていたことを、本当の意味で理解
出来たのよ。けれど理解出来ても、私にはそれを見ることは決して出来ないの。それを思い知ったから・・・・。」
「つまり何か?モルダーのある一面が始めて理解できたその時に、彼にそれを伝えられず理解出来ても共有出来な
いこと分かり悲しかった。そういうことなのか?」
「ええ。そうよ。」
スカリーは意外な展開に内心驚いていた。あの時不覚にも流した涙が、ドゲットの心を煩わせていたなど、思っても
みなかったのである。しかも、ドゲットの解釈が、自分が反論したように、全くの的外れなら、何もこんなに動揺はしな
い。ところが彼の言うことは、自覚がなかっただけで、スカリーの根底に潜むものを明確に指摘していた。しかし、鉄
壁の理論武装はこんなところでも役に立ち、一応はドゲットの説にまことしやかな理由付けをして、間違いを指摘出来
た。が、スカリーの自信はドゲットのよそよそしい眼差しに、すぐさま揺らぎ始めた。何故私の言うことを認めないのだ
ろう。スカリーの口調は次第に、断定的になりつつあった。
「何?」
「別に。」
「じゃあ、あなたの言っていることは間違いだったと認めるのね。」
「いいや。」
「何故?今の説明が不十分だとでも?」
「いや、良く分かったよ。だが、何も変わらない。」
「意味が分からないわ。」
「自分の言動をよく思い出してみたらどうなんだ?君は真実をみろと僕にアドバイスをし、視野を広げる為に取った方
法は、モルダーのやり方を真似ることだった。」
「それは、ああいう常識からかけ離れた事件の場合、彼のやり方や考え方の方が捜査には有効だからよ。そのおか
げで、私は犯人にたどり着けたわ。でも、それがモルダーになりたいという願望だと捉えるのは間違いよ。今回はそう
するのが適切だと判断したからだわ。」
「モルダーの考え方に乗っ取って捜査をしたのは、認めるんだな。」
「それは、・・・・そうなるわね。」
「分かった。」
突き放したように言ったドゲットの、あまりにあっさりした引き方が、却ってスカリーの不安を煽る。ドゲットはこの会話
を終わらせたがっている。少しも納得してはいないのにだ。スカリーは慌てた。
「ちょ、ちょっと待って。何が分かったというの?まさか、まだ同じことを?」
「そうさ。当然だろう。僕達はXファイルにいるんだぞ。常識からかけ離れている事件ばかりを扱う課にいるんだ。と、
言うことはつまりこれからも君は、モルダーの捜査法に頼らざるを得ない。君はどんどんモルダーに近くなっていくわ
けだ。僕がさっき言ったことと、何ら変わりは無い。さあ、もういいだろう。君も今認めたんだ。この話は終わりだ。」
これ以上はどうしようもなかった。ドゲットの言うことは、それなりに的を射ている。例えそれを100%覆そうにも、こち
らには強力な切り札が何も無い。今回に限り、ドゲットの理論武装はスカリーのそれを上回っている。スカリーは溜息
を漏らすと、再びドゲットの隣に腰掛けた。
「いいわ。でも、一つ教えて欲しいの。軌道修正って、何なの?何を軌道修正するというの?」
もう終わったと思っていたらしいドゲットは、再び口を開いたスカリーにうんざりした横顔を見せた。だが、こうして正面
切って尋ねるスカリーを、ドゲットは無視出来ないと彼女は確信していた。案の定、暫く顔を背けていたドゲットは、気
が進まなそうに答えた。
「・・・・僕はここに配属されてから君のパートナーとして行動してきた。君のパートナーの役割を果たそうと、僕は何時
も気を配っていた。パートナーの信頼を得られなければ、仕事がスムーズに行かないし、下手をすれば命に関わるか
らだ。その為に僕は君という人間を理解し、君の言葉に常に耳を傾けていたつもりだ。この3ヶ月近く、僕は僕なりに
努力をし、君からパートナーとして信頼されるようになったと思っていたんだ。だが、実際はそうでは無いと、あの時分
かったからだ。僕は大急ぎでそれに対応しなければならなかった。僕は君ではなく、モルダーと君の第三者的なパー
トナーという位置を、自分に納得させる必要があったんだ。その為の時間が欲しかったんだ。」
「そんな、一方的過ぎるわ。」
「一方的過ぎる?違うね。これはあくまで僕サイドの問題だからだ。君には関係ない。」
「何を言ってるの?関係ないわけないでしょう。私達の問題だわ。あなたの勝手な判断で私達の関係の尺度を図らな
いで欲しいわ。」
不意にドゲットは身体を起こし向き直った。
「じゃあ、どうしろというんだ。君は今のやり方を変えるつもりは無いんだろう?いいか。僕は何もそれを批難しちゃい
ない。君は自分のやりたいようにやればいい。後は、僕の方でなんとかする。」
「でも、フェアじゃないわ。」
「止してくれ。元々フェアプレーなんか成立しないんだ。」
「何故?」
「肝心の人間がここにはいない。」
「あなたは、やり辛くはないの?」
「直に慣れる。僕に気を使うな。」
「それじゃあ、あなた自身はどう思っているの?」
「どうって、何が?」
「私がモルダーの捜査法を取り入れることについて。」
「別に。」
「どういう意味?面白くないとでも。」
「いいや。只、それを言っても無駄だからだ。」
「それは、聞いてから私が決めればいいことだわ。どんな形と、あなたが解釈しようが、私達はパートナーなのよ。ま
してやこれは仕事に関することよ。無駄になるとは・・・。」
「止せよ。今更僕の考えを聞いたところで、どうだって言うんだ。大体君が今まで、僕のアドバイスを聞いたことなどあ
ったか?僕自身にだって注意を払ったことなど、殆ど無いじゃないか。」
スカリーの言葉を途中で遮りながら、勢い良くドゲットは立ち上がると、数歩進んでからくるりと振り返った。スカリー
はこれほど激しい苛立ちを、真正面から向けられたことは無く、思わず身構えて異を唱えようとしたが、それさえも手
厳しく遮られてしまう。
「そんなことは・・。」
「止めろよ。実際そうだろう。君は僕が2週間前から、先約があるといって君を避けていたと思っているらしいが、僕が
ここで時間を潰すのは、今に始まったことじゃない。入局してからずっとだし、Xファイルに配属後もしょっちゅうここに来
ている。手紙にしたって、何も君に隠していたわけじゃない。君のいる前で何度も読んでいたし、あのダンボール箱だ
って君の前で結構持ち歩いていた。君がそれに気付かなかっただけだ。しかも、君が僕に避けられていると感じたの
だって、今日、クレインのことが分かってからだ。それがなければ、2週間前のことなど、思い出しもしなかったはず
だ。」
二の句が継げない。全てドゲットの言うとおりだ。これでは、君は関係ないとスカリーを締め出し、独りで自分の立ち
位置を決めてしまわれても、彼女には口を挟む余地は無かった。しかも、ドゲットが決めた立ち位置は、スカリーにこ
そ優位に作用するが、決してドゲット自身には、居心地のよい場所では無い。スカリーが些か傷ついた風情で口籠れ
ば、ドゲットも流石にそれ以上言及するのは避け、仕様が無いというふうに首を振ると、些か投げやりな口調で語り始
めた。
「いいさ。それほど言うならはっきり言おう。君がモルダーのやり方を真似るのは、無意味だと僕は思うね。」
「何故?私の考えはさっき言ったわ。それなのに何故そう思うの?」
「君はXファイルに配属されて何年なんだ?」
「7年よ。」
「その間君の捜査スタイルは、モルダーとは違っていたんだろう?何故今になって君のスタイルを崩すんだ?」
「私達は2人とも違う方法で、同じ事件を解決してきたわ。モルダーがいない今、誰かが彼のように考えて行動する必
要があるからよ。」
「しかし、君にはモルダーの見えるものは見えない。」
「そうよ。」
「当たり前だ。モルダーの見るものを君が同じように見ることなど、出来るわけがない。」
「そんなことは分かっているわ。それとも、私の能力のことを言っているの?」
「能力なんて関係ない。」
ドゲットは頭を掻くと、焦れったそうに溜息をついた。
「君は僕の言ってることが少しも分かっちゃいないんだな。」
「どういう・・」
「僕は、何もああいった特殊な場合のことを言ってるんじゃない。誰も、その人と同じものを見ても、その人と同じよう
にものを見ることは出来ないと言ってるんだ。例えば、君と僕は同じ街が勤務地だ。しかし、君と僕は同じようでいな
がら、良く似た土地にいるに過ぎない。もし君と僕にこの街の地図を描けといったら、間違いではないが、全く別の地
図が二枚出来上がるだろう。何故か分かるか?」
「・・・・視点が違うからよ。ポイントにするものが、違うからだわ。」
「そうだ。君と僕とでは身長も、年齢も、性別も違う。同じものを見ても、それの何をどう見るかはおのずと違ってくる。
視点が違うからこそ、お互いをカヴァー出来るんじゃないのか?事実君達はそうしてXファイルで仕事をこなして来た
んだろう。しかし、その君がここに来て、今までの7年間ここで培ってきた捜査法から、モルダーの捜査法に鞍替えす
るなんて、意味のないことだ。実際君は、クエンティンの前にいた犯人の姿がトレバーにしか見えなかった。しかし、ク
エンティンの言葉を信じて犯人を射殺した。それは、君自身の判断だ。結局最後には、君は君自身の心の声に従っ
たんだ。確かにああいった事件で君がモルダーを求める気持ちは良く分かるし、そうなる君を責めたりはしない。だ
が、だからと言って、それら全般の真実を、モルダーのように見ることが出来ないといって嘆くのは、丁度、蜃気楼に
向かって泳いで行くようなものだ。無意味な労力だと僕は思うね。」
話しているうちに、ドゲットの口調は何時ものゆったりとしたものへ変わっていった。多分それは、今まで彼の中で鬱
積していた、偽らざる心情なのだろう。スカリーにそれをぶつけても、お互いに気まずいだけだと分かっているから、黙
っていたのだ。しかもこの話題は、彼女にとってあまりに辛すぎる。スカリーがしつこく問い詰めなければ、ドゲットか
らこれに関する話題は恐らく出ることは無かったのだ。が、この期に心に溜まっていたわだかまりを吐き出し、やけに
さっぱりした顔つきになったドゲットは、再びスカリーの横に腰掛け、肩を竦めるとせいせいした声でこう言った。
「もうこの話は終わりにしよう。僕の言ったことなど忘れてくれ。君は君の思うように捜査すればいい。僕は如何様に
でも対応できる。」
「あなたの言うことを蔑ろにしても構わないというの?」
「ああ。元からそのつもりで言ったんだし、だからと言って僕等のスタンスが変わったりはしない。」
「でも、なんだか釈然としないわ。」
「そうか。僕は有意義だったと思うが。」
「有意義?これの何処が?」
「そうだな。僕は、僕等の間で腫れ物に触れるようにしてきたモルダーの話をすることが出来た。君は、僕の私物を覗
き見した疚しさから開放された。」
そしてドゲットは、スカリーの顔をちらりと見て、共感を求めるようににやりと笑ったのだ。その笑顔に釣られて思わず
口元を綻ばせたスカリーは、あることを思い出して急に真顔になった。
「そう言えば、あの時の返事をまだ聞いてはいなかったわ。」
「あー、どうして彼等の手紙に一々対応しているかっていう、あれかい?」
「ええ。だって、彼等には皆、警察が斡旋したカウンセラーがいるはずなのよ。あなたが、それに応える必要は無い
わ。あんなことを続けていれば、過度のストレスで何時か燃え尽きてしまう。だから、賛成出来ないと言ったの。」
ドゲットはスカリーの心配そうな眼差しを、戸惑ったような顔で見詰め返し、それからふっと眼を伏せた。
「ストレス。・・・・ストレスか。君はあの手紙を読んで、何を感じた?」
「彼等の苦しみや怒り。私達への不満。読んでて辛いものが多かったわ。」
「そうだ。だが、考えたことがあるか?僕等は、一つの事件が終われば、それで全てを片付けられる。しかし、彼等は
一生その苦しみから解放されることは無いんだ。彼等だって、僕に言ってもしょうがないことは充分分かっているん
だ。でも、君にだって覚えがあるだろう。やりきれなさに誰かに八つ当たりしたり、行き場の無い怒りに囚われ誰彼構
わず怒鳴り散らしたり。それが捜査に係わった人間なら、それらを吐き出すには申し分が無いだろう。君は僕のストレ
スを心配してくれているようだが、それが僕のストレスになるだろうというのは、単なる君の思い込みだ。」
「ストレスを感じていないとでもいうの?」
思わず聞き質したスカリーの問いに、ドゲットは空を振り仰ぎ、乾いた笑い声を上げた。
「はは。まさか。そんな奴は人間じゃない。だが、僕の場合何か出来るのに、行動しない方がストレスになるんだ。幸
い僕は独り身で身軽だから、休日することなどないからな。彼等の為に時間を割いても少しも苦じゃない。だから、何
年も続けてこれた。」
ドゲットは事も無げに言うが、実際にそれを続ける難しさは半端なものでは無かったはずだ。スカリーはその時になっ
て、どうして自分がドゲットのこの行為を手放しで、賛同出来なかったのか気付いた。スカリーは不安だったのだ。あ
んなものを持ち歩く、ドゲットの精神状態が心配だった。過度のストレスで精神が疲弊し、自らを滅ぼしていってしまう
捜査官を彼女は数多く見てきた。彼も一歩間違えばその一員になってしまうのではと、どうしようもない不安が心の
片隅から離れなかった。しかし、たった今見せたドゲットの態度は、スカリーの不安を打ち消すのには充分だった。ス
カリーは自分の心にじわじわと広がる安堵感に、嘘のように緊張が解れていくのを覚え、思いがけず素直な気持ちを
打ち明けた。
「・・・・真実と思い込みとは違う。それは、あなたにも当て嵌まっていたのね。だから、あの時笑ったんだわ。大人でも
それを見分けるのは難しい、そう言った本人が出来ていないのですものね。確かに私はあなたについて、幾つも思い
込みがあったわ。週末は何時もクレイン達と、お酒を飲んでいるのだとか、空いてる時間も彼等との付き合いを優先さ
せているとか。でも、違っていたのね。」
「気晴らしは人によって様々だ。こんな仕事をしていると、みんなで酒を飲んで騒ぐことが、まあ一般的なんだろう。し
かし、僕はどちらかと言えば、ええっと、・・そのう・・」
何か言葉を探すドゲットがスカリーは可笑しかった。すかさず後を引き取ったスカリーの眼は、からかうような光が宿っ
ていた。
「どちらかといえば、子供や犬と遊ぶ方が性に合ってるんでしょう?」
「何で知ってるんだ。」
意表を衝かれ、驚きを隠せないドゲットは、スカリーがクレイン達の話を立ち聞きしたことを知らない。スカリーは澄ま
して答えた。
「捜査官の私を甘く見ないで。」
ドゲットは妙な顔をしてスカリーを眺めたが、まあ、いい、と言って肩を竦め、続きを始めた。
「彼等が好きだし、同僚としても尊敬しているから、彼等なりの憂さ晴らしは理解できるし付き合いもする。が、僕自身
はあまりそれに同調できないんだ。むしろ子供や犬と遊んでいる方が、ストレス解消になる。それが出来ない時は、
ここに来て手紙を読んだり夜の街を眺めたりしてるってわけさ。丁度君が、時折資料室に篭っていたようにね。」
今度はスカリーが驚く番だ。
「・・・知っていたの?」
「捜査官の僕を甘く見ちゃ困る。」
あっという間にお返しをされ、スカリーは思わずドゲットの顔を仰ぎ見た。ところが眼が合った途端、同時に吹き出して
しまい、お互い笑いを堪える為には、相当な努力をしなければならなかった。ややあって、ようやく何とか笑いを引っ
込めた2人は、気安い雰囲気に身を置いていた。スカリーはドゲットの横顔が次第にはっきり見え始めたことに気付
き、彼方の空が白々と明けようとしているのを認めた。
「明るくなってきたわ。もう夜明けね。そういえばさっき、海が見えると言ったわ。でも、何処を見回してもここから海は
見えないわ。あれは、どういう意味なの?」
「ここから、夜の街を眺めると、海兵隊にいたころ、船の上から見た夜の海に似ているように僕には思えるんだ。僕は
あの頃独りになって考え事をしたくなると、夜中に船室を抜け出して甲板に出て海を眺めていたんだ。それ以来、つ
い似た所を探してしまう。」
「夜のこの街と、海が?」
「命が溢れているのに、静かに流れている。」
スカリーの鼓動が、一瞬早く打った。俯いたまま柔らかな表情で、低く染み入るようなドゲットの声は、彼の隠された
豊かで暖かい情感に溢れていた。スカリーは、何故かドゲットの横顔から眼が離せず、そんな自分に戸惑いながら、
慌てて話を変えた。
「クエンティンとトレバーに対するあなたの対応は素晴らしかったわ。」
「さあ。どうかな。只、誰か一人ぐらいクエンティンに注意を払ってもいいだろうと思ったんだ。」
「あれで母親には伝わったはずよ。でも、最初に私には何をするか知らせて欲しかったわ。引き止めるのが大変だっ
たのよ。」
「そりゃ知らせようにも、大して確信があったわけじゃなかったからな。僕もクエンティンにあんな部分があるとは予想
していなかったんだ。だが、君には厄介ごとを押し付けちまったな。悪かったよ。」
「いいのよ。気にしてないわ。トレバーは今日クエンティンに会いに行くのかしら。」
「行くだろう。車の中じゃずっとその事を話していた。」
ドゲットはそこで言葉を切ると、何かを思い出したように宙を見詰め、ふふと笑った。
「どうしたの?」
「うん。子供は強いな。傷ついても立ち直ろうとするエネルギーに満ちている。僕は昨日、ゼロから再び新しい絆が始
まる現場に立ち会ったんだ。子供には何時も学ぶことが多い。」
スカリーはドゲットの言葉に頷きながら、そういえば、と先ほどから気になっていたことを持ち出した。
「そうね。ところで、一つ聞きたいんだけれど、蜃気楼に向かって泳ぐって、何なの?」
ドゲットは、しまったという顔をして、頭を掻いた。
「覚えていたのか。」
「ええ、勿論。あなたに自分の話を聞いてないと思われるのは、心外ですもの。で、どういう意味なの?只の例えとは
思えないわ。」
ドゲットは、参ったなというふうに、片手で顔を覆っていたが、スカリーの獲物は逃がさないという、鋭い眼差しに観念
したようだった。短く息を吐き出すと、遠くを見詰め語り始めた。
「1982年から1983年、僕は平和維持軍としてベイルートにいた。僕が派遣された当時は、まだ平和維持軍とは言わ
ずに、アメリカ・フランス・イタリア軍で形成された国際監視軍と呼ばれていたんだが、僕がいた2年間ベイルートは最
悪だった。一年の間にテロで何百人という民間人や米兵が死んだ。何処へ行っても平和などありはしない。まだ若か
った僕でも、そんな毎日が続くと、いい加減戦争にはうんざりしていた。ある非番の夜、僕は酒場に行き明け方まで
死ぬほど飲んだ。僕もあの頃は人並みの憂さ晴らしをしていたんだぜ。まあ、最もあの時期ベイルートで、米兵に近
寄ってくる子供と犬の姿を探すなど、至難の業だったからな。で、したたか酔った僕は、店じまいだと追い出された時
点で、流石にこんなに酔っ払った状態では宿舎に戻れないと、海岸を酔い覚ましに歩いていたんだ。すると、何気なく
見た海の彼方に、とてつもなく大きな都市が見えた。始めは酔っ払って見えた幻かと思ったよ。しかし、何度眼を擦っ
ても、海に浮かぶ都市は消えない。その内それが僕には、素晴らしく平和で美しい都のように見え始めた。で、気が
ついたらそこに向かって泳いでいたんだ。」
「あなたが?信じられないわ。」
「何せべろべろだったからな。溺れなかったのが不思議なくらいさ。僕はあの時、戦争や死体、何処を見回しても、銃
弾と憎しみしかないベイルートに辟易していた。そう、海に浮かぶその都に逃げ出したんだ。でも結局僕は、その都
市には行き着けなかった。途中で監視船に拾われたんだ。その後二日酔いでふらふらの僕は上官に呼びつけられ、
大目玉さ。上官に言われたよ。蜃気楼に向かって泳いだ奴はお前が始めてだ、とね。それでやっと僕が見たのが蜃
気楼だと気付いたんだ。蜃気楼は君も知っていると思うが、実際にある町が全く別の場所に出現する巨大な幻だ。実
物は他所にあるのに、幻に向かって幾ら泳いでも近づけるわけなどないんだ。」
「あなたの言う意味が、何となく分かってきたわ。」
真実を求める早道は、蜃気楼のように中身のないものだ。それを追い求めて、自分を見失うな。そんなドゲットの声が
聞こえたような気がした。スカリーは、それを確かめようと口を開きかけたが、はぐらかすようなドゲットの声に遮られ
た。
「まあ、何とでも。昔話だ。聞き流してくれ。」
不意にドゲットは身体を起こすと、彼方に視線を投げこう言った。
「それより、見ろよ。夜が明ける。」
「・・美しいわね。」
地平線の向こうから昇る朝日は、美しかった。しかし、スカリーが眼を離せないのは、逆光に照らされたドゲットの横
顔だった。朝日の中で青さを増したドゲットの瞳は、優しく慈しみに満ちて輝き、僅かに綻んだ口元とがっしりした顎
のラインは、彼の男らしく精悍な容貌を際立たせた。ドゲットはスカリーが見詰めているなど、少しも気付く様子は無
く、只単純に、昇る朝日の美しさに魅せられ、スカリーを振り返ると、子供のような笑顔で、鮮やかに笑った。
「徹夜してしまったな。さあ、帰るか。君も帰って休んだ方がいい。」
「そうね。」
スカリーは朝焼けに、自分の頬が染まるのを、感謝していた。


 突然、先に梯子を降りたドゲットが、続いて降りたスカリーの身体を引いて叫んだ。                   
「危ない!」
ドゲットは左腕でスカリーを懐に抱え込み、彼等の頭上目掛けて落ちてきた梯子を右腕で防ぐと、それを掴んだまま
腹立たしそうに、呟いた。腐ってる、クーパーの野郎。口だけか。梯子の連結部分が腐食していて、2人分の重さに
耐え切れなかったのだろう。ドゲットは折れた連結部分を睨んだまま、スカリーに声をかけた。
「前からぐらぐらしていたんだ。大丈夫か?」
彼女からの返事が無いので、視線を落としたドゲットは、そこで初めて、自分がスカリーの身体を、片腕でしっかり胸
に抱きこんでいるのに気付いた。驚き息もつけないスカリーと眼が合ったドゲットは、ぱっと飛び退り、口籠りながら慌
てて謝った。
「失礼。・・ええっと、怪我は?エージェント・スカリー。」
自分を覆っていた身体が離れれば、急速に冷えてゆくはずなのに、身体の芯に灯がともったように暖かい。スカリー
は納まらない鼓動が、ドゲットに聞こえるのではと、心を静めるのに必死だった。やっとの思いでした返事は、心とは
裏腹に素っ気無く、自分の不器用さに内心舌打ちしたくなった。
「平気よ。あなたは?」
「何処も怪我は無いよ。いや、本当だ。嘘は言ってない。手当ても何も必要ない。」
途中からドゲットが急にあたふたし始めた理由は、スカリーが疑わしそうな眼で彼の身体を眺めたからだ。怪我をする
度に母親のように小言を言い、手当てに勤しむスカリーがドゲットは苦手で、慌てて先手を打ったのだ。スカリーはそ
の様子が可笑しくて堪らなかったが、そんなことはおくびにも出さず、真面目な口調で礼を言った。
「そう。良かったわ。でも、危なかった。あなたが庇ってくれなかったら、直撃だったわ。ありがとう。命の恩人ね。」
「よせよ。そりゃ、幾らなんでも大げさだ。」
「そんなことは無いわよ。そうだわ。お礼に朝食を奢らせてくれない。おいしいコーヒーと、パンケーキを出す店を知っ
ているの。」
ドゲットは一瞬妙な顔をしたが、片方の眉をすっと上げ、スカリーを斜めに見下ろし、聞き返した。
「奢り?」
「ええ。」
当然と頷きドゲットを振り仰いだスカリーの顔を、ドゲットは訝るように眼を細め、繰り返した。
「パンケーキ。」
「メープルシロップはカナダ産よ。ハムエッグとマッシュポテトが絶品なの。」
「乗った。」
「そうと決まれば早く行きましょう。私なんだか凄くお腹が減ってきたわ。」
2人は満足げに顔を見合わせ、肩を並べてエレベーターに向かい歩き始めた。すると、ヘリポートに差し掛かったとこ
ろで、急にドゲットは手に持ったままの梯子に気付き、ちょっと話してくる、そう言って、パイロットの詰め所に足を向け
た。スカリーは何の気なしにその後に従い、詰め所の前で、ドゲットとクーパーが話している様子を窓越しに見守って
いた。
 恐らく梯子の一件で、クーパーに文句を言っているのであろうドゲット達のやり取りは、スカリーには聞こえなかった
が、2人の様子から気心の知れた仲であることは、窺い知れた。あの気難しいクーパーが、盛んに口を開き弁解して
いる。それを黙って聞いているドゲットの顔は、わざと不機嫌そうな素振りをしているが、口元に浮かんだ笑みを隠そ
うともしない。スカリーはそんな2人を眺めているうちに、ちりちりと胸を焦がし始めた感情にうろたえ、慌てて彼等に
背を向けた。
 何を、馬鹿な。その感情を否定しようとすればするほど、浮かんでくるドゲットの言葉がある。
 
‘モルダーと君の第三者的なパートナー’
私は甘んじてこれを受け入れてしまった。けれど、本当にそれでいいのだろうか?知らぬ間に出来た2人の間の境界
線を創るきっかけは、あの日、モルダーを求めて泣いた時、誰あろう自分が与えてしまったのだ。
 ふと振り返った視線の先に、クーパーに向かって信頼に満ちた眼差しで笑いかけるドゲットの姿があった。それを見
た瞬間、スカリーは真っ直ぐ自分だけに向けられるドゲットの笑顔を、心の底から切望していた。が、直ぐにスカリー
は頭を振ると、全てを打ち消した。
 私は認めない。私達のスタンスは、揺らがない。決意と共に忍び寄る、一抹の寂しさは振り払っても擡げる疑問と
重なり、その後もスカリーの心に重く圧し掛かってゆく。
 本当にこれで・・・・。

                               終











※後書き
いや、今回は 梃子摺りました。はい。これ、このまま、クロスオーバーの「月虹」に繋がります。この展開になって、初めて「月虹」のラスト
シーンがあるわけですね。ああ、ややこしい。でもって、もう、ドゲットってば、本当に焦れったい。さっさと、何とかせーよ。と、思ってしまう
皆様。本当に申し訳ないです。でも、この先本当に、どうしよう・・・・。

2002.12.31



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