【 U】

胸の月                             

 赤い光が部屋に満ちていた。熟睡していたスカリーは、無意識にその光を避け背を向けるが、反対側も同じくらい
眩しい光で顔を照らされ、それに腹を立てたかのように眉間に皺をよせると、くるりと反転し元の向きに戻ってしまっ
た。その拍子に掛け布団がずれ朝の冷たい空気に身震いしたスカリーは、再びもぞもぞと布団に潜り込み、隣にいる
暖かいものに身体をぴったりと寄せれば、それに呼応するかのように、彼女の上半身を暖かさが包む。
 気持ちがいいわ。滑らかな肌に頬と鼻を擦り付けスカリーは、抱かれた懐の大きさに安堵し、幸福感に酔いしれて
いた。その時頬を寄せた肌の奥が、僅かに振動した。
「あ、・・つっ・・。」
スカリーは聞き覚えのある声が何故こんなに間近で聞こえるのだろうと、薄く眼を開けた。最初目の前にあるものが
何なのか、あまりに近すぎて分からなかった。そこで、視線を徐々に上に辿れば、がっしりとした顎のラインに、その
前に翳す包帯を巻いた手が見えた。スカリーは一瞬何が起こったのか理解出来ず瞬きし、もう一回仰ぎ見る。状況が
分かった途端スカリーは、心臓が止まりそうになった。
 一方手の主は、何かの拍子に走った痛みで眼が覚め、痛みの原因を知ろうと、手を翳せば、包帯を巻かれた右手
がある。変だな。と思った瞬間、自分の胸元から視線を感じ、下を向けば、大きな青い瞳にぶつかった。
 一瞬の間が空き、同じように眼を見開いた2人は、殆ど同時に悲鳴のような声を上げた。スカリーが、がばっと飛び
起き転げるように寝台から降りようとすれば、ドゲットも反射的に後ろに跳び退ろうとする。しかしその途端身体を貫く
激痛に、あっ、と叫んで肩を押さえ、上半身を折り曲げた。
「駄目よ。寝てなきゃ・・」
ドゲットの様子に慌てて戻ったスカリーは、横にさせようと胸に手をかけた途端、耳まで赤くなってしまった。目覚めた
ときの感覚が、まざまざと蘇ってしまい、あまりの生々しさに赤面し、ドゲットを寝かせるどころか、ぱっと手を離してし
まう。が、今度は離した手の行き場に困り、所在投げに自分の両手を握り合わせる始末だ。それはドゲットも全く同じ
ようで、真っ赤な顔でうろたえたように首を振り、いや僕は、とか、大丈夫、とか、もごもごと口ごもり、ヘッドボードま
で後退る。ところが、露になった自分の上半身に、はっとしてシーツを僅かに捲り、何も身に着けていないと知るや今
度は真っ青になり、固まってしまう。
 スカリーは寝台から降ると、両手でぱたぱたと火照った顔を仰ぎ、赤くなったり青くなったりしては、すっかり混乱し
ているドゲットの様子を盗み見て、思わず笑いそうになった。笑い顔を悟られないように、この息苦しい暑さを解消しよ
うと窓を開ける。ひんやりとした空気で火照った頬を冷やせば、爽やかな風が頬を撫ぜた。
 スカリーは新鮮な空気を味わおうと窓から身を乗り出しながら、肩越しにドゲットの方をちらりと見れば、相変わらず
真面目腐った顔をして、首を捻っている。その上時折、ちらちらとこちらを伺い、何かを聞きたそうにするが、口を開き
かけては顔を顰めて、止めてしまう。スカリーはドゲットが、何を聞き悩んでいるか手に取るように分かった。この状況
では、ああなるのも無理は無い。しかも彼だけが、何も知らないし、記憶も無いのだ。
 スカリーは円卓に近づき、ワインをゴブレットに注ぐと、ドゲットの枕元に戻った。スカリーが、ワインよ、と言って差し
出すゴブレットを、居心地の悪そうな顔で受け取ったドゲットは黙って口を付け、飲み下すと同時に顔を顰めた。自分
が知っているワインの味とはかけ離れたシロモノに、思わずむせてしまったドゲットは、げほげほと咳き込みながら、
ゴブレットをスカリーに返し尋ねた。
「何だ。こいつは。」
「少なくとも生水より安全な飲み物よ。」
スカリーは何のことかさっぱりわからない、という風のドゲットの枕元の椅子に腰掛け、出来るだけ何気なさを装い、
質問する。
「ええっと、さっきのことを説明する前に、確かめておきたいんだけど、何処まで記憶があるの?」
「・・・・博物館。右肩にナイフが刺さったのと、手をガラスケースの破片で切るところまでは・・・・・・・この指輪。これが
何故・・」
その時ドゲットは、ようやく包帯の影に隠れていた指輪に気づいたようだった。スカリーは小さく息をつくと、険しい顔
で指輪を凝視するドゲットに、博物館からこの部屋に至るまでの出来事を、詳細に渡り報告し始めた。

 スカリーがこの込み入った経緯を、苦心して報告し終わった時のドゲットの反応は、拍子抜けするぐらい、あっさりし
たものだった。ドゲットはスカリーの話す言葉を、2、3聞き返したが、その殆どを黙って聞いていた。驚き、続いて矢
継ぎ早に繰り出されるであろう質問の嵐を予測していたスカリーは、ドゲットの反応の無さを訝りながらも、話の終盤
をこう結んだ。
「だから、さっきのあれは、・・・・その、・・狼に変わったあなたが、大人しく寝てくれなくて・・・・。宥めようとしただけな
のに、・・・そう、私も疲れていたから、ついうっかり寝過ごしてしまったのよ。・・・それだけ。」
嫌でも頭の中で再現される出来事に、滅多につかえること無いスカリーの口調も、今回ばかりは些か歯切れが悪
い。それでもドゲットはその言葉に、ほっとした顔つきになると、黙って深く頷いた。だが、その様子が何故かスカリー
の気に障った。強張る表情をどうしようもなく、ぴんと背筋を伸ばしたスカリーは素っ気無い口調で聞き質した。
「で、どうなの?」
「何が?」
「何がって・・・。」
スカリーは一瞬絶句したが、直ぐに苛々と言葉を継いだ。
「今の話を聞いて何とも思わないの?」
「いいや。」
「じゃあ、あなたの所見は?」
「不味い状況だな。」
「・・そうじゃなくて・・・。あなた、私の話を聞いてたの?」
「そりゃ、勿論。」
「今の話を全部信じたとでも?」
「当然だ。」
「何故なの!?一体どうして?」
思わず声を荒げ立ち上がったスカリーに、ドゲットは質問の意味が分からず首を傾げた。不思議そうなドゲットを尻目
に、スカリーは部屋の中をうろうろと歩き回りながら、一気に感情を爆発させた。
「どうしてそんなに簡単に信じられるの?全部を目撃した私だって、未だに半信半疑なのよ。だってそうでしょう。タイ
ムトリップなんて、100年も昔の疑わしい体験談しかない実証例があるだけで、理論的根拠も確証されてないし科学
的にも説明出来ていないのよ。全てはSF小説の中でのみ、存在しうる事柄だわ。それなのに、いきなり中世のヨーロ
ッパに710年も飛ばされて、しかもあなたは夜の間は狼になってしまう。こんな現実をどうして直ぐに受け入れられる
ことが出来るの?・・そうよ。そうだわ。あなたは何時だって、こんなSF仕立ての事件には懐疑的で、私の言うことを
直ぐに信じようとはしなかったわ。それなのにどうして?」
ドゲットは早口にまくし立てるスカリーを、ヘッドボードに凭れ腕を組むと、繁々と眺めていた。その様子は更にスカリ
ーの怒りを煽った。
「何?」
「いや。済まなかった。」
「何を謝るの?」
「博物館でへまを。」
「ああ、もう、あなたって人は・・。」
スカリーは話しにならないと言う風に、両手を広げ天井を振り仰ぎ、つかつかと寝台に近寄ると、その足元に両手を着
きドゲットを睨み付けた。
「こんな事を直ぐに信じるなんて、何時ものあなたらしくないわ。理由を聞かせて。」
ドゲットはちらりとスカリーを上目に見てから、俯いて唇の下を指で擦った。何かを言い淀んでいるようなドゲットに、ス
カリーが先を促すような視線を送れば、小さく息を吐き訳を話した。
「そうだな。君の言うとおりだ。僕はSFやファンタジーには疎いし、それらを全く信じていない。君が言うように、至って
現実的な男だ。だから、これに関しても例外じゃない。」
「例外じゃない?意味が分からないわ。」
「分からない?・・・・・そうか。確かに僕は配属前の報告書や、それに関する君達の推理には否定的だ。それは認め
よう。しかし僕がその場に居合わせて起きた事実に関して、それを有り得ない現実と、事実を捻じ曲げ、全く別物に
置き換えたりしたことがあったか?」
スカリーはドゲットの言葉を噛み締めると、黙って首を振った。
「そうだ。僕にとって重要なのは、何時だって現実であり、自分の目で見た事実だ。そして今ここで起きていることは、
紛れもない現実だろう?この部屋や外の風景を見れば嫌でも分かる。どれをとっても映画のセットのような安っぽい
紛い物じゃない。君の様子からも、手の込んだ悪戯を仕掛けているようにはとても思えない。まあ、医者の君が怪我
人が出るような悪戯をするわけは無いがね。」
極めて冷静な、如何にもドゲットらしい言い分だった。スカリーは今ひとつ腑に落ちない気がするものの、言われてみ
ればその通りで、しかしそれでもと疑問を口にした。
「じゃあ、見えないことに関しては?・・・・狼になるのは自分では分からないでしょう。」
「ああ、・・それか。・・・まあ、確かにそんな物になった記憶は無いし、見たわけでも無いからな。・・・しかし目撃者が
3人もいちゃ、分が悪すぎる。ましてやその内の1人は、君だ。今の段階で何よりお互いの力を必要とするこの時期
に、君がわざわざ僕を混乱させる意味は無いだろう。君の目撃証言は揺るがないな。・・・・それに・・。」
不意に言葉切ったドゲットは、視線を落とすと口を噤む。俯くドゲットの表情が一瞬曇ったが、直ぐに、いやなんでもな
い、と言葉を濁し、あらぬ方を向いて黙り込んでしまった。ぼんやりと何かに気をとられるようなドゲットの姿を、あまり
眼にした事の無いスカリーは、この状況ではそうなるのも無理からぬ話だと、暫くそっとしておきたかったが、そうも言
ってられない。てきぱきと状況分析に入った。
「とにかく、今分かっている事は、私達がいるのが1290年のヨーロッパで、あなたが夜の間に狼になってしまうと言う
こと。私達の目的は、一刻も早くあなたを元に戻し、2000年の私達の時代に還ることだわ。その為にどうすればいい
のか。手がかりは、その指輪ね。」
スカリーは話しながら枕元の椅子に腰掛け、その先を考え込んだ。するとそれまで黙って聞いていたドゲットが口を開
いた。
「手がかりか。博物館。タイムトリップ。指輪。呪い。アクイラ。聖堂。狼。こいつの行き着く先は・・・・」
「行き着く先は?」
思案顔のスカリーが先を促せば、ドゲットは口の端を歪めてにやりと笑い、言った。
「腹が減った。」

 結局のところ、そうやって幾ら思案しても、情報が少なすぎて先へ進めないのは目に見えていた。スカリーは暢気
に構えるドゲットの様子に呆れもしたが、食事をとって体力の回復を図ることは何も悪いことでは無いと気づき、夕べ
の残りを寝台に運び、朝食をとろうと決めた。
 スカリーがその支度を始めようとしていたとき、イザボーとナバールが連れ立って現れた。もう起きている頃だろう
と、作りたての朝食を運んできた2人は、意識の戻ったドゲットを見ると親しげな様子で近寄り、お互い自己紹介し合
ったのだ。
 その後は朝食をとるドゲットとスカリーを囲んでの作戦会議となる。昨日のうちにナバールはかなりの情報を、集め
てきていた。彼はアクイラの西の山に住む、インペリアスという老僧に助言を求めに行っていたのだ。
 インペリアスはイザボーを助け大司教の呪いを解いた功績が認められ、法王庁からこのアクイラの大司教に任命さ
れていたが、何故か聖堂に住むのを嫌い、住み慣れた朽ちた僧院に暮らしていた。従って今現在アクイラの聖堂は、
安息日の礼拝と大きな祭り事のみ機能し、普段は数人の侍童が巨大な大伽藍を維持している。聖堂は再び人々の
信仰と安らぎの中核として、真っ当な存在に戻っていたのだ。
 ナバールにことの次第を聞いたインペリアスは、直ちにこれが元大司教の仕業だと見破った。何故なら、2年前封
印しインペリアスが保管していた司教の持ち物の中から、エメラルドの指輪と鷹の足緒が忽然と消えていたからだ。
これらの持ち物は、月日が経って尚も、禍々しい気を放ち幾らインペリアスが、清めの儀式を行っても、邪悪な気配全
てを消し去ることは不可能だった。只唯一、聖水に浸した鷹の足緒は、司教が身に着けなかったもののせいか、儀式
の効力が現れていたのだった。
 インペリアスはスカリーが人外のものに変わらなかったのは、気を失っていた時握り締めていた、鷹の足緒がスカリ
ーを守ったのだろうと語った。しかしドゲットは、選ばれてしまった。司教はドゲットを使い、再び復活を遂げようとして
いる。指輪に囚われたドゲットを、黒い狼達と共に引き寄せ、指輪を再び手にすれば、彼の復活は完了するはずだっ
たのだ。
 ところが、恐らくここで誤算が生じたのだ。まず、狼に変わったドゲットが、指輪の力を持ってしても操ることが適わ
ず、あまつさえその場合は刺客となるはずの狼達を、退けるほどの抵抗を見せた。そしてもう一つが、ナバールの出
現だった。司教はナバールを恐れていた。狼たちを通じナバールの気配を察知した司教は、あっという間に身を翻し
たのだ。
 インペリアスはナバールに話して聞かせながら、旅支度を始めた。一緒にアクイラに行くのかと思えば、違うと答え
た。インペリアスは、司教がこのまま諦めるはずが無く、その為に何をするのか予測を立てていた。彼は旅の目的を
告げ、自分が留守の間何をすべきか、ナバールに指示を与えた。
 ナバールの話が終わり、食事も終わっていた彼らは、とりあえずインペリアスの指示に従うことにした。インペリアス
の指示は、聖堂に恐らく呪いに関するなんらかの印があるはずだから、それを探すことと、もう一つはアクイラの警備
の強化と周辺の村々へ使いを出し、不審な黒い狼に関する情報を集めることだった。黒い狼を手繰れば、必ず司教
へと辿りつく筈だ。敵の居場所を知ることは戦略の第一歩だ。インペリアスの指示は理に適っている。
 既に日は高く登っていたが、朝食が遅かったから、4人とも昼食は省き、それぞれの役割に分かれることにした。ス
カリーはイザボーの案内で、アクイラの街と聖堂へと赴き、未だ動き回れないドゲットはナバールに、これから必要に
なるであろう周辺の地理を教わることにしたのだ
 スカリーがイザボーにマントを借り、この時代の人間に成りすますと、夕方には戻る、と告げ2人は連れ立って出て
行った。それを見送ったドゲットと同じように、寝台に腰掛けたナバールも見送っていたが、彼女達の気配が消える
と、戸口を見据えたまま何気ない口調で語りかけた。
「楽にして良いぞ。辛いのだろう。横になるがいい。」
その言葉に顔を顰めたドゲットだったが、誤魔化しの利かないナバールの鋭い眼差しに、小さく息を付くと、大人しく
横になった。実を言えば、ずいぶん前から身体がだるく、ヘッドボードに凭れていても、支えているのがやっとの有様
だった。ドゲットは自分が横になるのを、さりげなく手助けに来たナバールを見上げ、スカリーでさえ気付かなかった
のに何故だろうと、その時浮かんだ疑問をぶつけた。
「何故分かった?」
「覚えがある。負傷して人で無いものに変わった後の、虚脱感は耐え難い。」
「どういうことだ?呪いで変わったのは、イザボーだと聞いたが。」
意外なナバールの告白に、さすがドゲットも驚きを隠せない顔で尋ねれば、枕元の椅子に腰掛けたナバールは、口
の端を歪め苦笑いを浮かべた。
「騙すつもりは無い。あれは俺の名誉を守ろうとしたのだ。俺の一族は先祖代々武運の誉れ高い一族でな。そんな
中で俺が、呪いをかけられ狼に変わっていたなど、家名を汚すことは公には出来ぬと、あれなりの気遣いだ。許せ。」
「じゃあ、あなたも狼に?」
「そうだ。」
「どのくらい?」
「まる2年。」
「2年。・・・そいつは、きついな。」
「そうだ。・・だが、お前ほどではあるまい。」
「どういうことだ?」
「分かっているのだろう?隠さずともよい。お前はその指輪で、あの悪魔と繋がっている。それがこの先お前に、どん
な影響を及ぼすか、今の段階をしてみても、想像出来るであろう。」
今の段階をしてみても。ドゲットはナバールの言葉を胸の内で繰り返し、薄く笑った。お見通しというわけか。ナバー
ルの言う通りだった。目覚めたときから、ドゲットは異常な不快感を指輪に感じていた。指輪は右手の中指に食い込
み、幾ら力を込めて引っ張ってもびくともせず、それどころか込めた力をまるで吸い取るが如く奪ってしまう。指輪から
手首にかけ、ざわざわと這い登ってくる薄気味の悪い触手のような感覚は、ドゲットの神経を苛立たせた。
「・・・・そうだな。」
やっとそれだけ返答したドゲットの顔を、ナバールは探るような眼で見詰め、問い質す。
「大丈夫なのか?俺にはイザボーがいた。お互いを支え会う事で、2年もの間理性を保ってこれたのだ。だが、良い
か。この先に待っているのは、まともな神経では耐えられぬ、醜くおぞましいことばかりなのだぞ。独りで耐えられる
のか?」
「さあな。やってみるしかない。」
「ダナ・スカリーの助けを借りたほうが良い。」
「・・・・駄目だ。」
「何故だ。お前達の言うように恋人ではないからか?」
ナバールの言葉は、自己紹介した時の、自分達は恋人ではないと2人揃って強く否定したことを示唆していた。ドゲ
ットは眼を伏せると、低く答えた。
「そうだ。」
「下らぬ。お前達は恋人で無くとも、睦まじいではないか。お前達には揺るがぬ絆があると、お互い承知しているの
に、何故それに気付かぬ振りをするのだ?」
ドゲットは顔を背けた。遥か彼方に視線を漂わせ、不意に黙り込んでしまったドゲットをナバールもやはり黙って見詰
めている。長い沈黙の後、感情を洗い流したような顔つきでドゲットはナバールを振り返った。その顔を見た途端、顔
を顰めたナバールはそれでも諦めきれないような口調で言った。
「今一度考え直せ。」
「駄目だ。」
「覚悟はあるのか。」
ドゲットは黙って深く頷いた。ナバールは眼を細め、ドゲットの表情を読み取ろうとしたが、そこに揺るがないものを感
じたのか、長い溜息の後、きっぱりと宣言した。
「分かった。もう何も言うまい。」
「済まない。それから、このことはスカリーには・・。」
「そうくるだろうと思っていた。・・心配せずとも他言はせぬ。」
「悪いな。」
「気にするな。我らの目的は一つだ。お前はその重要な鍵を握っている。俺の役割はお前を守ることにあるのだ。お
前の良いようにすることを妨げはしない。」
ナバールの言葉は心強かった。同じ境遇に陥ったことのあるナバールの存在は、どんな武器より頼りになった。ドゲ
ットは思わずにっこりすると、自分でも驚くほど素直に助言を求めていた。
「そうか。・・・・で、差し当たって俺はどうしたらいいんだ?」
「・・・・そうだな。その傷も明日には治ってしまうだろう。問題は明後日の朝、お前が目覚めた時だ。その時がひょっと
したらお前にとって最初の試練になる。」
「目覚めた時・・・・・何があるんだ?」
「それは俺にも分からん。なるべくお前の側にいるよう努力はするが、適わぬ時はお前独りだ。上手くやり過ごせ。」
「・・・・・心強いな。他にアドバイスは?」
「己を強く保て。今はそうとしか言えぬ。」
そう言ったナバールの表情は苦渋に満ちている。ドゲットはこの強靭な男の心を、今も苦しめているであろう過去の出
来事が、今度は自分に降りかかるのかと、思わず戦慄した。ナバールが言葉に出来ないほどの醜いことなど、想像
もつかないのだ。耐えてみせる。ドゲットは自分に言い聞かせた。そうだ。耐えて見せよう。俺にはやることがある。
 ナバールは虚空を睨み、決意を固めているドゲットから顔を背けると、窓辺に移った。この先この男に訪れる試練
は、試練などと言う生易しいものではない。口では説明出来ないほどの、計り知れない辛苦を潜り抜けなければなら
ないのだ。しかしそれを幾ら口で説明しても、経験に勝る理解は無い。
 ナバールは決して、自分の忠告を軽んじているわけではないこの男の決意を、尊重した。司教の最初の呪縛を、撥
ね付けたこの男ならと、男の持つ力を信じてみたくなったのだ。ナバールはふっと口元を綻ばせた。何時しか未来か
ら来たジョン・ドゲットという異邦人に、身内のような親近感を覚えている自分がおかしかった。その時、ナバールと名
を呼ばれ、眼を上げれば、真剣な眼差しのドゲットが、こちらを見ている。
「何だ。」
「あなたに頼みがある。」

 出来るだけ急いで戻ったにもかかわらず、スカリーが離塔の客室に戻ったときには、既にドゲットの姿は狼に変わっ
ていた。狼は寝台の上に寝そべり、解けかかった包帯の端を、盛んにしゃぶっている。スカリーは溜息をついて狼の
隣に座り、唾液でべとべとの包帯を口の中から引っ張り出し、悪戯を叱るような口調で呟いた。
「包帯を食べては駄目よ。エージェント・ドゲット。仕様が無いわね。代わりを巻くから、大人しくしてなさい。」
スカリーの言葉が分かったのか、しゅんとして前足の上に顎を乗せた狼は、されるがままになっている。スカリーは言
いながら包帯を解き、傷の具合を調べ思わず首を傾げた。傷の殆どが塞がりかけている。ナイフの刺し傷はさすがに
完全とは言い難かったが、足先の傷は既にピンク色の筋しか見えない。ナバールの予見通りだった。スカリーは溜息
をつくと、解いた包帯をくるくると巻き始めた。
 医者には用が無いわけね。スカリーは奇跡のような回復力を見せる狼の身体を見下ろし、魔法という言葉で解決す
るのが、一番自分を納得させやすい事実に苦笑いを浮かべた。実際、薬品も器具も装置も無いこの時代に、科学者
の出る幕などあるのだろうか。文明が進んだ時代で科学者を気取っても、道具が無ければこの時代の人間と大差な
いとは、とんだお笑い種だ。
 スカリーがそんなことを考えていると、不意に狼は身体を起こし、寝台から、とん、と飛び降りた。何をするのかとス
カリーが見守っていれば、狼は前足を突っ張り伸びをしてから、身体をぶるぶるっと震わせる。次に狼は鼻をひくつか
せ、匂いを辿りながら円卓まで行き、スカリーをちらりと振り返ってから、伸び上がって前足を円卓の端にかけた。
「お腹が減ったのね。」
スカリーは慌てて寝台から降りると、来たときには既に運ばれていた夕食に手を伸ばした。皿の一つに狼の食べられ
そうな肉類を盛り付け、床に置けば、直ぐにがつがつと旺盛に食べ始める。その様子を見ているうちに、空腹を覚え
たスカリーも椅子に腰掛け、狼と一緒に夕食をとることに決めたのだ。
 スカリーは香辛料の強い中世の料理を、蜂蜜入りのワインで流し込みながら、それでも昨日よりは随分と食欲が出
ている自分が意外だった。狼は隣であっという間に皿を平らげると、スカリーの足元に行儀良く座り、真面目腐った顔
つきで、じっとスカリーを見上げる。明らかにお代わりをねだるその視線は、スカリーの笑みを誘った。スカリーは小さ
く首を振り、狼の顔を覗き込めば、喉の奥で、ウォン、と吼える。
「お代わりね。上げるから待っていなさい。」
スカリーは夕食の残りの殆どを皿に纏め床に置き、そうだわと思い出し、深めの皿に水を注ぎ、料理に鼻を突っ込ん
で、鼻面を油でぎらつかせている狼の隣に置いた。すると狼は再び、あっという間に料理を平らげ、用意した水も半分
ほど飲み干した。空っぽになった皿を、かたかたと音をさせ、きれいに舐め上げた後狼は、その長い舌で、口の周り
に付いた油をべろりと舐め、白い牙を全部見せるような大あくびをした。
 続いて狼は、部屋を見渡し、軽快な足取りで匂いを嗅ぎまわりながら、あちこちをふらつき始めた。時折立ち止まっ
て、床に鼻先をつけているその姿は、何処をどう見ても大型の犬にしか見えない。しかもそこには、自分が良く知る人
間の、面影さえ無いのだ。只、スカリーを見上げるその蒼い瞳だけが、ドゲットの蒼さを映していた。
 スカリーは、案内されたアクイラの街や、巨大な聖堂の中を見回った話の感想をドゲットから聞きたかった。スカリー
は、ぼんやりと宙を見詰め、物思いに耽った。広すぎる聖堂の探索は、時間がかかるだろう。特に地下は迷路のよう
になっている。印を探せと言われたって、一体何を探せばいいのだろう。
 突然、どん、という衝撃を足元に感じ、下を見れば何時戻ったのか、狼がスカリーの足元に寝そべっている。しかも
ちゃっかりスカリーの足に凭れ、如何にも寛いだ風情で、背中を丸めている。眼を細め眠そうな狼の様子に、スカリー
は慌てた。自分の足の上に平然と体重を乗せている狼を、何とかしようと足の位置を動かせば、不服そうな顔で狼が
振り仰ぐ。
「ちょっと、重いわよ。身体をどかして。寝るなら、向こうで寝なさい。」
命令口調でそう言って、寝台を指差せば、再びちらりと見る。今度は厳しい顔で、行きなさい、と強く言えば、のその
そと立ち上がり気が進まなそうに、寝台まで行くと、ひらりと飛び乗り身体を丸めてしまった。その姿があんまりしょげ
返っているので、思わず狼の元に歩み寄ったスカリーは、その気配に耳をそばだて、嬉しそうにぱさぱさと尻尾を振る
狼の隣に腰掛けた。
「もう、寝なさい。私も休むわ。私は寝椅子に行くわね。今朝みたいなことになったら、お互い困るでしょう。」
狼の頭を撫でながらそう呟いたスカリーだったが、不意に自分の言った言葉で真っ赤になってしまった。朝の出来事
を思い出したのだ。うろたえたように手を引っ込め、既に安心しきって眠ってしまった狼の側をそっと離れた。
 スカリーは寝台から掛け布団を一つ持ってくると、寝椅子に横になった。クッションを枕代わりして、布団に首まで潜
り込むと、今朝の出来事が嫌でも頭に浮かぶ。
 自分達は横向きに、抱き合う形で身体を寄せ合っていた。スカリーはドゲットの厚い胸に顔を埋め、ドゲットの逞しい
腕はスカリーの背に回っていた。あの時目覚めたくなかったのは、私だけだろうか。私が身を寄せた時、まるでそれ
に呼応するかのように自分に回された腕は力強く、迷いや躊躇いなど微塵も感じられなかった。
 スカリーはそこで、はっとして首を振った。馬鹿馬鹿しい。だからどうだと言うの。2人とも寝ぼけてしたことなのよ。
無意識にとった行動だわ。それをあれやこれや考えても、いまさら何だと言うのだろう。尋常では無い状況で起きた
アクシデントと、忘れてしまえばいいんだわ。
 スカリーは寝返りを打つと、固く眼を閉じ忘れようと努力した。しかしそう思えばそう思うほど、鮮明に記憶が蘇ってく
る。何度目かの寝返りの後、スカリーは忌々しそうに天井を見上げ、呟いた。
「眠れないわ。」
 
 精神的に高ぶっていても、身体は正直だった。殆ど休む間も無かったスカリーは、何時しかぐっすりと熟睡していた
が、夜半過ぎふっと眼が覚めた。おかしな胸騒ぎがして、寝台の上を見ればもぬけの殻だ。急いで飛び起きたスカリ
ーは、部屋中を探し回った。
 するとバルコニーに通じる扉が僅かに開き、月の光が漏れている。締めたはずなのにと、バルコニーに出れば、レ
ンガ作りの幅広の手すりの上に寝そべる、狼のシルエットが浮かび上がった。月光を浴び、白銀に輝く毛皮に縁取ら
れた狼の姿は、神秘的で美しかった。スカリーの気配に、視線を巡らせた瞳は、ドゲットのそれと同じく、青みがかっ
た銀色へと変化する。
 スカリーは静かに歩み寄り、手すりに両肘を乗せ、階下を覗き込んだ。眼の下には、館の裏庭が見える。狼は何を
見ていたのだろうと、視線を辿れば、街の城壁の遥か彼方に視線を向け、微動だにしない。ぴんと上体を起こし、ある
一点をじっと見詰め続けている。
「どうしたの?何を見ているの?」
スカリーが優しく尋ねれば、狼はちらりと顔を向け、再び視線を戻す。スカリーは狼の顔に頬を寄せ、囁いた。
「何が見えるの?教えて頂戴。」
しかしやはり狼は動かない。スカリーは、肘を突いたまま項垂れると力無く呟いた。
「何も言ってくれないのね。本当に心まであなたは狼なんだわ。エージェント・ドゲット。」
不意に生暖かいものが、頬を撫ぜぎょっとして顔を上げれば、狼が物思わしげな眼をして自分を見ている。今のは一
体・・、と思う間もなく、第二弾が来た。再び狼は顔を突き出し、その長い舌で、ぺろりとスカリーの頬を舐める。きゃ
っ、と悲鳴を上げ避けようとするスカリーの顔を尚も狼は、舐め続けようとする。スカリーは、こら、止めなさい、などと
言いながら、じゃれつく狼から顔を背けるのだが、最終的に笑いながら狼の首を抱きしめ、身動きが取れないようにし
なければならなかった。
 狼の悪ふざけに手を焼きながらも、何時しか沈んだ気持ちが、軽くなっていることに気付いたスカリーは、その首を
抱いたまま、そっと囁いた。
「こういうところは、あなたなのね。エージェント・ドゲット。」
スカリーはふさふさした毛皮に顔を埋めながら、獣の匂いに混ざり、かすかに覚えのある匂いがするのを感じていた。
スカリーはその時、ああ、と思わず声を漏らした。自分がドゲットに抱かれて眼が覚めたことに、あれほど動揺してし
まったのは何故か、急に思い当たったからだ。
 スカリーはそっと狼から身体を離すと、狼に背を向け憂鬱な溜息をついた。スカリーはその時、自分の感情に手一
杯で、狼の様子が変わったことに気付かなかった。針のように毛を逆立て、眼を細めた狼は、僅かに牙を剥き、緊張
を身体一杯に漲らせ遥か地平線の彼方を凝視している。
 微かに聞こえた唸り声に、スカリーははっとして我に返った。今のは何だろうと振り返ったが、そこには暢気そうにあ
くびをする狼の姿があるだけで、外は何事も無かったかのように静まりかえっている。気のせいね。疲れがとれない
から、少しの物音にも過剰に反応してしまうんだわ。悠然と構える狼の姿に、スカリーは思わず苛立ちを覚え、こう言
った。
「あなたは気楽そうでいいわね。私は四六時中あなたを心配し続けなければならないのに。」
狼は首を傾げてスカリーを見ていたが、不意に立ち上がると、スカリーの隣にふわりと降りた。あくびをしてぶるるっと
身体を振った狼は、スカリーをちらりと見上げ部屋の中へと入ってゆく。やっと眠る気になったのかと、スカリーが後を
追えば、既に寝台の上で丸くなって眠っている。バルコニーの扉を閉め、寝椅子に戻ったスカリーは、布団に潜り込
みながら、今自分の言ったことが、何故か心に引っかかっていた。何故か分からないまま、眠りに落ちてゆくスカリー
を、狼が頭をもたげじっと見ていたなど、心煩わせることばかりで疲れ果てた彼女は気づきようも無く、泥のような眠り
が訪れるのを諸手を上げて歓迎していた。

 しかしスカリーは、後にこの言葉を後悔することになる。

                           



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