【 V】

                                疾 風 


 人の動く気配に、スカリーは目が覚めた。見上げた天井の古めかしいシャンデリアを、何だろうとぼんやりと眺めて
いたが、次の瞬間はっとして飛び起きた。
「お目覚めですか?」
柔らかな声の主は、畳んだリンネルを胸に抱え、寝台から声をかけた。スカリーが辺りを見回せば、既に日は高く人
間に戻っているはずのドゲットの姿は無い。スカリーの考えていることが分かったのか、イザボーは寝台のシーツを交
換しながら言った。
「ジョン・ドゲットなら、もう随分前に起きて、朝食を済ませた後、エティエンヌと厩舎に行きました。あの方の馬を選ぶ
為です。この先、あの方も馬に乗ることになるだろうという、エティエンヌの考えですが、あの方も乗馬の心得があるよ
うで安心しました。いくらエティエンヌが元警備隊長でも、全くの初心者に乗馬の手ほどきをするのは、骨の折れる仕
事ですもの。」
「何故起こしてくれなかったの?」
掛け布団を抱え、些か非難めいた言い方で尋ねながら側に来たスカリーに、イザボーは悪戯っぽく笑いかけた。
「よくお休みでしたし、起こさないでと頼まれましたから。」
「エージェント・ドゲットね。」
むっとしたように息を吐き出し、スカリーが腰に手を当て横を向けば、部屋の奥に見慣れない、ついたてがある。不思
議そうなスカリーに気付いたイザボーが、直ぐにその疑問に答える。
「お風呂を用意しました。たった今、湯を張ったばかりですから、まだ冷めてはいないでしょう。どうぞお入りください。
着替えは私のものをお貸しいたしますから、今のお召し物は、洗濯させましょう。昨日の探索で汚れてしまいました
のに、気付かない私が迂闊でした。お許しください。」
スカリーはイザボーの言うことを聞きながら、躊躇いがちについたての向こうを覗き込んだ。そこには人が横になれる
ほどの木桶に、たっぷりと湯が張られている。スカリーはもう何日も、顔さえろくに洗えないでいたのだ。入りたいと、
はっきり顔にかいてあったのだろう。イザボーはついたてにかけてある衣服を示し、これが着替えですから、どうぞ。と
促し、席を外した。
 スカリーは独りになると、おずおずと風呂桶に近づき、そっと片手で湯をかき回してみる。心地よい暖かさに口元を
綻ばせると、遠慮なくイザボーの好意に甘えることに決めたのだった。
 スカリーが入浴している間、イザボーは朝食の支度をしながら、スカリーの世話をし、くるくると良く働いた。小さいと
はいえ一国の領主の妻が、小間使いにさせるようなことを、何の苦も無く行っているのだ。話をするうち、イザボーは
身分は高くとも、幼い頃公爵だった父親と死別し、この街の従兄弟を頼るまで、親戚中をたらい回しにされたらしく、
その親戚全ての待遇が良かったわけでは無いのだろう。慣れているのです、と明るい眼をしてイザボーは笑った。
 又、ナバールの一族が収める領地は、ここから西へ5日ほど行った、山深い土地であったが、代々騎士として勇名
を馳せた先祖は、遠征先から様々なものを持ち帰っていた。入浴の習慣もその一つで、それはナバールの父親が十
字軍遠征の後、彼ら一族の間ではごく当たり前になっていた。
 スカリーは、ナバールの先祖に感謝しながら入浴を終え、イザボーのドレスに袖を通した。ゆったりとしたクリーム色
のリネンのスモックの上から、深緑色の光沢が美しいベルベットのオーバードレスを身に纏えば、この時代の女に見
えないことは無い。スカリーが身支度を終え、ついたての陰から出て来ると、イザボーがそれを見て満足そうに、お似
合いですよ、と言う。
 スカリーは、仮装パーティでも無い限り、絶対に着ないようなドレスを着て、些か気恥ずかしかったが、この状況で
は、これが一番人目に付かない格好だと諦めた。似合っていればそれに越したことは無いのだ。
 スカリーが遅い朝食をとった後、イザボーに誘われて、2人は厩舎を訪れた。厩舎の中に居並ぶ軍馬達の中に、彼
らの姿が見えず、イザボーを見て駆け寄ってきた馬丁頭に居所を尋ねれば、裏の馬場を案内された。
 スカリー達が円形に張り巡らされた柵まで来た時、ドゲットは丁度見事な葦毛の馬に乗り、馬場をトロットで回って
いる最中だった。イザボー達は連れ立って、馬場の中で柵に凭れ、その様子を満足そうに眺めているナバールに近
づいた。2人の気配など既に承知していたのだろう。ナバールが前を向いたまま言った。
「乗りこなしたな。」
「グレンデルだわ。あの暴れ馬にしたのですか?」
イザボーが驚いてそう言えば、ナバールは視線をドゲットに据えたまま、答えた。
「狼に変わる者を乗せられる気性の馬など、俺のゴリアテかグレンデルぐらいしかおらんからな。あれも随分とてこず
っておったが、もう心配ないだろう。子供の頃に乗っただけだとか申していたが、馬の扱いも手馴れているし、良い騎
手のようだ。」
「グレンデルも嬉しそうですわね。」
「無理も無い。暴れ馬と敬遠され、長い間乗り手が無かった。」
「仕様が無いわ。あの馬は今まで3人も怪我させているのでしょう。あなたが何故あの馬を手放さないか不思議でし
た。」
「乗り手さえいれば、名馬なのだ。手放すのは惜しい。」
「ええ。そうでしょうとも。この様子を見れば分かります。」
イザボーはそう答え、弁解めいた口調になったナバールの様子に、くすりと笑った。
 一方スカリーは、軽々と馬を操るドゲットの姿を、半ば唖然として見ていた。先ほどイザボーから、心得があるとは聞
かされていたが、正直この目で見るまでは、実感が湧かなかった。ドゲットと乗馬という図式がどうしても結びつか
ず、どちらかと言えば、バイクや車の方に、マニアックな興味を示していそうなタイプと捉えていたからだ。
 ところが隣での会話を聞く限りでは、結構な暴れ馬を乗りこなし、騎手としての腕前も、悪くは無いらしい。悪くは無
い?スカリーは、顔を顰め、より一層興味深くドゲットを観察する。今や彼は、ギャロップに近い速度で馬を駆ってい
る。手綱を引き身体を倒したドゲットは、ざっくりとした生成りのチュニックを身に纏い、これも又、この時代の人間に見
え無くは無い。
 しかも素人目にも分かるほどの見事な手綱さばきで、自在に馬を操る姿からは、何時もきっちりスーツを着込みFBI
の仕事をこなしている人間と同一人物とは、にわかには信じ難かった。おまけに風を切って馬を走らせるドゲットの姿
は、その自然で伸びやかな表情から、何時にも増して若々しく、スカリーの眼を惹きつけて止まなかった。
 ひとしきり馬を走らせ満足したのかドゲットは、次第に速度を落とし、やがてゆっくりとした足取りで3人の元に近づ
いてきた。静かな口調で馬に話しかけながら近づいて来たドゲットは、何気なく顔を上げた拍子に、スカリーの見慣れ
ない姿を認め、一瞬はっと眼を見開いた。
「如何なものだ?グレンデルの乗り心地は?」
ナバールの問いに、え?と聞き返したものの、直ぐに何を聞かれたか理解し、馬を下りながら些か上の空でドゲット
は言った。
「少し癖はあるが、いい馬だ。足が強い。」
ドゲットは、ナバールに呼ばれて来た馬丁頭に手綱を渡し、グレンデルが厩舎に引かれていく姿を見送り、スカリーに
向き直って柔らかく微笑んだ。
「お互い未来から来た人間とは、主張し難い格好になったな。」
「この方が目立たないから、しょうがないわ。」
不意にドゲットは、視線を逸らし曖昧に頷いた。何処か妙な仕草に首を傾げたスカリーを見て、ドゲットは直ぐ様言葉
を継いだ。
「いや、全くだな。」
なんとなく気恥ずかしさが手伝って、スカリーは話を逸らした。
「あなたに乗馬の趣味があるなんて知らなかったわ。」
「趣味?・・とは少し違うがな・・・。」
「どういうこと?」
「・・・・・まあ、いろいろと。」
そう言って言葉を濁した表情から、スカリーもそれ以上は聞けなかった。気まずそうな顔で黙り込む2人を見かねたの
か、ナバールは館に戻り作戦会議をしたいのだがと提案し、全員がそれに従うことにした。
 
 広いホールで昼食をとりながら、昨日の探索の話や、消えた狼の行方を語り合い、この先の対策を練った。ナバー
ルはアクイラの街の地下水道と聖堂の見取り図を持ってこさせると、イザボーとスカリーにその探索全てを任せようと
したが、たった2人では無理だと反論するスカリーを、顔を顰めて睨み返した。しかしそんなものにひるむはずもない
スカリーが、更に強く言い募れば、断定的に言い返された。
「女はこういうことに意見するものではない。」
「男とか女とか、そんなことは関係ないわ。私の言うことの方が、理に適っています。2人で全部を調べるのは到底無
理だわ。」
「成る程。能力に差があるからな。」
「能力は関係ないわ。むしろ狭い通路は小柄な私達の方が有利よ。」
「屁理屈を申すな。」
横柄なナバールのその一言でスカリーは、きっとして口を開きかけが、直ぐにドゲットが割って入った。
「待てよ。確かにエージェント・スカリーの言うとおりだ。援軍が期待出来ないこの状況じゃ、時間も労力も無駄には出
来ない。僕も情報収集に付近を回るのは昼までだから、午後は彼女達を手伝おう。」
「危険過ぎる。日没に間に合わなければ、大変なことになるのだぞ。お前達を離塔に置くのも、全てその為の配慮で
はないか。それでなくともここは2年前から、狼への恐怖心が強い。ひとたび見つかれば、民全員を的に回すことにな
る。いくら俺が領主でも、暴徒と化した領民全てを、食い止めることは出来ぬ。敵は少ない方が良いのだ。」
「あなたの気持ちは嬉しいが、人手が無いんだ。大丈夫。細心の注意を払う。僕だって狩られたくは無いからな。」 
ナバールは厳しい眼でドゲットとスカリーを交互に見た。しかし2人が2人とも、同じような顔つきで納得しあっている
姿に、不服そうな顔で、首を振ると、好きにしろ、と言い捨てて窓辺へと移って行った。
 今は仲間割れなどしている場合ではないと、困惑しているスカリーに、ドゲットは後で話しておくから大丈夫だととり
なし、探索場所を確認しようと誘った。側で見ていたイザボーは困ったような顔で微笑むと、黙ってスカリー達に加わ
り、これについては何も触れようとはしなかった。
 探索場所の順番や分担をあらかた決め終わったのは、それから随分時間が経っていた。まだ日は高く、日没には
時間がある。イザボー達がテーブルの上を片付けていると、それまでずっと窓辺に陣取り、話に加わらなかったナバ
ールが不意にやって来て、ドゲットに話しかけた。
「お前は我らの武器が使えるか?何人かと剣で切り結んだことは?」
ドゲットが何を言い出すのかと、探るような目つきで黙って首を振れば、ナバールはくいっと首を傾げて、ホールの片
隅を示し、有無をも言わさぬ口調でこう言った。
「お前に武器をあつらえた。明日から必要になる。具合をみてやるから、こちらへ来い。」
ドゲットはちらりとスカリーを見てから、何も言わず先にたって歩くナバールの後に従った。何時の間に用意したのか、
壁に立てかけた数種類の剣を前にして、ドゲットが隣に来るのを待っていたナバールは、幾つか手にしてからその中
の長剣を一振り選び出した。飾り気のない鞘からすらりと抜いた両刃の剣は、1メートル近い長さで切っ先は鋭く鈍い
光を放っている。片手で数回素振りをした後、ナバールはドゲットにその剣を差し出した。
「振ってみよ。」
ナバールから剣を受け取ったドゲットは、一瞬顔を顰めた。ナバールが片手で軽々振っていたこの剣が、ドゲットの思
うよりずっと重かったのだ。だがすぐに気を取り直し、剣を構えようとすれば、ナバールのアドバイスがあった。
「ロングソードは騎馬で戦う時に用いるのだ。縦横に薙ぐより、刺すか突くかのいずれかだから、ヒルト近くを強く握
れ。」
ドゲットはナバールの指示通りに構え、軽く2、3回振ってみせる。
「そうだ。握りを強くせねば、この重さでは手から抜けてしまう。では今度は、俺に向かって突いてみろ。」
事も無げなナバールの言葉にぎょっとしたドゲットだったが、何時の間にか両手で自分のロングソードを構えたナバー
ルは、切っ先を床に向け、無防備な上半身をさらして見せた。ドゲットの剣は鋭く、ナバールとの間合いは、丁度剣の
長さ分しかない。一旦は言うとおりに剣を水平にナバールの胸元に向けたドゲットだったが、あまりに簡単に貫けそう
で躊躇っていると、焦れた声が飛んだ。
「早く突け。」
「しかし・・・、本当にいいのか?」
「遠慮はいらぬ。さっさと言う通りにせんか。」
「刺さっても知らんぞ。」
ナバールは黙って頷いた。ドゲットは余裕たっぷりなナバールの態度が、気に入らなかった。彼自身、海兵隊時代に
コンバットナイフを使用する近距離戦闘訓練は受けている。確かにコンバットナイフとロングソードでは、長さも重さも
全く違う。見た目よりはずっと重心がとりにくく、ずっしりと重いこの剣の扱いに戸惑いを覚えたが、同じ刃物だと、自
分に言い聞かせ、呼吸を整えると、狙いを定め踏み込むと同時に、胸元目掛け真っ直ぐに剣を突き出した。
 ぎん。という音と共に、腕に痺れるような衝撃が走り、よろめいて剣を落としそうになった途端、喉元に冷たい刃の
感触を感じ金縛りに会ったように動けなくなる。如何なる早業か、ナバールの剣がドゲットの喉元に突きつけられてい
たのだ。少しでも動けばぶすりと刺さってしまいそうな気配に、脂汗を流して固まるドゲットに、ナバールはそのまま
の姿勢で静かに言った。
「ロングソードは、この重さと長さゆえ、動きを最小限にしないと、剣事態に振り回され、身体と剣のバランスが悪くな
る。バランスを崩さないことが、最も重要なのだ。その為には、今のお前のように、振りを大きくするのは良くない。無
駄な動きが多すぎる。」
ナバールは剣を引きながら、ドゲットの顔色を見た途端にやりと笑い、こう言った。
「コツを掴むまで、手合わせが必要か?」
一も二も無く頷くドゲットは、既に戦闘態勢にスイッチしていた。それから数回打ち合ううち、始めはナバールに向かっ
て突く体勢に入ることも適わなかったドゲットだが、直ぐにコツを掴んだようだった。今度こそはと突いたドゲットの剣先
を、紙一重で交わし、ナバールは無情にもその切っ先をドゲットの胸元に突きたてた。ドゲットは、首を振ると苦笑いを
浮かべた。
「さすがだな。」
「お前も中々筋がいい。」
「そりゃどうも。」
「後は実戦で慣れるのが上達の近道だ。」
「その近道はあまり通りたくないな。」
「身を守る為だ。贅沢は言えまい。これはグレンデルの鞍に常備させよう。」
ナバールはそう言って、ドゲットから剣を受け取ると鞘に収め、元あった場所に立てかけた。
「最終的にロングソードは体力勝負だから、お前みたいな痩せっぽちが帯刀するには、こちらの方が扱いやすいだろ
う。」
ナバールはそう言って、ロングソードよりやや短めの剣を選び、再びドゲットに手渡した。
「ショートソードは、地上戦向きなのだ。乱戦になった時は、ロングソードよりこちらの方が威力がある。これの方が扱
いが楽だから、今ここで試すまでもあるまい。」
ナバールは数回素振りをして、納得したらしいドゲットから剣を受け取ると、急に声を顰めて言った。
「何故ダナ・スカリーの言うことに賛成したのだ。」
ドゲットはちらりと後ろを振り返り、スカリー達がこちらに注目して無いことを確認してから、小声で答えた。
「彼女が正しいからだ。」
「正しくとも無理なことは引き受けるべきではない。」
「やってみなければ分からんだろう。」
「自分の首を絞めることになるのにか?」
「その前に彼女が何とかするさ。エージェント・スカリーは優秀だからな。」
それを聞いたナバールは呆れたように首を振ると、長い溜息と共に呟いた。
「これのどこが恋人で無いのだ。未来人の言うことは理解出来ん。」

 その日の夜半過ぎ。月が中天に掛かる頃、ふとした物音でスカリーは目が覚めた。物音の原因はバルコニーの扉
で、風が吹くたびにキィキィときしんだ音をたてる。寝台で寝ていたはずの狼の姿が無いから、夕べのようにバルコニ
ーにいるのだろうと出てみれば、手すりの上を動く影がある。
 薄く雲を刷いた月明かりの元、狼は落ち着かない様子で、手すりの上を行きつ戻りつし、時折立ち止まって風の匂
いを嗅ぐ。スカリーは手すりに近づくと、階下を覗き込み、それに続く遥か闇の彼方を透かし、異常がないことを確認し
てから、宥めるような声で狼に話しかけた。
「何も無いわ。エージェント・ドゲット。」
狼は立ち止まると、スカリーの顔を見下ろした。何だろう。スカリーは狼の落ち着かない風情とは全く正反対の、湖水
のように静かに澄んだ瞳が気に掛かった。とにかくこの姿を人に見られない方がいいと、もう一度戻ろうと言えば、彼
方に定めていた視線をすっとスカリーに向け、次の瞬間狼は階下に身を投じていた。
 驚いたスカリーが手すりから身を乗り出せば、狼は既に裏庭を抜けるところだ。すぐさま後を追おうとバルコニーから
下へ降りる階段へ身を翻せば、何時からいたのかイザボーに行く手を塞がれる。スカリーが乱暴に制止を振り切ろう
とすれば、落ち着いた声で押し止められた。
「大丈夫です。見なさい。」
イザボーがそう言って指し示した時、裏門を銀の弾丸の如く飛出た狼の後に、門の影から馬が一騎躍り出た。真っ黒
で巨大な軍馬はもう1頭葦毛の馬を引き、素晴らしい速さで狼の後を追い、闇の彼方に走り去って行く。スカリーは意
外な展開に、答えを求めるような鋭い視線をイザボーに向けた。
「エティエンヌが後を追っています。彼が側に居れば狼の時に何があろうとも、心配は要りません。きっとあの人が、
明日の朝には無事にジョン・ドゲットをあなたの元に連れ帰るでしょう。」
スカリーはきっとして、イザボーに向き直ると追求した。
「こういう行動に出ると、知っていたのね。」
「ええ。獣の時の方が、呪いに囚われやすいのです。」
「何故教えてくれなかったの?」
「あの方がどんな行動に出るかは、はっきりと分かりませんでしたから。」
そう言ってイザボーは、中に入りましょう、とスカリーを促し部屋に戻った。イザボーは、説明を聞いても納得いかない
様子で立ち尽くすスカリーに、ワインを差し出した。
「エージェント・ドゲットは何処へ向かっているの?」
「それは恐らく、彼自身にも分かってはいないでしょう。」
「私に何か出来ることは?」
イザボーは黙って首を振った。スカリーは手にしたワインを一口飲み、寝椅子に腰を落とすと心配そうな眼をして、イ
ザボーを見上げた。
「彼は大丈夫かしら。」
それを聞いたイザボーは、スカリーの横に腰掛けそっと両手をスカリーの手に乗せると、勇気付けるように囁いた。
「勿論無事に帰ります。エティエンヌがついているのですから。私はエティエンヌより強い人を知りません。彼に任せ
ておけば、心配は無用です。」 
「信頼しているのね。」
「愛していますから。」
さらりとそう言ってイザボーは立ち上がった。
「さあ、もう休んだ方がいいでしょう。今私達に出来ることは、彼らが戻って来た時、良い状態で迎えてあげることで
す。それに明日から再び聖堂の地下を探索せねばなりません。身体を休めておかなければ、持ちませんよ。」
スカリーはどう考えを巡らせても、差し当たって自分に出来ることは何も無く、結局はイザボーの言うことに従うのが最
善と判断した。何はともあれ、明朝戻るであろうドゲットとナバール2人の話を聞かなければ、動きようが無いのだ。
 イザボーが退室した後、スカリーは暫くぼんやりと寝椅子に腰掛けていた。誰もいないこの部屋はがらんとして、耐
え難いほど空虚だ。しかし日没と同時に現れる、あの大きな狼の姿を思い浮かべると、心が自然に和んでくる。スカ
リーを見上げる物問いたげな蒼い瞳や、近寄るとゆっくりと振られるふさふさした尻尾の動き。本当に心まで獣なのだ
ろうかと思うぐらい、スカリーへ示す態度は豊かな感情が溢れている。
 スカリーは寝椅子に横になろうとして、ふと考え直し寝台へと赴いた。思えば昨日の朝、思わぬアクシデントに見舞
われ、部屋を分けて欲しいと要求した時、ナバールに一蹴されたのはこういうことだったのだ。あの時ナバールは無
表情にこう言った。
「それは出来ぬ。人目につかない客室はここしかないのでな。心配せずとも同衾するような機会はこの先無くなるだ
ろう。寝台は一つあれば事足りるはずだ。」
スカリーはその時ナバールの同衾と言う言葉に、困惑した顔で俯きそ知らぬ振りをするドゲットの様子を思い出し、口
元を綻ばせた。あれでは何かあったと直ぐにばれてしまうわね。他の事に関しては、ポーカーフェイスのドゲットなの
に、この類は全くの苦手項目らしい。そういうところに不器用なのが、返って好ましかった。
 スカリーは寝台に身体を横たえ、狼が寝そべっていた窪みに手を這わせ、呟いた。
「無事に帰るのよ。エージェント・ドゲット。」


 ナバールは東の尾根から射し込む朝日に、悪態をついた。つい先ほどまで視界に捉えていた狼の姿を見失い、必
死に足跡を辿っていたのに、ここで夜明けになろうとは。ナバールは地面を睨みながら舌打ちをした。この分では既に
人間に変わっているだろう。一刻も早く見つけなければ。
 その時近くの茂みで、人の呻き声が微かに聞こえた。ナバールははっとして馬を飛び降りると、鞍にくくりつけてあ
った毛布を掴み、慎重に茂みの奥へと分け入った。背の高さ程の野草の茂みは、無秩序に荒らされ無残に根こそぎ
倒れ黒い土が抉れていたり、折れ曲がり踏み躙られた葉や茎には、未だ血が固まらず滴っている。ナバールはあま
りの惨状に顔を顰め、尚も奥へと進めば、ようやく呻き声の元へと辿りついた。
 そこには血まみれの身体を丸め、両手で身体を抱いてうずくまるドゲットがいた。ナバールはそっと近寄り、血と泥
で覆われた裸の身体に毛布をかければ、びくっと身体を震わせ怯えたようにナバールから遠ざかろうとする。ナバー
ルは小刻みに震えるドゲットの身体を、きっちりと毛布で包み正面に膝を着くと、落ち着いた口調で話しかけた。
「もう大丈夫だ。心配はいらぬ。ジョン・ドゲット。俺が分かるか?」
ナバールはドゲットの視線を捉えようと、真正面からその瞳を覗き込んだ。ドゲットはぼんやりとナバールの眼を見返
していたが、もう一度強く名を呼ばれると、眼を瞬きふっと正気に返った。が、次の瞬間何か恐ろしいものを見たかの
ように眼を見開き、真っ青になって立ち上がった。
「どうしたのだ?」
とナバールが問う間もなく、よろよろと2、3歩歩いたドゲットは突然身体を折り曲げ、その場で胃の中の物を、全て吐
き出し始めた。全身を震わせ、苦しげに嘔吐を繰り返すドゲットの表情は、只生理的な苦しさだけではない苦悶に歪
み、咳き込み唸るように絞り出される声は苦しみに満ちていた。そして最早空っぽの胃からは胃液しか出てこないと
言うのに、尚もこみ上げる嘔吐に呻くドゲットを、ナバールは痛ましそうな顔で、ずっと背をさすり続けていた。
 暫くしてようやく嘔吐が収まり、精根尽き果て肩で息をしながらうずくまるドゲットを、ナバールは抱き抱えるようにし
て立たせると、直ぐ近くにある川へ連れて行った。ナバールは独りで大丈夫だと言うドゲットを疑わしそうに見ていた
が、何も受け付けない顔でナバールの手を振り切り、どんどん川の中へ入ってゆくドゲットの後姿に、やりきれない吐
息を付くと、河原で火を熾し始めた。
 焚き火の近くに着替えを置いたナバールは、振り返ってドゲットを探した。ドゲットは川のほぼ中央に腰まで水につ
かり、ぼんやりと空を仰いでいる。自分にも覚えのある状況に、ナバールは黙ってその場を離れた。独りになりたいド
ゲットの気持ちが、彼には手に取るほど理解出来たのである。 
 二頭の馬を引いて、ナバールが河原に戻ってきた時、既にドゲットは身体を洗い着替えも終え、さっぱりとした顔付
きで、焚き火の側の流木に腰掛けていた。短い髪が湿り、些か青い顔色が、それまでのドゲットの状態を物語っては
いるが、静かな表情からは、どんな感情も読み取れない。ナバールはドゲットの向かいに腰掛け、焚き火に枯れ枝を
くべ、さりげない口調で話しかけた。
「気分は良くなったか。」
「ああ。」
「怪我は?」
「かすり傷だ。」
「・・・後始末は終わった。」
ドゲットは一瞬顔を強張らせたが、眼を閉じると低く礼を言った。
「済まない。」
「気にするな。お前は前だけを向いておればよい。」
ドゲットは口の端を歪めて薄く笑うと、ぱちぱちと音をたて燃え盛る炎を、虚ろな眼をして眺めている。
「ナバール。」
「何だ。」
「こういうことだったんだな。」
「・・・・・・そうだ。」
「あれは何だ?」
「狼だ。」
「・・・・・正直に真実を言えよ。」
下から掬い上げるようにナバールを見たドゲットは、皮肉っぽい口調で更に問い質す。その言葉にナバールは顔を顰
め、乱暴に決め付けた。
「狼だ。あの場で狼なのだから、それでいいではないか。」
ドゲットはナバールから顔を背けると、誰に言うとも無く呟いた。
「5頭いたんだ。」
「何の話だ。」
「俺が聖堂に現れた時、俺の他に5頭狼がいたんだな。」
「そうだ。」
「成る程。これで4頭に減ったわけだ。」
「何が言いたい?」
「狙いは何だ?」
「指輪だろう。」
「・・・・・指輪か。」
ドゲットは呟いて右手に眼を落とした。そこには、エメラルドの指輪が禍々しい光を帯び、ドゲットの指に食い込んでい
る。抜けるはずなど無いのに、無意識にそれを引っ張りながら、ドゲットが思わず口にした言葉は、ナバールの眉を顰
めさせた。
「切り落とせばいいのか。」
「何を・・・。」
「そうだ。いざとなったら俺の指を切れ。」
「本気で言っているのか?」
「勿論だ。指が一本足りんくらい、どうってことはない。」
「それでお前は解放されると?」
「違うのか?」
「無駄だ。お前が狼になれば、それに合うよう自在に形を変える指輪なのだぞ。例えその指を切り落としても、又別の
指に移るだけだ。お前とその指輪は血の契約で結ばれている。お前が死ぬか、呪いを解かない限り、その指輪は外
れない。」
ドゲットは炎を見詰めたまま、ナバールの言葉を黙って聞いていた。うろたえるわけでもない、焦り苛立つわけでもな
い、まるで世間話を聞くような風情のドゲットを、ナバールは内心驚嘆の眼で見ていた。
 彼の知る中で、恐らくこれほど見事に全てを切り替える男はいなかった。ナバールはドゲットが普通なら正気を保つ
ことさえ困難な情況を、たった一つの目的の為に、丸呑みしたことを理解していた。豪胆な男がいるものだ。ナバール
はもの静かでこの時代の人間からすれば、随分と線が細く見えるこの男が、外見よりずっと肝が据わり芯が強いこと
を知り、頼もしいと思うと同時に、ある種の哀しみを覚えずにはいられなかった。茨を負うような道しか、選択肢の無い
ドゲットの心情を思うと、哀れだった。
 不意にドゲットは眼を上げると、憂鬱そうなナバールの表情に気付き、元気付けるように微笑んで、呆れるほどのん
びりした口調でこう言った。
「忙しくなる。」
「全くだ。」
「俺の後を追うのは骨が折れるだろう。」
「・・・・・悪かった。側にいると言っておきながら、一瞬お前を見失った。」
済まなそうな顔で謝るナバールに、そういう意味じゃ無いんだ、とドゲットは顔を顰めて首を振った。
「せめて意識があればな。」
と、ドゲットは口の中で呟き急に何かを思い出して、真顔でナバールに向き直った。
「だが、あのアドバイスは役に立った。ありがとう。」
「覚えがあることを言ったまで、礼など無用だ。それより、もう戻ろう。」
ナバールはそう言って立ち上がると、厳しい眼をして辺りを見回す。それに習って立ち上がったドゲットは、焚き火の
周りの土を蹴って火を消しながら尋ねた。
「何かあるのか?」
「嫌な風だ。」
見上げた空には、いつの間にか黒い雲が垂れ込め、川面を渡る風は湿り気を帯び、生暖かい。雨が近いのだろう。し
かし2人は、それだけではない、何か不穏な空気を辺りに感じていた。馬達も落ち着かない様子で、しきりに小さく足
踏みを繰り返す。ドゲットとナバールがそれぞれの馬に跨れば、嬉しそうに首を振り、明らかに安心したようだった。
 2人は緊張を漲らせ、馬を駆った。ゴリアテの後ろに続きながら、アクイラで待つスカリーを思うと、ドゲットの心は痛
んだ。その痛みは今起こった全てのことより、耐え難くドゲットの心を苛んだ。大丈夫だ。俺は上手くやれる。ドゲット
はそう口の中で呟いて、グレンデルに鞭をくれた。すると葦毛の馬は素晴らしい速さで黒い馬に追いつき、2頭は馬
首を並べ風を纏い、草原をひた走る。
 雨はそう遠くないところまで、迫っていた。
 


                            




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