【 W】


                               骨に刻む                            


 アクイラで初めてドゲット抜きの夜を過ごしてから、既に3週間が過ぎようとしている。スカリーはホールのテーブル
に、地下水路と聖堂の見取り図を広げ、探索終了箇所をチェックしながら、独り物思いに耽っていた。

 あの朝、酷い雨にずぶ濡れになって帰ってきたドゲットは、南の国境で狼を1頭仕留めたと報告した。狼は10数頭
ほどの群れを率い襲ってきたが、ナバールと2人で撃退したよ。そう言ってから、急に何かを思いつき、まあ、僕には
その記憶は無いがね。と、のんびりとした口調で付け加えた。
 その日から、ドゲットは殆どの夜を、狼に変わると何処かへ向かい、ナバールがその後を追いかけ、日が高くなって
から、揃って戻ってくるというのが、日課なっていた。何処に向かって、何をしているのか尋ねるスカリーに、肩を竦め
たドゲットは済まなそうにこう答えた。
「悪いが、そいつは僕にも分からないんだ。ナバールに聞くと、ちゃんと行き先が分かっているらしいんだが、今の僕
は何も感じられない。その時のことを覚えていられればいいんだが、朝になれば夜何をしていたか、全く記憶に無い
んだ。」
「・・・・いいのよ。仕方ないわ。でも、一体何のためにあなたは毎晩出てゆくのかしら。」
「ナバールの話じゃ、聖堂から逃げ出した狼を追っているらしい。全部で5頭。向こうはこの指輪を狙って、狼の群れを
率いて襲ってくる。その内2頭は仕留めたから、残るは3頭だ。」
そう言ってから、ドゲットは複雑な顔をして俯いた。どうかしたのかと尋ねるスカリーに、些か歯切れの悪い口調で言
った。
「うん。・・・どう言ったらいいのか。方向が見えないんだ。」
「どう言うこと?」
「今まで仕留めた2頭の狼は、それぞれここから何マイルも離れた場所にいた。しかも2頭がいた場所にはなんの関
連性も無い。4日前から追っている狼にしたってそうだ。まさに神出鬼没で予測が出来ないと、ナバールも言ってい
た。それにこのまま、もし上手く行って、1頭残らず仕留めることが出来たとしても、僕にはその先に何があるのか全く
読めない。核心に近づいている気がしないんだ。第一この指輪が目的なら、何故ばらばらに襲ってくるんだ?5頭が
それぞれ群れを率いて、一挙に襲った方が簡単なはずだ。」
「それは私も疑問に思っていたの。あなたから指輪を奪うにしては、持って回ったやり方だわ。それに、肝心の司教は
影も形もない。痕跡すらないんでしょう。」
「ああ。ナバールの威光が届かない国境付近から戻る途中、何度か落ちぶれて夜盗になった元司教の配下の襲撃
があったが、捕らえて尋問してみても、誰1人姿を見ては居ないんだ。只、夜にお告げがあったとしか。それにしたっ
てだな・・・・。」
ドゲットは首の後ろを擦ると、下を向いて苦笑した。お告げとはな・・、と呟きスカリーに困惑した眼を向けたのだった。
 スカリーはその会話をしてから、ずっとそのことを考え続けていた。ドゲットの言うように、何かがおかしい。何処か、
ちぐはぐなのだ。何か大切なものを見落としているような気がしてならない。その上手がかりを探し続けているのに、
呆れるほど手ごたえの無い毎日だった。

 ローマ時代に造られた地下水道は広大で、始めは整然と機能していたものが、やがてローマ帝国の衰退とともに
放置され、無秩序に広がる街と共に、無計画に増殖した水路で迷路と化し、腐敗と汚物の溜まる禁断の世界だっ
た。それを主要な水路を整備し、元の正しい機能を取り戻すようにしたのが、ナバールだったのだ。
 従って真新しい見取り図のある地下水道は、今日の午後ドゲットと共に探索した箇所で最後だった。スカリーはそ
の日、薄暗い地下水道の行き止まりで、今回も空振りだった探索に嫌気がさしていた。聖堂がまだ残っているとはい
え、そちらも主要なところは、イザボーが終わらせている。
 スカリーは、外堀へと流れ出る水路を仕切った錆びた鉄格子を握り、腹立たしげに溜息をついた。すると水音に混じ
り通路を歩く足音が近づいてくる。スカリーが振り返れば、ゆらゆらと揺れる光と共に、トンネルの向こうからドゲットが
現れた。手燭を持って現れたドゲットは、スカリーに近づきながら、首を振った。
「何も無かったのね。」
と言った途端、スカリーは隣に並んだドゲットの姿に顔を顰めた。ドゲットは全身ずぶ濡れで、衣服がべったりと身体
に張り付いている。惨めな格好だ。
「又、落ちたの?」
「滑った。」
「注意するように言ったはずよ。」
「油断したんだ。」
スカリーは小さく首を振って、咎めるような視線を返す。実はドゲットが水路に落ちたのは、これが初めてではない。今
までにスカリーの知っているだけで、3回。今日を入れれば4回だ。確かに水路に沿った通路は水浸しで、泥と腐った
枯葉がぬるぬると床を埋め尽くし、手燭で照らしても足元がはっきり見えるわけではない。スカリーですら、探索当初
は何度か転倒しかけた。しかしさすがに、それも一週間もすれば慣れてくる。いくらスカリーがやっと立てるぐらいの
高さと幅しか無い狭い通路で、身動きが取れないにしても、このありさまはあまりに迂闊過ぎる。そう顔に書いてあっ
たのだろう。ドゲットが言い訳めいたことを言った。
「向こうはもっと狭いんだ。」
スカリーは、不機嫌そうに息を吐き出すと、ドゲットを押しのけて、通路を戻り始めた。するとその後ろに従いながら、ド
ゲットの呟く声が聞こえる。
「こいつが無事だったから、いいだろう。」
こいつとはドゲットの持つ手燭のことで、二手に分かれる時、全く光の入らない通路に向かうドゲットに持たせたの
だ。スカリーは何を言ってるのかと、不機嫌に言い返した。
「大体それがあるのに、何故落ちるの。注意力散漫な証拠だわ。」
気をつけるよ、と小さくドゲットの声が背後で聞こえたが、聞き飽きたその言葉にスカリーは、それまでの苛々が一挙
に噴出すのを感じた。行き止まりの捜査。尋常ではない現実。役に立たない知識。パートナーの窮状。それら全てを
抱え、不安と焦燥感が雪崩のように迫り、押しつぶされそうな自分を、必死で保っているのに、相棒は水路に落ち
て、今度は手燭が無事で上手く落ちたとか、暢気なことを言っている。くるりと振り返れば、直ぐ近くにいたドゲットと
ぶつかりそうになる。
「ええ。そうね。人間でいる時ぐらい、気をつけていてもらわなければ、困るわ。私は夜も昼も、あなたの面倒ばかり見
てる暇は無いのよ。」
スカリーはこんなことを言ってはいけないと、重々承知していた。これは八つ当たりなのだと、はっきり自覚もしてい
た。しかし手伝うと言ったドゲットの毎日の態度は、あまりに手伝いに徹しすぎ、まるで自分は他にやることがあるか
ら、こっちは君に任せたよと、言わんがばかりなのだ。そうだ。確かにドゲットの置かれた状況は、悲惨だ。彼自身、
それを克服するのはさぞかし大変なのだろう。スカリーはそこから来るのかは分からないが、おざなりではないにせ
よ、どこか切実さに欠ける気がしてならないドゲットが不満だった。けれどこちらだって重要なのだ。もっと必死になっ
ていいはずだわ。スカリーは自分を止めることが出来なかった。
「もう三週間も経つのに、未だ手がかりさえ掴めない。時間が経てば経つほど、元の時代に戻れる可能性が減るかも
しれないのよ。現代も中世も、捜査には変わりは無いはずよ。手がかりを探すことに集中して、迂闊な行動には充分
注意して欲しいわ。」
一気に捲くし立てるスカリーを、ドゲットは半ば唖然とした顔で眺めていたが、終わった時、ふっと笑みを零した。スカ
リーがそれを見逃すわけが無い。
「何が可笑しいの?」
「いや、空振り続きで意気消沈してしょげてるかと思っていたが、元気なんで安心した。」
「しょげてる、ですって!?誰がそんなことを!」
「・・特に・・誰とは。僕がそう思っただけだ。」
「馬鹿なことを言わないで。」
「悪かった。僕の思い過ごしだな。」
スカリーはドゲットの謝罪を聞き流すと、明らかに気分を害したという顔で、さっと方向転換し、再び来た道を戻り始め
た。2人ともそれから一言も言葉を交わすことなく、地下水路から地上に出れば、そこはナバールの城の西の外れに
なる。空を仰げばどんよりと雲が広がり、太陽の位置は定かではないが、明るさから見て、日没にはまだ時間があり
そうだ。
 スカリーはちょっと言い過ぎたと、些か気後れしたが、それでも間に合うことを告げようと後ろを振り返れば、ドゲット
がずぶ濡れの服の端を握り、水を絞っている最中だった。その時垣間見えたものに、スカリーは眉を顰めると、つか
つかと歩み寄り、ドゲットの上着を、なんの躊躇いも無く捲り上げた。スカリーは、唐突な行動に戸惑いを隠せないド
ゲットの顔を見上げ、探るように問い質した。
「この怪我は夕べのもの?」
「あ・・・ああ。」
ドゲットの脇腹から胸にかけて、打撲の痕と無数の擦り傷があるのだ。口ごもるドゲットは、やんわりとスカリーの手を
解き、間延びした口調で付け加えた。
「何、大した傷じゃないし、どうせ明日には治ってしまう。手当ては必要ないさ。」
そうしてそそくさと衣服を直したドゲットは、にっこりして話を変えた。
「さて、日没まで未だ時間があるが、腹ごしらえしたら一寝入りさせてもらうよ。夜は夜で、忙しいようだしな。」
何時もの業務連絡の如く、酷く当たり前にドゲットは言うと、城の中へと戻って行った。スカリーはその後姿に、釈然と
しないものを感じながらも、只黙って見送るしかなかった。

 そして今、スカリーは蝋燭の灯りの元で、聖堂の見取り図と格闘しながら、ホールに独り居た。もうとっくに日が暮
れているから、ドゲットは狼に変わっているはずだ。今夜も何処かに向かっているのだろうか。そんな考えがちらりと
頭を掠めたが、今はそれどころじゃないと直ぐに頭から締め出した。
 10枚以上ある聖堂の見取り図を繰りながら、スカリーは何故この聖堂はこんなにも複雑な造りをしているのだろう
と訝った。増殖に任せ場当たり的に造られた地下水道ならいざ知らず、この聖堂は街の全盛期にそれまでの小さな
聖堂を取り壊し、新たに建造し直された、当時にしては大掛かりな建築物だった。
 人口に合わせて、只規模を大きくしただけならいいのだが、荘厳できらびやかな礼拝堂を中心に、広場ほどの中庭
を挟んで左右に分かれた建物は、右は豪奢な元司教の私邸、左は小さな小房に分かれた聖職者達の仕事部屋が
どれも入り組んだ間取りで造られている。元司教の最盛期には聖職者と教会付き警備隊の宿舎もかねていた左の
建物は、今は主がなく閑散としている。そして聖堂の地下には、岩盤をくりぬいて造られた地下牢が蜂の巣のように
並び、こちらも現在は無人と化し今は只亡者の棲家と成り果てていた。
 スカリーは何か見落としがあるとしたら、一番怪しい礼拝堂と司教の私邸の見取り図を並べて置いた。元司教がナ
バールに呪いを返されて2年。インペリウスは、司教と共に聖堂に巣食った魔の痕跡を残らず消し去っていた。邪悪
な影がちらつき、死の臭いが充満していた聖堂は、今ではすっかり清められ、インペリウスの言う呪いの印など、何
処にも見当たらない。
 きれいなもんだわ。スカリーは長い溜息を付くと、片手で目頭を押さえた。薄暗い蝋燭の光はありったけの燭台を集
めて明るくしても、ちらちらと落ち着き無く、直ぐに眼が疲れてしまう。最もその疲労感は、別口に負うところが大きか
った。
 スカリーは両肘をテーブルに付き、ぼんやりと見取り図を眺めながら、眼を伏せた。スカリーは孤独だった。真っ黒
でつるつるの壁を必死で登ろうとしているような、疲労だけが募る無力感を持て余していた。この孤独と無力感を解消
する為に、誰かと話したかった。しかし中世の人間の夜は早い。日暮れと共に夕食をとり、直ぐに休んでしまうイザボ
ーを付き合わせることは気が引けた。只でさえ、ナバールとイザボーは領主とその妻の務めがあり、今回のことで多
忙を極めている。
 スカリーはそこで静かに首を振った。違うわ。私が本当に話したい人は別に居る。そこでスカリーはあることに思い
当たった。この捜査捜索に足りないものが何なのか分かったのだ。それは、ドゲットと一緒にいる時間だった。通常、
捜査に入った自分達は、寝る時意外は朝から晩まで、殆どの時間を共有していた。何時如何なる時でも、ドゲットは
スカリーの側に影のように寄り添い、振り返れば必ずそこには、暖かく彼女を見守る蒼い瞳があったのだ。 
 ところが今回は、朝遅く戻ったドゲットと、その日の探索場所の打ち合わせをしたら、話す間もなくそれぞれ別行動
に入る。その日の予定が終わる頃には、既に日没でドゲットは、物言わぬ獣へと変わっていた。スカリーはドゲットの
声が聞きたかった。例え、実りの無い内容になろうとも、そんなことはどうでもよかった。只ひたすら、彼のゆったりとし
た口調と、少し掠れた柔らかな低い声を聞きたかった。スカリーはこの状況では、それさえもままならない現実に、が
っくりとしてテーブルに突っ伏した。
 すると突然、スカリーのドレスに何かが触った。何だろうと足元を覗き込めば、狼が座りスカリーを見上げていた。こ
んな時間までいるなんて珍しい。と、思ったところで、もしかしたらと外を見れば、雨が降っている。今までのところ、
雨では臭いが流れ、鼻が利かない為か、狼は雨の夜は外に出ない。
 不意に狼は立ち上がり、外を見ているスカリーの膝の上に、何処から咥えてきたのか野球のボールほどの大きさ
の麻縄の球を、ぽとん、と落とした。スカリーが妙な顔で毛糸球のようなそれを手に取れば、相変わらずきちんと足元
に座った狼は、首を傾げじっと見上げる。スカリーは訳が分からず、肩を竦めるとテーブルの上に麻縄球を置いた。
 溜息を付いて見取り図に取り組もうとするスカリーの膝に、何時の間に持ってきたのか、又もや狼は麻縄球を乗せ
た。スカリーは顔を顰めて、球を取ると、黙ってさっきの球の横に並べて置いた。すると、又狼は膝に球を乗せる。スカ
リーは相手にしてもしょうがないと、ほぼ上の空で黙ってそれをテーブルに置く。
 そんな狼とのやり取りが、暫く続いた。スカリーがふと眼を上げれば、テーブルの上にはずらりと麻縄球が並んでい
る。もう気が済んだのかと、足元を見れば上目に見上げる蒼い瞳とぶつかった。何か言いたそうね。そう思ったと同時
に、狼はひょいと後ろ足で立ち上がり、前足をテーブルにかけた。
 思わず眼を見張ったスカリーの目の前で、狼は礼拝堂の見取り図を器用に咥え、ひらりと身を翻した。
「あっ、何をするの!?返しなさい!」
咄嗟にスカリーがそう叫べば、数メートル先で立ち止まり、見取り図を床に置くと振り返ってスカリーを見る。
「こちらに持ってきて。」
スカリーが強く言っても、しらっと他所を向き少しも動こうとはしない。スカリーは腹立たしげに舌打ちして、取り返そう
と狼に近寄れば、素早く見取り図を咥え、数メートル先に進むと離れたところで同じように立ち止まる。スカリーは思
わず声を荒げた。
「エージェント・ドゲット!それを返して!」
ところが狼はスカリーを怒らせたなど何処吹く風でそっぽを向くと、喉の奥まで全開の大あくびをしている。スカリーは
その様子にかっとして、思わず口の中で悪態を付くと、猛然と狼に向けてダッシュしたのだ。
 それから、スカリーと狼との追いかけっこが始まった。ホールの中を地図を咥え、所狭しと走り回る狼の後を、スカリ
ーは夢中で追い掛け回した。狼が本気を出せば、スカリーなど簡単に出し抜けるのに、この狼はわざと捕まりそうに
なっては、ひらりと身をかわし、少し離れたところで、澄ました顔で振り返る。その如何にも小馬鹿にした態度は、否
が応でもスカリーをむきにさせ、他の全てをそっちのけにさせてしまった。
 スカリーは夢中になって狼を追いかけるうち、それまでの沈んだ気分が次第に消えていくのに気付いた。それは飛
んだり跳ねたりして、逃げ回る狼の様子が、例えようも無くユーモラスでそれを見れば、とてもそんな気分ではいられ
ない。おまけに立ち止まり挑発するようにスカリーを見詰める狼の瞳は、期待と悪戯にきらきらと煌き、地図を咥えた
口で、はっはと息を吐きながら、さながら笑っているかのような風情なのだ。
 スカリーが髪を振り乱し、慣れないドレスに足ももつれ、へとへとになってホールの一角に狼を追い詰めた時は、そ
れから暫くしてのことだった。スカリーは綻ぶ口元を引き締め、わざと怖い顔を作り、耳を伏せ尻尾を巻き込みじりじり
と後退る狼に詰め寄った。
「もう逃げられないわよ。それを返しなさい。エージェント・ドゲット。」
仁王立ちして立ちはだかり、威圧的に命令するスカリーにはさすがの狼も観念したのか、ぽとりと床に見取り図を落
とした。次の瞬間、勝ち誇って手を差し出すスカリーを見上げる蒼い瞳が、愉快そうに揺らめいた。
「あっ、こらっ!」
と、叫んだ時には既に遅く、狼は見取り図の上にどさりと身体を落とし、腹ばいになってしまった。見取り図は狼の胸
の下から、その端を僅かに覗かせている。すぐさま駆け寄ったスカリーは、狼の側にうずくまると見取り図の端を引っ
張りながら、狼をどかそうと片手で身体を押した。
「どきなさいよ。全く。何を考えてるの。ほら、どいてったら、どいて。」
力一杯押しても、びくともしない。幾らスカリーが必死になって押そうが、狼は暢気そうな顔で、何やら妙な抗議の唸
り声を、喉の奥で繰り返している。
「何であなたが文句を言うのよ。文句を言いたいのは私の方だわ。しょうがないわね。」
すると狼は突然身体を捩り、スカリーの手をぱくりと咥えた。鋭い牙で傷つけないように、そっと甘噛みを数回し、ぺろ
りと手を舐た後、今度は頭をスカリーの足に押し付けぐいぐいと押し戻す。
「何をするの。抵抗する気?許さないわよ。」
ぐらりとバランスを崩しよろけたスカリーは踏みとどまると、そう強気で言って肘で押し返せば、あっという間に身を翻
した狼に、床に押し倒されてしまった。狼は仰向けに倒れたスカリーの上に覆いかぶさると、その顔を猛烈な勢いで
舐め始める。こら、止めなさいと、顔を激しく左右に振り、狼の身体を押しのけようとしていたスカリーは、そこまでが
限界だった。突然噴出した笑いの発作は、スカリーの身体全体を麻痺させ、声を出すこともままならない。狼はちょっ
と不思議そうな顔で中断したが、スカリーが弾けるように声を上げて笑い出せば、再び熱心にじゃれ付き始めた。
 陰気な雨が降りしきる真夜中、深い眠りに包まれた城の奥には、場違いな笑い声が響いていた。スカリーはあまり
騒ぎ過ぎて、誰かが様子を見に来てはまずいので、必死に笑い声を抑えるのだが、そんなことなど狼の知ったことで
はない。喉の奥で妙な唸り声を出しながら、スカリーの上から退こうとしないのだ。
 結局のところ、前のように狼の首を横抱きにしてねじ伏せることで、ようやく狼も気が済んだのかスカリーに身体を
預け大人しくなった。スカリーは荒い息を整えながら、舌をだらりと出し、身体を伸ばして早い息をしている狼の身体
を、宥めるようにそっと撫ぜた。
 静かだった。しとしとと雨音が聞こえる以外辺りは静寂に包まれている。狼の首に耳をつければ、人より早い鼓動
が力強くスカリーを打った。既に、憂鬱に押しつぶされそうだったスカリーの心は、嘘のように軽くなっている。別に何
も進展はしていない。しかし空転する思考のジレンマからくるストレスは、きれいさっぱり無くなっていたのだ。
 スカリーはさっきから彼女の手を咥え、盛んに甘噛みをしている狼の顔を覗き込んだ。
「あなたには、隠せないのね。狼になっても、あなたはエージェント・ドゲットなんだわ。」
少なくともドゲットの前では気丈に振舞っていた。が、記憶が残らないという事実に油断し、狼の前で1人の時は、昼
間ドゲットに指摘されたように、意気消沈していたかもしれない。
「昼間は言い過ぎたわ。あなたに謝らなくては・・・」
スカリーの言葉が途切れたのは、不意に狼が首を巡らし、スカリーの口の辺りをべろりと舐めたからだ。うぷっ、と顔
を顰めてのけぞれば、笑っているような顔の狼の表情に気付き、思わず言い返した。
「又、そうやって私のことを面白がっているのね。じゃあ、言わせて貰うけど、あなたって本当に厄介だわ。大きな図
体でじゃれるし、凭れるし、重いのよ。ああ、もう、そうやってドレスの端を噛むのは止めて。そういうあなたの態度は、
人間の時に分かり難い冗談を言われるより、よっぽど性質が悪いわ。相手があなたじゃ、文句も言えないし。」
スカリーはそこで、ふっと笑みを零した。
「でもあなたが側に居てくれて、本当に良かった。」
その言葉を聞いてか聞かずか、狼は大きなあくびをして伸びをすると、スカリーの腕の中で、ぶるるっ、と身体を揺す
りそのまま丸くなって眠ろうとする。スカリーは慌てて飛び起きた。こんなところで、眠られたら朝が大変だ。
「駄目よ。眠るなら離塔に戻らなければ。さあ、行くわよ。」
スカリーはその辺に放り出したままになっていた見取り図をそそくさと拾い、テーブルに赴き上をざっと片付けた。振り
返って狼を見れば、相変わらず丸くなって、眠そうに眼を瞬かせている。声をかけても動こうとしない狼に手を焼き、ど
うしようと巡らせた視線の先に、テーブルの上に並んだ麻縄球が眼に入った。今となっては、この球の意味を充分理
解していたスカリーは、にやりとしてその一つを手に取った。
 その途端、狼の耳がぴんと立った。スカリーがその球を、ぽんぽんと2、3回上に投げては受け止めれば、狼は上
体を起こし、尻尾をゆっくりと振り出した。スカリーは狼に良く見えるよう球を掲げてから、投げる素振りをして見せれ
ば、狼は眼をらんらんとさせ、腰を浮かし既にスタンバイしている。こみ上げる笑いを殺しながら、スカリーはホールの
出口に向かって、球を投げた。ダッシュする狼の後姿に、これで部屋に戻れるわと、スカリーはにんまりとほくそえん
だのだった。


 ああ、空が青いな。ドゲットは大きな岩に腰掛け、無意識に空を仰ぎ見てそう思った。そうやって空を仰いだまま、
朝靄が晴れ、雲一つ無い清々しい朝の空気を胸一杯に吸い込もうとして、あたり一面に未だ漂う血の臭いに、収まっ
たはずの吐き気がぶり返し、俯くと片手で口を押さえた。
 遠くで時折音がするのは、ナバールが残骸の後始末をしているからだろう。ドゲットはそのまま両目をぎゅっと瞑っ
た。目覚めた直後の記憶が、まざまざと蘇ってくる。大丈夫だ。俺は大丈夫だ。ドゲットは呪文のように心の中でその
言葉を繰り返し、ナバールの最初の忠告、己を強く保て、ということに集中した。指輪が重い。どうして俺の右手はこ
んなに冷たいのだろう。まるで右手は俺の血が通っていないようだ。これは本当に俺の手なのか。手も、腕も、肩も、
胸までが冷たい。俺は一体・・・。
「動けるか?」
はっとして顔を上げれば、何時来たのかナバールは、ドゲットの正面に立ち、心配そうにドゲットの顔を覗き込む。
「・・え?・・・・ああ。」
「大分参ってるようだが、大丈夫か?」
「平気だ。」
そう言って平然と立ち上がって見せたドゲットを、ナバールはその言葉に偽りが無いか厳しい顔で確認する。未だ吐
き気が収まらず、小刻みに震える手を気付かれないようにそっと握り合わせ、ドゲットは出来るだけ普段通りの口調
で聞いた。
「俺の馬は?」
「ゴリアテとグレンデルはこの崖の上だ。あそこから落ちて無事とは、お前は運がいい。」
運がいい。ドゲットはその言葉に思わず苦笑せずにはいられなかった。どうして崖から落ちたのか。落ちた後に何をし
たのか、まるで覚えていない。運がいい。そうかも知れん。だから余計に目覚めた直後の己の状態が、耐え難いの
だ。気が付けばナバールが気遣わしそうな眼をして自分を見ている。ドゲットは咄嗟に話題を変えた。
「この崖を登るのか?」
「いや、こちらに道がある。」
それから2人は、崖のはずれにある小道をナバールの案内で登り、2頭の馬が待つ場所まで道無き道を歩んだ。そう
急坂では無い崖の道や、草の生い茂る場所を歩き難そうに歩を進め、時折両膝に手を付き肩で息を整えるドゲット
が、ナバールは心配だった。
「館に戻ったら、夜まで休め。」
「そうするよ。」
ナバールの労いの言葉に同意したドゲットを、ナバールはじろじろと眺め回した。もう一週間も前からこのやり取りを
続けているが、アクイラに戻ればまるでそんな会話など無かったかようなドゲットの行動に、ナバールはうんざりと言
葉を繋いだ。
「・・・・信用出来ぬな。」
「心配しなくても何も出来んよ。」
淡々と只事実を告げるドゲットの言葉がナバールの心に刺さる。
「そのようだ。・・・・辛いか。」
ドゲットは無表情に顔を背けた。ナバールは少しでも、ドゲットの心を軽くしようと、先を続けた。
「隠さずともよい。俺にも経験があることだ。」
「まあ、あちこち痛むかな。」
「良く分かる。」
ナバールの気持ちが通じたのか、ドゲットの表情から硬さが取れている。ナバールはドゲットの歩きやすい方にさりげ
なく場所を譲りながら、そっとその様子を盗み見た。青い顔で脂汗をかくドゲットのあちこち痛むと言う、その言葉に偽
りは無さそうだが、控えめすぎる表現に顔を顰めた。痛むどころではないはずだ。すると急にドゲットが顔を上げ、ナバ
ールに尋ねた。
「何時までだ?」
「黒い狼はこれで3頭だ。2頭残っている。」
「2頭か。」
「手助けしたいが、お前にしか殺せぬようだ。」
ナバールの言っているのは、今までの3頭全てが、ナバールの剣を受け付けなかったことを、示していた。黒い狼は
幾らナバールが矢で射ようと、剣で切り裂こうとまるで手ごたえ無く、立ち向かってくる。それもまるでナバールなど眼
中には無く、只ひたすらドゲットだけを、狙って襲い掛かるのだ。この話は最初の戦闘の後、既にドゲットには伝えて
あったが、それでもナバールは言わずにはいられなかった。ドゲットは自嘲的な笑みを浮かべ、疲れた口調で答え
る。
「嬉しいね。」
「しっかりするのだ。あの悪魔に付け入られるぞ。」
「分かってる。」
「ならよい。」
気休めにもならない只の言葉の応酬だと、2人には分かりすぎるほど分かっていた。ドゲットはふらつく足元を見なが
ら、自問自答する。2頭。2頭いるのか。俺は上手くやり過ごせるのか。俺は元に、元の俺に戻れるのか。ドゲットは
不意に顔を上げた。
「ナバール。」
「何だ。」
「もう手遅れかもしれん。」
「何を言うのだ。世迷言を申すな。」
「違う。ナバール。俺を見ろ。分かるだろう。」
ナバールはドゲットを見るのが嫌だった。紙のように白い顔も、げっそりとした表情も、苦しげな息遣いも、その全てを
認めるのが嫌だった。これらが何を指し示すのか、思うことも口にするのも、忌まわしいのだ。ナバールは、ドゲットの
人となりを今では充分に理解していた。弱音など決して吐かないであろうこの男が、それを口にするということは、余
程のことだと、ナバールの胸は痛んだ。しかし今は一緒になって、嘆いている時ではない。ナバールはなんとかドゲッ
トを、奮い立たせようと画策し始めた。
「何のことだ。俺にはちっとも分からんぞ。」
傲然と言い放つナバールを、ふんと鼻先で笑い、ドゲットも負けじと言い返した。
「・・・・嘘つきめ。」
「お前ほどではない。寝言はダナ・スカリーに聞いてもらえ。」
スカリーの名は、ドゲットの心に響いたようだった。一瞬はっとした顔になり、続いて柔らかく微笑むと俯いた。
「遠慮するよ。」
「馬鹿め。」
「大きなお世話だ。」
ナバールはそう言って眼を逸らすドゲットを不思議そうに見詰め、急ににやにやすると、面白そうにこう言った。
「お前は狼である時の方が、人間が素直なようだな。」
「何だそりゃ。意味が分からん。」
「一昨日の夜は何やら楽しそうであったぞ。」
「覚えが無い。」
「ふむ。記憶が無いというのも、便利なものよ。」
含みのあるナバールの言葉は、ドゲットの心に引っかかった。一昨日の夜。あろうはずの無い記憶を手繰ってみて
も、何も思い浮かばず、只一昨日は雨が降っていたらしく城から出なかったと、寝台の上で目覚めた時、そう思ったぐ
らいだ。一体俺は狼に変わった時、スカリーとどんな風に過ごしているんだ。まさか危害は加えてはいないようだが。
しかし今さっきの、己がありさまに戦慄を覚え、暫し躊躇った後、掠れた声で尋ねていた。
「・・・・何か見たのか?」
「ホールを通りかかった時、声を聞いただけだ。心配するな。覗き見るような無粋な真似はせん。しかし正直驚いた
ぞ。あの気性の女が、あのように優しげな笑い声を立てようとは。」
「・・・・・・そうか。」
ほっとした顔で頷き押し黙ってしまったドゲットの横顔を見ながら、ナバールは思った。やはりこのままではいけない。
何とかしなければ。グレンデルに跨るのさえ、非常に苦労しているドゲットを、ナバールはゴリアテの馬上で、見てみ
ぬ振りをしながら待った。敢えて手助けをしないのは、それをドゲットが望まないと承知しているからだ。そうとも、これ
は誇りの問題なのだ。
 一方ドゲットは、グレンデルに跨るのさえままならない、自分の身体の不甲斐無さを罵っていた。力が入らない膝で
ようやく馬の背を挟んだ時には、ご丁寧にくらりと眩暈までする。ドゲットはぎゅっと眼を瞑り眩暈の発作をやり過ごす
と、極めて冷静な声で、静かに合図を待つナバールに戻ろうと促し、2人はアクイラへの帰途へ着いた。

 ドゲット達が戻るのを待ってから取った遅めの昼食の後、スカリーは聖堂の見取り図を出し、テーブルに広げた。4
人で見取り図を囲み、探索場所の確認をしていると、ドゲットが一言も口を開かないのに、スカリーは気付いた。ドゲ
ットの様子が気になったスカリーは、話を進めながらそれとなくドゲットに注目していたが、話の終わりにそっと声をか
けた。
「エージェント・ドゲット。今日は休んでいた方がいいわ。」
丁度その時ドゲットは、椅子の背に凭れ腕を組んで俯いていたが、その言葉にはっとして顔を上げた。
「何故だい?」
「具合が悪そうよ。さっきも殆ど食べていなかったわ。」
「ずっと馬に乗ってたせいだろう。別に大したことは無い。それより今の君の話を聞いちゃ、何もしないで僕だけ寝てる
わけにもいかないな。」
突然ナバールが、勢いよく席を立った。スカリーとイザボーが驚いて見上げれば、恐ろしい顔でドゲットを睨み、不意
に身体を翻すと窓辺へ行ってしまった。どうかしたのかと、口を開きかけたスカリーをドゲットはやんわりと遮った。
「朝ちょっと約束した予定があったんだが、そいつを破ったんでお冠なんだ。後で僕が謝っておくから、気にするな。そ
れより、さっさと聖堂を調べよう。」
「でも、本当に大丈夫なの?」
「エージェント・スカリー。何度も同じことを言わせるなよ。いいかい。僕は一刻も早く、呪いとやらを解き、自分達の時
代に戻りたい。君も昨日僕に言っただろう。時間が経てば経つほど、元の時代に戻れる可能性が無くなるかもしれな
い。少しぐらい調子が悪かろうが、動ける限りは何かしなければ、僕達に希望は無いんだ。」
お手上げだった。こうやって自分の中で決定を下したドゲットの考えを、覆すことなど不可能だった。ドゲットはにっこり
すると、こう付け加えた。
「それに、もう水路には落ちない。」
スカリーは納得しない顔でいたが、何を言っても聞きそうも無いドゲットの雰囲気に、諦めて頷いた。しかし調子が悪く
なったら止めるのと、早めに切り上げるのを念押しして、ドゲットの申し出を承諾したのだった。
 先に行くよ、と言ってホールを後にするドゲットの後姿は、FBIで何時も見かける後姿となんら変わりなく、落ち着き
自信に溢れている。スカリーは一抹の不安を感じつつも、そうも言ってられない現実に溜息を付き、礼拝堂の見取り
図を丸めると、それを携えドゲットの後を追った。ところがホールの出口近くで、いきなり後ろから強く腕を掴まれた。
何事かと、振り返ればナバールの厳しい眼差しとぶつかる。
「ダナ・スカリー。話がある。」
スカリーは不快そうに腕を振り解くと、ナバールに向き直った。
「何かしら。」
「ジョン・ドゲットにもっと気を配った方が良い。」
スカリーは思わずむっとした口調で言い返した。
「言われなくてもそうしているわ。」
「そうではない。・・・そうではないのだ。」
意外なことにナバールは、落ち着き無く視線を彷徨わせ、何かを言い淀んでいる。スカリーは常に冷静で、泰然自若
としたこの男の顔に浮かぶ、差し迫ったものに違和感を覚えた。スカリーの怪訝そうな眼差しに気付いたナバール
は、顔を強張らせると居丈高に言葉を続けた。
「俺はこの後直ぐに、インペリアスの僧院まで行かねばならぬ。出来るだけ急いで戻るゆえ、あれの側に付いていて
やれ。」
どう言う意味か問い質そうと口を開きかけたスカリーを、ナバールは遮るように言い放った。
「良いか。側にいろ。眼を離すな。」
「エティエンヌ。私もおります。心配なさらずに、早くインペリアスの元へ。先ほどの書状には、一刻も早くと記してあっ
たでしょう。急いだ方がよろしいわ。」
ナバールはやんわりと割って入ったイザボーとスカリーの顔を見比べ、不意に身を翻し、風を撒いて立ち去った。後を
見送りながら語るイザボーの言葉が、スカリーの心に静かに染み込んでいく。
「エティエンヌはあなた達が心配なのです。心痛からあのような態度になってしまうのでしょう。でもあなた達を家族の
ように感じているのですよ。」
「どうしてそこまで・・。」
「浅からぬ縁ではありませんか。」
そう哀しげに締めくくったイザボーの横顔は、儚く美しかった。スカリーはその横顔を見詰めながら、何故か胸騒ぎが
してならなかった。何故急にナバールは、あんなことを言い出したのだろう。スカリーはその答えが、喉の奥に引っか
かったまま出てこず、その不快さにうんざりと肩を落とした。






【X】
【X】

トップへ
トップへ
戻る
戻る
dog fiction top



女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理