【X】


                          ニイド (Nied)


 聖堂の地下から戻ったスカリーは、礼拝堂の祭壇の前まで来ると、落ち合うはずのドゲット達の姿が見当たらず、
眉を顰めた。結局ドゲットは一緒に調べようというスカリーの提案を、それなら自分達は二手に別れた方が効率がい
いと退け、難色を示すスカリーにイザボーも一緒なら文句はあるまいと、同意させてしまったのだ。
 何かあっても無くても、とりあえず一区画チェック終了ごとに、礼拝堂に戻って対策を練り直すという約束を忘れてし
まったのだろうか。しかし、2人が揃って忘れるなど、考え難い。残る可能性は、何かを見付けたか、何かがあった
か。確かドゲット達は司教の私邸を調べているはずだ。スカリーはちょっと躊躇ったが、やはりここは探しに行く方が
いいと決意した。例え行き違いになったとしても、この距離だ。2人を待たせても、大したタイムロスにはならないだろ
う。日没にはまだ幾分余裕がある。そう考えて踵を返し、礼拝堂の出口に向かうスカリーの背に、暢気そうな声が掛
かった。
「ねえ、誰か探してる?」
「え?」
ぎょっとして振り返ったスカリーの眼に、何時の間に現れたのか、祭壇に腰掛けた20才前後の男の姿が飛び込んで
きた。男は、よっと、弾みをつけて飛び降り、ぶらぶらとスカリーに近寄って来て、親しげな口調で話しかけた。
「ドゲットとか言う人なら、ここには来ないよ。」
「・・エージェント・ドゲットがどうかしたの?」
「エー・・・。変な呼び方だね。未来の人ってみんなそうなの?・・まあ、いいや。あの人、凄く具合が悪くなっちゃって、
立ってられないようだったから、イザボーがナバールを呼んで来てさ、離塔に連れてったんだ。」
「彼は大丈夫なの?」
「うん、部屋で眠ってる。イザボーが付いてるから大丈夫だよ。で、代わりに俺様が来たって訳さ。」
案の定体調を崩したというドゲットの元へすぐさま駆けつけたいスカリーだったが、そんなことをしても何のかんのと尤
もらしい理屈で、ドゲットに追い返されるのは眼に見えてる。そうしたい気持ちを大丈夫と言うこの男の言葉を信じ、無
理やり押さえ込むと、次に浮かんだ疑問を口にした。
「・・・あなた、誰なの?」
「俺かい?俺はフィリップ・ガストン。ほんとはこの後に、長ったらしい公爵家の名前が付くんだけど、覚えられないし、
覚えるのも面倒なんで省略。」
「公爵?・・・あなたが。」
スカリーは思わずじろじろと、フィリップの全身を眺め回した。確かに顔立ちも品があるし、着ている物もこざっぱりして
いる。しかし物腰や話し方が、公爵家の姫君だったイザボーや、騎士のナバールとは雲泥の差だ。大体祭壇に腰掛
けるなど、どういう神経の持ち主なのだろうか。するとそんなスカリーの顔色をまるで面白がっているかのように、フィ
リップが先を続けた。
「へへ。意外だろ。俺もさ。なんせ俺だって生まれてから22年間、ずっと孤児だと信じてたし、これでもいっぱしのこそ
泥だったんだぜ。でも、世の中って分かんないもんだね。ナバール達に逢わなかったら、俺も自分が何者かなんて、
多分一生分からなかったと思うよ。」
それからフィリップは、自分の生い立ちとイザボーとの馴れ初め、彼らと親しくするうち偶然出会ったイザボーの遠縁
が両親であったこと、自分はその公爵家の誘拐された跡取りだったことなどを、早口に捲くし立てた。今現在ここから
少し離れた彼の父親の領地で、何不自由なく暮らしているが、僅か一年半で窮屈な貴族の社会に嫌気がさし、何か
につけては自分の城を抜け出して、気ままな一人旅をしているのだと、やるせない口調で語った。貴族ってのは、も
っと幸せなのかと思ってたけど、当てが外れてがっかりさ。そう締めくくると、フィリップは肩を竦めた。
「じゃあ、あなたはインペリアスに呼ばれて来たのね。」
「そういうこと。でも、あの爺さんよく俺を見つけられたよな。行き先も告げずに出た一人旅だったんだぜ。」
「何故あなたが?」
「何故?やだなぁ。失礼なことを聞かないでよ、お嬢さん。」
「ダナ・スカリー。スカリーでいいわ。」
「スカリー。・・うん。何故呼ばれたかって?そんなの決まってるさ。何せ俺はあいつが司教になって、このアクイラの
牢獄を抜け出した最初で最後の男なんだ。地下水道から聖堂、牢獄の隅から隅まで俺の知らないところは無いぜ。
それに地下水道の整備にしたって、俺がいなけりゃあのナバールだって、何にも出来なかったんだ。だから何でも聞
いてよ。俺は役に立つ。」
「ありがとう。心強いわ。」
スカリーがにっこりしてフィリップに礼を言えば、フィリップは赤い顔をして、眩しそうに眼をぱちぱちさせた。俺は美人
に縁があるよな。などと不埒なことを考えて、鼻の下を伸ばしているフィリップにはお構いなしで、スカリーは既に表情
を厳しくして、見取り図を取り出すと、祭壇前の石段に見取り図を広げ、側に立つフィリップを見上げた。
「早速聞きたいんだけど、隠し部屋について何か知っている?」
「勿論。でも、そういった部屋はこの聖堂に幾つもあるんだぜ。そいつのどの部屋のことを言ってるんだい?」
そこでスカリーは聖堂の見取り図を一枚ずつフィリップに見せ、自分達の探索した隠し部屋とフィリップの知っている
それとを照らし合わせた。フィリップの記憶力は素晴らしく、どの部屋のどこそこに扉があるだの、秘密の戸棚がある
だの詳しく指摘するのだが、最終的にそれら全てを調べつくしていることが分かっただけだった。彼の出現に些か期
待していたスカリーが、相変わらず空振りかと眉を顰めれば、フィリップは元気付けようと、わざとおどけた口調で言っ
た。
「これではっきりしたね。後は簡単だよ。」
「何が簡単なの?」
「つまりあんた達も俺も、思いつくところは全部調べたんだ。だから今度は、昔の俺が思いつかなかったところを、調
べればいいのさ。」
言っている意味が良く理解出来ないスカリーは、顔を顰めた。フィリップは何かを考えながら、立ち上がると礼拝堂を
ぶらぶらとほっつき歩き、心ここに在らずと言った風情で、再び見取り図に取り組んでいるスカリーに話しかけた。
「ねえ。あんたさ、インペリアスの言う呪いの印ってどんなものだと思う?」
「分からないわ。それはあなたが聞いているんじゃないの?」
「俺?・・・うーん。何も言ってなかったよなあ。お前行って手伝って来いって。それだけさ。インペリアスも最近めっきり
耄碌しちゃって、俺を見つけた途端気が抜けて倒れちゃうし、しょうがないから僧院まで送って、同時にナバールに迎
えに来いって、使いを出したのさ。そう言えば、インペリアスがここの司教になった時、奴の出生を調べようとしたけ
ど、記録が無いって言ってたっけ。20年前突然アクイラ現れるまで、何処で何していたとかって記録が、全然無いん
だって。」
「どういうことなの?」
「ここの司教は、昔から身元のはっきりした徳の高い聖職者が、法王庁から任命されるんだけど、任命されたからに
は、司教の身元を記した書付があるはずなんだ。法王庁とその写しがここにね。でもその所在を問い合わせたら、何
処にも無いんだ。勿論、ここにだって無かった。変だろう。」
「じゃあ、司教が何者か知ってる人は誰もいないのね。」
「そう言うこと。何処で生まれて何をしてきたか、なーんも分かって無い。分かってるのは悪者ってことだけさ。うん。こ
いつは間違いないな。」
「何が言いたいの?」
スカリーの質問にフィリップは、あれ?と言う顔で呟いた。
「何だろ?」
そしてフィリップは、あきれ返っているスカリーに照れ臭そうに笑いかけた。その邪気の無い笑顔は、この青年の持つ
善良さを現し、何故こんなひ弱な青年があの強面のナバールと親しいのか理解出来るような気がする。しかし何処か
とぼけた風情のこの青年が、一体頼りになるのかならないのか、スカリーは計りかねていた。するとそんなスカリー
の気持ちなど全く頓着しない様子のフィリップは、ぐるりと礼拝堂を一回りして戻ってくると、スカリーの横に仁王立ち
して、祭壇を見上げた。
「うん。やっぱりここだな。」
何やら独りで納得したフィリップは石段を登ると、祭壇の向こう側に回りこんだ。そして立ち上がり不思議そうに見守
るスカリーの視線に気付くと、祭壇の周りをうろついたり、祭壇をあちこち触ったりしながら暢気な口調で話しかけた。
「さっきの話だけどさ。司教が何者かっていう、あれ。俺が思うに、自分が何者か分からない人間って、生きていく目
的がはっきりしないんだよね。自分が何処から来て何処へ行くのか分からない人間は、何ていうのかな、根無し草み
たいに、あっちにふらふらこっちにふらふら。丁度2年前の俺みたいに、浮ついた人間になると思うんだ。あれ?俺っ
て今でもそうか?いや、違うぞ。ちゃんと家に帰ってるもんな。勉強だってしてるしさ。」
どうやらこの青年は思ったことを全部口にしてしまうタイプらしい。そんな子供っぽい言動も、何故か憎めない特異な
キャラクターのようだ。フィリップの話はなおも続く。
「でもさ、確かにあいつは信じられないくらい悪い奴だ。だけど今言ったような、ふらふらしたところは少しもないだろ。
これってさ、自分が何者で、何を目的に生きてるかはっきりしてるってことだよね。・・・うん?何だか誉めてるみたい
に聞こえるな。・・・ええっと、俺が言いたいことはそういうことじゃなくって・・・。」
「つまり、自分が何者かはっきりしているのに、その出生が分からないということは、意図的にそれを隠してるんじゃ
ないか。そう言いたいのね。」
言葉に詰まったフィリップの後を引き取ってスカリーが補えば、そうそうと満面に笑みで答える。スカリーがフィリップ
の言うことを考えていると、祭壇の下に潜り込んでいたフィリップは、突然階段をだだだっと駆け下りて来た。見取り図
を見せて欲しいと言うフィリップに、重ねたそれを残らず渡せば、うーんと言いながら一枚づつめくって行く。何を見て
いるんだろうとスカリーが手元を覗き込めば、不意に顔を上げ、尋ねた。
「礼拝堂の見取り図は?」
「え?・・・・ああ、それなら・・。」
スカリーが重なった中から、目的の見取り図を選んで一番上に置くと、ありがとうと言ってフィリップは妙な顔をする。
「どうかしたの?」
「・・・うん。何でこいつ、こんなに皺くちゃなんだろう。これだけえらく、くたびれてるね。」
スカリーは思わず返事に詰まった。まさか、それは狼とじゃれ合ったからだとは、幾らスカリーでも言い難かった。気
まずげに視線を泳がせるスカリーの横で、既にフィリップの思考は別のところに飛んでいた。見取り図と祭壇を、首を
何度も往復させ見比べたあと、見取り図を手に再び石段を上がる。そのまま見取り図と祭壇付近を照らし合わせな
がら、様子を見守るスカリーに話しかけた。
「ねえ、インペリアスが何でここに住まないか、理由を知ってる?」
この青年の問いかけは何時も唐突で脈絡が無い。大体インペリアスという現司教は、イザボーの話でしか知らず、当
然の如く面識だって無いのだ。この捜索と質問との関連性が分からず、とりあえずイザボーから何も聞いていないの
で、知らないと首を降れば、又別のことを言う。
「さっきさ、祭壇に座ってる俺見て、どう思った?」
スカリーは脈絡は無いが、何処か確信めいた表情のフィリップの会話に合わせて見ようと決めた。
「あまり褒められた行為では無いわ。」
「ははっ。そりゃ随分優しい言い方だ。あんなところ誰かに見られたら、それこそ不信心者って、牢屋行きだよ。まあ、
ここじゃナバールがいるから、そうはならないけどね。あ、だからって俺やナバールが信心深く無いって思わないで
ね。そりゃあんなことがあったから、ナバールは神様に対して、かなり文句を言いたいかもしれないけどさ、それでも
神様を敬う心は無くして無いし、そりゃ俺も同じ。なんてったって、みんなが八方塞りだった時、助けてくれたのはイン
ペリアスだもんね。神様だって何もしてくれなかったわけじゃないだろ。・・・・・・あー・・、何の話してたんだっけ。」
「・・・祭壇に座ってるのを見てどう思ったか。って話よ。」
「ああ、そうそう。ありがとう。ええっと要するに俺が言いたいのはさ、インペリアスがここに住まない理由と、俺が祭壇
に腰掛けた理由は同じってことなんだ。」
「良く分からないわ。」
「え?そう?・・・・何も感じない?・・ふーん。未来ってあんまりいい世界じゃ無さそうだね。」
「何かを感じるの?」
「うん。インペリアスはここの司教に任命された時、始め凄く嫌がったんだ。柄じゃないとか言ってさ。だけどイザボー
に説き伏せられて渋々承知したんだ。その際この聖堂全体を清めることを条件にね。勿論その指揮はインペリアスが
取ったし、ナバールも全て任せて口を出さなかった。でも結局全部終わってみたら、ここには住まないと言い出して頑
として聞かないんだ。ナバールもしまいには匙を投げちゃってさ。勝手にしろ。でも司教の仕事はしてもらうぞ。ってこ
とになって、俺さ、おかしいと思って後から聞いたんだよ。どうして言うことを聞かないのか。だって確かにここから馬を
飛ばしたら、あの僧院までそんなに時間はかからない。だけどあんなに立派な家が聖堂にくっついてるのに、わざわ
ざ遠くて襤褸な僧院に住むなんて、どう考えたって変だよ。おまけに自分が全部清めてるんだぜ。そうしたら、インペ
リアスが言うんだ。祭壇に立つのが嫌なんだって。礼拝堂に長時間いると、気分が悪くなるんだってさ。」
「気分が?」
「そう。あ、気のせいなんかじゃないぜ。だから俺も祭壇にだって平気で座れるんだ。俺さこの2年間、1人であちこち
旅してさ、いろんな教会を見て回ったんだ。それで思ったのが、どんな教会でも、礼拝堂、特に祭壇ってやっぱり特別
なんだよね。何て言うかこう、厳かで俺みたいな人間でも、自然とその前じゃちゃんとしてなきゃって思うような、独特
な雰囲気があるんだよ。だけどここの祭壇には、そんな雰囲気これっぽちも無いんだ。確かにここの祭壇て、この付
近じゃ一番立派だよ。でもね、何かが違うんだ。」
今やフィリップは祭壇の下に完全に潜り込んでいる。スカリーはフィリップの言ったことを心の中で反芻していた。そう
言えば何故最初に現れたのが、この場所だったのだろう。呼び寄せるのなら、自分の近くの方が簡単だ。と、その時
べきべきという、何か裂けるような音がし、突然祭壇の下から素っ頓狂な声が上がった。
「ああ!あった。これこれ。」
スカリーは何事かと、慌てて石段を駆け上がり、祭壇下のフィリップを覗き込んだ。そのスカリーの目の前にフィリップ
は埃で頭を真っ白にして現れると、錆びた金属の棒を得意げに取り出した。
「祭壇に細工して隠してあったんだ。無理やり板引っぺがしたから、怒られるな。」
「何なの?」
「何だ思う?」
フィリップは無造作にそれをスカリーに手渡し、今度は床に這いつくばっている。
「鍵?・・かしら?」
「多分。普通の鍵には見えないけどね。・・ねえ、その形見たことある?」
スカリーは何処かで見覚えのある形だと、記憶を手繰れば直ぐにあることに思い当たった。
「ルーン文字だわ。」
「ルーン?」
「ええ。あなた達よりもっと昔の人たちが使っていた文字よ。確かまだ占いや呪術に使われてるはずだわ。」
「占いって、ジプシーとかが使うあれ?」
「ええ。そう言えばルーン発祥の地は、北イタリアだという説が有力だって以前聞いたことがあるわ。北イタリアはここ
からそう離れていないし、ゆかりの物があってもおかしくは無いわね。」
へえ、とフィリップは聞きながら、あちこち床を這い回っていたが、急に立ち上がり、ちょっとどいて、とスカリーを脇に
退かせ、祭壇に手をかけ思い切り押し始めた。スカリーは言われるがままに脇によけたが、とうの祭壇の方は幾らフ
ィリップが押してもびくともしないので、一緒に押そうと手を貸した。2人が息を合わせて渾身の力で押せば、何度目
かで祭壇は、ぎぎぎぎ、と音を立て動き出し、やっとのことでその場から離れたところに移動させることが出来た。
 フィリップは再び屈むと、祭壇のあった床の上を両手で擦り始め、スカリーもそれに習えば、やがて溜まりに溜まっ
た土埃の下から、妙な窪みが手に触った。2人ははっとして顔を見合わせると、急いで土埃を掻き出す。2人がかり
では、あっという間に窪みは正しい形を、そこに示した。それは直線の長い窪みのほぼ真ん中に、やや斜め右下がり
に短い窪みが重なり、さながら出来損ないの十字架のような形をしている。フィリップに目配せされたスカリーが、そ
こに先ほどの金属の棒を嵌め込めば、ぴったりと収まった。
 その時、そう大して強く押し込んだわけでも無いのに、かちりという音が聞こえ、不意に今祭壇があった床から、しゅ
うっと空気が漏れ、煙のように埃が立ち上る。何事かと固唾を呑んで見守る2人の目の前で、埃の立った場所が突
如、がたん、と四角く欠落したのだ。
 すぐさま2人は近寄ると、屈みこんで床にぽっかり開いた四角い穴を覗き込んだ。床は丁度開き戸のように下に向
かって開いている。覗き込んだ先は真っ暗で何も見通せない。灯りを取ってくる、と駆け出したフィリップは、スカリー
が顔を上げた時には、既に手燭を二つ携え、石段を駆け上がって来るところだった。
 2人は視線を交わすと深く頷きあった。フィリップは俺が先に行くと、スカリーの返事も待たず、まず床から伸びる石
段に足を踏み入れた。スカリーは自分よりひ弱そうな青年を先に行かせるのが、なんとなく不安だったが、この時代
の風習を思えば、彼の先を歩くわけには行かないと、黙って後に従った。蝋燭の灯りにぼんやり見えるフィリップの背
中から声がする。
「足元に気をつけて。結構狭いよ。」
「ええ。大丈夫よ。でも良くここだと分かったわね。」
「ああ。それ。地下水道の見取り図を見るとさ、聖堂の下にも無数に流れてる水路が、この真下だけ無いんだ。それ
に、さっきも言ったけど、たくさん教会を見てるとね、こういう隠し部屋って案外人の出入りの多いところにあったりする
んだよ。それに司教が頻繁に礼拝堂を出入りしたって誰も怪しまないしね。まあ、そんなことをインペリアスの僧院か
ら、アクイラに着くまでずっと考えていたんだけど、当たったみたいだ。でもさ、喜ぶのはまだ早いよ。」
「そうね。問題はこの先にあるものだわ。」
「そういうこと。」
 程なくして階段が途切れ今度は人1人が、やっと通れるほどの細い通路に変わった。通路といっても、岩盤をくり貫
いただけのトンネルで、何やら生臭い淀んだ空気が2人を包み、狭いだけではない息苦しさがお互いを差し迫った気
分にさせる。何でもいい。とにかく一分一秒でもここに長居したくない。そんな重苦しい気配がひしひしと感じ取れるの
だ。あ。フィリップの声にスカリーは立ち止まった。
「どうしたの?」
「扉が。」
フィリップの翳す灯りに照らされ、鉄で縁取られた分厚い木の扉が見える。フィリップはがたがたと扉を揺らし開かな
いことを確認して、スカリーを振り返り、鍵が掛かってる、と呟いた。もしかしたらとスカリーが、先ほどの入り口の鍵を
取り出せば、フィリップは神妙な顔で受け取り、ドアノブ下の鍵穴に、その先端と思しきところを鎖しいれた。案の定、
扉からかちっと微かな音が聞こえた。一瞬身体を硬くしたフィリップは、鍵が開いたことを悟り、厳しい声でスカリーに
言った。
「開けるよ。」
「いいわ。」
フィリップは意を決すると、重い扉を肩を使って押し開き、手燭を翳しながら恐る恐る中に踏み込んだ。その途端、もの
凄い悪臭に思わず片手で顔の下半分を押さえた。振り返れば後に続くスカリーも同じ仕草をしている。
「臭いな。何だろう。」
既に辺りを見回し部屋の中央にあるテーブルの上に手燭を置いたスカリーは、テーブルの上の物を物色しながら上
の空で答えた。
「ああ。原因はあれでしょう。」
スカリーの指し示す先には何百とある獣の生皮が、腐臭を放ち積み上げられている。フィリップは恐々そこに近づき、
灯りでよくよく照らせば、全部が狼の毛皮と気付き、げえ、と妙な声を出した。蛆が湧いてら。そう言ってフィリップはち
らりとスカリーを振り返った。
 一方スカリーはと言えば、普段から検死解剖で悪臭に慣らされ、こんな臭いはものともせず、既に捜査に没頭して
いる。何だか凄い人だなと、感心するフィリップの眼に、灯りにぼんやりと浮かび上がったスカリーの横顔は、近寄り
がたいほど美しく映った。思わず見とれたフィリップだったが、こんな事をしてる場合じゃないと我に返り、今度は壁に
作られた棚に移動し、彼は彼で何か手がかりになりそうなものは無いか、調べ始めた。
 スカリーはテーブルに広がる古びた紙束に眼を通していた。その殆どは呪術と呪法に関する記述で、悪魔と取引す
るに相応しい男の、禍々しい栄光の記録とも言えた。そうやって手に入れた地位と、富、栄華を誇った生活を、この男
は全てイザボーとナバールに、奪い去られたのだ。彼の復活の目的は何だろう。ナバールとイザボーに復讐する
為?それとも何か他に目的があるのだろうか。
 黄ばんで掠れた文字を熱心に読み解くスカリーの元に、フィリップが分厚い綴じ込みを携えやって来ると、ちょっとい
いかなと、遠慮がちに話しかけた。
「あそこの棚にこういう綴じ込みが一杯あってさ、何かと思えば下の牢獄の囚人達の記録なんだ。で、俺の記録もあ
るのかなって探してたら、面白い記録を見つけたんだ。」
「何なの?」
「うん。今から60年ぐらい前の記録でさ、悪い占い師の女が牢獄の中で赤ん坊を産んでる。でもその女は赤ん坊を7
年間も、看守から目から隠し通したんだ。7年目に女が病気になって、初めて子供の存在が発覚したんだって。で、
女はその後、長い間その事実を隠していたからと言って、なんの治療もせずに放置され間もなく死んでしまったん
だ。」
「酷いわ。罪人とは言えそんな理由で治療を放棄するなんて・・。」
「うん。でもまあ、異教徒だし、昔はみんなそんなもんだったって、インペリアスから聞いたよ。ナバールみたいに、ど
んな人間でも真っ当に扱う領主は、滅多にいなかったってさ。でね、面白いのはこの先なんだ。孤児になった子供
は、言葉を話さず獣のようで母親の死亡直後、看守の目を盗み失踪しているんだけど、子供の特色の記述によると、
左胸に奇妙な痣があったんだって。その痣の形をここに記してあるんだけど、何だと思う?」
そう言ってフィリップは、綴じ込みをテーブルに広げ、自分の手燭を良く見えるように近くに移動させた。スカリーが覗
き込んだそこには、例の鍵と同じ形がはっきりと記されている。スカリーはその途端、何かが頭に閃くのを覚えた。今
調べた紙束の中で、何かが引っかかったのだ。スカリーは問題の紙を探そうと、あちらこちらをひっくり返し始めた。勢
い余ってテーブルの上のものが、幾つか床に落ちたが、そんなことに構っている場合ではない。あの形。あれに意味
があるのだ。間違いない。
 スカリーはようやく一つの黄ばんだ羊皮紙を手に取った。それはルーン文字について書き記したもので、一つの文
字の横にびっしりと事細かく文字の持つ意味や効力が書き込まれている。スカリーが上から手で文字をなぞり、鍵と
子供の痣と同じ形を持つ文字を探せば、羊皮紙のほぼ中央にその文字を見つることが出来た。スカリーの指が止ま
ったのを見て、床に落ちた物を拾い、手に持っていたフィリップが、些か興奮気味に尋ねた。
「何て書いてあるの?」
「この文字についての記述よ。文字の読み方は、Nied(ニィド)。文字の意味は必要性、苦難、束縛、抑制の必要性、
欠乏を表す。又、物質的、精神的貧困も示す。この文字の魔力は、成功を勝ち取る時に効力を発揮し、それも必要不
可欠で手に入れることが不可能なものに、絶対的な力を持つ。とあるわ。」
「へえ。こいつそんなに沢山の意味があるの。でも、それと司教とどういう関係が?」
「これは多分、司教の本当の名前よ。」
「じゃあ、この失踪した子供が司教だって言うんだね。そうだな。確かに年齢も合うし、何より痣と鍵の形がそっくり
だ。・・・え?ちょっと待った。そうなると司教って、ここで生まれたことになるんだ。アクイラの牢獄は、司教の生まれ
故郷ってことになるの?」
「そう言うことになるわね。」
スカリーはそう呟いた後、俯いて考え込んだ。20年前突如この街に現れた成長した異教徒の子供は、何故かキリス
ト教の司教になっていた。司教が現れてからこの街は、繁栄するが一方で恐怖と悪が蔓延し始める。スカリーは、は
っとして顔を上げた。恐ろしい事実が閃いたのだ。ところがそんなスカリーの隣で、フィリップは手にした小さな鉄の箱
の蓋を開けようと、躍起になっていた。スカリーが必死に思考を纏めようとしているのに、箱を叩いたり落としたり、や
かましいことこの上ない。あまりのうるささに、スカリーは咎めるような口調で、フィリップに声をかけた。
「ちょっと、何をしているの?」
「え?ああ、この箱。何か気になってさ。中に何か入ってるんじゃ無いか調べようと思って。」
「だからって叩いたりしても、開かないわよ。鍵穴があるわ。鍵が掛かってるんじゃないの?あの鍵は?」
「やってみたさ。でもほら、全然駄目。」
フィリップは口を尖らせ、スカリーの前で鍵を鎖しこみ証明して見せた。スカリーはちょっと考えて、アドバイスを与え
る。
「反対側は?」
フィリップはなんでそれに気付かなかったんだろうという顔つきで頷くと、反対側の短く頭の出た先端を鎖しいれ、回
す。すると不思議なことに、ぱかりとひとりでに蓋が開き、中には小さく丸めた羊皮紙が入っていた。蜜蝋に例の文字
で印が押され封印された羊皮紙をスカリーは取り出し、おもむろに広げて読み始める。フィリップの目の前で、読み進
めるスカリーの顔色が、見る見るうちに真っ白に変わって行き、羊皮紙を持つ両手が小刻みに震え出した。尋常では
ないスカリーの様子に、フィリップは駆け寄り手元を覗き込んだその時だった。急に辺りが、まるで真冬のように凍り
つき、重力が倍になったような空気が、重く2人を押し包んだ。思わず不安げに辺りを見回す2人の視線が、狼の腐っ
た毛皮の山で止まった。何かが動いている。
 何処から這い出して来たのか、毛皮の山のてっぺんに気味の悪い虫達がうじゃうじゃと集まり、灯りを翳す2人の
目の前で、あっという間に、何かを形成し始める。腐った毛皮に足が生えた形で、虫達はがさごそと音を立て、まるで
そこに人がいて、その上を這い上がるかのように、見る見るうちにほぼ完璧な人を形造った。
 じわじわとこみ上げる恐怖は、2人の動きを封じ、この類の状況には何度か陥ったことのあるスカリーさえ、おぞまし
さと気味悪さに声も出無い。ずっと震えの止まらないフィリップの持つ手燭は、ちらちらと影を揺らし、小さく蠢く虫の集
合体の不気味さを嫌が上でも倍増させる。
 逃げた方がいい。頭では必死に願うのに、足が動かない。身体中を冷たい汗が流れ、喉がからからで声が出無
い。まるで金縛りにあったかのように2人は眼を見張ったまま、人型の集合体を見守り続けた。ふっと一瞬、虫達のぎ
ちぎちいう音が途切れ、顔と思しきところに、充血した眼が、かっと開いた。と、同時にいきなりその口が開き、辺りを
揺るがす大音量で凄まじい叫び声が、2人の耳をつんざいたのだ。
「邪魔をするなあっ!!」
叫んだ口の中から、生臭い突風と共に虫の大群がスカリーたちに襲いかかった。しかし声を引き金に、一気に金縛り
状態から解き放たれた2人は、一目散に扉へと向かって突進する。風はスカリーたちの蝋燭の火を虫に引火させ、火
の点いた虫は部屋中を飛び交い、火は散乱した紙切れに燃え移り、あっという間に部屋中炎の海と化した。
 瞬く間に背後に迫る炎と煙を遮断しようと、重い扉を2人がかりで締める彼らの耳に、気味の悪い哄笑が聞こえ続
ける。2人は素早く扉を閉め鍵を掛けると、真っ暗闇のトンネルを抜け石段を駆け上がり、礼拝堂の壇上に這い出ると
床の扉をきっちりと閉めた。そしてスカリーはすぐさま立ち上がると、未だ恐怖に震えへたり込んだフィリップに、掠れ
た声で礼を言った。
「ありがとう。おかげで助かったわ。」
身を翻して石段を駆け下りるスカリーに、ようやく追い縋ったフィリップが、何処へ行くのかと問えば差し迫った声で、
短く答えが返った。
「彼を止めなくては。」
しかし、聖堂から出た途端スカリーは、ああ、と絶望的な呻き声を上げた。外は既に闇。スカリーは唇を噛むと、城に
向かって走り出していた。

 ナバールの城に到着した時、何故か城の門にはイザボーが1人出迎えに立っていた。切羽詰った様子で、息せき
切って駆け込んだスカリーにイザボーもやはり、深刻そうな顔でこう告げた。
「先ほど聖堂の方から、虫の大群が飛び立つのを見ました。何かあったのですか?」
「エージェント・ドゲットは?」
「眠ったまま狼に変わり、既に城を出た後です。」
その言葉が終わらない内に、スカリーは踵を返すと走り出した。後に続くイザボーとフィリップが、叫ぶ。
「何処へ行くのです?」
「厩舎よ。」
「ナバールの後を追いかけるの?」
「ええ。エージェント・ドゲットを止めなければ。」
スカリーの横にフィリップが並び、簡潔に尋ねる。
「一刻を争うんだね。」
「そうよ。」
「馬で後を追うんだ。」
「ええ。」
「馬に乗れるの?」
「分からないわ。」
ひゅっと口笛を鳴らし、フィリップはにっこりして提案する。
「じゃあ、俺の出番だ。あんたは俺の後ろに乗ればいい。」
「でも・・。」
「狼の追跡なら慣れてる。任せてよ。」
気がつけば厩舎の前で、フィリップはスカリーに待っててと言い捨て、さっさと馬を連れに行ってしまう。スカリーは確
かにその方が効率がいいと、気持ちを切り替え、不安げな顔でことの成り行きを見守るイザボーに指示を出した。
「今は説明している暇が無いので、このまま行きます。あなたは私達が帰るまでに、インペリアスをここに連れて来
て。彼にどうしても聞きたいことがあるの。彼の力が必要なのよ。」
「でもインペリアスは具合が・・・。」
「ああ、ちょっと疲れただけなんだよ。半分はものぐさ病だ。今頃酒食らって大鼾だろ。朝には治っちまうさ。」
イザボーの言葉を遮りながら出てきたフィリップは、如何にも足の速そうな栗毛に跨っている。フィリップがスカリーに
手を差し伸べ、自分の後ろに引っ張り上げると、イザボーは厳しい表情のスカリーにある方向を示し、きっぱりとした
声で告げた。
「ナバールは東に向かいました。インペリアスのことはお任せください。明日の朝には彼の話が聞けるでしょう。」
スカリーとイザボーが頷きあうのを確認し、フィリップは馬首を東に向け、注意を促した。
「駆けるよ。落馬しないように、しっかりしがみ付いてててね。」
スカリーがフィリップの胴に回した両手に力を込めた途端、フィリップは馬に鞭を入れ、栗毛は飛ぶように東に向けて
駆け出していく。その後姿を見送るイザボーも又厩舎に入り、愛馬に鞍を置けば、白馬はイザボーの不安を気遣うよ
うに、柔らかな鼻面でそっとイザボーの頬を押した。しかしイザボーは、心の中に広がる不吉な影を振り払えず、長い
溜息を付いたのだった。


 どれほどの時間馬を走らせただろうか。スカリーはフィリップの背中で、じりじりするような焦燥感と戦っていた。確
かにフィリップは殆ど迷うことなく、確実に狼の後を追いかけていた。数回見失うことがあっても、馬を降り素早く辺りを
見回り、直ぐに足跡を探し出す腕は、そんじょそこらの猟師より優秀かもしれない。しかしスカリーはそれでも時間が
無いと焦れていた。
 時が経つにつれ、その狼の通過地点には、彼らの戦闘の後が色濃く残り始めていた。それは数滴の血痕に始ま
り、徐々にはっきりと形あるものへ移行する。形あるもの、即ち狼の死骸だ。喉笛を喰いちぎられたものや、剣で切り
裂かれたものなど、進めば進むほどその戦闘の凄まじさを物語る無残な躯となり、荒らされた大地に転がっている。
 辺りに立ち込める血の臭いが次第に濃くなり始めた時点で、馬が怯えて立ち往生し、仕方なくフィリップは馬から降
り手綱を引き、歩いての追跡となった。しかしそのフィリップでさえ、度々血溜まりに足を滑らせ転倒しかけたり、千切
れた狼の身体に蹴躓いたりと、足元がおぼつか無い。何度目かに体勢を崩し馬の首にしがみ付いて難を逃れたフィ
リップは、忌々しげに毒づいた。
「酷いな。こりゃ。血の海だぜ。」
言った後フィリップは、しまったという顔で唇を噛んだ。スカリーを見上げれば、林を抜ける月明かりにも、はっきり分か
ると憂いを含んだ眼差しで、フィリップを見下ろしている。フィリップはスカリーの心情を察し、消え入るような声で謝っ
た。
「ごめん。」
スカリーは力なく微笑んで、首を振った。フィリップが言いたくなるのも無理は無い。それほどに酷い殺戮の道だった。
しかもその半分以上は、狼に仕留められたと、はっきり識別出来るのだ。これをしたのが、狼に姿を変えられたとは言
え、あの穏やかな声で話す男の仕業とは、俄かには信じられない。
 だがそんなことよりも、この現状に置かれているドゲットを思うと、スカリーの胸は苦しくなるほど痛んだ。毎晩ドゲッ
トはこんなことを繰り返していたのだ。幾ら目覚めた時記憶が無くとも、この激しい戦闘が彼の精神と肉体に、影響を
及ぼさないわけが無い。
 スカリーは心の中で自分を罵った。なんということだろう。ドゲットが日々衰弱していたのは、感じていた。けれど、そ
れを自分は軽く見ていたのだ。ドゲットがその類のことを、何時も自分から隠そうとすることは先刻承知だったのに、
迂闊にもそれを見過ごすとは、一体自分は今まで、彼の何を見ていたのだろう。だが、今はそんなことを愚痴ってい
る暇は無いのだ。直ぐにでもこれを止めさせなければならない。スカリーはきっとして顔を挙げ、フィリップに声をかけ
た。
「まだ追いつかないの?もう随分と死骸の数が増えたわ。」
「うん。近づいてるはずだ。ほら、見てよ。死骸から湯気が立ってる。殺されてからまだ間もない証拠さ。」
「早くしなければ。夜明けまでには絶対に間に合わせたいわ。」
うん。とフィリップが神妙な顔で頷き、更に馬を進めようとすれば、突然馬は怯えたように暴れ出し、宥めようとするフィ
リップの手綱をもぎ取り、鋭く嘶いて後ろ足で棒立ちになってしまった。慌てて鞍にしがみ付こうとしたスカリーだった
が、次の瞬間にはどっと地面に投げ出されていた。フィリップは手から離れそうな手綱を既のところで捉え、素早く手
に何重も巻きつけ、どうどうと言いながら、落馬したスカリーを覗き込んだ。
「大丈夫?怪我は無い?」
「・・・平気よ。茂みがクッション代わりになったみたい。」
腰をさすりながら起き上がったスカリーの様子に、ほっとした顔でフィリップは馬の手綱を近くの木の枝に結びつけ、
馬を落ち着かせようと、首をさすりながら優しく声をかけた。しかし神経質に足踏みを繰り返し中々落ち着かない馬の
様子に、フィリップも何か異変を感じ、警戒しながら林の奥に視線を走らせ、立ち上がったスカリーもフィリップの横に
並び、眼差しを鋭くして口を開きかけた。すると、しっ、とフィリップが手で制し耳を澄ませる仕草をする。同じく耳を澄
ませたスカリーは、特に何も異常な音を聞き分けられず、沈黙に耐えかねそっと囁いた。
「何か聞こえるの?」
「・・・うん。・・ほら、今。」
耳を澄ませる2人は、木立を抜ける風の音の中に、微かに聞こえる小さな音を聞き分けた。その音は見る見るうちに
2人に接近して来る。今やはっきりと聞き分けられるそれは、身の毛のよだつような複数の獣の唸り声だった。2人は
顔を見合わせた。
「こちらへ来るわ。」
「危険だ。ここにいちゃ駄目だ。」
「何を言うの!却って好都合よ。」
「何言ってんだ!!声だけでも分かる!あんな沢山の狼。見つかったら食い殺されるぜ。」
「でも中にエージェント・ドゲットがいるのよ。彼を止めなければ。」
「無理だよ!とにかく今は離れた方がいいって!」
そうやってぐずぐず押し問答している2人の目の前に、突如茂みの中からもんどりうって、手負いの狼が飛び出した。
茶色い毛並みの狼は、直ぐに2人に気付くと恐ろしい唸り声を発しながら、牙を剥き飛び掛かる。咄嗟にスカリーを庇
ったフィリップだったが、間違いなく庇った腕に狼の牙が食い込むだろうと、観念して眼を閉じた。
 だがまさしく狼の生臭い息遣いが、フィリップの腕に感じられもう駄目だと思うその時、彼の背後を白い影が風を撒
いて飛び越し、茶色の狼に体当たりした。ぎゃん。と悲鳴を上げ遥か後方に跳ね飛ばされた狼の喉笛を、一息で噛
み切り絶命させた胸の白い狼に、スカリーは見覚えがあった。
「エージェント・ドゲット!!」
しかしスカリーの叫び声は、次々と茂みから現れる10頭あまりの狼の咆哮に、虚しくかき消された。すぐさま狼に駆
け寄ろうとするスカリーを、フィリップはありったけの力で押し止めた。目の前では1頭対10頭の凄まじい死闘が繰り
広げられようとしているのに、そこに飛び込むなど、正気の沙汰ではない。
 スカリーはフィリップの手を振り解こうともがきながら、胸が潰れるような思いで、狼の戦う様を眼で追った。白い鼻
面を赤く染め、次々と襲いかかる狼の群れを、1頭又1頭と青い瞳の狼は圧倒的な強さで倒してゆく。しかしその狼さ
え、無傷ではない。肩先から血を流し、白い足は4本とも血まみれだ。後ろ足の動きが少しおかしいのは、腿につい
た大きな噛み痕のせいだろう。
 こんなことをさせてはいけない。血まみれで戦う狼の姿にスカリーは居ても立っても居られなかった。フィリップを力
いっぱい突き飛ばし、だだっ、と踏み出したスカリーの前に、群れの1頭が気付きのっそりと振り返った。思わず固ま
るスカリーに、地面を蹴ってジャンプした狼は、しかし中空で悲鳴を上げ彼らの目の前で体勢を崩したまま落下する
と、絶命していた。何事か起きたか分からず呆気に取られる2人の前に、蹄による地響きと共に、茂みの奥からゴリ
アテが、神の如くその巨体を出現させたのだ。
「お前達!ここで何をしておるのだ!?」
弓を携えたナバールは、呆然と立ち尽くす2人を、恐ろしい剣幕で怒鳴りつけた。スカリーはその時ほど、ナバールが
心強く映ったことは無かった。毅然と顔を挙げ、声を張り上げた。
「ナバール!彼を止めて!戦うのを止めさせて!」
「何を言っている!?」
「戦わせてはいけないのよ!これは全て司教が仕組んだことなの。夜が明けてからでは、遅いのよ!!」
スカリーの言う意味は分からなかったが、その必死な形相から、ナバールはこの女が、何か重要な事実を掴んだに
違いないと確信した。しかしその時ちらりと視界に入った東の空が、白々と明るくなり始めるのを認め、続いて視線を
転じ残すところ3頭になった狼が、その死闘の場所をさらに林の奥へ移動させる様を知り、舌打ちすると無念そうにス
カリーに言い放った。
「もう遅い。間に合わぬ。お前達はここから決して動くな。よいか。俺が呼ぶまで断じて来てはならぬ!分かった
な!」
ナバールはスカリーの返事を待たず、手綱を引き絞ると既に姿が見えない狼達を追い、走り去って行った。後に残っ
たスカリーは、両手を胸の前で握り締め、白み始めた空を仰ぎ、祈りとも取れる言葉を呟いていた。
「どうか。・・・どうか間に合って。エージェント・ドゲットを助けて。」

 たった今の死闘が嘘のように、林は静寂に包まれた。危険が去ったのを察知したのか、栗毛はのんびりと草を食
み、次第に明るくなる空は、何事も無かったかのように美しい朝焼けを見せている。だが視界がはっきりするにつれ、
辺りに散乱する獣の死骸は、嫌が上でも2人の眼に入り、むっとする生臭さと眼を背けたくなる惨状に、お互い所在
投げに空を仰ぐしかない。
 フィリップは栗毛の近くの大きな木の根に座り、苛々と歩き回るスカリーを眺めていた。時折獣の咆哮が聞こえ、そ
の度にスカリーは身体を硬くして林の奥に足を向ける。が、直ぐに思い直して、落胆したような顔で元の場所に戻って
来た。フィリップはスカリーの悲しげな表情を観察し、ドゲットと言う男がちょっぴり羨ましかった。こんなに心配される
なんて幸せな男だ。
「ねえ。座って待ったら?ナバールが呼ぶのを待つんだろ。」
スカリーの張り詰めた気を、少しでも紛らわそうというフィリップの気遣いは、逆効果になってしまった。刺すような眼
差しでフィリップを一瞥したスカリーは踵を返し、林の奥へと分け入ってゆく。慌てたフィリップは栗毛を乱暴に引いて、
スカリーに追い縋ると、腕を掴み引き止めようとした。
「待てよ。ナバールの言った事。忘れたのかい?」
「離して!」
スカリーはフィリップの手を振り解くと、彼には見向きもせず、ずんずんと足を速める。
「止めなよ。ナバールには何か考えがあるんだ。戻ろうよ。」
「いいえ。彼は私の助けが必要なはずよ。」
「ナバールが付いてるんだ。きっと無事さ。」
「何を言うの?見たでしょう。あんなに怪我を・・。」
不意に口を噤んだのは胸が一杯になって言葉が出なかったからだ。そんなスカリーに、何か言葉をかけようとしたフィ
リップの横顔を、一条の光の線が照らす。夜明けだ。
 光と共に静寂を切り裂いたのは、まるで断末魔のような男の叫び声だった。スカリーは弾かれたように駆け出した。
聞き覚えのある声は、既に獣のものではない。魂から搾り出すような、苦しげな叫び声は尚も続き、スカリーの胸を責
め苦のように苛んだ。林の枝をかいくぐり、茂みを掻き分け一刻も早くと、目指す人影を探すスカリーの前が不意に開
け、ぽっかりとした空き地が広がった。強烈な血の臭いと共に、間近で聞こえた叫び声は、スカリーをその場へと導い
ていった。
 2頭の狼の死骸の向こうに彼は居た。うずくまった彼の身体を、ナバールが毛布できっちりと覆い両肩を揺すって、
名前を呼んでいた。放心したように虚ろな眼をする彼の足元にある、あれは何だろう。スカリーは吸い寄せられるよう
に、足を進め、何か見極めようと目を凝らした。
 何か分かった瞬間、スカリーは何故ナバールが来るなと言ったのか、全てを理解していた。それは、腹を食い破ら
れ、内臓と血を大量に撒き散らした、人間の死体だったのだ。そしてその散乱した人間の残骸と血溜まりの真ん中
で、未だ顎から血を滴らせているのが、ドゲットだった。
 何と言うことだろう。スカリーはあまりの惨状にショックを受け、ふらふらと足を踏み出せば、びちゃりと血の海が音を
立てる。その音にはっとしたナバールが、スカリーの姿に気付き、ドゲットの両肩に置いた手から一瞬力が抜けた。来
るな、と言いかけたナバールの声は、スカリーの耳には届かなかった。
 何故なら不意にドゲットが、獣のような唸り声を上げ、身を翻しナバールの背後から首に腕を巻きつかせ、恐ろしい
力で首を締め始めた為だ。見る見るうちに真っ赤な顔になったナバールは、両手でドゲットの腕を解こうとするが、びく
ともしない。止めさせようと、声を限りに名を呼ぶスカリーを、見向きもしない無表情なドゲットの姿は、最早彼らの良く
知る男では無かった。
 早くドゲットを何とかしなければ、ナバールはこのままでは死んでしまうだろう。スカリーは駆け寄ると、ドゲットの側
に膝を着いた。何かがぐちゃりと潰れ、ぬるぬるとしたおぞましい感覚と共に、足が濡れてゆく。こんな中では正気を
保つ方が、難しい。スカリーはドゲットの腕に手をかけ、ナバールから離そうと力を込めた。ドゲットを正気に戻そうと、
何度も止めてと叫んだ。だが、その声もあっさりと途絶えてしまう。
 スカリーは始め何が起こったのか理解出来なかった。だが、自分の首から伸びた血まみれの腕は、ドゲットへと続
いている。スカリーは愕然とした。そんな馬鹿な。ドゲットが私に手をかけるなんて。スカリーはドゲットの片手を離そう
ともがきながら、必死で助けを求めた。掠れた声で、正気に戻ってと訴える。けれど、ドゲットの瞳に自分の姿が映ら
ないことを知り、薄れ行く意識の中で、絶望的に問いかけた。
「あ、あなたは・・・だ・れ?」
不意にドゲットの腕がびくりと揺れた。スカリーは、何かがドゲットに起こったと確信し、更に言葉を続ける。
「負けては・・・駄目よ。エージェント・・・・ドゲット。」
いきなりナバールとスカリーは、勢い良く濡れた地面に投げ出された。ごほごほと咳き込み、急いで肺一杯に空気を
取り込んだスカリーは、ドゲットを振り返った。
 ドゲットはまさに正気に返りつつあった。憑き物が落ちたような顔で血溜まりに膝立ちしたまま、呆然と両手に眼を
落とす。真っ赤に染まる両手を半ば不思議そうに眺め、続いて顎から滴る雫を、手の甲で拭い、それが赤いことを認
め、愕然と眼を見張った。続いて己の周りの惨状に視線を転じ、はっ、と息を止めた。
 そして視線の行き着く先に居たスカリーと眼が合った途端、ドゲットの身体が小刻みに震え出し、肩で大きく息をし
始める。ドゲットは何か信じられないようなものを見るようにスカリーを見た後、スカリーの首にくっきりと残る赤い手形
に、恐る恐る自分の手に視線を戻した。あっ、と気付き慌てて首を隠したスカリーだったが既に遅かった。
 両手で髪を掻き毟り、声になら無い叫びを上げ、大きく仰け反ったまま身体を硬直させ、ドゲットはその場に昏倒し
ていた。ドゲットの僅かに残った、精神の均衡が破れたのだ。スカリーはその姿に顔を背けた。駆け寄って、手当てを
すべき医者であるはずなのに、動くことが出来なかった。私はここにいてはいけなかった。この姿を見てはいけなかっ
たのだ。自責の念が彼女をその場に縛り付けた。
 喉をさすりながら立ち上がったナバールは、ぐったりとしたドゲットの身体を丁寧に毛布で包み直し、そっと抱き上げ
た。ゴリアテの向こうに、グレンデルと栗毛の手綱を握り締め、やるせなく立ち尽くすフィリップの姿を認め、視線を交
わし頷き合った後、その場に腰を落とし、俯いたスカリーに静かに声をかければ、小さな肩が僅かに揺れた。
「アクイラに戻るぞ。ダナ・スカリー。立てるか?」
「ええ。大丈夫よ。」
立ち上がったスカリーの、背けた頬に光る濡れた筋に、ナバールは、おやっと、眼を止めた。成る程と、ナバールは頷
き、意識の無いドゲットを見下ろして、心の中でそっと話しかけた。


 大丈夫だ。必ず乗り越えられよう。お前は独りでは無い。 





【Y】
【Y】

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