【Y】


                            茨を負う


 人目に付かないよう裏門から入ったドゲット達を、イザボーは黙って迎え入れた。離塔の客室に入るまで誰にも会
わなかったのは、イザボーが気を利かして人払いをしたせいだろう。重い足を引きずるようにして部屋に入れば、ナバ
ールはドゲットを抱えたまま振り返り、先ほどから口を利かないスカリーにこう言った。
「ジョン・ドゲットの身体を洗ってやろう。お前も汚れを落として来るがよい。」
「彼の面倒は私が見ます。」
ぱっと顔を挙げきっぱりとした声で答えたスカリーをナバールはじっとを見詰め、一呼吸後に決定打を放った。
「その考えは、賢明とは言えぬな。」
聞いた途端泣きそうな顔で俯くスカリーを、不憫に思ったのかナバールは、かつて無い優しい口調で付け足した。
「案ずるな。お前の仕事を奪いはせぬ。手当ては任せるが、その有り様では支障が出よう。俺もこれが済んだら、一
風呂浴びるつもりだ。」
諭すように言ったナバールは、スカリーの後ろに控えていたイザボーにそっと目配せを送る。イザボーは小さく頷くと、
さあ、こちらへと、項垂れるスカリーを別室へと誘って行った。ナバールは名残惜しそうにドゲットへと視線を送り、肩を
落として部屋を去るスカリーを見送り、目覚める気配の無いドゲットに視線を移し、憂いに満ちた声で独り言ちた。
「上手く行かぬな。」

 イザボーに案内された部屋には既に湯を張った風呂桶が用意されていた。終わったら声をかけて下さい、と告げて
イザボーは何も聞かず出て行った。後に残されたスカリーは汚れたドレスを脱ぎ捨て、たらいにくみ出したお湯で、肌
にこびりついた泥と血を丹念に擦り落としてから、湯船に浸かり膝を抱えた。
 こんなことは初めてだった。彼女は捜査官であり医者だ。ましてや病人や怪我人のいる前では、例えそれがどんな
場合においても、捜査官や個人としてよりも、医者であることが優先されていた。それは別に意識してそうしているわ
けではなく、身体が勝手に反応してしまうのだ。そんな時ふと天職を間違えたかなと、思う時もあったが、その時は既
に首までX−ファイルに浸かっており、何を今更と些か自嘲気味にそれを打消しもした。
 けれどそうやって、医者として素早く反応できる自分を、スカリーは結構気に入っていた。いや誇っていたと言っても
いい。自分の捜査官以外の能力が、数々の局面で役立つたびに、その思いは強くなっていた。そう、これまでは。
 スカリーは両手で湯をすくい、顔にかけた。しかし、かけた両手で顔を覆ってしまったのは、込み上げる嗚咽を必死
で堪えなければならなかったからだ。眼を瞑れば倒れる寸前のドゲットの表情がありありと脳裏に浮かぶ。
 ナバールの言うことを聞いて、待てば良かったのか。けれどスカリーには、直ぐに伝えなければいけない重要な話
があった。是が非でも戦いを止めさせなければいけない理由があった。
 全ては必要に迫られ取った行動なのだ。だがそれが却って裏目に出た。あの場に自分がいたことによって引き起こ
された、ドゲットの精神的打撃は計り知れない。あの眼。スカリーは瞬時に何をしたか悟った時のドゲットの眼差し
が、心に焼き付いて離れない。あんなに怯えた眼をしたドゲットをスカリーは知らなかった。そして紛れも無く彼を怯え
させたのは、自分なのだ。
 恐らくドゲットは、狼に変わり最初の戦闘をしたあの朝から、目覚めるたびにぎりぎりのところで正気を保っていたの
だろう。目覚めた時の最初に見る光景と己の状態を悟る度に、彼の精神は疲弊し、どんどん追い詰められていたの
だ。
 スカリーは込み上げる熱いものを必死で堪えた。ドゲットが弱っていく己の状態を、スカリーに告げなかったのは、多
分それを訴えたところで、彼女には成す術が無いと分かっていたからだ。スカリーがすべき事を、全てにおいて優先さ
せたのだ。そして、浅ましい獣に成り果てた姿を、おぞましい行為の後を、スカリーに知られたく無かったのだ。あの
誇り高いドゲットがそう思うのは当然で、どんな時にでも冷静さを失わず、己の感情をコントロールすることに長けた彼
が、自分の与り知らないところで、身の毛のよだつ行為を繰り返し、それを覚えていない等、受け入れ難い現実なの
だ。
 しかし今までそれを、何とかやり過ごし、細い糸で繋ぎとめていた彼の心の均衡を崩壊させたのは、誰あろう自分
なのだ。ドゲットはあの時、スカリーの眼に映った、獣と化した己の姿と首に残った手の痕に、耐え難い現実を突きつ
けられ、無残に砕け散った。
 スカリーは打ちのめされ、膝を抱いて力なく項垂れた。ドゲットは毎朝地獄絵図の中で目覚めていたのに、アクイラ
に帰れば、何も覚えてないからと、自分自身には全く打撃がない素振りをし続けた。何時もと変わらぬ、ゆったりした
態度で、スカリーの話を聞き、八つ当たりを受け止め、気持ちを奮い立たせる為に、わざと怒りを買うような軽口を叩
いたりする。
 スカリーはその時のドゲットの様子を思い出し、天井を振り仰いだ。馬鹿な人。大馬鹿だわ。辛いなら、辛いと何故
言わないの。助けてくれと、何とかしろと、取り乱して私に訴えればいいんだわ。無傷な私を責めればいいのよ。それ
で気が楽になるなら、大声で叫んだっていい、喚いたっていい。無能な私を罵ったっていいのに、全部自分で抱え込
んで、耐えられるわけない。こんな時に力にならないで、何の為のパートナーなの。
 すると今度は怒りが込み上げてくる。突然スカリーは立ち上がると、お湯から上がり用意されていたリネンで乱暴に
身体を拭いて、ばさばさとドレスを纏った。長いドレスは湿った身体に張り付き、中々上手く着ることが出来ない。スカ
リーは忌々しげに息を吐くと、心の中で罵った。
 うんざりだわ。ドゲットにも、呪いにも、狼にも、この不便なドレスにも。この時代にはこれ以上我慢ならない。一刻も
早く快適な私達の時代に戻るのよ。ぐずぐずしている場合じゃないわ。私のすべきことは、こんなところで嘆いている
ことじゃない。行動を起こさなければ。でなければ・・・。
 スカリーの顔が不意に歪んだ。唇を噛んで涙を堪えると、毅然として顔を上げる。そうだ。そうしなければ、たった一
人で持ち堪えていたドゲットの努力が、全て無駄になってしまう。私は呪いを解き、無傷のドゲットと共に、絶対に帰っ
てみせる。スカリーは固い決意を胸に、ドゲットの眠る部屋へと戻って行った。

 
 手当が終わっても、全く目覚める気配の無いドゲットの顔を、スカリーは暫く見詰めていた。肩と腿の噛み裂かれた
傷以外、大した怪我は無く、正常と言うには憚られる速度の呼吸と脈も、遅いというだけで乱れてはいない。只異様
に白い顔色がスカリーを不安にさせる。
 目覚めた時、ドゲットは正気でいるのだろうか。正気を保っていれば、それはそれで喜ばしいのだが、あの場に居
合わせた誰にもドゲットは会いたく無いだろう。ましてや、ドゲットが正気でいればいるほど、苦しみは引き伸ばされ、
繰り返し彼を襲い苛むことになる。いっそのこと・・。思いかけてスカリーは慌てて打ち消した。正気で無いドゲットな
ど、考えたくない。だが一方でそう願ってしまう矛盾した思いに、スカリーは絶望的な溜息を付いた。
「良くないの?」
その声に顔を上げれば、寝台の足元にフィリップが心配顔で立っている。死骸の後始末をしていた為に、1人遅れて
帰ってきたフィリップも、既に身体を洗い、さっぱりとした顔で清潔な衣服に着替えていた。スカリーが静かに微笑ん
で、首を横に振ればほっとした様子で頷いてみせる。
「あんまり静かだから、心配になっちゃって。」
「とても深く眠っているの。昏睡に近いわ。でも反射は消失していないから、多分大丈夫でしょう。」
「良かった。・・・ねえ、みんなスカリーが礼拝堂で何を見つけたか知りたくて、集まってるんだけど。インペリアスなん
か、早いとこいろいろ聞き出さないと、寝椅子で居眠り始めちゃうよ。・・・だから、そのう・・・。」
フィリップは最後の言葉を濁し、ドゲットを指差しておもねるような顔でスカリーを見た。そう言われて初めてスカリー
は、フィリップ越しに見える人影に気付いた。イザボーとインペリウスは寝椅子に腰掛け、ナバールは窓辺に佇み、外
を眺めている。全員が敢えてこちらを見ようとしないのは、邪魔をしないよう気遣ってのことなのだろう。
 そうね、と頷いて立ち上がったスカリーは、ドゲットの様子が離れても確認出来るぐらい隙間を開け天蓋の布を引
き、フィリップと共に、皆の方へ歩み寄ると、まずインペリアスに自己紹介した。イザボーの横で、お茶を啜っていた妙
に愛嬌のある太った老僧は、司教とは思えない気安さでスカリーに挨拶を返した。
 スカリーは早速円卓から椅子をインペリアスの前に移動させ、皆の注目の中、本題に入ることにした。インペリアス
のへの質問からそれは始まった。
「最初に聞いておきたいのは、あの司教がアクイラへ初めて来た時、彼は既にここの司教として現れたのね。」
「うむ。そうだ。奴が来る半年前に、その前の司教がお亡くなりになられての。法王庁に新たな司教の任命を、要請し
てのことだ。」
「前の司教は何で?」
「老衰じゃよ。数年前から寝たきりだった。」
「じゃあ新しい司教がやって来ても、誰も疑う人はいなかったのね。」
「勿論そうだ。服装も態度も申し分なく立派だったのでな。それにその時には確かに、法王庁の任命書を携えておっ
た。」
「今その任命書は?」
「見当たらん。2年前聖堂中くまなく探したが、何処に消えたか見つからなかった。」
「彼がここの司教になった正確な日付を覚えていますか?」 
「正確な?・・・・。」
インペリアスは、うーんと唸り、宙を睨んで腕組みをすると、固まってしまった。スカリーは黙ってインペリアスが思い
出すのを待とうとしたが、フィリップが口を挟んだ。
「でもさ、それってそんなに重要なことなの?」
「ええ。とても。恐らくこれから起こることを予測する、重要なポイントの一つよ。」
ふーん。と、フィリップは頷きながら寝椅子の後ろに回り、上を向いたまま必死に記憶を手繰るインペリアスに声をか
けた。
「聞いた?凄く大事なんだぜ。早く思い出してよ。」
「分かっておる。急かすな・・・・。うーむ。あれは、何時だったかの・・・。ここまで出掛かっておるのだが・・。ええい、
お前が近くにいると気が散って集中出来ん。あっちへ行っておれ。」
と、煩そうにフィリップを追い払ったインペリアスは、下を向いて首を捻る。スカリーは時間がかかりそうな様子に、ちょ
っと息を付くと矛先を変えた。ナバール、とスカリーが呼んだ時、窓枠に凭れ俯いていた男は、静かに目を上げた。
「何だ。」
「戦闘の時の様子を詳しく話して欲しいの。私は彼があなたに聞いたことを、又聞きしただけだから、何が起こってい
たかきちんと把握する必要があるのよ。」
「どの程度だ。」
「全部よ。最初の夜から。」
ナバールは黙ってスカリーの視線を受け止め、一呼吸置いた後、語り出した。
「最初の晩、俺は狼の姿を見失わないように、全力で馬を駆り、後を追い続けた。領地の北西にある林が始まりだっ
た。俺が着いた時には、あやつは狼の群れに囲まれ、少し高い位置に、真っ黒で巨大な狼がいて、そいつがこの群
れを率いていると、一目で分かった。そこからは乱戦だ。俺も戦いの中に飛び込んで、あやつを守ろうと剣を振るっ
た。しかしなにぶん数が多い。幾ら獣相手でも、防ぎきれるものではない。だがあれは強い。殆どの狼を一噛みで仕
留めると、脇目も降らず、黒い狼に向かって進んで行くのだが、さすれば向こうも守りが堅くなる。幾ら強くとも、何頭
もの狼を一度に相手をするのは分が悪い。俺は加勢しようと、黒い狼に向かってゴリアテを走らせ、弓を射掛け
た。・・・確かに、弓は急所に当たったのだ。」
ナバールは顔を顰め首を振った。
「弓が駄目ならばと、俺は一気に距離を縮め、狙いを定め、剣で突いた。手ごたえはあった。しかしまるで俺の剣など
かすりもしなかったかのように、黒い狼は俺の脇をすり抜け、戦いのさなかのあやつに迫った。俺は向きを変え、黒い
狼の背後から真っ二つに奴の胴体を薙ぎ払った。」
ナバールは、顔を背け長い溜息を付いた。口を噤んだナバールの後を引き取ってスカリーが言った。
「倒せないのね。他の狼は殺せても、黒い狼だけは、あなたには殺せない。」
「そうだ。そして俺はそこで一瞬、狼達の姿を見失ってしまった。散々探し回りようやく見つけた時には、もう遅かっ
た。辺り一面に散らばる狼の死骸が、人間の物へと変わり、その先にいたのがジョン・ドゲットだった。」
ナバールは深く俯いたまま、言葉を切った。そのまま黙り込んでしまったナバールに、スカリーは先を促した。
「彼はどんな様子だったの?」
しかしナバールは答えない。スカリーは尚も聞いた。
「ナバール。・・・答えて。」
「これ以上は良いだろう!今朝お前が見たものと大差ない。」
急にナバールは苛ついた様子で、声を荒げた。しかしスカリーも負けてはいない。
「そうかも知れないわ。でも私は何も知らなかったのよ!彼がどんなに苦しんでいたか。少しも気付かなかった。どう
して話してくれなかったの?もっと早くに知っていれば、彼の力になれたかもしれないのに。」
叫ぶようにして立ち上がったスカリーに、一瞬口を開きかけたナバールだったが、不意に顔を歪ませると唇を噛んだ。
苦渋に満ちた表情で顔を背けるナバールの様子は、スカリーには理解出来ないものだった。すると何時の間にかス
カリーの側に立ったイザボーがそっと肩に手をかけ、囁くような声で真実を告げた。
「それはエティエンヌも、同じだからです。」
「何ですって?」
思わず聞き返したスカリーを座らせ、イザボーは所在投げにインペリアスの隣に腰掛け、悲痛な面持ちで訳を話し
た。
「お許しください。全て私が悪いのです。けれどどうしてもお話出来ませんでした。呪いをかけられたのは、私達2人だ
ったのです。昼の間私は鷹に、夜彼は狼に変わると言う、忌まわしい呪いです。辛い経験でした。やっと忘れることが
出来ようと、ようやく2人して思い始めた時に、再び狼に変わるものを目の当たりにするなど、エティエンヌの心情を思
えば、私には、どうしても・・・・。」
「もう良い、イザボー。お前がそうしたのも詮無きこと。やはり俺がきちんと話しておくべきだったのだ。ダナ・スカリー。
我らを許せとは言わぬ。だが、イザボーの気持ちは汲んでやってくれぬか。」
スカリーは2人の言い分を黙って聞いていたが、終った後すっと視線を寝台に滑らせ、呟いた。
「このことを彼は?」
「知っている。俺が話したのだ。」
「・・・そうだったの。」
スカリーは寝台の方を向いたまま、そっと息を吐いた。寂しげなスカリーの横顔は、さすがのナバールも堪えたようだ
った。
「済まぬ。」
「何を謝るの?」
「結果的にお前1人を蚊帳の外にしてしまった。」
すると意外そうな顔でスカリーはナバールに向き直り、彼の表情から、ああ、と何やら合点し慌てて首を振った。
「違うわ。誤解しないで。逆よ。」
「どう言う意味だ?」
「私は逆に安心したの。彼の痛みを理解できる人が、身近にいて良かったとほっとしたのよ。」
「・・・そうか。なら良いのだ。俺もジョン・ドゲットに言うつもりは無かったのだが、お前達の仲を聞いて思い直したの
だ。だが、本当は何度もお前に話した方が良いと薦めたのだ。しかし・・。」
「聞き入れなかった。そればかりかあなたに、自分の酷い状態を私に言うなと、口止めしたのね。」
「よく分かるな。」
「あの人の考えそうなことだわ。今更遅いけれど・・。」
スカリーは無理に呆れたような苦笑いを浮かべようとしたが、あまり上手く出来ず、それが却って痛々しく見えた。全
員の眼差しが同情に満ちたものへと変わったため、スカリーは慌てて顔を上げると話題を元に戻した。
「ナバール。今の話で余計に質問がしやすくなったわ。あなたも狼になったことがあるのなら、目覚めた時の状態は
覚えがあるでしょう。自分の時と比べて何か違いを感じた?」
「違い?」
「ええ。どんなことでもいいわ。きっとあなたにしか、分からないことよ。」
「ふむ。・・・・俺にしか分からぬか・・・。」
ナバールは眼を伏せ、腕組みをしたまま暫し考え込んでいが、不意に顔を上げ、そう言えばと、何かに思い当たった
ようだった。
「俺はまる2年の間狼になっていた。確かにその間、野蛮な行為もしていよう。人間を襲ったこともある。だがジョン・ド
ゲットより遥かに長い期間狼であった俺ですら、それをしたのは数える程しかない。しかも大抵は随分と離れたところ
で目覚め、元いた場所へ戻る過程でそれを知るような具合だったし、イザボーが後始末を終らせていることもあって、
己が殺生の後を目の当たりにすることは、正直言ってあまり無かった。」
ナバールは一旦そこで言葉を切った。ゆっくりと寝台に眼を移し、重く沈んだ声で先を続ける。
「俺達には狼である時の記憶が無い。そうだ。狼である時の記憶は、朝になればきれいさっぱり無くなってい
る。・・・・だからといって、毎朝快適に目覚めてなどいないのだ。特に夜何かあった時の目覚めが、どんなに酷いもの
か、こればかりは誰にも分からぬ。」
ナバールは足元に眼を落とし、再び口を開いた時の抑揚のない口調は、聞くものの心を抉った。
「耐え難い疲労、ぎしぎしと悲鳴を上げる関節、何時負ったかさえも分からぬ怪我の類。・・・・そんなものはまだ、我
慢が出来る。だがな、己の身体から立ち上る噎せ返るような血の臭いと、口に残る嫌な味、絶え間の無い吐き気に
は、決して慣れることなど出来なかった。その度に俺は、・・俺は・・。」
悪夢が蘇ったかの如く、片手で顔を覆ったナバールは、杳として先を続けられずにいた。全員が言葉を失う中、すっと
立ち上がったイザボーが、エティエンヌと、名を呼び彼の腕に手を添え寄り添えば、大丈夫だ、と顔を上げ、再び思い
詰めた眼差しを寝台に向ける。
「俺とジョン・ドゲットは、そこが同じであり違いでもあるのだ。幾ら俺が狼の時人を殺めていたとしても、あやつのよう
に、その殺戮の最中で目覚めることなど、一度も無かった。1頭目の時は見てはおらぬが、続く3頭はどれも酷いもの
だ。20頭以上の狼の死骸の山。そして毎回何故か必ず夜が明ける寸前に、例の狼と合間見えることになるのだ。死
ねば人の姿に戻るあの狼を、何時もジョン・ドゲットは、己が殺した直後に人へと変わる。俺ですら正視出来ぬような
光景に、錯乱せぬ方がおかしいのだ。」
ナバールは言葉を詰まらせた。先ほどの様子が、ありありと脳裏に浮かんだのだ。
「俺が詳しく話さなかったのは、確かに口止めされていたせいもあるが、実際のところは、とても話せなかったのだ。
俺の口からはどうしても言えなかった。・・・・ダナ・スカリー。分かってくれるな。」
「ええ。・・・勿論よ。」
掠れた声で返事をしたスカリーは、理解を求めるようなナバールの眼差しに、深く頷いた。するとナバールは些かほっ
とした様子でスカリーに向き直り、こう締めくくった。
「違いと言えばもう一つ。ジョン・ドゲットの消耗の仕方だ。毎夜毎夜の乱戦は堪える。だがそれも人に戻れば軽減さ
れ、怪我も瞬く間に治る。なのに今回、あやつは狼の時には信じられぬほど強く力に溢れているのに、人に変わった
途端まるで裏返したように、憔悴し弱っている。・・・ダナ・スカリー。ジョン・ドゲットは一昨日水路の話をしていた
な。・・・・水路に落ちたのは4回とお前は思っていよう。だが、本当はもっと多いのだ。俺はお前に気付かれぬよう、
ジョン・ドゲットの探索に付き添っていた。その間俺の目の前であやつが倒れた回数は、その倍はあったのだ。その
度に俺は、このように衰弱して、果たして夜までに回復するのかと疑問だった。だが狼に変わった途端、まるでさっき
まで弱っていたとは、信じられぬ速さで野山を駆け、戦うたびに増え手強くなる狼どもを、それを凌ぐ強さで倒してゆ
く。狼である時の強さが増せば、その分日増しにジョン・ドゲットの方が衰弱して行くようだった。妙だとは思わぬ
か。」
「そうね。」
頷きあう2人の会話に、円卓に腰掛けたフィリップが、足をぶらぶらさせて割って入る。
「ちょっと待ってよ。それの何処が妙なの?」
「・・分からぬか・」
フィリップは口を尖らせると、難しい顔を作り答えた。
「夜の間ずっと戦い続けてたら参っちゃうのは当たり前じゃないの?昼の間へたばってても、不思議じゃないさ。」
ナバールとスカリーは顔を見合わせ、困惑した笑みを浮かべる。そんな2人の様子に益々妙な顔になるフィリップに、
ナバールが窘めるような顔で口を開いた。
「フィリップ。お前も後10年もすれば、自分の領地を治めねばならん。こんなことが分からねば、良い領主となって自
国を守ることなど到底無理だぞ。」
「それとこれと何か関係あんの?ナバールの言うことって、時々訳分かんないよ。」
「まあ、聞け。もし、俺とお前が戦争を起こしたとする。」
「ええ!?ナバール俺のところに攻めて来るの!?」
「話を最後まで聞かぬか。もし、と言っただろう。例えばの話だ。」
一瞬固まったフィリップだったが、それを聞くと再び足をぶらつかせて、良かったと呟いた。ナバールは年長者の忍耐
を見せ、小さく息を吐いた後、質問の続きを再開させた。
「俺達は戦争を始めたとする。お前は何としても、俺を倒したい。ならばお前は、俺を倒す為に、どうする?どんな時を
狙って攻撃を仕掛けてくれば、一番効率よく俺を倒せるか、答えてみよ。」
「ナバールを倒す為?・・うーん。ナバールは強いからな。まともにぶつかったら、絶対適わないし・・。降参した、と見
せかけて騙まし討ち。」
「返り討ちにしてくれよう。」
「じゃあ、イザボーを人質に取って・・・。」
「逆効果だ。・・酷い奴だな、お前は。」
「何言ってんの。この辺りじゃ無敗の領主と戦うんだよ。勝つためには何だってするさ。うーん。後はそうだな、戦いを
引き延ばして、あちこち引っ張りまわして・・・。」
「ふむ、大分わかってきたようだ。それから?」
「寝込みを襲うか、疲れて弱ったところを大勢で取り囲むか・・。」
「いいぞ、フィリップ。では聞くが、それはつまり、どう言うことなのだ?」
「ぇえ?どう言うって、それはそのう、疲れてるか弱ったところを襲うのが簡単だってこと?」
フィリップの答えを聞いてナバールは大きく頷いた。フィリップは顔を顰め、これらのことの関連性について頭を巡らせ
ていたが、急にはっとして眼を見張ると、ナバールとスカリーの顔を交互に見て、小さく、そうか、と叫んだ。それを受
けてナバールが先を続けた。
「そうだ。一番効率よく相手を倒すには、弱点を衝くか弱らせ叩くのが一番なのだ。だから妙だと俺は言ったのだ。ジ
ョン・ドゲットは人である時酷く弱っている。では何故その時に襲ってこないのだ?如何な俺であっても、動けぬ男を
抱えて狼の大群を相手に、防ぎ切る自信は無い。何故自分達にとって、手強い相手になっている時をわざわざ選ん
で襲ってくるのだ?あの狡猾な悪魔が、そんなことも分からぬはずは無いのだ。これにはきっと何か理由がある。そう
だろう。ダナ・スカリー。」
「ええ。数日前に、彼も同じような疑問を口にしていたわ。どうして1頭ずつ襲ってくるのか。全部纏まって襲ったほう
が、手っ取り早いと不思議がっていた。」
「でもさ。そりゃあの人を疲れさせて弱らせる為に・・・・・。あ、そうか。そうするとさっきのナバールの疑問が浮かんで
くるな。じゃあ、夜の間しか呪いがかからないとか?」
「イザボーは昼間だったぞ。」
ナバールの一言に、あ、と口を開けフィリップはしまったと首を竦めた。当人達以外は触れてはならないことだと、この
青年も理解しているのだろう。ほんの少し曇ったイザボーの顔を見て、ごめんなさいと口の中で謝った。イザボーがフ
ィリップに微笑みかけるのを見て、ナバールはスカリーに向き直った。
「ダナ・スカリー。俺達は何処かで考え違いをしていたのでは無いか?お前はこれが司教に仕組まれたことだと、あ
やつを止めようとしていた。何か根拠となる事実を掴んだのだな。」
全ての眼がスカリーに注がれていた。スカリーは目を閉じ、これから話さねばならないことを、胸の内で反芻させる。
話すことの全てを、彼女は納得しているわけではない。呪いも魔法も、科学的根拠が無ければそれは彼女にとって
無に等しい。が、ここではそれを検証する術が無く、それらを受け入れれば一番物事が自然に流れていく以上、その
存在を認めざるを得ないのだ。しかし呪術自体には懐疑的でも、人間の本質となる精神構造は時代を超え、万人共
通の全て納得のいくものなのだ。スカリーは瞳を上げ、確信に満ちた声で語り始めた。
「そうよ。間違っていたわ。司教の目的は、あの指輪を取り戻し、再び人間として復活することだと、私達は思ってい
た。確かに術具である指輪を手の込んだ方法で、呼び戻したから、そう思うのは当然だわ。けれどそうではないの。
本当の目的は、指輪では無く、指輪によって繋がった人間にあったのよ。」
「ジョン・ドゲットが?何の為に・・。」
「それをこれから話すわ。私とフィリップが、祭壇の地下にあった隠し部屋を見つけたのは、もう知っているわね。何が
あったかフィリップは話したの?」
「うん。あんたがあの人の手当てをしてる間に。」
「じゃあ、話が早いわね。司教がこのアクイラの牢獄で生まれたのは間違いないわ。彼は7歳の時、母親が病死して
失踪している。その彼が20年前このアクイラにキリスト教の司教となって現れる。変だと思わない?彼は7歳まで、
異教徒の女占い師であった母親に、牢獄で育てられているのよ。しかも母親は子供を隠していた咎により、当時の領
主と司教に酷い仕打ちを受け、病死したの。魔女と誹られ身ごもっているのに投獄された占い師が、生まれた子供を
牢獄で密かに育てる。そんな環境が彼にいい影響を与えたとは思えない。人間の基本的人格形成は、幼年期で殆
ど決定されてしまうの。だとしたらこの子供がどんな大人になったか、想像するのは容易いわ。その彼がキリスト教の
司教として、この街で善行を施す為に現れたとは、とても思えない。」
「その女占い師の話は幼い頃聞いたことがあるぞ。何でも北の方から流れてきた女で、恐ろしい呪術で人を呪い殺す
と言う噂があった。魔女裁判にかけられたが、呪いを恐れた当時の司教は、処刑せずに牢獄の奥に幽閉したと言うこ
とだ。」
「何だ、知ってたの?インペリアス。」
記憶が蘇ってきたインペリアスに、フィリップがからかうような調子で話しかけた。
「今思い出した。」
「その調子でさっきのことも思い出してよ。」
「うるさい。分かっておるわ!」
インペリアスの剣幕に、うへっとフィリップは首を竦める。スカリーはようやく滑らかになってきた、インペリアスの言葉
に期待をかけた。
「彼女がどんな呪術を使っていたか、聞いたことは無い?」
「どんな?・・ふむ。そうだな、確か何やら得たいの知れぬ文字と、石。あとは月に関係があると聞いたような・・。」
頼りないインペリアスの答えを聞いたスカリーが、何かを納得し微かに頷けば、フィリップはにんまりしてこう言った。
「じゃあさ、もっと思い出しやすくしてやるよ。その得たいの知れない文字って、こんな奴だろ。」
そして彼は何処から取り出したのか、例の鍵をインペリアスの膝に放り投げたのだ。受け取ったインペリアスは、
恐々それに触れ、スカリーとフィリップを見比べ何度も頷く。するとフィリップは、円卓からひょいと飛び降り、懐から丸
めた紙束を取り出しスカリーに渡した。
「はい。これも。確か文字の意味を書いた奴も、持ってきたはずだよ。」
「あなた、これ、何時の間に・・・。」
あのどさくさによく、とスカリーは受け取りながら信じられない面持ちで呟けば、ナバールの呆れたような声が聞こえ
た。
「手癖の悪いのは相変わらずだな。」
「へへ。俺の素晴らしい幼年期がそうさせるんだよ。」
「口の減らぬ奴め。」
仲のいい兄弟が減らず口を叩き合っているような風情に、イザボーは口元を綻ばせた後、フィリップの持ち込んだ紙
面を読み返しているスカリーに、再び話を戻した。
「あの司教が善行を施しに来たのではないことは、彼の行いを見れば一目瞭然です。アクイラはローマ人が造った頃
より、栄えた街です。それがあの司教が赴任してから、確かに街は、いえ、教会は財を成し栄えました。けれど逆に
民の間には貧困と、餓え、悪行が蔓延るようになったとインペリアスが申しております。私が従兄弟を頼ってこの街に
来た時は、既に昔の面影は無く、陰気で教会ばかりが立派な街、という印象しか受けませんでした。あの司教は何
のために、このアクイラに戻ってきたのでしょう。只単に、富と権力が欲しかったのでしょうか。」
「そうね。富と権力が欲しいなら、別にここでなくともいいし、何も司教である必要は無いわ。異教徒である彼が、キリ
スト教の司教に成りすまし、このアクイラで富と権力を得てこそ意味があるのよ。」
「復讐か。」
重々しく言葉を続けたのはナバールだった。
「ええ。そう考えるのが妥当でしょう。恐らく彼は母親から、領主や司教、この街に暮らす全ての人間への、呪いの言
葉を聞かされて育ったんだと思うわ。母親を見殺しにされたことで、アクイラへの復讐心は決定的なものになった。彼
はこの街の全てを憎んでいるの。街も人も聖堂も、人々の信じるものさえも、彼の憎しみの対象になら無いものはな
いのよ。だから彼はその全てを、台無しにしたかったんだと思うわ。その為にしたのが、聖堂を牛耳り、富と権力を嵩
に、街全体を貧困と恐怖で満たすことだった。聖堂を汚し、あらゆる人の心の糧である信仰さえも、汚れた手で握り潰
そうとしたのよ。」
「俺達が奴の復讐を阻んだのだな。」
「そうよ。あと2年で彼の復讐は成就するはずだった。けれどイザボーに心奪われたことで、僅かにそれた横道の為
に、彼はナバールから、自分のかけた呪いを自分自身に戻され、狼になってしまう。」
「待て。あと2年で復讐が成就するとは、何のことだ?復讐は終ってはおらぬのか?」
訝しげに眼を細めスカリーの言葉を遮ったナバールに、スカリーは首を振った。
「残念ながら終ってはいないの。それは司教になったときから、約束されていたのよ。」
「どう言うことだ?」
「隠し部屋にあったのは、司教の出生が分かるものだけでは無かったわ。フィリップが見つけた鍵のかかった箱に
は、ある重要な契約書が入っていたの。」
「契約書?」
「これを見て。」
スカリーは立ち上がると、円卓の周りに全員を集めた。スカリーが取り出した古い羊皮紙を覗き込み、それが何か分
かったのはインペリアスだけのようだった。黄色く変色した羊皮紙には、赤茶けた難解な文と、その下にある二つの
署名の一方は、紛れも無く例の鍵の形をしている。血相を変えて震え出したインペリアスに、さすがのフィリップも不
安げな顔になる。
「何なのこれ?インペリアス、知ってるの?」
「・・・うむ。こいつは、悪魔との契約書だ。」
スカリーを除く全員が、眼を見張った。インペリアスは暗い顔でスカリーと頷きあった後、それでも信じられないような
顔で、首を振った。
「わしも実物を見るのは初めてじゃ。しかし昔の魔女裁判の記録にあった、別のものと特徴が一致しておる。」
「ねえ、なんて書いてあるの?」
「待て待て。今読んでやる。・・・・・・字のよく読めんところは飛ばすぞ。こうだ“我、牢獄に生まれし月の子、緑の石を
力の源とする束縛と苦難の申し子は、ここに契約する。アクイラの司教となる時より、富と権力を我が手に、全ての災
いを街に。20年最後・・・・、アクイラにかかわる全てのものを破壊と消滅の文字に置き換えよ。その時・・・・魂とを引
き換えに契約を終了させるものなり。”下に一文字の署名。もう一つは、文字にとは思えないが、忌わしいものの署
名だろう。」
「つまりだ。司教は、20年前、富と権力を得ると同時に街を衰退させ、最後には消滅させることを、悪魔と契約した。
そういうことなのだな。」
ナバールの要約に全員が押し黙った。司教の本当の目的が分かり、対峙していたものの正体が判明したのに、問題
は何も解決には至らない。それどころか、敵対するものの強大さに、圧倒されているのだ。そんな中、独り気を吐いた
のは、やはりスカリーだった。スカリーは皆を奮い立たせようと、歯切れのいい口調で言った。
「司教の目的が分かった今、私達のすることは決まったわ。」
「決まったって、どうすりゃいいの?悪魔まで出てきちゃったんだよ。」
「そんなものは関係ないわ。」
「・・・そんなものって。相手は悪魔なんだよ。どうやって勝つの?」
「悪魔を相手にして勝つつもりなんかないわ。」
「はあ?・・言ってる意味分かんないよ。」
フィリップが情けない顔で頭を抱えれば、ナバールが割って入った。
「まあ、待てフィリップ。ダナ・スカリー。何か良い考えでもあるのか?」
「いい?相手が何だろうと契約書がある限り、司教の計画は契約書通りに履行されているということだわ。ということ
は、この契約が成り立たないようにすればいいのよ。」
ちょっと考えてナバールが答えた。
「最後の一文だな。」
「ええ、そう。何かの魂と引き換えでなければ、この契約は成就しないわ。問題は、それが何の魂かというところにあ
るわ。」
「大抵は契約者の魂だが、違うのかな?」
それを聞いたインペリアスが怪訝そうに呟けば、スカリーは不意に眼を伏せた。暫し躊躇った後、顔を上げた瞳の色
は、沈んだ暗い色で覆われている。
「この契約書には不備があるわ。」
「不備?」
「ええ。この契約書には、肝心の契約者の名前が何処にも記されていないの。」
「最後に署名があるわ。」
イザボーが紙面最後を指し示した。
「単なる記号よ。確かにそれは彼の名前を示すかもしれないけれど、彼にはニィドという呼び名があるの。そしてその
名を書かず、その記号で署名したのには理由があるんだわ。この契約書には契約者の名前が無い代わりに、契約
者を表す幾つかの言葉があるの。その中の一つに、緑の石を力の源とする、と言うのがあるでしょう。これは恐らくあ
の指輪だわ。そして、最後の署名。これが司教だと思わせる視覚的な証明だとして、その条件を満たす者が彼の他
にいたとしたら、どうなると思う?」
「その者の魂を奪うであろうな。悪魔には本人であろうがなかろうが、契約の条件さえ満たされていれば、誰の魂だ
ろうと構わんはずじゃ。まあ、獲るに容易い方を選ぶのは当然だから、弱っている者の魂になる。」
「え?じゃあ、つまり司教は、あの人を身代わりにさせようとしてるの?・・・だけどさ、そりゃ確かに指輪は嵌ってるけ
ど、署名の方はどうなのさ。」
フィリップの質問に答えず、眼を逸らし唇を噛むスカリーを、じっと見詰めてナバールが口を開いた。
「署名はある。・・・・・・・ジョン・ドゲットのここにな。」
ナバールが右の拳を静かに左胸に当てた。
「それって、司教の痣と・・・」
同じ。驚愕に眼を見張ったフィリップは、その言葉を続けることが出来なかった。スカリーが辛そうに眼を閉じるのを眼
の端で捉え、その心中を察し言葉が継げなかったのだ。スカリーの脳裏には、先ほど手当てした時確認した、ドゲット
の胸に浮き出た痣が、まざまざと蘇っていた。迂闊だった。4日前、水路の探索の後、直ぐに治るという彼の言葉を鵜
呑みにせず、きちんと診て置けば気付いたものを。思えばあの時のドゲットの態度も妙だったではないか。するとそん
なスカリーの心を読んだかのように、ナバールが後を続けた。
「あの痣は、最初は無かったのだが、ここ数日間で、急にくっきりと浮き出始めた。只の痣だと気にも留めなかった
が・・。」
「あなたに責任は無いわ。何時も彼は無傷では無かったのよ。気にしないのが普通だわ。」
「しかし俺しかいなかったのだ。」
「それは私も同じ。・・・・もうよしましょう。これ以上は今更どうしようもないわ。それより問題はこの先よ。」
「何か策でもあるのか?」
「さっきも言ったけれど、この契約を成立させない為には、契約者の魂を悪魔に渡さないことよ。司教はその身代わり
としてエージェント・ドゲットを利用するつもりなんだわ。」
「じゃあ、簡単だよ。その時までに司教をやっつけて、あの人の呪いを解きゃいいんだ。」
「それの何処が簡単なのだ。軽々しいことを申すな。」
又話半分で先走るフィリップをすかさずナバールは窘める。
「軽々しくなんか無いよ。だって結局はそういうことなんだろ。それに司教さえ死んじまえば、指輪も外れるし痣だって
消えるさ。絶対。」
「では聞くが、その時というのは何時だ。司教を殺そうにも、肝心の奴は何処にいるのだ。どうやれば奴を殺せるの
だ。俺は2年前剣で一突きにしたが、死なずに狼に変わっただけだったぞ。」
返事に窮し眼を白黒させたフィリップだったが、直ぐに盛り返した。
「だからそれは、インペリアスが思い出せばいいんでしょう?契約したのが司教がここに現れてからの20年だとすれ
ば、その日が分かれば、それがつまりその時なんだよ。ほらあ、早く思い出してよ。インペリアス。」
そう言っていきなり、ばしん、とインペリアスの背中を叩き、叩かれたインペリアスの方が今度は眼を白黒させる番だ
った。そんなインペリアスの様子など、最早この青年の念頭には無い。早くも思考は次へと飛ぶ。
「司教の居場所とやっつけ方の手がかりって、やっぱり俺、例の隠し部屋にしか無いと思うんだよね。ね。スカリー。」
「ええ。私もそれしか無いと考えていたの。これから行って調べ直すわ。」
「そうと決まれば早く行こう。時間が無いんだろ?・・ちょっとインペリアス、鍵返してよ。」
自分が渡しておいて返せとは、随分な言い草ではあるが、勢いに負けて差し出すインペリアスから鍵を受け取り、フィ
リップは部屋を出ようとする。するとその後を追いながらイザボーが声をかけた。
「私も一緒に行きましょう。」
「本当?良かった。実はちょっと心細かったんだ。数は多い方がいいからね。じゃあスカリー、俺達灯りを用意して下
で待ってるから、なるべく早くおいでよ。インペリアスはどうすんの?」
「わしは直ぐには思い出せそうにないのでな、街の長老達に聞いて回ろうかと思うておる。」
重々しく答えたインペリアスの言葉が終らぬうちに、じゃあ、待ってるね、と言ってさっさとフィリップは部屋を出て行っ
てしまった。イザボーは苦笑してからその後を追い、インペリアスもよたよたと重い腰を上げる。後に残ったスカリー
は、思案顔で残っているナバールに尋ねた。
「あなたはどうするの?」
「俺か?・・・さし当たって俺がすればいいのは、街中と領内の村に夜間外出禁止の布令を出すことだが、昼ごろ動け
ば間に合うだろう。」
「住民を避難させないの?」
「それも考えたが、まだ早い。不安を煽れば暴動が起こる。それは避けたいのでな。ぎりぎりまで待つつもりだ。」
スカリーは黙って頷いた。どの道何処に避難しようと、契約に街の住民も入っている限り、安全な場所など無いのだ。
逡巡するスカリーの心をナバールは又読んだ。
「俺は昼まで少しここで身体を休めたい。独りで考えたいこともあるからな。」
「そう・・・。私は、もう一度捜索に行きます。後のことを、彼をお願いしてもいいかしら。」
「うむ。安心して任せるが良い。」
スカリーは寝台に視線を投げ、小さく息を付き、昼には一旦戻ると告げ、後ろ髪引かれる風情で出て行った。それを
見送ったナバールは、寝台に赴き天蓋の布の隙間からちらりとドゲットの様子を確認し、寝台脇の窓辺に佇んだ。眼
下に広がる街を眺め、この街を憎み消滅させようと20年以上も前から企んでいた、司教の業の深さを思った。司教の
母親を死に至らしめた者は、全て死んでいる。けれどそんなことは、あの男に関係ないのだ。何故なら呪いと復讐
が、生き抜く術であり、奴の人生だからだ。それを今更諦めるなど、自分自身を否定するようなことだ。何としても契
約は履行させるだろう。恐ろしい男だ。自分に何かあった時まで予測し、逆転の布石をしていたとは。だが俺は倒さ
ねばならぬ。それが領主としてイザボーの夫としての俺の義務であり、2年前仕留めそこなった俺の責任だからだ。
だが、どうやって・・。
 不意にナバールは、思考を中断した。名前を呼ばれたような気がして顔を上げれば、天蓋の奥から再び弱々しく声
がする。直ぐに寝台に赴き天蓋の影から中を覗けば、ドゲットが思わぬ強い眼差しでこちらを向いている。どう見ても
起きたばかりとは言えない風情に、ナバールは枕元の椅子に座り尋ねた。
「起きていたのか?」
「ああ。」
「今の話は?」
「聞いたよ。」
「どの辺りからだ?」
「殆ど全部。」
そう言ってドゲットは身体を起こそうとした。ナバールはドゲットに手を貸しながら、今やそれさえも自力で出来ないド
ゲットの様子に眉を曇らせた。するとドゲットは、自嘲気味な笑みを浮かべてシャツの胸元を見た。
「してやられたな。この痣に意味があるとは気付かなかった。」
「許せ。良かれと思っていたことが、裏目に出たようだ。奴の狙いがまさかお前自身であったとは。」
「気にするな。誰にも分からなかったさ。」
「いや、全てが後手後手に回った。俺の弱さがそうしたのだ。同じ境遇のお前を直視出来ず、判断を鈍らせた。」
「そうなるあなたに文句は言えんよ。それより、狼はあと1頭いるんだ。」
「お前は良くやった。だがこれより先は我らに任せるのだ。」
「いや、そいつは無理だろう。俺にしか居場所が分からんのだ。俺が打って出るしかあるまい。」
「馬鹿な。打って出るだと?満足に立つことも出来ぬではないか。」
ドゲットには酷かもしれないが、今はそう断言しなければならずナバールの口調も自然と強くなる。しかしそれに反し
て、ドゲットは至って平静だ。事も無げに告げる。
「立てるさ。」
「いい加減にしろ!俺の眼は誤魔化せんぞ。お前はもう限界だ!」
突如苛立ったようにナバールは、何時に無い剣幕で言い放った。ナバールはこの苛立ちが、ドゲットの態度にあるの
ではなく、ドゲットがそう言わざるを得ない状況に、苛立っていると分かってはいた。しかし幾らドゲットの言う方法しか
残されていなかろうと、心情的にはとても、そうだ、などと相槌は打てない。だが、道は今のところ一本しか見えてい
ないのだ。ナバールはぎりぎりと歯噛みした。何も出来ない自分が不甲斐無かった。ドゲットはナバールの顔を黙っ
て眺めていたが、ふっと視線を逸らし何処か遠いところを見詰め、至極当たり前の調子で話し出した。
「限界。・・・・限界か。そんなものは随分前に超えちまったよ。覚えているか。2頭目を殺した後、目覚めた俺は、ほ
んの一瞬錯乱しただろう。あれが俺の限界点だった。あの時からおれは常に気持ちを張っていないと、何か邪悪なも
のに引っ張られそうで、一時だって気が休まらない。今だって身体中が腐ってぼとぼと落ちていくような、そんな感覚
がずっと付きまとっていて、気が狂いそうだ。そうとも。俺は身体の中から腐っているのかも知れん。」
「何を言うのだ。お前の何処が・・・。」
「ナバール。気休めは止せ。司教の狙いは俺にある。俺が弱るほど引っ張られる力も強くなる。・・・ああ、くそ。奴は
俺を食い物にしているんだ。」
吐き捨てるようにドゲットは言って、毛布を両手で握り締めた。誇りを踏みにじられた男の無念さを慮り、ナバールの
胸は痛んだが、敢えて気付かぬ振りをする。
「気休めなどではない。お前は踏みとどまっているではないか。食い物になどなってはおらぬ。自信を持て。」
「そう思うか?だが俺のしたことは一体なんだ。」
「あれは狼のしたことと割り切れば良い。」
不意にドゲットは片手で顔を覆い、笑い始めた。割り切ることが出来れば、俺達はこんなに苦しまない。ナバールに
はドゲットの言葉にならない声が聞こえていた。そして又同時に、どれだけ自分が間の抜けた気休めを言ったかも、
理解していた。笑い事ではない。しかしそうやって気を紛らわせざるを得ないドゲットの心境が、ナバールには口惜し
かった。くっく、と声を殺して笑うドゲットの肩を、苦りきった顔で眺めていたナバールは、人の気配にはっとして身構え
た。同様に気配を察したドゲットも笑うのを止め、身体に緊張を漲らせている。ナバールはドゲットに目配せして、一気
に天蓋の布を引き払った。
 彼らの視線の先に立つ姿を見た途端、ドゲットは、ああ、と小さく呻いてどさりと背凭れに身体を沈ませ、横を向いて
しまった。そこにいたのは、戸惑うように視線を彷徨わせ、顔を背けたスカリーだったのだ。素早く2人を見比べナバー
ルが口を切った。
「何かあったのか?ダナ・スカリー。」
「いえ。・・只、聖堂にいても、ここが気になって・・。そうしたらイザボーに戻るよう言われて・・。」
歯切れの悪いスカリーに、横を向いたまま突き放すような口調でドゲットは言った。
「僕なら大丈夫だ。」
「でも・・・。」
口ごもるスカリーに、何か言いかけたドゲットを遮り、ナバールが提案した。
「俺が代わりに行こう。確認したいこともあるのでな。それなら文句は無かろう。ジョン・ドゲット。」
ドゲットは顔を背けたまま答えようとしない。ナバールは深い溜息を付き、首を振った。ナバールにはこの2人には、
今何が必要なのか、把握出来ていた。後は自分が後押しすれば良いのだ。
「2人きりできちんと話すのだ。ジョン・ドゲット。お前は限界を超えていたと申したな。では、何故お前は限界を超えて
なお、戦ってこれたのだ。それを今一度よく考えてみるのだ。」
背けたドゲットの顎が僅かに動き、自分の言葉に何かを感じたらしいと判断し、ナバールは部屋を出て行った。

 後に残った2人は、ナバールが出て行くと、おずおずと視線を戻し、黙って見詰め合った。暖かな日差しも、爽やか
に渡る風も、2人の眼には映らない。只お互いの瞳の奥にあるものを見極めようと、心を澄ませて対峙する。絶望と、
希望と、感情の流れる先を見届ける為。





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