【Z】


                 影と添う

 結局、言葉に窮しているスカリーの居たたまれなさを取り成すのは、何時も決まってドゲットなのだ。スカリーが言
葉の継ぎ穂を探している間に、既にドゲットは体勢を立て直していた。
「君が見つけた文書を見せてもらえないかな。エージェント・スカリー。」
「え・・・ええ、そうね。あなたも全部に眼を通した方がいいわ。エージェント・ドゲット。」
難なく受け答えし、自然に身体が動いてしまうのは、ドゲットの様子がごく自然で、これをそっくりFBIのオフィスに移し
換えても、全く違和感の無い態度だったからだ。けれど受け取るドゲットの顔色の悪さや、軽い紙束さえ重そうに持つ
仕草が、そうではない事を物語っている。スカリーは枕元の椅子に腰掛け、ドゲットがゆっくりと紙面を繰るのを見守っ
た。
 柔らかな朝の陽射しは、俯いて書面を読むドゲットの横顔に濃い影を落とした。光の中で蒼さを増す瞳は、涼やか
で思慮深く、既に捜査官ジョン・ドゲットの眼差しだ。これがたった今、ナバールに血を吐くような言葉を吐いていた同
一人物だとは、とても想像出来ない。けれどスカリーは、ずっと押し殺し表に出すまいとしていたドゲットが、堪え切れ
ず漏らしてしまった苦痛の声を耳にしていた。聞いた以上、この先どれだけお互いの心を抉る事柄でも、包み隠さず
全てを話し合わねばならないと、スカリーの心は決まっていた。しかしそれを、どうやって切り出せばいいのだろう。内
容が内容だけに、話すにはドゲットの心痛を強いる事柄ばかりになる。スカリーは迷っていた。だがこの先の展開が
見通せず困惑しているスカリーの心情とは全く異なる、あまりにも当たり前な調子で、ドゲットは会話を再開させた。
「成る程。これで良く分かった。」
「何が?」
「何故夜に襲ってくるかさ。」
「あなたを弱らせる為ね。」
「まあ、それもある。」
「それも?」
「君はさっきの僕達の話を聞いたんだろう?」
「ごめんなさい。立ち聞きする気は無かったの。」
「いいんだ。言わなかった僕に責任はある。それにここまで来て、今更何かを隠そうとも思わないし。」
「責任なんて・・・そんな・・。」
スカリーは口元を歪めて苦笑したが、言葉が続かない。スカリーのそんな様子にも、ドゲットは特に何の感慨も示さ
ず、淡々と先を続ける。
「全てはタイミングの問題なんだ。」
「タイミング?何の?」
「ああ。これを読む限りじゃ、奴が僕を身代わりにしようとしてるのは明らかだ。せっかく復讐を成し遂げたのに、自分
も消滅するなんて、奴の流儀じゃないからな。ナバールの邪魔が入らなくても、誰か適当な人間を選んで、身代わり
を立てるつもりだったはずだ。その為に最初から、この契約書に自分の名前を記さず、特徴を明記した。だから後は、
只単に身代わりを用意すれば良かったんだが、そういうわけには行かなくなった。」
「狼にされてしまったからね。」
「うん。司教で無いばかりか人間でも無いんだ。幾らなんでも身代わりを立てることは不可能だ。だが奴はそんな時
の為に、周到に罠を張り巡らせておいた。どうやったかは知らんが、この指輪に血を吸わせた人間を、契約者としてこ
の時代に呼び、自分の身代わりとすることなんだ。そしてそれは契約が成就する一ヶ月ほど前ではならなかった。」
「何故?」
「奴が人間としての身体を持ってないからさ。」
スカリーは首を傾げた。
「けれどあなたに呪いをかけれたのよ?何の意味が?」
「確かに奴の魔力は狼になっても、あまり人間でいる時と違わないんだろう。だけど考えても見ろよ。せっかく上手くこ
とが運んでも、その時に自分の身体が人間でなけりゃ、意味が無いだろ?奴は何としても、人間の身体を取り戻した
いはずだ。だが君達が隠し部屋で遭遇した時の奴の状態を聞いたり、司教一派の残党がお告げで指示を受けてるこ
とを知る限りじゃ、今の奴には人間としての実体が無い。そして恐らく自分にかかった呪縛を解く為には、自分1人の
エネルギーでは足りないんだ。」
はっとしてスカリーはドゲットの横顔を見た。ドゲットは視線を落とし、何処か一点を見詰めている。
「司教はイザボーとナバールの2人に呪いをかけた。それがそっくり自分に返って来たのだとしたら、2人分の呪いを
受けたことになる。1人では駄目なんだ。この呪いを解くには2人いなければ・・・。」
不意にドゲットは顔を上げ、スカリーに視線を移した。
「司教が欲しかったのは、身代わりだけじゃない。この指輪を通じて、自分にエネルギーを与えてくれる者が欲しかっ
たんだ。それも普通のエネルギーじゃ意味が無い。指輪を触媒として吸い取るには、普通の状態よりもっと強い力。
例えば苦痛、あるいは・・・・・・・・・狂気。」
躊躇った後、最後の言葉をゆっくりと告げたドゲットは、スカリーの眼をじっと見詰めた。同時に蘇った記憶に、努めて
平静を装うとするスカリーだったが、上手くいってない事は、口の端を歪めて呟いたドゲットの言葉が如実に物語って
いる。
「・・・・・・そうか。君は・・・見たんだな。」
思わず眼を逸らしたスカリーに、ドゲットは我が身を嘲るような風情で薄く笑った。
「酷いありさまだったろ。」
「あなた自身とは関係ないわ。」
「・・・そいつはどうかな。」
「そうよ。あれは呪いのせいだわ。狼のしたことなのよ。気にすることは無いわ。」
ドゲットの気を引き立たせようと必死で食い下がるスカリーに、ドゲットは一瞬眼を見張ると、くっと笑い声を漏らした。
「何なの?」
「いや。・・・ナバールと同じことを言うんだな。」
そうだった。こんな言葉が気休めにもならないことは、先ほどナバールが証明して見せたばかりではないか。スカリー
は口惜しさに唇を噛み、顔を背け黙り込んだ。しかし同じ台詞でも、スカリーが言えばそれは又違った意味合いと取
れるらしく、ドゲットはそれ以上笑ったりはしなかった。只、暫くの間スカリーを見詰め、不意に彼女の首へ、そっと手
を伸ばした。はっとして身構えるスカリーに、痛ましそうな顔で、自分がつけた指の痕を、躊躇いがちになぞる。
「これは僕が・・。・・・済まない。」
「・・・・いいのよ。」
本当はもっと何かドゲットに言ってあげたかった。しかし掠れた声で、そう言うのがスカリーには精一杯で、こんな時に
気の利いた慰めを言えない自分がもどかしい。ドゲットが自分を傷つけること自体信じられなかったが、これをしたドゲ
ットの方がその気持ちは更に強いだろう。ましてや身近な人間全ての身の安全を、何時も1人で背負うような気風の
あるドゲットなのだ。
 スカリーはドゲットの気持ちを思うと、何故この時代のドレスは首から胸にかけて、こんなに大きく刳れたものばかり
なのだろうと恨めしくなった。着替えた部屋にあった鏡には、白い肌に転々と赤黒い痕が映っていた。捜査関係者な
ら誰でも一目でそれと分かる指の痕だ。何かで隠せば良かった。スカリーはまるで、自分自身の酷い怪我に触るか
のような、慎重なドゲットの指先を首筋に感じていた。
 ドゲットの大きな手はひんやりと冷たく、それなのに触れた箇所から尾を引いて熱くなる。それまでと打って変わっ
て、思い詰めたドゲットの眼差しと相俟って、それはスカリーを当惑させた。その時、ドゲットの唇が何かを語り、その
手の感触に気をとられていたスカリーは思わず聞き返した。
「え?」
「僕は・・・・・僕は君に、・・触れているのか?」
スカリーは意味が分からず眉を顰めた。と、同時にドゲットの様子がおかしいことに気付いた。ゆっくりと右手を目の前
に翳し、不思議そうな顔で掌と甲を何度も反転させ呟く。
「何も感じない。・・・・・感覚が無いんだ。」
そしてドゲットは、顔を強張らせたスカリーを見て、口の端を歪めて笑い、更に続けた。
「こうして動かすことは出来るが、他は何も。まるで他人の手のようだ。」
「そんな・・、何時からなの?」
「3頭目を仕留めた辺りから、徐々に。」
事も無げに言った後、いきなりドゲットは、右手拳を背後のヘッドボードに、力一杯叩き付けた。がしん、という音にび
くっと身体を震わせたスカリーは、咄嗟に鋭く叫んでいた。
「何をするの!?」
「駄目だな。・・・痛みさえ無い。」
何かの台詞を棒読みするかのように、半ば呆然とドゲットは呟き、不可解なものを見るような目つきで自分の手を眺
める。スカリーはそんなドゲットをとても正視出来ず、咎めるように睨むと、乱暴にその手を掴んで、調べ始めた。
「手を診せなさい!馬鹿なことを!怪我でもしたらどうするの?」
「・・・平気だ。」
口ではそう言うものの、ドゲットは手を引っ込めはせず、スカリーのされるがままになっている。幸い僅かに赤くなって
いる程度で、他は何処も異常は無さそうだ。スカリーはひとまず安堵し、次にドゲットの手をあちこち触りながら、丹念
に診察し始めた。ここは感じる?この辺は?などと尋ねながら、手から腕、肩の辺りまで触診する。聞かれる度にドゲ
ットは、無表情に黙って首を振った。運動機能や反射は正常だし肌にも異常は見られない。なのに何故感覚だけが
消失しているのか、不可解な症状はスカリーを不安にさせる。まともな医療設備が欲しいと、この時ほど切望した時
は無かった。するとまるでそんなスカリーの苛立ちが分かったのか、宥めるような口調でドゲットは途切れた話を再開
させる。
「タイミングさ。奴はタイミングを計ってるんだ。」
スカリーはドゲットの声に耳を傾けながら、ヘッドボードに重ねた枕にドゲットの体を凭れさせ、肩以外も調べようとシ
ャツの前を大きく開けた。ドゲットはスカリーに身体を預け、天蓋を仰ぎ見ながら、先を続ける。
「僕から奴にはこの指輪を通して、絶えず力が流れている。僕が弱っていくと、それだけ奴に流れる力は抵抗が無く
なり、奴は多くの力を得られる。頭のいい奴さ。一息に殺さないように、しかも苦痛を与える時の打撃は最大になるよ
う、全て計算づくなんだ。」
「つまり・・、狼になれば回復するのも目覚めた時の打撃を大きくする為、一度に襲って来ないのも、苦痛を長引かせ
自分がより多くの力を得る為で、同時に徐々にあなたを弱らせる為だと言うのね。」
「そうだ。持って回ったやり方のようだが、全てが奴に有利に働く。そうやって今のところ、万事が万事奴に出し抜か
れている。それなのに、僕らはようやく相手の正体を掴んだところで、このままだと、出し抜かれて終りかねない。」
「人事みたいに言わないで。そうならない為にみんなで方法を探しているのよ。司教だって特殊な能力があるかも知
れないけれど、人間であることには変わりは無いし、人間であれば何処かに必ずミスがあるはず。弱点だって見つか
るわ。」
咎めるように言った後、確証の無い台詞で締めくくったスカリーの怒った顔を微かに微笑んで見詰め、ドゲットは尋ね
た。
「間に合うかな。」
「勿論よ。」
さも当たり前のように虚勢を張ったスカリーだったが、それもドゲットの左胸を見た途端、表情が凍りついた。痣は依
然としてくっきりと、むしろ前見た時より、鮮明に肌に浮き上がっている。なるべく自然に振舞おうとする、スカリーの
指先が僅かに震える。止まって。私が動揺してどうするの。スカリーは表向きは平静を装いながら、ドゲットに気付か
れないことを必死に祈っていた。するとドゲットは身体を起こして、スカリーの眼を覗き込み、何時ものゆったりとした
口ぶりで、こう言った。
「エージェント・スカリー。僕にはあまり時間が無い。」
それと分かるほど、ドゲットの左胸に触れていた手が揺れる。
「狼は最後の1頭だ。そいつと戦ったすぐ後が、多分司教の復讐が成就する時なんだ。あいつはそのタイミングを見計
らい、誘いをかけてくるだろう。狼になった僕は、その誘いから逃れられない。けれどその時にはきっと司教も姿を現
すはずだ。奴を狙うとしたら、その時だ。」
「そうかもしれないわ。でも、司教が現れる確証は無いのだし、今の状態のあなたでは危険すぎる賭けよ。ナバール
の言うように、あなたが打って出るのは、医師としても許可出来ないわ。」
「司教は現れるよ。」
「それは分からないわ。」
「分かるさ。」
「何故?」
「僕がこんな風だからだ。」
「それの何処が・・・・。」
「それは今朝の僕を見たら、君にだって分かるだろう。何時もは持ち堪えていたんだ。でも、駄目だった。それだけ奴
の力が強くなっている証拠さ。今奴の力がどれほど強いか、僕には分かる。分かってしまうんだ。・・・・ああ、くそ。」
不意にドゲットは眼を固く閉じると、辛そうにスカリーから顔を背けた。そのまま毛布をぎゅっと握り締め、掠れた声を
搾り出した。
「なのに僕は、胸に触れる君の手の暖かさも、感触さえも分からない。・・・・・・・エージェント・スカリー・・・。正直言っ
て、僕にはもう自信が無い。何時まで自分を保っていられるのか。この身体の何処から何処までが、自分なの
か。・・・・怖いんだ。何もかも分からなくなったら、僕は今朝と同じことを君にしてしまう。それどころか、今度はもう歯
止めが利かない。周りにいる者全てを、見境無く殺してしまうだろう。自分自信が恐ろしい。・・・殺した後、僕はどうな
るんだ?正気に戻るのか?・・・そんな・・・それは、駄目だ。ならばいっそ・・。」
「止めて!」
スカリーは小さく叫んで、ドゲットの言葉を遮った。
「エージェント・ドゲット。」
しかしドゲットは顔を背け答えようとしない。
「エージェント・ドゲット。私を見て。」
スカリーは尚も呼びかけ、辛抱強く待った。が、眼を閉じ唇を引き結んだまま、まるでその顔を見られたくないかのよう
に、ドゲットはスカリーから遠ざかる。ドゲットの胸が大きく上下し、握り締めた拳が小刻みに震えているのは、そうで
もして耐えなければ崩れてしまう自分を、必死に抑えているからだろう。こんな風に不安定な部分を曝け出したドゲッ
トを目の当たりにし、スカリーの胸は潰れそうに痛んだ。そして今のドゲットに必要なものは、月並みな慰めなどでは
ないと、思うより先に身体が動いていた。スカリーは寝台の端に腰掛け身を乗り出し、両手でドゲットの顔を挟むと、
無理やり自分の方へ向かせた。
「エージェント・ドゲット。眼を開けて。私を見て。」
苦悩を顔に張り付かせたまま、俯いたドゲットは眼を固く閉じている。しかしスカリーがもう一度、その名を呼べば、や
がてゆっくりと眼を開け、躊躇うような上目使いの視線をスカリーに向けた。
「大丈夫。二度は無いわ。あなたにあんなことをさせない。必ず私が防いで見せる。」
ドゲットは哀しい微笑を浮かべ眼を伏せた。スカリーはドゲットの頬を挟んでいた両手を滑らし、ゆっくりと彼の短い髪
を梳いた。ドゲットの髪は柔らかく、滑らかな感触が指に心地よい。スカリーは何度もそうすることで、ドゲットの心を慰
めたかったが、それは又同時に自分の心も驚くほど和ませていた。だからその後スカリーの口を付いて出た言葉は、
取って付けたような気休めではなく、何処か深いところから自然と上ってきたものだった。
「約束するわ。」
「・・・・・約束?」
「ええ。私を信じて。」
ドゲットの身体から、ふっと力が抜け大きく息を付くのが分かった。項垂れたままドゲットが微笑んでいる。スカリーは
ドゲットの首筋に手をかけ、そっと囁いた。
「私が信じられない?」
ドゲットの笑みが更に顔中に広がるのが分かる。ゆっくりと首を横に振ったドゲットの首にかけた手に、スカリーはほ
んの少し力を加え、自分の身体の方へと倒せば、脱力したかのようにドゲットはスカリーの肩に顔を埋めた。
 スカリーはその時、身体の奥から込み上げる激しい感情に突き動かされ、両手でドゲットの頭を抱きしめた。少した
じろぐようにドゲットの身体が振動したが、スカリーはドゲットを離さなかった。顔をドゲットの髪に埋め、愛しむように頬
をすり寄せる。ドゲットの髪の匂いが鼻腔を満たし、その途端目眩にも似た感覚に見舞われ、眼を閉じた。ドゲットの
息がむき出しの首から胸にかかる。
 スカリーは何故か、形容し難い感情で胸が一杯になってしまった。安心したかのように身体から緊張を解き、自分
の肩に頬を寄せるドゲットの様子は、これまでに無く親密で、スカリーへの信頼に満ちている。だが、スカリーの胸を
一杯にしている理由は、それだけではない。スカリーはここに来たばかりの朝、予期せず2人して抱き合い目覚めた
時、あれほど自分がうろたえた理由を今思い出していた。
 還って来た。ふっと浮上した言葉と感覚は、最早誤魔化せない。しかしそれを説明しようとしても、スカリーにも良く
分かってはいないのだ。只、何故かこんな風に肌を触れ合わせると、心地よい安堵感と共にその言葉が浮かぶの
だ。何故だろう。男性と肌を合わせることがあっても、こんな風に感じたのはドゲットが初めてだった。
 だが今はその理由を探るより、この感情に溺れていたかった。スカリーはドゲットの髪の匂いで胸を一杯にし、熱い
息を肌に感じ、彼の存在そのものを全身で受け止める。縋っているのは、私の方だわ。スカリーはドゲットの髪に指を
走らせ、そう思った。
 ドゲットをこうして自分の胸に抱いているだけで、こんなにも心が満たされてしまう。今まではドゲットの自分を気遣う
行為が、そうさせるのだと思っていた。けれどそうではないとスカリーは気付いた。ドゲットは只そこにいるだけで良か
ったのだ。ドゲットの眼差しを、声を、身体を、その存在を、スカリーは最早自分と切り離して考えられなくなっている。
これは、罪悪なの?スカリーは一抹の不安に駆られた。
 しかし抗い難い誘惑に、スカリーはドゲットのこめかみに唇を寄せ、おずおずと押し当てる。すると急にドゲットの身
体がずっしりと重く肩に圧し掛かって来た。どうかしたのかと、顔を覗き込めば、眠そうな顔で眼を瞬いてる。
「エージェント・ドゲット?」
「・・・あ、ああ。」
「どうかした?」
「・・うん。・・・・・眠い。」
「疲れたのね。眠った方がいいわ。」
スカリーはドゲットから身体を離し立ち上がると、枕の位置を元に戻した。横になり易いように準備しながら、何となく
落胆したような、ほっとしたような気持ちを持て余し、複雑な顔をして小さく溜息を付けば、身体を横たえたドゲットが
怪訝そうに見上げている。
「何だ?」
「こういうところは狼と一緒なのね。」
咄嗟に出た言葉は、我ながら上手いはぐらかし方だと感心するも、実際に狼になったドゲットがしたことだから、強ち
嘘では無い。だが言われたドゲットは、怪訝そうに顔を顰める。
「意味が分からん。」
「いいのよ。分からなくて。」
澄まして答えるスカリーに、ドゲットの眉間の皺は深くなるばかりだ。しかしそんなドゲットの様子などお構い無しにス
カリーは、毛布でドゲットの身体を覆い、胸の辺りまできちんと整えた後、眠りを妨げないよう、去り難い気持ちを無理
やり押さえ込んで、天蓋の布に手をかけた。ところが、不意にドレスを端を引っ張られ、何事かと振り返れば、ドゲット
の腕が毛布から伸び、スカリーのドレスを掴んでいる。
「何?」
「・・その・・、眠るまで、居てくれないか。」
スカリーはその必死な眼差しに胸を衝かれた。だが言ったドゲットは、まるで恥じ入るように手を離し、心細げな視線
を漂わせている。人の好意に甘えたり、誰かに縋ったりすることが苦手なドゲットには、これが精一杯なのだろう。ス
カリーはドゲットの蒼い瞳を見るうち、ある思惑が浮かび、思わず口元を綻ばせた。
「いいわ。」
思わずほっとした顔になったドゲットだったが、次の瞬間にはぎょっとしてスカリーを見ていた。何故ならスカリーが、
実に自然な仕草で寝台に上がり、ドゲットの横に寝そべろうとしているからだ。
「何をしてるんだ?」
「横になるのよ。この椅子硬くて座り心地が悪いの。別に構わないでしょう。」
平然とそう言って、もう少し向こうへ寄ってくれないかしらなどと言うスカリーに気おされたドゲットは、妙な顔のまま脇
にずれる。スカリーは更に駄目押しをした。
「だってあなた、狼の時は平気だったわよ。それにどちらかと言えば、あなたの方が積極的だったわ。」
それを聞いたドゲットには、最早何も言うべき言葉は無い。仕様が無くドゲットは枕に頭を戻し、上を見上げる。隣では
スカリーもやはり同じように横になり、天蓋から垂れる布の優雅なドレープを眺める。何だかおかしな感じね。でも、あ
の椅子に座っているより、この方が彼を身近に感じられてずっといいわ。スカリーがそんなことを考えていと、不意にド
ゲットがスカリーの方を向いた。
「前から聞きたかったんだが、狼になった僕は君と何をしているんだ?」
「何をって、・・・・一緒に夕食を食べて、その辺をうろつきまわって、私の足に凭れて寝ようとしたり。かと思えばホー
ルで走り回ったり。そうね、狼のあなたは凄く素直で陽気な性格だわ。」
スカリーが身体を横向きにしてそう答えれば、ドゲットは憮然とした顔で上を向く。
「どうかした?」
「・・・・ナバールにも同じことを言われた。」
苦々しげな口調でそう言ったドゲットは、人気者だな、と呟きむすっと押し黙ってしまった。スカリーはちょっと吃驚して
眼を見張った。これは紛れも無い焼きもちだ。ドゲットは自分の分身である狼に嫉妬している。しかし自分自身に嫉妬
するなど、馬鹿げて愚かしいことなど充分承知なのだが、自分の与り知らないところで、彼自身は認めたくない自分
自身が好き勝手に振る舞い、それに皆が、ましてやスカリーまでも好意的であることが、腹立たしいのだろう。
 スカリーは拗ねたような顔で、宙を睨んでいるドゲットに微笑みかけた。
「エージェント・ドゲット。私の話を聞いてくれる?」
「・・・・聞いている。」
不機嫌に答えるドゲットに、スカリーは静かな声でこちらを向くように言えば、仕方なさそうに溜息を付き、身体ごとス
カリーの方を向いた。
「これでいいかい?」
「ええ。・・・これから言うことは、私の本心よ。だから良く聞いて。確かにあなたは狼になると、随分違って見える。で
も本質的には同じなの。私が良く知る人間と全く変わっていないわ。」
「・・・・そうかな。でも戦いの最中は・・。」
「あれは邪悪なものに支配された別人よ。でも私から見れば、狼であるあなたも人間であるあなたも、どちらも同じ人
だわ。だからあなたが狼になっても、決してあなた自身は消えてはいないの。単に姿が変わっただけよ。」
只、普段は隠れている部分が表面に出ているだけ。と、スカリーは続けたかったが、何となく口にするのがフェアでは
無いような気がして、黙っていた。
 一方ドゲットは、スカリーの顔を見詰めたまま、その言葉を反芻していたが、ややあって納得したように微笑むと、唐
突な質問を投げかけた。
「・・・狼になっても僕は僕か。・・・じゃあ、僕の狼になった外見はどんな風なんだ?」
「どんなって?」
「毛色とか、体格さ。ナバールに僕は痩せっぽちだと言われたからな。どうせ狼になっても貧相な奴なんだろ?」
自分の分身を否定的に言うドゲットの台詞が可笑しくて、スカリーは笑いながら首を振った。そんなスカリーにつられ
て笑いながら、それでもドゲットの好奇心に満ちた眼差しはスカリーに向けられたままだ。久しぶりにドゲットから笑顔
を引き出せたことに気をよくしたスカリーは、知りたいドゲットの気持ちも最もだと、狼の姿を思い浮かべ、ゆっくりと語
り出した。
「そうね。体格は大きな方よ。でも全体的にすんなりした感じだから、それほど大きくは見えないの。鼻面から胸、お
腹と足が真っ白で背中は灰色の毛に覆われてるわ。毛並みが美しくて、貧相だなんてとても思えない。特に特徴の
あるのはその瞳で、普通狼の眼は黄色なのに、蒼いのよ。その眼だけは今のあなたと全く変わらない・・・。」
スカリーは不意に口を噤んだ。ドゲットが何時しか寝息を立てていることに気付いたからだ。
 スカリーは直ぐ近くにあるドゲットの寝顔を、熱心に眺めた。こうやってドゲットの寝顔を見るのは何度目だろう。最初
は事件解決後体調を崩したドゲットの看病だった。そう言えばと、スカリーは思い当たり、改めて繁々とドゲットの顔を
覗き込んだ。あの時もこんな風だった。
 スカリーはベン達を助けた時のことを思い出した。あの時私は初めてこの人を失うことを思い、泣いたんだわ。確か
にあれ以降ドゲットをもっと理解し、歩み寄ろうと努力していた。けれどあの時のあの涙は、あれから思い出すたび
に、やはり一時の感傷だと思えてならなかった。
 スカリーはもう一度、ドゲットの顔を丁寧に見直した。光の中で見るドゲットの顔は、どんなに疲れやつれていよう
と、その容貌に少しも遜色を与えてはいない。スカリーはそっと手を伸ばし、指先で男らしく精悍なラインの一つ一つを
なぞった。秀でた額から頬、がっしりした顎。少し躊躇った後、スカリーはドゲットの僅かに開いた薄い唇に触れた。
 一時の感傷では無い。スカリーには最早分かっていた。どれほど彼女がドゲットを必要としているか。あの時の涙
は、心の奥深くで感じた喪失感に、耐えられず流した涙だ。約束すると、スカリーはドゲットに言った。スカリーはドゲ
ットの唇に触れ、心の中で誓った。
 私は約束を守るわ。あなたを失わない為に。スカリーは眼を閉じると、その唇にそっと顔を寄せた。
  
 
「ねえ、あの男の人。」
「ジョン・ドゲットのことですか?」
隠し部屋に再び舞い戻ったフィリップの問いかけは、やはり同じように唐突だ。しかし長年の付き合いのイザボーはも
うとっくに慣れっこになっている。フィリップの考えることなど、お見通しなのだ。
「うん。どんな人なの?」
「どうしてそんなことを聞くのです?」
「だって俺良く知らないから。初対面の時には具合が悪くて話どころじゃ無かったし。後は知ってるだろ。」
「それだけですか?」
フィリップはテーブルの上のものを手燭に翳しながら、イザボーの眼差しに言い訳がましい台詞を吐いた。
「・・へへ。だってさあ、あのナバールがだよ。幾ら同じ身の上だからって、他人をあんなに気にかけるなんて、今まで
無かっただろ?どんな奴なのか、ちょっと興味あるんだよね。」
イザボーは燃え残ったものの中から、判読出来そうな物をより分けながら、ちらりとフィリップの顔を見ると、感慨深げ
な顔で僅かに首を傾げた。
「そうですね。良い方ですよ。」
「ああ、そりゃそうだろうな。何となく分かるよ。」
「・・・それに、ちょっと不思議な雰囲気がある人です。」
「不思議?何それ。変な癖があるとか?言葉遣いが妙だとか?」
「違いますよ。・・・口で説明するのは難しいわ。只、あの用心深いエティエンヌが、どう言うわけか直ぐに心を許してし
まったのです。」
「へえ。そりゃ不思議だ。俺だって信用してもらうのに相当時間かかったぜ。今だって俺達以外のどんな人間にも、ナ
バールは滅多なことじゃ、心を開かないだろ。全く警戒心強すぎだって。ありゃ絶対早く老け込むな。」
「誰のことを申しておるのだ。」
突然振って湧いた声に、フィリップは飛び上がらんばかりに驚いた。恐る恐る振り返れば、直ぐ後ろにナバールが立
ち、眼を細めてフィリップを見下ろしている。
「ナ、ナバール。い、いい、何時からそこに?」
「そうよな。初対面がどうのと言っている辺りだ。」
あちゃーと片手で顔を覆えば、指の間からイザボーが笑いを堪えてるのが見えた。何だ知ってたのか、全く。この夫
婦って時々こうなんだよな。真面目そうに見えて人が悪いぜ。だが寄り添う二人を見て直ぐに、まあいいか、と思い直
し話を変えた。
「・・え、あー、ええと。あ、あれ?スカリーに会わなかった?」
「今ジョン・ドゲットと話しておる。俺はその代わりだ。」
「あの人目が覚めたの?・・・大丈夫だった?」
「うむ。気だけはな。だが身体はもう次には持つまい。我らが何とかせねば、あやつの命もこの街も全て無くなる。性
根を入れてかからねばな。」
「うん。そうだよね。・・・・そうなんだけどさ。見てよここ。」
フィリップは手燭を持ち上げ、部屋中を照らして見せた。隠し部屋にあったものは夜半の火事で、煤と燃えかすの山と
化している。幸い例の毛皮もすっかり燃えてしまい、悪臭を放つものが無くなり、今は燻った臭いがするだけだ。だ
が、そうなっても尚、薄気味悪い部屋であることに変わりは無い。
「殆ど燃えちゃったんだよね。これじゃあ、何をどうすりゃいいのか・・。」
「燃え残った目ぼしいものは?」
「書付の類はここにあるのが全部。」
ふむ。とナバールは一瞥し、手燭を持って部屋の中をうろつき始めた。フィリップはナバールの何処か意味のある行
動に、イザボーと顔を見合わせ、後ろから問い質した。
「何か探しているの?」
「ああ。」
「何?俺達も手伝うよ。」
ナバールは手燭で棚の奥を翳しながら答える。
「分からん。」
「はあ?・・何だよ、それ。」
フィリップは混乱して頭を掻き毟った。肩越しにその様子を見たナバールは、再び作業を再開させる。
「司教がどんな奴か、言ってみろ。」
「どんなって。・・・悪党。それに凄く頭がいい。」
「そうだ。奴は非常に頭がいい。だがどんなに頭が良く、強い魔力を持っていても、所詮人間だ。必ず弱点がある。」
「それが分かんないから、苦労してるんでしょ。」
「話を最後まで聞かぬか。」
ナバールは手を止め、振り返りそう窘めると、うへっ、と肩を竦めるフィリップを見下ろし先を続ける。
「では何故奴の弱点が分からないか、お前は考えたことがあるか?」
「何故?・・・何故ってそりゃ、誰も知らないし、第一あいつが弱ってるとこなんて見たこと無いし。唯一、あいつが苦手
なものがあるとしたら、ナバールなんじゃないの?」
それを聞いたナバールは、にやりとして腕を組んだ。
「成る程。中々いいぞ。だが、それだけでは不足だ。良いか。何故奴の弱点が分からぬか。それはお前が言ったよう
に、誰もそれを知らぬからだ。何故だ?」
「そりゃ、知られないようにしてたからでしょう。」
「どうやって?」
フィリップは顔を顰めた。ナバールは答えを促すように、両方の掌を上に向けて見せ、部屋をぐるりと見回した。フィリ
ップはその仕草で直ぐにぴんと来たようだった。そうか、と叫んで部屋を改めて見回した。
「ここに隠したんだ。」
「そういうことだ。奴ほど頭のいい男が、自分の弱点になりそうなものを、放っておくようなことは決してすまい。それが
何かは分からぬが、必ずこの部屋の何処かに隠匿してあるはずだ。」
「でもさ、この部屋あるものは全部怪しいよ。それが弱点だってどうやって判断するの?」
「ふむ。そうだな。例えば、苦手なものが複数であれば、その数は膨大でしかもここにあるには不自然なものだろう。
複数でなければ、それは厳重に封印されているはずだ。」
「例の契約書みたいに?」
「そういうことだ。・・そうだ。それに今思いついたが、複数のものであれば司教1人で集めるのは不可能だ。きっとそ
れを集める為に、何らかの策を講じているはずだ。もしかしたら奴のことだ。権力を嵩に公然と執り行っていたやも知
れぬ。そうなれば、なんらかの書状が残っていよう。司教の公務には似つかわしくない指令を記す何かだ。」
「そちらは私が調べます。」
そう答えたのはイザボーで、既にテーブルの上に集めた煤けた綴込みに眼を通している。それを見たナバールは、フ
ィリップと手分けをして、隠し部屋の更なる探索に入るのだった。


 ドゲットの前を狼が走っていた。狼は時折振り返り、ドゲットが後を付いてくるのを確認し、再び走り出す。何処に連
れて行こうと言うのだろう。辺りは濃い霧に覆われて何も見えない。跳ねるように走る狼の後姿を見失わないよう、ド
ゲットは必死で後を追った。
 急がなければ。その思いだけが強くなる。間に合わない。何に?何が間に合わないのだ。突如霧が晴れ、遥か彼
方から朝日が眼を射抜く。思わず手を翳し、呆然と立ち尽くした。夜明けだ。鼓動が早くなる。足元が濡れる。恐る恐
る下を向けば、赤く染まった自分の足が見える。
 地面を赤黒く染めている先を辿れば、人が倒れている。馬鹿な。まさか、そんなはずは無い。ドゲットはよろよろと近
づいた。見たくない。だが確認しなければ。するとその前に狼が立ち塞がった。狼は蒼い眼で真っ直ぐドゲットを見上
げ、不意に牙を向くと、猛然と吼えかかる。思わず怯んだドゲットだったが、狼の吼えている対象が自分では無いと気
づき、肩越しに振り返った。
 狼はドゲットの背後に向かって唸り声を上げている。ドゲットは後ろを向くと、狼の吼えるものを見極めようとした。狼
の視線の先には、黒い禍々しい煙が渦巻くように現れ、徐々に人の形をかたどっている。そして見る間に人の形にな
った黒い人影は、その両腕にぐったりとした女を抱きかかえている。はっとして振り返れば倒れていた人の姿が消え
ている。まさかと再び眼を戻した時、黒い人影の抱く女の顔がぐらりと仰け反り、真っ赤に噛み裂かれた喉を晒し、生
気の無い顔がはっきりと見えた。
 エージェント・スカリー。
 
 はっ、と大きく息を吸い、眼を開けたドゲットは、暫く荒い息を続けた。仰ぎ見た天蓋から垂れる薄い布越しにも、部
屋中光に満ちているのが分かる。悪夢だ。只の悪夢だ。そう言い聞かせ、身じろぎしたドゲットは、思わずぎょっとし
て、固まってしまった。
 ドゲットの肩に、額を擦り付けるようにして眠るスカリーがいたのだ。何故ここにと一瞬戸惑ったが、直ぐに眠る前の
状況を思い出した。少しでも俺を力づけようとしてくれたんだな、君は。そう思うとスカリーの優しさに胸が熱くなる。僅
かに顔を動かせば、スカリーの髪から甘やかな香りが立ち上り、ドゲットは思わず肺一杯に吸い込んだ。
 突如安堵感が雪崩のように圧し掛かり、ドゲットは息苦しさを覚えた。夢で良かった。彼女は生きている。ドゲットは
スカリーを起こさないように、ほんの少し身体の向きを変え、彼女の顔を覗き込んだ。幸いスカリーは、疲れ果てぐっ
すり眠り込んでいて、もぞもぞと身じろぎし仰向けになると、再び規則正しい寝息を立て、動かなくなった。そこでドゲ
ットは、スカリーの目覚める気配が無いのをいいことに、遠慮なく彼女の寝顔を眺め始めた。
 紗のかかった柔らかな光の中で眠るスカリーは美しかった。雪のように白い肌をきらきらと赤い髪が縁取り、閉じた
睫は弧を描き薄紅色の頬に影を落とす。白い肌と対照的な熟れた木の実のような赤い唇はふっくらとして、まろやか
な線でかたどられている。ドゲットはそっとスカリーの顔にかかった、幾筋かの髪を払い除けた。
 ドゲットはゆっくりと髪を撫で、そのまま指を首筋に滑らせる。か細い首に付いた赤黒い己の指の痕に、眉を顰め哀
しげに首を振った。これは暫く残るな。そう思うとユタでの出来事が蘇る。これで二度目だ。ドゲットは己の不甲斐無さ
を呪った。
 だが、三度目は無い。ドゲットはそう決意し、スカリーの頬に手を当てた。しかし柔らかな曲線を描く薄紅色の頬から
は、やはり何の感触も伝わっては来ない。駄目か。これは結構な衝撃をドゲットに与えていた。
 これまでドゲットは、スカリーに必要以上に触れないよう細心の努力をしていた。それが今更感触が無いことに、こ
れほど動揺するなど、我ながら滑稽だった。しかし、接触が少なければ少ないほど、自分がその時を、その感触を、
どれほど大切に心に留めていたか、今はっきりと思い知らされたのだ。
 思い返せば、最初に彼女を腕に抱いたのは、アリゾナの事件の時だ。あの時も、ユタでの時も、そしてここで初めて
目覚めた朝も、彼女を胸に抱くだけで、ついぞ味わったことの無い安らぎと安心感が心を満たした。何処かそれは、
ずっと昔に失くしてしまった大切なものを、やっと見つけたという感情と似通っていた。長い間探し続けていたものが
今ようやく自分の元に、戻ってきた。何故かそう感じてしまうのだ。しかしそれは表にしてはならない感情だった。
 以来ドゲットは、それ以上踏み込んではいけないと、己を律し極力スカリーとの接触を慎重に避けていた。だがこの
期に及んで、何を憚ることがあるというのだ。最早自分には後が無い。ドゲットはそう考えて、思わず苦笑した。もう遅
い。自分を枷から外した途端、こうして彼女に触れても、何も感じ無くなるとは。
 皮肉なもんだな。ドゲットは静かに手の甲をスカリーの頬に滑らせた。滑らせた先の唇を、躊躇いがちに指先で触れ
ると、ほんのりと熱が伝わってくる。ドゲットははっとして、指先を見詰めた。その時不意に、ぼんやりとこめかみにあ
たるスカリーの唇の感触を思い出した。
 眠気が強くて朦朧としていたが、あれは確かに彼女の唇だった。こめかみの蘇るしっとりと熱を帯びたスカリーの唇
の痕に、ドゲットは眼を伏せ手を当てる。どうしてあんなことを。しかし幾ら思い巡らせても、今のドゲットには、スカリー
の真意など分かろうはずも無く、思考は空転するばかりだ。
 逡巡した後ドゲットはそれ以上考えるのを放棄した。今重要なのは、そんなことではなく、彼女の唇だけが、自分の
感覚を刺激するらしいということだった。ドゲットは暫くスカリーの寝顔を、思い詰めた眼差しで見詰めていた。
 不意にドゲットは心を決めた。スカリーの肩のあたりに両手を付くと、真上からスカリーを見下ろす。ドゲットは心の
中で呟いた。そうだ。俺には後が無い。今君を、君自身を感じられるなら、何でもするさ。君に軽蔑されようが、蔑まれ
ようが、構わない。
 だがこれだけは誓おう。必ず君を元の時代に帰してみせる。ドゲットは徐々に身体を下ろしながら、そっと眼を閉じ
た。

 何時しか日が翳り、遠く雷が街に近づいている。湿りを帯びた空気は風に乗り部屋に満ち、それは不思議な心地よ
さで、影と添う2人を包んでいく。
 
 

 昼過ぎからアクイラを、季節外れの豪雨が見舞った。







【[】
【[】

トップへ
トップへ
戻る
戻る
dog fiction top



女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理