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                             傷無き玉 


 神からの賜り物だと、インペリアスは言った。スカリーは寝椅子に腰掛け、シェネへと使いに出たフィリップを待ちな
がら、未だ激しく降り続ける雨音を聞いていた。この雨のせいで、狼は外に出ない。目覚めてから直ぐ、バルコニーに
出る扉の前で腹ばいになり、僅かに開いた隙間から、ずっと外を眺めている。


 夕暮れになっても降り止まない激しい豪雨の中、びしょ濡れになってホールに集まったナバール等4人は、小間使
いに持ってこさせたリネンで濡れた身体を拭きながら、これからの作戦を検討していた。2人がいない間に、インペリ
アスとナバール達は素晴らしい働きを見せていた。何よりも収穫なのは、インペリアスの齎した情報だろう。彼は街に
住む数少ない長老から、司教がこの街に任命書を携え現れた日を聞き出し、司教が隠さなかった古い資料で日付を
確認し皆に知らせた。日付を聞いたナバールが重々しく口を開いた。
「ここに来て初めての朗報だな。」
「そう?だって明日の晩だよ。全然時間足りないよ。」
「そうでもあるまい。今夜でないこと自体吉兆と見るべきであろう。」
そう言ったナバールを、思わずフィリップは、へえっ、っといった顔で見直した。
「何だ?。」
「だって、随分気楽な言い方するからさ。昔とはえらい違い。」
「ふむ。気楽な人間が何時も纏わりついておれば、嫌でもそうなる。」
「ふうん。そんなもんかねえ。」
と、納得しかけたフィリップだったが、直ぐにナバールの揶揄した言葉に引っかかった。
「待てよ。気楽な人間って・・・・・・俺?」
イザボーとインペリアスが吹き出し、隣でにやにやするナバールを憮然として見上げたフィリップは口を尖らせる。
「ちぇっ。そういうところが違うって言ってんの。もう、先に進めるよ。それで、とりあえず今夜はどうなの?」
「うむ。この雨だからな。夜半過ぎまで止まなければ何も起こるまい。狼は雨の夜は外に出ぬ。」
「どうして?」
難しい顔で尋ねるフィリップにインペリアスが答える。
「月が出ておらんからじゃよ。聞いた話によれば、司教の母親であった女占い師の魔力は、月夜が最も強かったとい
うことだ。恐らく同じ血を引く司教も、月の力で魔力を増幅させているに違いない。」
「月狂いか。」
月狂い?フィリップはナバールの言った言葉を口の中で繰り返し、顔を顰めた。
「ルナティックと呼ばれる人達ね。」
声のした方を全員が振り返れば、ホールの入り口から足早に近づくスカリーの姿があった。
「スカリー。・・・・あの人は?」
フィリップが隣に並んだスカリーに心配そうな顔で尋ねれば、些か非難がましい目つきでスカリーは答えた。
「眠っています。こういう大事なことは、ちゃんと知らせて欲しいわ。」
「・・・だって、邪魔しちゃ悪いか・・。」
「フィリップ。」
そう低く遮ったナバールは、更に、止せ、とフィリップに命じた。フィリップは不服そうな顔になったが、ナバールが目配
せして見せたスカリーの表情を読み、すぐさま話を変える。
「え、ええっと、何処までだっけ。ああ、その月狂いとか、ル・・ルナ・・。」
「ルナティック。月の満ち欠けによって、著しく精神に異常をきたしたり、身体に変調を及ぼしてしまう人達のことを指し
て使われるの。私達の時代では、科学的に証明しようとする学者もいるわ。」
「・・かがく的って、何?」
「魔法や呪術、奇跡ではないもっと確かな理屈で物事を理解、解明する方法のことよ。」
「ふーん。で、そのかがくとやらで月狂いの説明はついているの?」
「『バイオタイド理論』という興味深い学説があるけれど、全てが証明出来ているわけでは無いわね。」
「何それ?」
「潮の満ち干が月に関係するように、人間の身体もそれに左右されるという理論よ。」
「何で?」
「海がこの大地の8割であるように、人間の身体もその8割が水だからよ。」
「へええ、そうなんだ。」
と、あまり良く分からずに感心して見せたフィリップだが、実のところ隣で話すスカリーの顔に見惚れてしまい、彼女
の説明など右から左だったのだ。雨の為に暗くなったホールでは既に蝋燭に火が灯っている。無数の燭台に灯る蝋
燭の柔らかな光に浮かび上がったスカリーの顔は、何時に無く美しかった。隠し部屋で見た時も綺麗だと見惚れてし
まったが、今はそれよりも違う雰囲気の美しさに包まれている。何だか色っぽいな。そう心の中で呟いてフィリップ
が、改めてこっそりとスカリーの顔を観察すれば、上気した薔薇色の頬や、蝋燭の光にきらきらと潤んだ目元、濡れ
たように輝く紅い唇が、ぞくっとするほど艶っぽい。どうしてなんだろう。と、フィリップは些か、やに下がった顔で、かな
り不躾な視線を投げていた。スカリーはその眼差しに眉を顰め、素っ気無く先を続ける。
「一つの考え方よ。けれど今はそれに基づいて、司教がその類の人間と捉えた方が良さそうね。」
「そのようだ。何せ司教も自分で認めておる。」
「そう言えば契約書にありましたわ。‘我牢獄に生まれし月の子’と。」 
「そうね。そうなると司教の呪術はすべて、月の動きと関連があるはずよ。確か私達が自分達の時代から飛ばされる
時見た月は、新月だったわ。」
「そう言えばお前達の現れた夜、不吉な影で覆われた月も新月だったな。」
突然イザボーが、あ、と言って、テーブルの上に広げた煤けた紙をひっくり返し、一枚の焼け焦げた羊皮紙を抜き出し
た。
「これを見て下さい。月の満ち欠けと呪術に関する覚書だと思うのですが・・・。」
「おお、これは。・・・なになに、左右に新月、満月、上下にあるのが半月じゃな。」
古い羊皮紙を覗き込んだインペリアスは、煤がこびりついて読み難いところを擦りながら、更に先を続けた。
「成る程、これを読むと分かるが月の状態を4つに分けて、呪術を施すらしい。新月から最初の半月までの期間をファ
ースト・クォーター、最初の半月から次の満月までをセカンド・クォーター、満月から次の半月までをサード・クォータ
ー、そして最後新月に戻るまでがフォース・クォーター。」
「ふーん。一ヶ月をそんな風に分けるんだ。でもそれにどんな意味があんの?」
フィリップがインペリアスの横から、円上に置かれた月の絵を見ながら口を挟んだ。
「まあ、待て。意味は確かこの辺に・・。煤けて良く読めんが、こうだ。ファースト・クォーター、開始・重複・緊急、セカン
ド・クォーター、既に存在する物の発達と統合、サード・クォーター、成熟・結実、フォース・クォーター、分解・再編成へ
引き戻す。とある。加えて、新月には最初の始まり、カオス・騒動・解決・隠れた再編成、満月には達成・全盛・完成・
活動・果たされない切望・不安・いらだちといった、月の状態が支配する意味があるようだ。つまり司教はこれに基づ
いて呪術を施していたのであろうな。」
スカリーは急に何かに思い当たり、ナバールの顔を見上げた。
「エージェント・ドゲットが2頭目の狼を仕留めたのは何時?」
その問いかけにナバールは、2頭目?と口の中で繰り返し、暫く記憶を手繰った後、おもむろに羊皮紙の図を指し示
した。
「ここだ。ちょうど半月前の満月の晩だ。あの戦いは熾烈を極めたので、よく覚えておる。」
「そして3頭目が2日前、4頭目が今朝ということになるわけね。」
スカリーは深い溜息をついた。重苦しいスカリーの表情に黙り込む皆であったが、フィリップだけは何だか良く分から
ないと言った顔で、無邪気に説明を求める。
「え?じゃあ今までにあの人が戦った日付って何か意味があるの?月に関係してるとか?」
「ええ。そうよ。いい?新月の晩。私達はここへ現れた。即ち最初の始まりね。それから次の満月までのファースト・ク
ォーターで、1頭目を仕留めてる。つまり開始よ。それから満月に至るまでの期間は、狼とひたすら戦うことに費やさ
れる。それがこの2つの期間が表す重複、そして存在する物の発達と統合。エージェント・ドゲットの狼としての機能
は、この期間で殆ど彼の一部として統合されたという意味だわ。そして2頭目を仕留めた満月の晩、司教はその目論
見を達成させたのよ。」
「目論見ってどんな?」
不意にスカリーは眉を顰め俯くと口を噤んだ。すると隣でナバールがそっと助け舟を出した。
「あの朝、あやつは錯乱したのだ。ほんの一瞬であったがな。・・・・あの朝が限界点だったと申していた。常に気を張
っていないと、邪悪なものに引っ張られるようだとも。今にして思えば、あれからまるで、坂を転げ落ちるように衰弱し
ていったな。思うにあの時、司教はそれまで持ち堪えていたジョン・ドゲットの心の壁の崩すことに成功したのだ。そし
て月はサード・クォーター、成熟期に入る。つまり崩した壁から徐々にあやつの魂を喰らい、己の力を成熟させていっ
たわけだ。」
「じゃあ今はフォース・クォーターだから、その意味からいくと分解・再編成に引き戻すってことだよね。でもさ、これっ
てどういうことなんだろう。分解って、何?あの人が分解するって・・・」
「フィリップ。黙れ。」
厳しい声で遮ったナバールに、フィリップははっとして口を噤んだ。顔を背けるスカリーの表情は、蝋燭の光が造る濃
い影が暗く覆っている。分解。スカリーはフィリップの言葉を心の中で反復した。嫌な言葉だ。分解とは何なの?ドゲ
ットが、ばらばらになってしまうという意味?司教はドゲットを分解し、自分自身を再編成する為に、我が手に引き戻
す。スカリーは眼を閉じた。認めたくは無いが、そう考えるのが一番自然な道筋だった。するとそんなスカリーを痛まし
そうに見ていたナバールが、口を開いた。
「奴のことだ。どの道碌でもないことを企んでいるに相違ない。そんなことより、これではっきりしたであろう。奴は間違
いなく明日の晩仕掛けてくる。それまでに、俺達は出来ることをするだけだ。」
ナバールの言葉は力強く全員の心に響いた。それはスカリーにしても例外ではなく、毅然として顔を上げ、その他の
首尾を尋ねる。
「他には?隠し部屋で何か見つけられた?」
するとその問いに、ナバールとフィリップは妙な表情で顔を見合わせる。スカリーはその様子に、何なの?と更に尋
ねれば、ちょっと躊躇った後、ナバールが経緯を話した。
「うむ。我らは奴が自分の弱点になりそうなものを、あそこに隠したに違いないと睨み、それを探していたのだが・・。」
「あの酷い火事の中で燃え残ったものがあったの?」
「まあ、とにかく見てみろ。話はそれからだ。」
ナバールは言った後フィリップに目配せを送れば、あいよ、と返事をしたフィリップは、テーブルの下から麻袋を取り出
し、中のものをざらざらとテーブルに広げて見せた。テーブルに小さな山を形成したそれは、焼け焦げた砂利のように
見える。スカリーは数粒手に取ると、表面を擦ったり光に透かして、調べ始めた。
「これは焼けた狼の毛皮の下にあったのだ。何か分からぬが、妙であろう。只の砂には思えぬ。」
「人為的に砕いたように見えるわ。・・何かの結晶みたい。・・・・宝石かしら。」
「そうなのだ。司教の宝石好きは周知の事実だ。イザボーが調べた奴の出した布令では、毎年近隣から根こそぎ宝
石を搾取しておる。それ程に執着している宝石を何故このように砕き、穢れた狼の生皮の下に隠したのだ?」
スカリーはそこで始めて明るい眼になり、ナバールを見上げた。
「何かあるわね。」
「俺もそう思う。悪魔との契約書に、奴は己のことを緑の石を力の源とする、と表したであろう。奴の力の根源が宝石
であるなら、それとは逆に奴の力を弱めるのも同じ類のものであると考えられぬか。いや、そうとしか思えぬ。あの部
屋を燃やしたのにも意味があったのだ。只単にお前達を追い払うだけでなく・・。」
「これを知られたくなかったのね。」
「そういうことだ。奴は自分の力を奪うであろうこれらを集め、砕き、穢れたもので覆うことによって、己を守っていた。
だが俺達は知ってしまった。これは吉兆であろう。」
「・・・・そうね。でもそれにはこれが、何の石だったのか特定しなければ。」
「分からないの?」
少しでも大きな粒があれば分かるかもと、粒をより分けるスカリーの顔をフィリップは覗き込んだ。
「こんなに細かいとちょっと。この砕け方と表面が少し熔けてるのを見れば、少なくともダイアモンドではないのは確か
よ。それにこんなに細かく砕けるなんてあまり硬度の高い石ではない。そのくらいしか、私には分からないわ。」
「では、分かる者に聞いたら良かろう。」
怪訝そうに見上げるスカリーを見下ろし、ナバールはこう提案した。
「確かシェネの街に、腕の良い宝石職人がいたな。」
「ホルへ爺さんのこと?」
「そうだ。フィリップ。お前はホルへのところへこれを持って行き、これが何の石を砕いたか聞いて参れ。」
「これから?」
「そうだ。今すぐ発てば、今夜中に戻れる。」
フィリップは、うへっ、と肩を竦めると袋の中にざらざらと石粒を戻し始めた。
「ナバール達は何してるの?」
「俺は街の警護を強化する。インペリアスは聖堂を清めておけ。イザボーには城を任せる。ダナ・スカリー。」
不意にナバールは改まった口調でスカリーを見た。
「お前はジョン・ドゲットに付いていてやれ。フィリップが戻るまで、今夜は2人とも良く休むのだ。肝心な時に動けぬよ
うでは困るのでな。何、心配せずとも、フィリップが戻り次第直ぐに知らせてやる。」
鮮やかなナバールの差配に、スカリーは最早頷くしかない。それを満足げに見たナバールは、袋を携えたフィリップに
更に付け足した。
「良いか。何の石か分かったら、手ぶらで戻るでないぞ。」
「大丈夫。ちゃんとその石もせしめてくるさ。ナバールの名前を出せば、あの頑固爺も気前がいいしね。」
「分かっておれば良い。後は一刻も早く戻って来い。」
「そうは言ってもこの雨だからなあ。」
「何を言っておる。この雨は謂わば神からの賜り物。運が向いてきた証拠じゃ。」
インペリアスは気が重そうなフィリップを横から諌めた。だが、窓辺に赴いて外を覗いて来たナバールの一言の方が、
数倍フィリップのやる気を起こさせたようだった。
「ゴリアテで行くが良い。」
「乗っていいの!?」
「このような雨の晩に、シェネまで無事に往復出来る馬は、ゴリアテぐらいだ。」
ゴリアテはフィリップがナバールと知り合った頃からの、憧れの軍馬だった。何時か自分もゴリアテのような馬を持
ち、乗りこなしたいと言うのが、彼のささやかな夢でもある。飛び上がらんばかりに喜ぶフィリップに、ナバールの厳し
い声が飛ぶ。
「早く行かぬか。一刻を争うのだぞ。」
「はいはい。全く人使い荒いところは変わってないんだから・・。」
「何か言ったか。」
じろりと睨むナバールに、いや、何も。と、とぼけたフィリップは、心配そうなスカリーに気付くと、元気付けるように笑
い、門まで送るというイザボー、インペリアスと共に、連れ立って出て行った。
 後に残ったスカリーとナバールは、それを見送り暫く無言で立ち尽くしていた。やがてナバールは、ワインをゴブレッ
トに注ぎスカリーに差し出した。受け取ったスカリーを見ながら、ナバールは自分のゴブレットにワインを注いだ。
「さすがね。」
「最後に巻き返すのが、俺の流儀だ。」
「心強いわ。」
それはお世辞などではない、偽らざるスカリーの心境だった。ナバールは僅かに眼を細めスカリーを見た。
「ジョン・ドゲットとは話したのか?」
「ええ。」
「・・・・で、どうなのだ?」
「大分参ってるわ。」
するとナバールはワインを啜りながら、薄く笑った。
「それはそうだろう。参らぬわけがない。」
「ああ、そうじゃないのよ。・・・・・・彼、感覚が・・・・・・感覚を失っている。」
「意味が分からぬが。」
ナバールはゴブレットをテーブルに置くと、怪訝そうな顔で向き直った。スカリーは俯いて眉を顰めた。
「痛みや、熱、それに触覚、そういう全ての感覚が消失してしまったのよ。」
「何時からだ?」
「3頭目を殺してから徐々にそうなったらしいの。今は全く何も感じないと、そのことの方にショックを受けていたわ。」
ナバールは腕組みをし、スカリーの話を如何にも気に入らないという風情で聞いていたが、終った時長い溜息を吐き
出した。
「とんでもない馬鹿者だな。」
「どういう意味かしら。」
ナバールの言葉に、思わずむっとして上目に睨んだスカリーを、ナバールは面白そうに見下ろした。
「分からぬか?」
「分からないわ。彼の何処がそうだというの?」
今朝方着替えながら、心の中で同じようにドゲットを散々罵っていたなど、スカリーはとっくの昔に忘れている。只、ド
ゲットのことを自分以外の人間に、そんな風に言われるのが心外なだけなのだ。
「そうか。では別のことを尋ねよう。限界点を超えて尚何故戦ってこれたのか、ジョン・ドゲットはお前に言ったか?」
「・・・いいえ。」
「それについての話をしたのか?」
「しなかったわ。」
「やはりな。だから馬鹿者と申したのだ。」
スカリーはさっぱり要領を得ないナバールの話に苛々と首を振った。
「悪いけど、要点を話してくれなければ、何が言いたいのか良く分からないわ。」
「そうか?」
「ええ。」
ナバールは当然だという風に、顔を上げるスカリーを見下ろし、小さく息をつき首を振る。続いてナバールは天井を見
上げ、全く、何故俺がこんな、などと口の中で呟き、それを聞き咎めて、益々険のある表情になろうとするスカリー
の、空になったゴブレットを取り上げ、テーブルに置きながら更にぶつぶつと独り言を言う。
「ふむ。聡いはずのお前が、こんなことにも気付かぬとは・・・・。気付いているのに、しらばっくれているのか、あるい
は何か理由があって無意識に遮断しているのか。」
「何を言ってるの?」
嫌が上でも甲高い声になるスカリーを、ナバールは諭すような目つきで見ると、静かだが確固とした口調で話し出し
た。
「ダナ・スカリー。良く聞くのだ。お前達は2人揃って聖堂に現れた。だが離れ離れに飛ばされた時のことを、想像した
ことがあるか?1人でこの時代を生き抜けるなどと、ましてやたった1人で元の時代に戻れるなど、そんな甘いことは
よもや思ってはいまい。どうだ?」
そのとおりだ。スカリーは、ドゲットの無事を確認した時、どれほど自分が安堵したかを思い出し、頷くしかなかった。
するとナバールは、テーブルに凭れ後ろ手を付き、スカリーの眼を真っ直ぐに見詰めた。
「この時代にはお前達2人だけだ。今、お前の目の前にはジョン・ドゲットしかおらぬ。それなのにお前は、何を隔てて
おるのだ?閉じこもり、自分を意固地に縛り付けることに、何の意味があるのだ。このまま全てが終っても、お前は真
っ直ぐに立っていられるのか?一点の曇りの無い心で、立つことが出来るか?良いか。これは俺にも覚えがあるから
言っておるのだ。・・・感情を開放しろ。自分の心に正直になるのだ。それも今しか無い。今それをせねば、全てが無
に帰してしまうぞ。」
スカリーの瞳が揺れた。それを認めたナバールは、何時に無く優しい眼差しでスカリーを見詰めた。
「もう一度尋ねよう。お前は、ジョン・ドゲットが限界を超えても尚、何故戦ってこれたか、本当は分かっているのだろ
う。」
スカリーは眼を伏せた。
「その話をあやつが持ち出さなかった訳も。」
スカリーは唇を噛むと、小さく頷いた。
「加えてあの馬鹿者は、自分の感覚が失われつつあることも黙っていた。その理由も。」
「・・・分かるわ。」
囁くように答えたスカリーは不意にナバールを見上げ、哀しげに微笑んだ。
「あなたの言う通りね。」
「世話の焼ける男だ。」
呆れて見せたがナバールは気丈に微笑んで見せたスカリーの様子に、却って胸を衝かれていた。ナバールはいたわ
るようにスカリーの肩に手を置き、首を出口の方に傾けた。
「さあ、もう日が暮れる。部屋に戻った方が良いぞ。」
「この空模様で、日暮れが分かるの?」
促されるままにナバールと肩を並べて歩きながら、スカリーは尋ねた。
「分かる。一日で一番忌み嫌った時刻だからな。身体に染み付いてしまった。」
「長かった?」
「2年が永遠のように感じられたな。」
「辛かったのね。」
「狼になるのは、さほど。」
「でも、今・・。」
「イザボーと直に話せぬ方が何倍も堪えた。鷹は答えてくれぬしな。」
「分かるわ。」
しんみりと答えたスカリーは、寂しそうな眼で視線を漂わせた。それを見たナバールはさりげなく話題を変える。
「それにしても、何とかならぬのか。あの男は。」
「何とかって?」
「一番貧乏くじを引いた人間が、あのような態度では俺達が困る。もう少しじたばたしれくれぬと、滅多なことでは愚
痴も零せぬではないか。」
スカリーはちょっと眼を見張り、ナバールを見上げてからくすりと笑った。
「何だ?」
「いえ。・・・・・あなた達って、何となく似てる気がして・・。」
「俺とジョン・ドゲットがか?」
「何となく、よ。考え方とか、雰囲気が。」
「戯言を申すな。俺はあのように無謀な人間でもなければ、周りに妙な気を使う男でもない。自分とイザボーの為な
ら、恐ろしく冷酷になれる人間だ。それに・・・・あれほど忍耐強くもないぞ。」
そう締めくくったナバールは、ちらりと意味ありげな視線をスカリーに投げた。ホールの出口まで来ていたスカリーは、
その視線の意味に、困惑したような顔で立ち止まった。スカリーを見送る為、扉に手をかけたナバールは、何かを言
い淀んでいるスカリーに、何だ?と気安げな雰囲気で囁いた。親しげなその態度に押され、スカリーはちょっと口篭り
ながら、切り出した。
「あの、ええっと・・・・、さっきあなたが言ったこと。・・・・・その、彼にも、・・・エージェント・ドゲットにも、言ったの?」
「俺が言った?どれだ?」
「それはその・・・・、感情を開放しろっていう・・・。」
ナバールは身体を起こし腕を組むと、繁々とスカリーを眺め、おもむろに口を開いた。
「いいや。何も言ってはおらぬ。何故そのようなことを?」
その途端スカリーは、不意に狼狽したような声で、何でもないわ、と打ち消し身を翻した。しかしドレスに足をとられ、
既のところをナバールに腕を掴まれ倒れるのは免れたが、大丈夫かと覗き込むナバールの視線を避けるように身体
を離し、フィリップが帰ったら知らせてと、返事も聞かず足早に立ち去った。
 回廊に消えるスカリーの後姿を見送りながら、ナバールはそっと微笑んだ。何でもないと言ったスカリーの頬が、一
瞬にして桜色に染まったのを、ナバールは見逃さなかった。ホールの扉を閉めながら、ナバールはもう一度スカリー
の去った彼方に視線を戻し、感慨深げに呟いた。
「忍耐強いは、見当違いであったか。」


 狼は外を見ている。しかし耳だけは、スカリーの動きに合わせ、敏感に反応する。名を呼べば、ふさふさした尻尾を
ゆっくりと振り、スカリーの方を向くのだが、やはりその場所からは動こうとはしない。頭をしっかり起こし、前足をきち
んと揃える凛とした後姿は、どことなくドゲットを彷彿とさせる。
 スカリーはリラックスしているのに、何かを待ち受け身構えているようにも見える狼を眺め、あれやこれやととりとめ
のない、物思いに耽っていた。
 ナバールが尋ねたことについて、自分は心の深い部分で、その度に確信していた。けれど、何時も何時も全くそれ
には気付かぬ振りをし続け、微かにそう感じることがあっても、有り得ないと簡単に打ち消した。楽な方へ流れたの
だ。
 ならば自分はどうなのだろう。最早自分の感情は有り得ないなどと、あっさりと打ち消せない。ナバールの言うよう
に、たった1人であったなら、この時代を行き抜けただろうか。武器も頼る者もいないこの時代にたった独りでは、自
分のように怪しい風体の女は、魔女と指差され人々に追われることになる。そうならなかったとしても、悲惨な流転を
辿り、元の時代に還るなど、限りなく不可能に近い。
 どんな状況でも、ドゲットが側にいれば、しゃんとすることが出来た。弱気になり挫けそうな自分を、何時も奮い立た
せ支えてくれる存在があったからこそ、踏ん張ってこれたのだ。彼が生きていると分かった最初の日に、自分が如何
にドゲットを必要としているか、充分に思い知らされたはずだ。
 そして今、この状況で、自分達は唯一無二の存在だった。自分達の間には障害や雑音など、何処にも無いのに、
彼女自身が、勝手にそれを造り、自分とドゲットの間を隔てていたのだ。何度同じことを繰り返せば、気が済むのだろ
う。スカリーは我が身の愚かさに苦笑した。
 だがそうなってしまう、どうしようもない己の境遇が厭わしかった。感情を開放しろ。自分の心に正直になれと、ナバ
ールは言った。けれど既のところで、無意識にストッパーが掛かってしまうのは、彼女自身どうすることも出来ないの
だ。スカリーには、決着の付かない過去と未来が、絶えず心に重く圧し掛かっているのに、これ以上事態を複雑にし
たく無いという、ある意味自己防衛本能のようなものかもしれなかった。
 結局のところ、そうやってドゲットの間に距離をとることが、現在抜き差しなら無い状況下にあるドゲットを、苦痛と絶
望の只中に、たった独りで身を投じさせるような真似を引き起こした。それもこれも、お互いの性情が成せる業なのだ
が、今回ばかりは、流石にそれに甘んじている場合ではない。ナバールはそれを言っていたのだ。
 感情を開放する。言葉にすれば簡単だ。しかしスカリーは一抹の不安を拭い去れない。それは決して知られたくな
い心の奥底で、絶えず警鐘を鳴らし続け、彼女の心を固く縛り付けた。何故なら、一度心を解き放ってしまったら、もう
二度と元には戻らない。堰き止められていた想いは、奔流となって流れ出してしまうだろう。そうなった時、自分達の
未来がどう変わってくるのか、スカリーには予測できなかった。
 スカリーは憂鬱な眼差しで宙を見詰めた。すると不意に涙が込み上げてくる。自分だけならいいのだ。だが違う。け
れどそうやって我が身の保身に走らねばなら無い事実は、ドゲットに苦境を強いるだけで、彼自身にはなんの救いに
もならない。救い。彼は何故、そんな現実に耐えられるの?
 ああ、そうか。スカリーは長い溜息を付き眼を伏せれば、堪えていた涙が、零れ落ちる。先ほどドゲットの側で感じ
たことを、ドゲットも同じように感じているのだ。その為になら、彼はどんな苦難でも、甘んじて引き受けるだろう。だが
それでいいのいだろうか。どんな結果になろうとも、全てが終った時、自分は真っ直ぐに立っていられるのだろうか。
失っても尚、曇りの無い心で、自分と向き合えるのだろうか。 
 スカリーはそっと涙を抑えた。そうやって頬に手を滑らせた途端、ある感触が蘇り、予期せず高鳴る鼓動にふっと眼
を伏せる。あれは夢?そっと頬を滑るドゲットの指。そして・・・。スカリーは唇を指先で触れた。
 夢にしては、あまりにリアルに残るその感触を思い出す。もし夢だとしても、あれはまさしくドゲットの唇だった。それ
は彼が眠っている時の感触より、遥かに素晴らしく感じられた。夢うつつの中で、スカリーはドゲットの行動に応えよう
とした。それなのに、身体は金縛りのように動かない。
 しっとりと覆う唇や、身体を包む温かさをスカリーは、離したくなかった。ドゲットの息遣いやぴったりと密着した肌の
感じ、野性的な男の匂いを、全てこの身の内に閉じ込めてしまいたかった。けれどやはり、思い切れない狡い自分
が、やめろとストップをかける。意識の無い時のことなど、応える必要はないと、まことしやかな正論を唱える。
 違うのだ。スカリーは再び沸きあがる涙を堪えられなかった。だからこその行動なのだ。あくまでスカリーには、逃げ
道を用意しておこうと、彼は思ったのだろう。感覚を失い、邪悪なものに犯され、自己の消失に怯えながら、必死で己
を保とうと、ドゲットは最後の最後に、自ら枷を外しスカリーに触れ、全身全霊で彼女に縋ったのだ。そうせずにはいら
れなかった、ドゲットの切羽詰った心情を、心の奥底では理解しながら、少しも慮ろうとしなかった自分は、なんと惨い
仕打ちを彼にしてきたのだろう。
 馬鹿は私だわ。スカリーは溢れる涙を拭おうともせず、項垂れた。と、不意に暖かい湿ったものが顔を舐めた。はっ
として顔を上げると、再び涙に濡れた頬を舐められる。何時やってきたのか狼が、直ぐ近くでスカリーの涙を舐めてい
るのだ。だがいつものように、ふざけてじゃれるような仕草ではない。何かを問いかけるような眼差しで、スカリーの顔
をじっと見上げる。
 そんな顔をしてはいけない。ドゲットがそう言ったような気がして、思わずスカリーは床に膝を付き、狼の首を抱きし
めた。ごめんなさい。ごめんなさい。暖かな毛皮に顔を埋め、心の中で何度も呟く。私は何時も気付くのが遅いのね。
狼のあなたにならこんなにも素直になれるのに、肝心な時にそう出来ない私を許して。スカリーは狼の毛皮に指を走
らせながら、祈るような気持ちで、この想いが通じることを願った。
 すると狼は、急に立ち上がり、スカリーのドレスの袖を咥え、引っ張った。どうやら何処かへ連れて行きたいらしい。
スカリーは引っ張られるがままに立ち上がり、狼の後に従えば、円卓まで来ると立ち止まり、スカリーを見上げてか
ら、ひょいと前足を円卓の端にかけた。
 スカリーは小さく溜息を付き、首を振った。食事の催促ね。そう簡単に心が通じるわけなど無い。彼は今狼なのだ
わ。そう思ったのだ。しかし円卓の下に置いてある狼用の皿には、殆ど手付かずで中身が入っている。変ね、気に入
らないのかしらと、首を傾げ狼を見ると、真面目腐った眼差しでスカリーを見詰め、その濡れた鼻面でスカリーの方
へ、おずおずと皿を押しやるではないか。
 スカリーは、それを見た瞬間胸が一杯になってしまった。狼が言わんとすることは、明白だ。スカリーは胸に手を当
てたまま、声を詰まらせ狼に囁いた。
「私を心配してくれるのね。食事をしろって。あなたって本当に・・・。」
スカリーの様子に狼は、非常に困惑した顔になると、キュウンと小さく鼻を鳴らす。そしてもう一つ皿を、スカリーの方
へ寄せるのだ。これには幾ら意気消沈していたスカリーでも、微笑まずにはいられなかった。スカリーが狼の頭を愛し
むように撫でれば、狼の方も眼を細め甘えるように頭を押し付けてくる。
「分かったわ。でもあなたも食べなければ駄目よ。」
スカリーの言葉が分かったかのように、嬉しそうに尻尾を揺らし狼は喉の奥で、ウォン、と返事をする。その真っ直ぐ
で蒼い瞳に、スカリーはあっけなく降参した。
 食事などとても喉を通らないだろうと思っていたが、始めると案外食べられるもので、しかも狼の監視付きとあって
は、終った時には充分満腹になっていた。それは狼にしても同じで、手付かずだった皿を綺麗に舐め上げ、ついでに
口の周りもべろりと舐め、大きなあくびを一つした。
 続いて狼は、食事が終わりワインを啜っているスカリーの腿に顎を乗せ、寛いだ様子で眼を細めている。スカリーは
その仕草が愛しくて、ワインを飲む間、ずっと片手で狼の頭や耳を撫でていた。
「フィリップは遅いわね。」
そう呟いたスカリーは、降りしきる雨の音に耳を澄ませた。遅い。本当に遅いのだろうか。違う。まだ間に合う。まだチ
ャンスは残っているわ。不意に足が軽くなり、同時に手から擦り抜けるように狼が離れたのに気付いた。何処へ行く
のだろうと、軽快な足取りで部屋を横断する狼の後姿を眼で追えば、寝台の前で立ち止まり、スカリーを振り返る。
 そして狼は首を傾げスカリーの視線を捉えると、ほんの少し誘うような素振りで首を寝台の方へと動かしたのだ。そ
のあまりに人間臭い仕草は、スカリーの眼を見晴らせた。続いてくすくす笑いながら、狼に近寄り腰を屈めて狼の顔を
覗き込んだ。
「あなたって本当に狼の時は素直だわ。」
咎めるようなスカリーの口調に、極まり悪そうな顔で狼は項垂れた。叱られたとでも言わんがばかりに、しょげてしま
う狼にスカリーは満面の笑みで応え、両手で顔を挟むと頬刷りした。
「馬鹿ね。怒って無いわよ。休んだ方がいいと言うのでしょう?」
ウォン。再び狼は満足げに返事をする。スカリーは正面に顔を戻すと、両手で狼の顔を挟んだまま、その何処までも
蒼い澄んだ瞳を覗き込み、同時に湧き上がった言葉を囁いていた。
「あなたに逢えなくなるのは辛いわ。」
が言った後直ぐに、何を言っているのだろうと思い直した。スカリーは身体を起こし、狼と共に寝台に寝そべった。スカ
リーの隣で安心したかのように丸くなる狼の背を撫ぜながら、自分の矛盾した想いを持て余していた。ドゲットの呪い
は一刻も早く解かれて欲しい。しかしそれはもう二度とこの狼には会えないことを意味する。
 スカリーは狼の首筋に頬を寄せ、甘えるように擦り付けた。こうやって触れるだけで心が和み、遠慮なく甘え素直な
心で向き合うことが出来、直球で私に愛情を示してくれるこの美しい獣を、私は手放したくないのだ。スカリーはふっ
と哀しげに眼を伏せた。けれどそれは、狼にとってもドゲットにとっても、安穏な道ではない。狼の凄絶なもう一つの姿
を見てしまった今、それは決して望んではならないことなのだ。
 
 夜半過ぎ、密やかな声でスカリーはまどろみから引き戻された。寝台から降り、扉まで駆け寄ると、そっとスカリー
を呼ぶ声がする。
「スカリー?起きてる?」
スカリーは声を聞いて素早く扉を開けた。そこには髪から水を滴らせたフィリップが、しょぼくれた様子で立っている。
「戻ったのね。首尾は?」
「うん。そのことを話し合うから、ホールにみんな集まってる。」
「分かったわ。行きましょう。」
スカリーが部屋を出ようとすると、あ、と言ってフィリップがそれを止めた。そして怪訝そうなスカリーに何事か耳打ち
し、スカリーもそれに同意すると、2人は黙って視線を落とした。視線の先には、狼が如何にも当然と言う顔で、スカリ
ーの足元に控えている。
「困ったな。」
「任せて。話して来るわ。」   
スカリーは自信ありげに言うと、狼と連れ立って一旦部屋の奥へ消えた。フィリップは手持ち無沙汰な様子で扉に凭
れて待ったが、程なくして戻ったスカリーが扉から顔を覗かせると、身体を起こした。
「いいの?」
「ええ。言って聞かせたから平気よ。」
フィリップは妙な顔をしたが、それについては何も言わず、2人は足早にホールへと向かったのだった。しかし寝台で
大人しく寝ているはずの狼が、扉の直ぐ内側に座り、スカリーが消えた彼方を寂しげに見詰めていることなど、彼女
は知る由も無かった。


 ドゲットはグレンデルに跨り、長い間小高い丘の上から見える眺望に見入っていた。うねうねと続く緑の丘陵を、青
空にぽっかり浮かんだ白い雲の影が、滑るように移動してゆく。昨晩の豪雨が嘘のように晴れ渡った青空を、美しい
声で高らかに囀りながら飛翔してるのは、雲雀だろう。緑萌ゆる草原を揺らしながら渡る風は、雨上がりの湿った匂
いと青い草の匂いを運び、丘から続く林の枝をさやさやと揺らす。
 それは何処までものどかで、平穏な風景だった。    
「ねえ、何してるの?」
ドゲットは、はっとして声のした方を振り返った。すると林の中から、栗毛の馬に跨ったフィリップが現れた。
「君は、確か・・。」
「フィリップ・ガストンだよ。俺はもう何度もあんたに会ってるけど。」
「そうか。」
フィリップはドゲットの横に馬を並べ、同じように景色を眺めたが、彼にとって見慣れた光景が広がっているだけで、何
処にも目新しいものなど無い。フィリップは顔を顰めて、ドゲットを見た。
「で?独りで何やってんの?皆方々探してるよ。スカリーなんて、心配してさ。あ、これ言っちゃまずいのかな。まあ、
いいや。とにかく皆心配してるんだけど、用事は済んだの?まだなら早く済ませて、もう帰った方がいいよ。」
「いや、もう済んだ。」
低くそう答えたドゲットが、元来た方向へ馬首を巡らせれば、それに習ってフィリップも続く。
「ふーん。じゃあ、行こうか。あ、それとも俺がいると、邪魔かな。」
「そんなことはない。君とは話してみたかった。」
ドゲットの一言でフィリップの表情は急激に明るくなる。
「え?ホント?この俺と?本当に話したかったの?」
「ああ、本当だ。」
「しゃ、・・ええと、何だっけ、しゃこう・・うん、社交辞令なんかじゃなく?」
「勿論。」
「そうかあ。そうだったんだ。なあんだ。へへへ。」
妙に嬉しそうな様子でにやにやするフィリップを、ドゲットは柔らかな眼差しで眺めた。
「君が隠し部屋を見つけてくれたんだろう?」
「え?ああ、そう。」
「お手柄だな。」
「そんなの偶然だよ。」
「いや、君の働きは大きい。感謝してるよ。」
「感謝なんて、やだなあ・・。」
柄にも無く照れてしまいフィリップは、居心地悪そうに栗毛の背でもぞもぞと身体を動かした。ふと隣を見れば、俯い
て口元を綻ばせるドゲットの横顔が眼に入る。フィリップはその横顔を見詰め、不思議な気分になった。この状況でこ
んなにも静かな空気を纏えるドゲットが、あの殺戮を生み出した狼とはその佇まいからは想像も付かない。ましてや
我が事で手一杯なはずのこの男が、自分に謝意を表すなど思ってもみなかったのだ。よほど妙な顔でドゲットを眺め
ていたのだろう。視線に気付いたドゲットが顔を上げた。
「何だい?」
「え?・・・いや、随分違うなって。」
「何と?」
「あんたとナバール。」
「とても似てるとは思えんが。」
「だってさ、あんた達2人とも狼になるよね。でも同じように狼になっても、違うんだよな。」
ドゲットは、ほう、と言って眼を細めた。
「そうなのか?俺が狼になった時の様子は聞いたが、ナバールの場合は知らんな。」
「ナバールの時は、炭みたいに真っ黒な狼で、そりゃもう頭も肩もがっちりしてさ。今まで見た狼の中じゃ一番大きな
身体をしてたよ。眼なんかさあ、暗闇の中で黄色く光って、凄く恐ろしかったんだ。ま、あの頃は人間のナバールも、
近寄り難いくらい恐い人だったから、そのまんまって感じだけどね。でもあんたは、ナバールの時と違う。」
「何処が?」
フィリップは難しい顔で首を傾げ言葉を探した。
「何処っていうか、人間の時の雰囲気と狼の時の差が違い過ぎて・・・。あ、気を悪くしたらごめんなさい。でもそれっ
てあんた自身が相当無理してるようで、何だか見ちゃいられないんだ。」
ドゲットはフィリップの拙い言葉から、彼の言わんとすることを理解し、薄く微笑んで、気にするなと首を振った。それで
もフィリップは失言だったかなと、気まずそうな顔でこめかみを人指し指でこりこりと掻き、唐突に話を変えた。
「ねえ、あんた達司教をやっつけたら元の時代に戻れるの?」
「多分。」
「どうやって?」
ドゲットは少し考えてから立ち止まり、茂った木立の枝を一つ選び、無造作に掴んだ。
「この枝が時間の流れだとしよう。木の幹に近い方が君達の時間だ。」
「その葉っぱがたくさん付いてるところだね。」
「そうだ。そしてこの枝の一番先が俺達の時間だ。」
「あ、本当だ。葉っぱが2枚付いてる。あんたとスカリーだな。」
そう言って納得するフィリップに、ドゲットは口元を綻ばせ、枝の先を掴んだ。
「いいかい。司教はこの2枚の葉を、無理やりこちらに手繰り寄せたんだ。こんな風に。」
そう言ってドゲットは、枝をぐいっと自分の手元へ曲げて見せる。
「こうすると俺達は君のいる時代に一緒にいるように見える。けれど俺達はこの時代の人間ではない。何かの衝撃、
あるいは手繰り寄せた力が無くなれば、元の時代に跳ね返されるだろう。丁度こんな具合に・・。」
そしてドゲットは掴んでいた枝を、ぱっと放して見せた。ひゅん、と音を立て、枝は勢い良く元の場所へと戻る。ドゲット
の説明をしかつめらしく聞いていたフィリップは、枝が放たれた瞬間、あ、と口を空け直ぐ意味を理解すると、にっこり
して頷けば、ドゲットも釣られるように微笑み返す。へえ、そうなんだ、と感心することしきりのフィリップに、ドゲットは
再び馬を進めながら、ゆったりした口調で先を続けた。
「なあに、エージェント・スカリーの受け売りを、俺流に噛み砕いて説明しただけだ。」
「でも良く分かったよ。」
「まあ、上手く行けばの話。」
「上手く行くさ。俺達が付いてるんだぜ。」
「そうだな。」
滲むような笑顔で答えたドゲットの顔を見た途端、フィリップは口篭りながら別のことを聞いた。
「・・ねえ、変なこと聞くけどさ。司教をやっつけて、呪いが解けて、この街も無事なんだけどあんた達だけが戻れない
ってことは、あるのかな?」
「ある。むしろその可能性の方が大きいかもしれん。何にせよ、確かなものなど一つも無い。」
「・・・・どうしても元の時代に戻らなきゃ、駄目なの?」
「俺達の時代じゃ無いからな。」
「そんなに未来って、いい時代なの?世の中の悪いこと全部無いような、天国みたいなところなの?」
ドゲットは眼を伏せると、自嘲的な笑みを浮かべ首を横に振った。
「確かにいい面もある。しかし相変わらず人間は争ってばかりだし、犯罪も無くならない。天国とは程遠いな。」
「じゃあさ、あんたはそこで幸せだったの?スカリーは?」
ドゲットは返事に窮した。何を持って幸せとするのか、その判断を今彼には下せない。只言えるのは、全てをひっくる
めて幸せと言い切れるほど、平坦な人生を自分もスカリーも歩んで来てはいないと言うことだ。しかしそれをこの明る
い眼をした青年に説明するのは、難しいだろう。ドゲットが困惑した眼差しを宙に泳がせていると、それをどう取ったの
か、再びフィリップの話は飛躍する。
「俺、思うんだけど。2人ともここで俺達と一緒に暮らさない?・・無理にじゃなくてさ。もし、今夜上手く戻れなかった
ら、ここで俺達と暮らそうよ。今夜駄目ならもういいんじゃないの?」
「そうは行かない。俺達がいなくなれば、仲間が探すことになる。」
「それって凄く親しい人?」
「まあまあだ。」
「へ?何それ。まあまあだったら、別にいいと思うけど。俺が言うのも変だけど、あんた達2人お似合いだよ。あ、いけ
ね。余計なこと言ったかな。まあ、いいや。怒んないでね。冷やかしじゃないんだ。」
ドゲットはちらりとフィリップを見てから、再び前に視線を戻した。スカリーとここで暮らす。何処か甘い響きのあるこの
フレーズは、一瞬ありもしない夢をドゲットの脳裏に浮かび上がらせた。しかしすぐさまそれを振り払い、ドゲットはきっ
ぱりと切り捨てた。
「駄目だ。」
「どうして?」
「遣り残したことがある。決着が付かないことがある以上、何かを始めるわけにはいかない。」
「だから何でさ。」
「俺の流儀だからだ。」
「流儀って・・・・・あのね、戻れなきゃどうしようも無いでしょ?」
「必ず戻るさ。」
「はあ?・・・何言ってんのかね、この人は。」
「いいんだ。」
煙に撒かれたようなフィリップにそう言い切り、ドゲットは不意に手綱を引いて、駆けるぞ、と馬の腹を蹴った。グレン
デルがそれを合図に、緩やかな駆け足に入れば、出遅れたフィリップが慌ててその後を追う。
 太陽は西に傾きつつあった。

 ドゲットが部屋に戻り、寝台で疲れた身体を休めていると、ばたん、と大きく扉の開く音がし、足音高くスカリーが入
って来た。スカリーは天蓋から垂れる布を乱暴に引き払い、同時に身体を起こしたドゲットを寝台の横に仁王立ちして
睨みつけた。
「何処へ行っていたの?」
「ああ、外だ。」
「外?何をしに?」
「色々と見ておきたくて、遠乗りしてたんだ。グレンデルにも乗りたかったしな。」
「そう。それで、どうだったの?」
スカリーの剣幕など全く頓着しない、あまりにも普段と同じドゲットの受け答えに、些か気勢をそがれたスカリーはちょ
っと居住まいを正しありきたりな質問を投げる。すると物憂げに両足を床に下ろし、スカリーの方を向いて腰掛ける格
好になったドゲットは、彼女の顔をじっと見詰め、続いて俯くと不可思議な笑みを浮かべた。
「何なの?」
「いや、世界は美しいな。」
「それだけ?」
「そうだ。」
スカリーは相変わらず言葉の足りないこの男の真意が見えず、苛々とした視線をあらぬ方へ投げた。朝方ほんの少
し部屋を離れた間にいなくなってしまったドゲットを、胸が痛くなるほど心配し、ずっと探し回っていたのだ。この状況
のドゲットに怒りをぶつけることは、幾らなんでも理不尽すぎてしたくはないが、それでも不機嫌な溜息が漏れるのは
致し方ない。そんなスカリーをドゲットは上目に見て、肩を竦めた。
「僕は又君を怒らせたようだな。」
「別に怒ってなんかいないわ。只、姿が見えないから・・。」
「ああ、済まなかった。独りで行きたかったんだが、言ったら君は・・。」
「勿論反対するわ。危険過ぎる。」
ほらね。と言う顔でドゲットはちらりとスカリーを見ると、首の後ろを擦った。もうこうなればどうしようもない。この件に
関しては、彼の中では終ったことなのだ。スカリーは部屋に駆けつけた時の意気込みが何だったのかと、些か拍子
抜けした格好で、ドゲットの隣にすとんと腰を下ろした。何か話さなければ。スカリーは平静を装いながらも、心の中
は嵐が吹き荒れていた。言葉にならない感情で胸が一杯になり、何を話せばいいのか混乱する。結局出てきたもの
は、自分の思惑とはかなり方向が違っていた。
「今夜のこと。あなたと何も話し合って無いわ。」
「無駄だ。どの道僕が狼になれば、作戦など関係なくなる。」
「何も聞かないの?」
「聞いたところで意味は無い。それに・・。」
不意にドゲットは立ち上がり、大きく伸びをすると寝台を離れながら、先を続ける。
「僕は聞かない方がいいんだろう。」
スカリーは窓辺に凭れ外を眺めるドゲットの後姿を眺めながら、その聡い答えにそっと息を吐き出した。こうも出し抜
かれるのは、ドゲットに原因があるやも知れぬ。そう言って昨晩狼を遠ざけたナバールと、恐らくドゲットも同意見に違
いなかった。ドゲットのことだ。多分ずっとそのことについて考えていたのだろう。司教に一番近い自分が、なんらかの
手段で情報を伝達していたのではないかという結論に至ったのだ。自分が何も知らない方が有利だと、きっぱりとし
た口調がそれを物語っている。
 スカリーは窓辺に佇むドゲットに近づきながら、それでも何か力づけることを言おうとした。しかしいざとなると言葉が
浮かばず、天蓋から垂れる布のドレープを手持ち無沙汰に直しながら、所在無げな視線をドゲットに向ければ、何か
言いたそうな顔で、スカリーを眺めているのに気付いた。何なの?と怪訝そうに近づくスカリーに、ドゲットは微笑みか
けた。
「最初に着ていたドレスだね。」
「え?・・ああ、そう言えばそうね。おかしい?」
「何故だい?」
「だって、あの時あなた、ちょっと変だったわ。」
「いや、そういう姿を見慣れなくて。でも、似合うよ。綺麗だ。」
丁度その時ドゲットの隣に来ていたスカリーは、その言葉に心臓が踊り出した。まさかドゲットの口から、そんな台詞
が飛び出ようとは予想だにしていなかったのだ。しかもその言葉は、心地よく胸の中で響き渡り、見上げたドゲットの
眼差しは、普段より真剣で、一途な光を帯びている。スカリーは頬にかっと血が登り、とても正面からドゲットの顔を見
られず、必死で動悸を沈めると、かすれた声でようやく答えた。
「・・・・・ありがとう。」
「正直堪えたよ。ここに。」
ドゲットは真摯な眼をスカリーに向けると、右の拳を胸に当てた。
「・・・どういう意味?」
「・・・・・今だから言うが、君は輝いていた。あの時目立たないと言った君を、馬場で見た時、僕がどれほど驚いたか
君は知らないだろう。それほど君は綺麗だった。今になって思えばあの時、君の姿を眼に焼き付けておいたのは正
解だった。僕は自分の犯した反吐がでるほど、おぞましい行為に心の箍が外れそうな時、何時も君の姿を思い浮か
べた。僕がどれだけ醜く汚れていっても、僕の中にいる君の姿に触れることで、浅ましい獣に成り果てた自分が浄化
されるような気になった。僕を正気に繋ぎとめてくれたのは君なんだ。」
ドゲットの告白は、スカリーの胸を熱くさせた。ああ、そうだったんだわ。スカリーはその時初めて、ドゲットが何故限界
を超えても戦ってこれたのか理解した。自分の存在がドゲットを生かすように、ドゲットの存在があっての自分なの
だ。自分達はこんなにも深いところで結びついていたのだ。スカリーは言葉に詰まり、やるせなく首を振った。
「私は、何もしていないわ。そんな風に言わないで。」
「エージェント・スカリー。君が無事である限り、僕は大丈夫だ。」
想いは同じ。スカリーは思わず口元を綻ばせた。
「私が無事なら?」
「そうだ。」
「なら平気ね。私は絶対に無事だわ。」
「そりゃ心強い。」
気丈に振舞うスカリーに、ドゲットもわざと軽口を叩いてみせた。だが時は残酷に過ぎる。2人の横顔を、紅く夕日が
照らし始め、スカリーは遥か地平線に視線を投げ、忌まわしそうに呟いた。
「日が暮れるわ。」
「ああ。綺麗な夕焼けだ。」
その暢気な口調に、スカリーは絶句し、咎めるような目でちらりとドゲットを見れば、両肘を窓枠に着き気楽な風情で
別の話を始めた。
「エージェント・スカリー。ここから少し離れた丘から、素晴らしい景色が見えるんだ。君にも見せたかったよ。」
「今度案内してもらうわ。エージェント・ドゲット。」
「ああ、そうだね。」
「約束よ。」
「約束する。」
言った後、急にドゲットはにやにやして、視線を再び夕焼けに向ける。
「何がおかしいの?」
「いや、さっきまでこの辺りじゃ、丘からの景色が一番美しいと思っていたのに、今はここで見る夕焼けの方が、何倍
も美しく見えるからさ。」
「どうして?だって夕暮れは・・・。」
「確かに今の僕にとっちゃ嫌な風景さ。でもやはりそう思わずにはいられない。何故なら、それは・・。」
「・・・それは?」
不意にドゲットは口を噤み、顔を強張らせると身を翻した。太陽は地平線の彼方に入ろうとしている。スカリーは途切
れた言葉の先が知りたかった。むっとした顔で足早に部屋を横断するドゲットに、ようやくバルコニーの扉の前で追い
縋ったスカリーは、ドゲットの前に回り、正面からドゲットの顔を見上げた。
 その瞬間思わずはっとして息を呑んだ。見上げたドゲットの絶望に醜く歪んだ表情に、言葉を失ったのだ。ドゲットが
今まで必死に取り繕い、覆い隠していたむき出しの感情が、そこかしこから綻び始めていた。ここに来て初めて、何
食わぬ顔で被っていたドゲットの仮面が、ぼろぼろと剥がれ落ち、捜査官でもなく、パートナーでも無い、一人の男の
顔が現れている。
 ようやくあなた自身に会えるのね。その想いはスカリーの心を強くし、心の奥で鳴り響く警鐘など、あっという間にか
き消してしまった。スカリーはドゲットの頬にそっと触れ、囁いた。
「頬が切れてる。」
「林を抜けた時だな。痛みを感じないから、分からなかった。」
ドゲットは顔を逸らすと、不快そうにスカリーから後退った。スカリーは怯まない。
「だから独りで行かせたくなかったのよ。」
「だから独りになりたかったんだ。君の側にいるのが耐えられなかった。」
「・・・・そんな。」
冷たいドゲットの言葉が胸に刺さり、思わず絶句するスカリーに、ドゲットは大きく息を付くと、意を決したかのように、
強く言い放った。
「そうやって君の僕を見る視線。君にそんな風に扱われるのに、・・僕は耐えられないんだ。・・・お願いだ。エージェン
ト・スカリー。僕を気にかけるな。僕を哀れむな。僕のことで悲しむな。僕を決して振り返るな。そして僕に何かあった
ら、・・・僕を忘れろ・・」
「止めて!・・・・・もう、止めて・・。」
それ以上聞きたくなくて、小さく叫んだスカリーは最早涙を堪えられなかった。流れ落ちる涙を拭おうともせず、ドゲッ
トの顔を見上げれば、悲しいまでに澄んだ蒼い瞳が揺れる。不意にドゲットは横を向くと、素っ気無く呟いた。
「泣いては駄目だ。」
だがそう言った途端、どん、と身体に衝撃を感じぎょっとして胸元を見れば、スカリーが自分の身体に身を投げかけた
のだと悟った。スカリーはドゲットの胸に顔を埋め、声を殺して泣いている。ドゲットは眼を固く閉じると、唇を噛んだ。
先ほど言いかけた言葉が不意に蘇る。
 君が側にいるから。ドゲットはそれを言おうとした自分に愕然としたのだ。それは決して告げてはならない言葉だっ
た。それを告げれば、この先彼女の苦しみは何倍にもなるだろう。俺を救おうと奮闘し、果たせなかった時、再びパー
トナーを失う苦痛を味わうのだ。
 あんな状態のスカリーはもう二度と見たくは無かった。哀しみを瞳に閉じ込めたスカリーの姿は、ドゲットの心を重く
沈ませる。そうならない為に、例え今彼女を傷つけてでも、冷たい男と思われても、いや、むしろそう思ってくれた方
がいい。そうまでしても、言わねばならなかった。彼女を自分から遠ざけることが出来るなら、俺はどんな冷酷な言葉
だって言ってみせる。
 だが、すすり泣くスカリーの身体から伝わる振動に、ドゲットは最早抗うことが出来なかった。頭ではそう願っても、
心は正直だ。スカリーの涙は、ドゲットの急場で取り繕った脆い仮面を剥がし、今や彼は全身で彼女を欲していた。ド
ゲットは両腕をスカリーの身体に回すと、そっと抱き締めた。
 スカリーは身体を覆う暖かさに、ドゲットの胸に抱かれたのを知った。ドゲットの逞しい胸に頬を擦り付けて泣くスカリ
ーの背や髪を、ドゲットの手が優しく撫でる。スカリーの涙は、自分を忘れろと言った、ドゲットの為に流された涙だっ
た。その言葉をどんな気持ちでドゲットが言ったか。それを想うとスカリーは堪らなかった。
 スカリーはドゲットの顔を見上げた。するとドゲットは、涙に濡れた頬を手の甲でそっと拭う。スカリーはドゲットの大
きな手の感触が、限りなく愛しくうっとりと頬を擦り付けた。ドゲットはもう片方の手でスカリーの目元を拭う。涙に濡れ
て張り付いた髪の一本一本を、丁寧に後ろに撫で付ければ、その行為一つ一つがスカリーの心を満たしてゆく。
 スカリーは今ドゲットが何を感じているか知りたくて、背伸びをしてドゲットの瞳を覗き込んだ。ところがお互いに眼が
合った瞬間、スカリーとドゲットの何処か心の奥深くで何かが、かちり、と音を立て合わさるのを覚えた。どちらともなく
眼を閉じ、唇を寄せたのは無意識に近い行為だった。 
 しかしその後は、とても無意識とは言い難い。最初は軽く唇を触れ合わせる程度だったのが、急激に湧き上がる欲
望を、2人とも押さえることが出来ない。ドゲットの唇がスカリーの唇だけではなく、額から目元、頬から顎へと移る。
唇の触れた後はまるで熱を持ったかのように熱い道が出来てゆく。更に柔らかな喉にドゲットが顔を埋めれば、スカリ
ーは大きく首を逸らせ、彼を受け入れた。
 ドゲットはむさぼるようにスカリーの身体に唇を這わせた。全身でスカリーを感じたかった。スカリーの全てを記憶し
ておきたかった。今この瞬間を生きていると心に刻みつけ、その感情をスカリーに覚えていて欲しかった。離れたくな
い。俺は彼女から、一時だって離れたくないのだ。忘れないで欲しい。けれど悲しまないでくれ。俺は今こうしている
だけで本望だ。後はもう何も望むまい。
 ドゲットは荒い息のまま、再びスカリーの唇を覆った。スカリーはドゲットの情熱的な口付けに、同じく情熱を込め応
えた。舌を絡めぴったりと唇を合わせれば、身体の芯が熱く溶けそうになる。あなたを忘れることなど出来ないわ。失
いたくない。離したくない。私はあなたの元に還ってきたのよ。不意に湧き上がるその想いは、スカリーの眼に涙を滲
ませる。
 その涙に気付いたドゲットは、そっと唇を離し涙を流し続けるスカリーをすっぽりと胸に収め、宥めるように髪を撫で
る。大きなドゲットの胸は温かく居心地が良かった。次第に安らぎ嗚咽が静まったスカリーの顔を、ドゲットは覗き込
んだ。
「エージェント・スカリー。」
スカリーは顔を上げ、片手で涙を拭くと、真っ直ぐドゲットの瞳を見つめ返した。
「私は何時だって好きな時に泣くわ。エージェント・ドゲット。あなたが何を考えているか、私には分かっているの。あ
なたが、幾ら冷たく振舞っても無駄よ。私にはあなたがそうする理由が分かっているの。だから、・・だから、あなた
も・・・。」
声が詰まり、涙がせりあがる。ドゲットは柔らかな声で先を促した。
「何?」
「必ず生きると約束して。」
「誓うよ。」
低く答えたドゲットは、涙で海のような瞳を潤ませたスカリーにその言葉を誓い、唯一彼女を感じられるその唇をもう
一度味わおうと試みた。だがその時、太陽が地平線にかかり、部屋を赤い光が満たし始める。唇が触れ合う直前で
2人は眼を見開くと、はっとして顔を見合わせた。すっと頭を巡らし、思い詰めた眼差しを夕日に向けたドゲットを、スカ
リーは縋るような気持ちで見上げた。
「行くのね。」
「ああ。」
「あなたを渡さない。」
「簡単には行かないさ。」
「必ず2人で戻るわ。」
「勿論。」
「私を信じて。」
ドゲットはそれでも必死に涙を堪え、ようやくそれだけを伝えたスカリーの顔を両手でそっと挟んだ。憂いを含んだスカ
リーの顔を、心に刻み付けるかのように凝視し、滲むような笑顔を浮かべ、途切れ途切れに囁いた。
「・・・エージェント・スカリー。僕にとって、・・君は。」
「あなたにとって私は?」
「君は・・・・・傷無き玉。」
ばさり、と音がしてドゲットの服が床に落ち、戒めから放たれた夢のような出来事は、赤い光と共に夕闇に紛れ、霧と
なって霧散してゆく。
 
 唯一つ、確かな記憶を胸に残して。





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