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 狼は還る


 徐々に薄暗さを増す部屋の隅で、スカリーは久しぶりに自分のスーツに袖を通した。動き回るのにドレスは不便だ
ったし、元の時代に戻った時、中世のドレス姿はあまりにも不自然だからだ。だがそうやって戻ることに狙いを定めた
行為は、即ち今夜絶対にそれを実現させると言う彼女の意気込みでもあるのだ。又そうすることにより、自然と気持
ちが切り替わり、背筋がしゃんとするのが、今のスカリーには歓迎すべき兆候だった。
 些か皺がよったスーツも、肌に馴染んだものはやはり着心地がいい。スカリーは目立つ皺を伸ばしながら、身体を
傾けバルコニーの扉から見える狼の様子を伺えば、手すりの上に腹ばいになり、何処か遠くを見詰めている姿が眼
に入った。
 まだ新月が上り切っていないせいか、狼は動く気配が無い。スカリーは狼を見ながら、たった今自分の腕の中から
かき消すように、消えてしまったドゲットを想った。未だ彼の触れたところが熱く火照り、身体に残るドゲットの痕跡は
スカリーの胸を焦がす。
 スカリーは円卓の上のドゲットのスーツにそっと触れた。隣には今までドゲットが着ていた服を畳んで置いてある。
スカリーは床から拾い集めたその服を持ち上げ顔を埋めれば、ドゲットの匂いが鼻腔を満たし、同時に彼の体温が身
体に熱く蘇る。
 これはドゲットが自分に残してくれた彼の心の証だ。この後自分が独りになった時、挫けぬよう躓かぬよう、そして
迷わぬように彼が示した確かな道標なのだ。僕の中の君に触れることで正気を保てたと、ドゲットが言ったように、今
は彼女の中にあるドゲットの記憶が彼女を奮い立たせる。
 スカリーは衣服を元に戻し、スーツの上に載せてあるIDカードやバッジ等彼のスーツのポケットに入っていた物を、
手早く自分のポケットにしまった。こんなものを残していったら、後世ではオーパーツとなり大騒ぎだ。万が一そうなっ
たとして、タイムトリップを証明出来る生き証人になるのは別に構わないが、ここでの体験をドゲットに語らせたくは無
い。
 スカリーは細々したものをポケットに入れ、衣服の段階で手を止めた。さてこれをどうしよう、と考えあぐねていれ
ば、そっと扉が開き、イザボーが顔を覗かせた。イザボーは蝋燭の灯った燭台を手に現れると、スカリーの身支度を
見て、直ぐに彼女の元にやって来た。円卓に燭台を置いたイザボーは、その上に置かれたドゲットの衣服を認め尋ね
た。
「彼は?」
「バルコニーよ。」
スカリーの言葉に、イザボーはバルコニーの様子を伺い、続いてスカリーの顔を繁々と眺めた。フィリップならいざ知ら
ず、イザボーからそんな視線で見られた覚えの無いスカリーは、眉を顰め向き直った。
「何か?」
「・・・・涙の後が。」
躊躇いがちに発せられたイザボーの言葉に、スカリーははっとして頬を拭いた。泣いた後を指摘され、些か気恥ずか
しげにスカリーは微笑んだ。
「嫌だわ。・・・みっともないでしょう。」
「そんなことはありません。私はずっと、あなたは泣いた方が良いと思っていました。」
「何故?」
「何時も辛そうでしたから。でも今はそう見えません。」
「・・・そうね。確かに、すっきりしたわ。」
「良かったですこと。そういう気持ちで戦いに望めば必ず勝てると、エティエンヌは何時も申しております。」
「だといいわね。」
「大丈夫です。戦うことに関して、あの人の言うことが外れたためしはありません。」
如何にも当然という風情で胸を張るイザボーは、慰めではなく本気でそう思っているらしい。だが、思えばこの状況に
なって尚、悲観することなく絶大な信頼を得るナバールの存在は、スカリー達にとって最大の幸運だった。スカリーは
イザボーを見詰め、改まった口調で、今まで中々言えなかった感謝の気持ちを口にした。
「イザボー。あなた達にはお礼を言わなくては。あなた達がいなければ、私達はどうすることも出来なかった。ここまで
漕ぎ着けることさえ不可能だったわ。感謝しています。」
「感謝など無用です。私達も街の命運が懸かっているのですから、お互い様ではありませんか。それにこうなったそも
そもの原因は、2年前きちんと決着をつけなかった私達にあるのです。何の関係も無いあなた達を巻き込んでしまい
ました。・・・・ああ、もう止めましょう。」
「ええ、そうね。・・・・でも、残念だわ。あなたとは個人的にもっと話をしたかった。」
「まあ。まるでお別れを言っているように聞こえます。」
「そうなるかも。」
独り言を呟くように言ったスカリーは、ほんの少し哀しげに眼を逸らした。それを見たイザボーは、不意にドレスの胸元
に隠れていたペンダントを引き出し、首から外すとスカリーの手を取ってそれを握らせた。
「・・・ダナ。これを。」
スカリーは初めてファーストネームで呼ばれ些か驚くも、眼を落とした手の中の美しい宝石とそれを縁取る凝った銀の
装飾の輝きに、更に息を呑んだ。
「これは?」
「お守りです。身に着ければ如何なる時でも、あなたを良い方へと導くでしょう。」
イザボーは事も無げに言ったが、渡されたペンダントは只のお守りとはとても思えない。清々しく高貴な光を放つ宝石
の周りを銀の羽が縁取り、繊細な銀細工と傷一つ無い鳥の卵ほどの大きな宝石は見るからに高価で、しかも羽を模
ったふち飾りとあらばこれが単なるお守りではなく、イザボーの為にあつらえたなど言わずもがなである。スカリーは
とても受け取れず、ペンダントをイザボーに押し戻した。
「それは駄目よ。大切なものなのでしょう?失くしたら大変だわ。」
「大切だから持っていて欲しいのです。受け取ったらあなたはこれを、私に返さなければなりません。だから必ず無事
に、私の元に返して下さい。私はこれをきっとあなたが返しに来ると、信じて待っております。」
「・・・イザボー。」
スカリーはイザボーの心遣いに胸が一杯になった。しかしそれでも尚受け取るのを躊躇っていれば、イザボーはそん
なスカリーなど構うことなく、ペンダントを取り上げ、さっさとスカリーの首にかけてしまった。そして満足げににっこり
し、必ず返して下さいね、と付け加える。何時になく強引なイザボーに、気おされた形でスカリーは頷くとペンダントを
ブラウスの胸元にしまい、承知したと言う風に微笑み返した。
 その時だった。突如狼の遠吠えが静寂を破った。一瞬にして張り詰めた空気の中、スカリーがバルコニーへと走り
出れば、狼は月の光を浴び、手すりの上で空を仰いでいる。イザボーがスカリーの後に続きバルコニーへ出て来る
と、再び狼は遠吠えを始める。するとその声に呼応するかのように、遥か地平線から、微かに遠吠えが風に乗り2人
の耳に届く。 
「いよいよですね。」
「ええ。ナバールの読みが当たる・・・」
スカリーは不意に言葉を切ると、イザボーの顔をさっと見た。
「あなたの説で行くと必ず当たるのよね。」
「ええ、勿論です。大丈夫。皆で力を合わせれば、必ず上手くいきます。」
「頼りしてるわ。」
「後は私達に任せて、あなたは彼を。」
「ええ。必ず・・。」
その後の言葉をスカリーが告げなかったのは、ぴたりと狼達の遠吠えが止んだからだ。どうしたのかと狼の姿を伺え
ば、針のように毛を逆立て、手すりの上にすっくと立ち上がり、彼方に視線を向け微動だにしない。時が来たのだ。ス
カリーはさっとイザボーに視線を投げれば、イザボーも強い眼で受け止める。
「行きます。」
「ご無事で。」
イザボーの言葉が終るか終らないかの内に、狼は一瞬スカリーの眼を捉え、階下へと身を躍らせれば、同時にスカリ
ーもその後を追う。夜を疾走する狼と赤い髪の女を、冴えた月の光が煌々と照らしていた。
  
 
 ナバールの城から狼とスカリーが走り出ると同時に、アクイラを何百頭という数の狼の大群が襲った。しかしそれを
予見していたナバールは街の警備隊を指揮し、迎え撃つことに成功していた。司教はあれほどこの街にこだわってい
るのだ。ここが決戦の場所になるとナバールは断定し、それに備えて戦略を立てていた。
 ナバールは街の四方に位置する門に警備隊を配置すると、狼の群れを小分けにして門から入れ、門の中で待ち受
けた警備隊が、押し包んで仕留める作戦に出ていた。街の外周を真っ黒になるほど埋め尽くした狼の群れは、外堀
などものともせず泳ぎ切り、城壁を乗り越えようとしている。
 しかし高い城壁と、城壁の上から射掛ける矢に阻まれ、おいそれとは乗り越えられない。門から入った狼も、次々と
警備隊の手で討ち取られてゆく。狼との攻防が始まって4、50分。作戦が功を奏し、ナバールの敷いた防衛線を突
破出来た狼は数えるほどしか無く、それも街の中心部に入る前に、警備隊の手にかかり瞬く間に躯と化す。
 ナバールは正門の城壁の上を移動し、1頭も中に入れるな、と警備隊に指示を飛ばしながら顔を顰めた。すると何
時の間に来たのか、隣にいたフィリップがその顔を見咎めた。
「どうかしたの?」
ナバールは死骸の山を伝って城壁に乗り出した狼を両断し、吐き捨てるように呟いた。
「簡単過ぎる。」
「へ?どう言う意味?ナバールの推測が当たったから、当然でしょ。」
ナバールは苦りきった顔で足元の狼の死骸を、城壁の外に蹴り落とした。
「例の黒い奴は何処だ?何処かで見た者はいるか?」
「・・・そう言えば、見て無いな。俺、裏門から全部の門を回って来たけど、誰も見て無いみたいだ。」
「ダナ・スカリー達は?」
「さっき聖堂の近くで見かけたけど、2人とも一緒だった。でもまだ黒い奴とは遭遇して無かったよ。」
ナバールは、くそ、気に入らん、と未だ途切れることの無い狼の大群を凝視し、ある一角でふと眼を留めた。続いては
っとした顔で、素早く近くの射手の手から火矢をもぎ取り、その一角付近目掛けて、ひょう、と射掛けた。それを見たフ
ィリップは、直ぐに異変を察知し、火矢の刺さった先を覗き込んだ。
「何なの?」
「分からぬ。だが動きが妙だ。」
そう言ってナバールは城壁に片足をかけ、火矢をもう一つ持ってこさせると、同じ場所に打ち込む。城壁下の狼の死
骸に刺さった火矢が付近を照らし、ようやくその辺りがはっきりと見え始めた。外堀を渡り死骸の山を乗り越え、城壁
を登ろうとする狼とは、明らかに違う動きをする狼がいる。その狼達は堀の片隅で盛んに前足を動かし、何かを咥える
ように顎を前に突き出している。
「何をしているんだろ?」
「穴を掘っているように見えるが。ええい、死骸が邪魔でよく見えぬ!」
「穴?」
フィリップは、穴、と繰り返すとナバールの顔を呆然と見上げた。何だ?と問いたげなナバールにフィリップは目を瞬い
た。
「あ、あそこって確か、地下水道の出口・・・」
聞いた途端ナバール眼を見張ると、身を翻した。城壁を走り大声で警備隊長に、ここを破られるな、と叫び続いて伝
令を呼んで、素早く何事か耳打ちする。ナバール、と脇を走り去る伝令を見送り、直ぐ後ろに付いていたフィリップも負
けじと叫んだ。
「何処に行くの!?」
「出口は8箇所。今出口を固めるよう各門に伝令を出した。だが、裏門付近が手薄だ。既に何頭か水路に入ったやも
しれぬ。フィリップ。お前はダナ・スカリー達を捜せ。見つけたら一緒に行動しろ。2人でジョン・ドゲットを守るのだ!」
「ナバールは?」
「俺は城へ向かう!裏門の水路から一番近い地上への出口は、城だ。くそ、あそこを破られたらイザボーが・・。」
そう言い残し城壁の階段を駆け下りたナバールは、下に繋いであったゴリアテにひらりと跨った。
「イザボーの無事を確認したら、直ぐに合流する。それまでダナ・スカリー達を守れ。頼んだぞ!俺が行くまで持ち応
えろ!」
「任せて!」
フィリップはそう叫んで栗毛に跨り、聖堂の方へと馬首を向け、2人は同時に馬の腹を蹴り、左右へと別れ疾走してい
た。

 その少し前、スカリーは狼の後ろを小走りに追っていた。狼は城を出てからずっと、城壁から聞こえる喧騒など、我
関せずとばかりに、街中をうろつき回っている。時折立ち止まり、首を上げ風の臭いを嗅ぎ、辺りを見回し再び走り出
す。その様子は、目的が定まっているようにも、当て所無いようにも見え、スカリーを訝らせた。
 既に攻撃が始まり30分が経過している。この段階で未だ街中に狼の姿が1頭も見えないのは、ナバールが上手く
防いでいるからだろう。それにしても狼の大群の気配が分からないはずは無いのに、彼は何故そこに向かわないの
だろうと、スカリーは首を捻った。異変をナバールに知らせる役割を担ったフィリップには、たった今聖堂近くで遠目に
出会ったが、、異常は無いという身振りでスカリーに合図を送り、正門に馬を駆っていた。
 狼との攻防は今の所こちらが優勢のようだ。しかし何故か嫌な予感がする。黒い狼は何処にいるのだ。何故姿を現
さないのだろう。タイミングだと、ドゲットは言った。司教は全てにタイミングを計っている。では何時がその時なのだ。
信じ難いほどの狼の大群。姿を表さない司教。戦闘に向かわない狼。スカリーは何か引っかかるものを感じ、それが
何なのかずっと思案していた。
 すると不意に狼は立ち止まり、白い牙を剥いて低く唸り声を上げ、その声に我に返ったスカリーが辺りを伺う間もな
く、いきなり走り出した。最早臭いを辿るような仕草は無い。しっかりと目標を定めた足取りで、狼は人気のない街を
素晴らしい速さで走り抜ける。
 スカリーはその後ろ姿を見失わないように、なんとか付いていくのが精一杯で、気が付いた時には、地下水道に迷
い込んでいた。真っ暗な水道の中には、今の今までスカリーの前を走っていた蒼い眼をした狼の姿は無く、スカリー
は水道の曲がり角で立ち止まると、忌々しげに舌打ちをした。見失った。水路はこの先3方向に分かれている。どちら
に向かったのだろう。スカリーは俯いて眼を伏せると、心を静めて耳を澄ませた。
 その時、彼女の背後にぼわっと黒い霧が現れ、渦巻きながらすぅっと背後に迫るのを、スカリーは気付かなかった。
しかしその霧はスカリーに触れる寸前で、まるで弾かれたようにちりぢりに飛び散ってしまった。妙な気配にスカリー
が振り返った時には、只闇が広がるだけで、物音がした方へ足を向けたスカリーはそんな気配など、心にも留めなか
った。
 スカリーが水路に沿って歩を進めその場からいなくなると、隋道の片隅から再びどす黒い霧が現れた。そしてその
まま霧は、水路を這うように進み、何処かへと消えてしまった。
 それは丁度ナバールとフィリップが、城壁で言葉を交わしていた頃のことだった。
  
 ゴリアテに乗ったまま、城の中に駆け込んだナバールは、イザボーの姿を捜し求めた。城に配備した警備隊には既
に指示を出し、水路の出口を固めさせてある。幸い狼達が水路から城に入り込んだ形跡は無い。だが、肝心のイザ
ボーの姿が、何処にも見当たらないのだ。
 ナバールは必死の形相でイザボーを捜した。城の中をあちこり探し回り、ようやく自分達の寝所で倒れ臥すイザボ
ーを発見したナバールは、血相を変えて彼女に駆け寄った。寝台の影に倒れていたイザボーをそっと助け起こせば、
僅かに呻いてイザボーは眼を瞬いた。それを見たナバールはほっと安堵し、すぐさま大声で小間使いを呼び水を持っ
てこさせた。
「大丈夫か?大事無いか?」
ナバールに助け起こされながら、イザボーはよろよろと寝台に腰掛ける。血の気の失せた顔で後頭部をさすり、必死
で何があったのか思い出そうとしていたイザボーは、小間使いから水を受け取り一口飲むと、急にはっとして顔を上
げた。
「スカリー達は何処に?」
「所在は分からぬが、今フィリップが捜している。それより何があったのだ?」
それを聞いて突如イザボーは立ち上がろうとした。しかしその途端眩暈がして、へなへなとナバールの腕にくず折れ
てしまう。ナバールは慎重に寝台に掛けさせると、側に膝を着きイザボーの顔を心配そうに覗き込んだ。
「無理を致すな。」
「大丈夫です。それより彼女達を早く見つけなければ。」
「どうした。何があったのだ?」
イザボーは唇を噛むと、ことの経緯を話した。

 スカリーはふっと重苦しい気配に身じろぎした。身体が鉛のように重く、瞼が開かない。だが次の瞬間胃の辺りを掴
まれたような気がして、思わず眼を見開いた。ドゲットは何処?その言葉が身体を貫いたのだ。
 しかし眼を開けると同時に、己の状態に愕然とする。何故ならスカリーは両手を後ろ手に縛られ座った格好で、胴体
は背にした柱に縛り付けられている。スカリーは一体自分に何が起こったのか必死に思い出そうとし、その一方でき
つく柱に括られ、立つ事も適わず縄を解こうともがきながら、ここは何処だろうと辺りを見回した。
 薄暗い中眼が慣れてくると、背後の柱や目の前を覆うカーテンに見覚えがあることが分かった。自分は確か狼を見
失い、真っ暗な地下水道を歩いていた。その時、そうだ。後ろに人の気配を感じて振り返ろうとしたところで、気を失っ
た。そう言えば、後頭部に鈍い痛みを感じる。誰かに殴打されたに違いない。でも、一体誰が。スカリーは肩越しに両
手を拘束する縄を睨み、結び目が解けないか、柱に縄を擦りつけた。
「眼が覚めたな。」
スカリーはぎょっとして、手を止めた。声はカーテンの向こうから聞こえ、何処かで聞いたことのあるその声に思わず
身構えれば、いきなり目の前が割れ、月明かりを背にぼんやりと、見慣れぬ男の姿があった。両手でカーテンを引き
払った男は、スカリーを見下ろし残忍な眼で、眺め回す。
 スカリーは白い僧衣と同じく、純白の上衣に煌びやかな金糸の刺繍を淵に施した祭服を纏ったその男が、今まで捜
し求めていた司教だと、直ぐに理解した。純白の祭服を纏っているというのに、この男の醸し出す禍々しい気配は、身
体中から溢れ冷酷な眼差しが更にその印象を強くする。感情を含まない穴のような瞳や、何かを貼り付けたかに見
える作り物じみた表情は最早生身の人間とは言い難い。人の姿はしているが、一皮剥けば人外のものに変わり果て
た浅ましい本性が、滲み出している。スカリーはこれほど邪悪な人間と対峙することに、心の奥底で恐怖していた。
 しかし負ける訳にはいかない。ドゲットの命がかかっているのだ。スカリーは顔を上げ傲然と睨み返す。
「あなたが司教ね。」
「何なのだ。確認か?分かりきったことを聞いてどうする。お前の知りたいことはそれなのか?」
「エージェント・ドゲットは何処?あなたが彼を呼んだのは分かっているのよ。何処にいるの!?」
「さあ、何処かな。」
司教は薄ら笑いを浮かべ、スカリーの顔を覗き込む。
「とぼけても無駄よ。あなたの手の内は分かっているわ!エージェント・ドゲットを返しなさい!」
「ふむ。うるさい女だ。だがそれほどまでに言うなら、返してやろう。」
司教は余裕たっぷりにそう告げ、スカリーから数歩後ろに下がった。その時なって初めてスカリーは、ここが礼拝堂だ
と気付いた。司教は祭壇に凭れると不意に指を、ぱちん、と鳴らした。
 だん、と埃が床から舞い上がる。突如空中から現れ音を立て司教の足元に落下したものを見て、スカリーは息を呑
んだ。スカリーに白い胸をさらし、力なく四肢を投げ出したまま、狼は動こうとはしない。半開きの口からは赤い舌がだ
らりと出たままで、見開かれた蒼い瞳は何処か遠くをぼんやりと見詰め、あれほど雄弁に感情を表現する耳も尻尾
も、動こうとはしない。スカリーは、縛られていることも忘れ身体を乗り出して、何度もその名を呼んだ。だが一向に狼
の反応は無く、その尋常ではない様子を意地悪く眺め、歪んだ笑みを浮かべる司教に、食って掛かった。
「彼に何をしたの!?」  
「何をしたあ?」
鸚鵡返しに叫んだ後、司教は気狂いじみた声で笑い始めた。スカリー達を蔑むように眺めては、腹を抱えて大声で笑
う。
「‘彼に何をしたの’だと?うふふ、何を?」
スカリーの口真似をし、祭壇の周りをせかせかと歩き回り、嘲笑う司教の姿は常軌を逸している。スカリーはその癇
に障る笑い声を止めさせたかった。
「何がおかしいの!?」
「おかしいとも。何しろ我は何もしてはおらぬ。何かをしたのは、むしろ狼だ。そうとも。こやつは勝手にこうなったの
だ。我は指1本触れてはおらぬぞ。」
そこで司教は不意に考え込んだ。顎に手を当て、何かを思いつくと、意地悪くにんまりと微笑み、スカリーと狼をかわ
るがわる見ておもむろに口を開いた。
「だが何が起こったか知らぬままでは、ちと可哀相だな。我は昔から慈悲深い人間だから、特別に教えてやろう。何
故狼がこうなったか。」
司教はそこで言葉を切り、祭壇の背後から何かをぶら下げてくると、スカリー目掛けて無造作に放り投げた。ボール
ほどの大きさのその物体は、狼の身体でバウンドするとスカリーの直ぐ手前まで転がった。スカリーは見た瞬間眉を
顰めた。幾ら生首など見慣れていても、やはり不意打ちには感情が出る。が、しかしその生首がごろりと反転し、顔
の真正面をスカリーに向けた途端、眼を見張った。その顔は彼女の良く見知った顔。即ちスカリー自身だったのだ。
スカリーは雷に打たれたような衝撃を受けた。狼がこうなる原因が分かったのだ。うふふふふ。と司教は笑い、狼の
側にしゃがみ込んだ。
「胴体は、向こうにあるぞ。そうとも。我は何もしておらぬ。我のしたことなど、こやつのしたことに比べれば取るに足ら
ぬ。何、こやつが我が手の狼の喉を喰いちぎった瞬間、狼に変わる呪いを解いただけよ。まあ、勿論女の方にお前の
姿を写しはしたがな。大したことではあるまい。だが、こやつは首を見た途端、この有り様。不様よの。」 
「・・よくも、そんな・・」
スカリーは司教を睨みつけ唇を噛み、目の前でぐったりしている狼を見詰めた。司教の話した状況が、居合わせたわ
けでは無いのに、鮮明に脳裏に浮かぶ。自分が捉えられ気を失っている間に、狼は黒い狼と戦っていた。恐らく戦い
自体はそれほど長引かなかっただろう。しかし狼が勝利を収めた瞬間、司教は狼に変わる呪いを解き、かつて無い
打撃を与える為に、死んで人間に戻った狼の姿をスカリーに変えた。
 それは充分過ぎるほどの効果を狼に与えた。スカリーを殺してしまったという意識は、狼どころかその中にいるドゲ
ットをも、粉々に打ち砕いたのだ。ああ、何と言うことだろう。ドゲットはそれを一番怖れていたではないか。二度は無
いと、約束した。私を信じてと言った時、俯いた柔らかなドゲットの笑みが蘇る。スカリーは何も映さない蒼い瞳を虚ろ
に宙に漂わせ、壊れた人形のように横たわる狼の姿に、耐え切れず眼を閉じた。
 うふふふふ。司教は笑った。苦悩するスカリーを狼の側から覗き込み、心底愉快そうに笑い続ける。
「こやつが感じる苦痛や苦しみを糧にこのひと月、我は指輪に潜み、こやつと共に在るのは実に居心地が良かった。
こやつの心をじわじわ犯すのは、正に至上の快楽にも等しかったぞ。こやつは中々手応えがあって面白かった。我の
力に抵抗すればするほど苦痛は増し、我に活力を与えるなど、こやつも薄々感じていたのではあろうな。それなの
に、己を保つことを止めようとはせぬ。愚かしい男だ。そして見よ。その成果がこの身体だ。感謝するぞ。最期にお前
がばらばらに壊れることで、我に再び人間の姿を与えてくれた。」 
司教はうっとりと自分の身体を眺めた。スカリーは司教の言葉にぎくっとすると、顔色を変え叫んだ。
「ばらばらに壊れるですって!?彼はどうなったの!?」
「さあなあ。どうなったのであろう。うふふふ。見たままじゃ。分からぬか?」
司教はやおら狼の頭頂部の毛皮を鷲掴みにして、頭を持ち上げた。
「我はこやつが狼に変わる呪いを解いている。なのに何故こやつは人間に戻らぬのだろうな。」
それから司教は狼の口元に耳を近づけ、芝居がかった仕草で耳をそばだてる。
「何々?そうか。・・・・それはそれは、可哀相にな。・・狼はこう申しておるぞ。人間に戻りたくない。わははははは。
人間に戻りたくないだと?何と愚かな。こやつは自分の行いがよほど応えたのだな。狼でもいられず、人間にも戻れ
ず、今は只の毛皮を被った肉の塊だ。たったあれしきのことで、狼も、狼の意識も、人間の身体も、その魂も、全部壊
れてしまった。何と脆弱な!」
そう吐き捨てて司教は狼の頭を乱暴に床に投げ出した。どす、という音と共に僅かに床からバウンドした狼の身体
は、司教の言う通り、毛皮を被った肉の塊のようだった。司教は立ち上がると、狼を蔑んだ眼差しで見下ろし、愚弄し
始めた。
「弱い。脆い。たかだか女を殺したぐらいで、この体たらくだ。しかもこやつは中途半端に、意思が強い。いっそ狂って
しまえば、少しはましだが、それほど弱くも無い。自ら命を絶つほどの強さも持ち合わせぬ。何とも半端な精神力だ。
そんなものがあるが故に、こうして醜態を晒す。全く持って無残よの。」
司教の嘲りはスカリーの心を抉った。それから司教は何度も狼を足蹴にし、狼の身体が蹴られるたびに、辛そうに身
体を硬くするスカリーを、心地よさげに眺め回す。スカリーは顔を背けていたが、うきうきとドゲットを蹂躙し続ける司教
の様に、却って腹が据わった。こんな下劣な輩にドゲットを好きにさせてたまるものか。背けたまま呟いた声は、低く
とも決然とし、スカリーが臨戦態勢に移ったことを意味していた。
「・・・それが、人間だわ。」
「何だと?」
「人間なら当たり前だわ。人は誰しも、強くもあり弱くもあるのよ。けれど、これだけは断言できる。彼はあなたなんか
より、ずっと強い人よ!」
「我より強い?この有り様でか!負け惜しみを申すな。これの何処が我より強いと言うのだ。」
そう言って司教は勝ち誇った仕草で、狼の顔を踏みつける。スカリーは悔しさに唇を噛むと、大きく息を吸い怒りに満
ちた眼差しで司教を見据えた。
「強いわ。彼は何も欲しがらない。弱いところを晒しても、怯まない。魔法や呪いなんかに頼らない。何時も自分の身
一つで全てに立ち向かえる人よ。確かに今の彼は壊れてしまったように見えるわ。でもそれは違う。」
「違うだと?馬鹿を申せ。これを見ろ。充分壊れて・・」
「いいえ。彼は壊れてなんかいないわ。そうよ。あなたの言うように、本当に壊れていたら、とっくに狂っていたでしょ
う。でも彼は狂ってなんかいないわ。何故か分かる?彼はこの土壇場で、自分が壊れるぎりぎりのところで、必ず生
きると、私に誓った言葉を、私との約束を守ったのよ。あなたは彼に勝ったつもりなんでしょう。でも違う。見なさい。そ
うやって身体を幾ら踏みにじっても、彼の心はあなたの手の届かないところにあるわ。彼の魂は、あなたの穢れた手
では、触れることも傷つけることも出来ない!今までも、そしてこれからも!」
身を乗り出し叫んだスカリーの頬を一筋の涙が伝う。司教は身体をわなわなと震わせ狼から足を退けると、スカリー
に向き直った。うるさいうるさい。そう口の中で何度も呟き、スカリーの方へよろよろと足を踏み出す。明らかに動揺し
ている司教にスカリーは、眼を細め訝しげに先を続ける。
「どうしたの?言い返さないところをみれば、図星なのね。そうなんだわ。あなたは最初から彼の魂に触れることはお
ろか、近づくことさえ出来なかった。幾ら彼の身体を操り、獣のような浅ましい行為をさせても、彼の魂を貶めることは
不可能だった。どんな状況に陥っても決して崩れない、彼の精神に、真の強さに、あなたは最初から敗北していたの
よ!」
「うるさい!黙れっ!」
ヒステリックに遮った司教は、スカリーに掴みかかろうと一歩足を前に踏み出した。が、その途端、何かに弾かれたよ
うに、後退る。今のは一体、と一瞬眼を見張るスカリーと同じように、はっと息を呑んだ司教は、苦々しげに舌打ちしく
るりと背を向けた。だが、直ぐに態勢を立て直し邪悪な笑みを浮かべ、肩越しにスカリーを見た。
「ふん。だからどうだと言うのだ。こうなってしまえば、最早こやつには抗いようが無いではないか。身代わりとして充
分役立つわ。お前はそこで指を咥えて、我の身代わりとなり生贄となるこやつの最期を見取るしかないのだ。ふふ。
もう直ぐだ。我の復讐は成就する。忌々しいこの街もナバールも、全て消え失せるがいい。」
「何をするつもり!?」
「ふふ。これから我は忙しい。お前には少し静かにしていて貰おうか。」
白々しいまでに余裕のある口ぶりが、スカリーの不安を増し、司教が指を鳴らすと共に、柱の影から現れた人影に、
思わず叫んでいた。
「インペリアス!?」
まるで生気の無い半開きの眼をして、のそのそとインペリアスはスカリーに近づいた。僧衣の懐から、薄汚れた布切
れを出したインペリアスが、スカリーの前に膝を着けば、鼻を衝くアルコールの臭いに顔を顰めた。スカリーは信じら
れない面持ちで、インペリアスの名を呼んだ。しかしインペリアスにその声は届かず、相変わらず無表情に、盛んに
首を振って抵抗するスカリーの口を、老人とは思えない力で押さえつけ、布切れで塞いでしまった。 
「上出来だ。こちらに来い。」
司教の言葉にインペリアスは、従者の如く従う。インペリアスが隣に並ぶと、司教はにんまりし猿轡を噛まされたスカ
リーを、優越感に満ちた顔で眺めた。
「この者は昔から実に容易い。酒さえ与えれば、難無く入り込める。便利な奴よ。こうして我の手足となって働いてく
れる。」
そうして司教はこれから始まる儀式を、彼の傀儡と化したインペリアスに準備させるのだった。
 スカリーの目の前で、狼はインペリアスの手で石段下の床に、ずるずると引きずられて行った。石段の真下には大
きな魔法陣が描かれ、五忙星の周りをぐるりと蝋燭が囲んでいる。その中央にインペリアスが狼を横たえれば、司教
はその煌びやかな祭服を脱ぎインペリアスに渡す。祭服をうやうやしく受け取ったインペリアスは、それで狼の身体を
覆い、用意は整ったとばかりに魔法陣から退いた。
 司教はちらりとスカリーに嘲るような視線を投げ、もったいぶった足取りで石段を降りると、魔法陣の前で立ち止ま
り、天井を振り仰ぐ。視線の先には‘薔薇の窓’と呼ばれる美しいステンドグラスの嵌った天窓がある。何を見ている
のだろうと、スカリーがもがきながら司教の様子を伺えば、再び司教は視線を魔法陣に戻す。 
 スカリーは突然あることが閃き、天窓を見上げた。天窓から射し込む月光は、ほぼ円形に床を照らしている。そして
それは徐々に魔法陣に重なりつつあるのだ。スカリーは猛然と暴れ出した。魔法陣ぴったりに月光が収まった時。そ
れを司教は待っているのだ。時間が無い。
 一方司教は、魔法陣の中の狼を見て顔を顰めた。ちっちと、舌を鳴らし、不快な面持ちで狼に近寄る。
「往生際の悪い奴よ。木偶は木偶らしくしておれば良い。」
そして人指し指を額に当て、口の中で呪文めいた言葉を呟くと、その指を狼にすっと降ろした。と、同時に狼の姿は消
え失せ、その姿は生気の無い顔で呆然と天井を見詰めるドゲットの姿に変わっていた。エージェント・ドゲット。スカリ
ーの叫びは、言葉にはならなかった。
 猿轡を嵌めたまま、身体を捩るスカリーを鼻先でせせら笑い、司教はドゲットの側に屈むと、胸の痣がはっきりと見
えるように祭服をずらし、ドゲットの右手をその痣の横に持ってくると、中指に嵌った指輪を愛しそうにさすり、続いてむ
き出しの胸の痣を撫で回す。スカリーは吐き気がしてきた。
 スカリーはドゲットの身体を、司教に触れさせたくなかった。汚れた指がドゲットの身体を這い回るのかと思うと、お
ぞましさに鳥肌が立つ。これ以上、司教にドゲットを汚されるのは、耐えられない。スカリーは縄が擦れて手首から血
が滲むのも構わず、もがき続けた。すると突然柱の影から、小声で話しかけられ、動きを止めた。
「しっ。動かないで。」
司教に気付かれないよう、目だけをそちらに向ければ、柱の影にうずくまるフィリップが、懐からナイフを出して目配せ
した。
「縄を切るから待ってて。」
フィリップは幾重にも巻かれた荒縄に悪戦苦闘しながら、猿轡の為に質問出来ないスカリーに状況を説明した。
「街は今のところ大丈夫さ。ナバールはこちらに向かってる。全く、インペリアスには参るよな。」
フィリップはあと僅かで全て切れそうな縄に、更に力を込めナイフを使いながら、魔法陣の側にぼんやりと立ち尽くす
老僧に溜息を付いた。不意にスカリーを締め付けていた部分が軽くなり、スカリーは縄が全て切れたことを悟った。そ
して司教にそれを悟られないよう、猿轡を外す手助けをするフィリップに、素早く指示を出す。
「天窓からの月光が、魔法陣と重なったら全てが終ってしまうわ。あなたはインペリアスをお願い。私は司教を。」
フィリップは黙って頷くと、今使っていたナイフをスカリーに差し出した。受け取った瞬間思わず眼を見張ったのは、そ
れが以前ドゲットの肩に刺さっていたナイフだからだ。フィリップはそんなスカリーに片目を瞑ると、懐からもう一つ小
振りのナイフを取り出し、身構えた。
 2人が魔法陣に眼を移せば、未だこちらに背を向け、ドゲットの側にしゃがみ込んだ司教の姿が見える。インペリア
スは、相変わらず呆けたように、立っているだけだ。スカリーはフィリップに素早く目配せし、腰を低くナイフを構えたま
ま移動し始め、同じくフィリップも壁伝いにインペリアスに忍び寄る。だが、もう少しで石段を降り切ると言う所で、突如
司教は異変に気付いた。
「インペリアス!!」
司教が振り返りもせずそう叫べば、インペリアスはばね仕掛けの人形のように、足元の槍を手に真っ直ぐスカリーに
向かってくる。インペリアスはスカリーの前に立ちはだかり、まるで歴戦の兵士のような素早さで、鋭い槍を繰り出し
スカリーを容赦なく攻め立て、溜まらずスカリーはナイフのみで応戦するも、そんな戦い方などしたことのない彼女
は、切っ先を除けるのが精一杯だ。素早く加勢に来たフィリップさえ、インペリアスの敵ではない。じりじりと後退を余
儀なくされている間に、司教は次の手に出ていた。
「動くな!」
2人は司教の叫びに、思わず手を止め、司教の姿を見た途端、顔色を失った。司教は何時取り出したのか、切っ先に
刃物のついた牧杖を手にし、その刃の先をドゲットの喉に押し当てている。月明かりが司教の顔を、白く不気味に浮
かび上がらせた。
「動けば、こやつの胸を一刺しだぞ。ナイフを捨てろ。」
「彼を殺すことは出来ないわ。そんなことをしたらせっかくの身代わりが台無しになってしまう。」
ナイフを構えたまま、毅然として言い返すスカリーに、司教はにやりと笑って見せた。
「頭の回る女だな。勿論、一息に殺してしまっては元も子もなくなる。だが直ぐに死なぬよう刺すことは造作も無い。こ
れで人間は中々死なぬ生き物だからな。さあ、どうする?そこでこやつが、体中から血を流して、ゆるゆると死んでい
くのを見るか?それも又、我は面白いがな。それともナイフを捨て、このまま街と一緒に滅ぶを待つか?まあ、その方
がこやつの苦痛は少なかろう。さあ、どちらか好きな方を選ぶが良い。」
スカリーは唇を噛むと、口惜しそうにナイフを床に投げ出した。フィリップもそれに習って、ナイフを床に落とす。それを
見た司教がせせら笑いながら、インペリアスの名を呼ぶと、老僧は無表情に槍の先でナイフを彼方に弾いた。危険が
去ったと知った司教は牧杖をドゲットの胸から退け、インペリアスに槍を突きつけられ身動きの出来ないスカリー達
に、身体を仰け反らせて高笑いを浴びせた。
 そして見上げた天窓からの月光が、いよいよ魔法陣に重なりそうだと気付き、小躍りしながらにたにたと顔を歪ま
せ、勝ち誇った声で捲くし立てる。
「ほうら。もう直ぐ、もう直ぐだ。じきに我の呪いは成就する。最後にこの地に一人立つのは我じゃ。忌々しいこのアク
イラは地上から完全に消滅する。うふふふふ。我は何もかもきれいさっぱり無くなったアクイラに、我の王国を築きあ
げよう。そこでは我は絶対者、神になるのだ!」
司教がそう叫んだ瞬間、白く輝いていた司教の姿を黒い影が覆い、がしゃん、と砕けたガラスの破片が辺り一面に降
り注いだ。そして煌く破片の中大きな黒い鳥が羽ばたき、その場に降り立つ姿があった。咄嗟に僧衣の袖で降り注ぐ
破片を凌いだ司教の目の前に、すっくと立っているのは黒いマントを纏ったナバールだった。
「神だと?笑わせるな。」 
凄みのあるナバールの声に一歩後退った司教は、すぐさま気を取り直し牧杖をドゲットに向けようとした。ところがあっ
という間に、がきん、と牧杖は飛ばされ、痺れる腕をさすりながら、司教は更に一歩下がる。ナバールの素早い剣の
動きは、司教を完全に圧倒し、マントの中から剣の切っ先だけを司教に向けたナバールは、じりっとその間合いを詰
めた。
「その剣では我を殺せぬ。」
「ほう。そうか。」
「お前に俺は倒せはしない。」
「やってみなければ分からぬぞ。」
ナバールはちらりとフィリップに目配せを送った。その途端フィリップはインペリアスに体当たりし、虚を衝かれ床に倒
れたインペリアスは、頭をしたたか打ち、うーん、と唸って伸びてしまった。フィリップがインペリアスの槍を取り上げる
と同時に、スカリーは足元のナイフを拾い、司教の背後に走り退路を絶つ。 
 司教は背後に回ったスカリーを見て、血相を変えた。
「どうした?ダナ・スカリーが恐ろしいのか?」
からかうようなナバールの言葉に、再び向き直った司教は、落着き無く辺りに視線を走らせる。
「インペリアスはもう使えぬぞ。」
司教は醜く顔を歪ませ、ナバールを睨み付けた。
「残念だったな。お前はインペリアスに命じて、探し物をしていた。しかしその現場を見たイザボーを、インペリアスに
襲わせ、その探し物がダナ・スカリーの元にあることを知ると、今度はここに呼び寄せた。成る程。インペリアスとは
な。考えたものよ。だが、最早これまでだ。」
「これまで?忘れたか?我を殺すことは不可能だ。」  
だらだらと流れる汗が、司教の顔を気味悪く光らせる。明らかに形勢は逆転しつつあるのに、司教はそれでも強気に
言い放った。しかしナバールの余裕ある笑みは、募る不安を司教の顔に張り付かせ、それでも虚勢を張り、肩をそび
やかせ、辺りを睥睨する。だがずいっと踏み込んだナバールのマントが揺れ、その剣の全容が現れた途端、ぎゃっ、
という悲鳴を上げ、顔の前に手を翳した。ナバールは眼を細め、剣の柄を司教に向けた。
「そうとも。お前が最も恐れたイザボーのお守り。即ちムーンストーンはここにもあるのだ。油断したな。お前は弱点で
あるこの石を近隣から掻き集め残らず砕いた。だが、只一つ、我が領内にムーンストーンがあったのだ。これは昨年
俺達の結婚を祝福し、法王庁から賜った聖なる貴石だ。お前はインペリアスを通じそれを知ると、破壊しようとした。
だがその時既にイザボーはそれをダナ・スカリーに渡した後で、お前はインペリアスを使い、彼女を捕らえると、それ
で石を封印した気になったのだ。多分、邪悪なものに操られたインペリアスでは、流石に聖なる石には手を触れられ
なかったのだろう。ここまではお前の筋書き通りだ。だが、この世は得てして筋書き通りには行かぬものよ。イザボー
はこの石を贈られた時、密かに石を二つに割り、一つをお守りに、もう一つをこの柄に埋め込ませた。それはインペリ
アスも知らない。この剣はお前を狼に変えて以来、普段は鞍に常備し、殆ど持ち歩きはしなかったから、誰もそれに
気付くものはいなかったのだ。誤算であったな。」
司教は身体をがたがたと震わせ、必死に踏み留まった。退路を絶たれ、全てが敗北を示す中、それでもまだ信じられ
ないように首を振る。不意にナバールは殺気を漲らせ低く呟いた。
「終わりだ。」
「嘘だ!嘘だ!我は負けぬ!我が負けるなどそんなはずは・・・」
叫びながら司教はナバールに飛び掛った。どす、と鈍く響いた音と共に、司教の胸をナバールの剣が刺し貫く。凄ま
じい断末魔の叫びが礼拝堂に響き渡り、眼をかっと見開いた司教は、胸を刺されたままナバールの首に両手をかけ
た。が、ナバールは微動だにせず、無情に剣を柄まで押し込めば、司教の身体は見る見るうちに茶色く萎び、白い僧
衣は中身を失いナバールの剣にぶら下がった。ナバールが一薙ぎして僧衣を払えば、萎びた司教の身体共々、砂と
なり散り散りに消えてゆく。
「ナバール!」
スカリーの声に我に返ったナバールは、ドゲットに寄り添った彼女の側に駆け寄った。ドゲットの胸の痣が消えかかっ
ている。指輪はと見れば、指から外れ床に転がり、無数にひび割れたエメラルドには、最早以前の輝きは無い。しか
し天窓からの月光は、ほぼぴったりと魔法陣に重なろうとしていた。空気が急激に冷え始める。
「聖水でここを清めよ!入り口から水盆を持ってまいれ。フィリップ!お前も手伝うのだ!」
ナバールはスカリーとフィリップに指示を飛ばし、ドゲットの身体にかかった祭服を、素早く自分のマントと変えた。続
いてナバールは魔法陣の中に司教の祭服を据え、剣で床に縫い止めると、ドゲットをマントで包み抱き上げ、足早に
魔法陣から退いた。丁度その時、水盆を運んで来たスカリー達2人は、息を合わせ魔法陣に向かって勢い良く聖水を
ぶちまけたのだ。 
 ざあっ、と聖水が流れ床に描かれた魔法陣が消えると共に、まるで床が熱をもっていたかのように、じゅうじゅうと水
蒸気が上がり、床に縫い止めた祭服も、同じように蒸発してしまった。ドゲットを床に横たえたナバールは、魔法陣の
あった場所にずかずかと踏み込み、剣を床から引き抜いた。信じられないと、跡形無くきれいさっぱりしてしまった床
を、きょろきょろと見回すフィリップをじろりと見て、ナバールは不機嫌な顔で剣を鞘に収め、伸びているインペリアスに
冷たい視線を向ける。
「二度とその坊主に酒を飲ませるな。」 
「怒ってんの?」
「分かりきった事を聞くでない。」
未だ怒りが収まらぬといった風情のナバールに、ふう、と溜息を付きフィリップは肩を竦めた。
「街は助かったけど、こりゃ目が覚めたらインペリアスは大変だぞ。」  
だが尋常ではない声に、2人は顔を見合わせ振り返った。視線の先ではスカリーが、未だ同じ状態のドゲットに必死
で呼びかけている。素早く近寄った2人は、スカリーの背後からドゲットを覗き込んだ。
「どうしたの?司教にやられちゃったの?」
確かにドゲットの顔や胸には殴打の後が残る。狼の時司教に散々嬲られたのだ。無理も無い。スカリーは首を振っ
た。
「怪我は大したこと無いわ。でも意識が戻らない。呼びかけても反応が無いの。」 
そしてスカリーは再びドゲットの名を呼び続ける。しかし相変わらず、ドゲットは虚ろな瞳を宙に向けたまま、なんの反
応も示さない。するとそれを黙って見ていたナバールがスカリーに声をかけた。
「そうではない。ダナ・スカリー。お前の心で話すのだ。」
「・・・心。」
「そうだ。ジョン・ドゲットの心に届くように。俺の言う意味が分かるな?」
スカリーは思い詰めた眼をしてナバールを見上げた後、再びドゲットに眼を落とした。私の心。スカリーは囁くように呟
き、心の底から湧き上がる想いを、開放しようと試みた。
「エージェント・ドゲット。私が無事なら大丈夫だと、あなたは言ったわ。私は無事よ。だから還って来て。私はここにい
るわ。あなたは今何処にいるの?私の居場所が分からないの?いいえ。そんなはず無いわ。あなたは何時だって、
私を見付ける。どんな時も私を探し出したわ。分からないわけ無いでしょう。」
スカリーはドゲットの身体に屈み込むと、彼の両手を自分の両手で包み胸に押し当てた。
「私はここよ。ああ、こんなに手が冷たい。」
スカリーはその冷たさが堪らず、思わずドゲットの生気のない白い頬を撫ぜ、髪に指を走らせる。
「私を置いて行かないで。必ず2人で戻ると言ったでしょう。丘に案内してくれるって約束したわ。簡単には行かないっ
て、必ず生きると誓ったじゃない!生きるって、こういうこと?あなたの言った生きるって、こんなことじゃ無いわ。あな
たは約束を破らない。誓ったことを守ってよ。私の元にちゃんと還って来て!」
懇願するように叫んだスカリーは、込み上げる涙を堪えられなかった。横たわるだけのドゲットの顔を見詰め、心の中
で呟いた。あなたが私に示した道標を、私もあなたに示すわ。それを辿ってどうか還って来て。スカリーは眼を閉じる
と、祈りを込めて、そっとドゲットの唇に口付けた。
 その時、スカリーの胸元からお守りのペンダントが、ドゲットの胸にするりと滑り落ちる。唇を重ねる2人を月光が照
らし、月の光を浴びたペンダントがひときわ眩く輝きを増した。2人の胸元から、蒼く清々しい光が溢れ、爽やかな空
気が2人を包んだ。すると氷のようなドゲットの唇がほんのりと暖かくなった気がして、スカリーは顔をもたげ、ドゲット
の瞳を覗き込んだ。
 ドゲットの広い胸に当てた両手からは、力強い鼓動が返って来る。スカリーははっとしてドゲットの手を見詰めた。僅
かに指が動いたのだ。もう一度ドゲットの瞳を見れば、今までと違う意思のある眼差しで天井を見上げたまま、数回
瞬きをし、まるで眠り込むように、眼を閉じてしまった。
「エージェント・ドゲット!」
スカリーが叫ぶと同時に、礼拝堂の床が、ぐわん、と揺れた。咄嗟に自分の上半身でドゲットを庇い顔を上げれば、
ナバールとフィリップが眼を見張ったまま、何かを叫んでいる。しかし彼らの姿はゆらゆらと歪み、その声は聞き取れ
ない。見る見る内に辺りの景色が、まるで極彩色の絵の具を混ぜたようになり、その中にナバール達の姿は飲み込
まれ、消えていった。
 きーん、という耐え難い金属音がスカリーの耳をつんざき、両手で耳を塞ぎ思わずドゲットの胸に倒れ臥したスカリ
ーだったが、音が止んで再び顔を上げた瞬間、大きく息を付いた。
 

 薄暗い博物館の天窓のガラス越しに、新月が輝いていた。








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