【エピローグ】



 1週間後、仕事の終了時間を早々に繰り上げ、自宅に戻ったスカリーは、道路脇のピックアップに眉を顰めた。何と
なく陰謀の気配を感じ、足音を忍ばせて、玄関のノブに手を掛けると、鍵がかかっておらず、ほんの少し扉を開け中の
様子を窺えば、部屋の中では、男2人が悪巧みの真っ最中だ。
「そりゃあ、着替えと車を取ってくるなんざ、手間でも何でもねえから、構やしねえけどよ。いいのか?ねえちゃん・・・」
一瞬言葉が途切れ、一呼吸置いた後、クーパーはYシャツの袖のボタンを掛けるドゲットに話しかけた。
「スカリーはこのこと知らねえんだろ。後でどやされるのは、勘弁して欲しいぜ。」
「俺に頼まれたと言えばいい。」
「そんな言い訳が通じるような女かよ。ありゃあ、怪我人だからって容赦しねえぞ。お前を血祭りに上げたら、間違い
なく俺の番だ。俺なんか五体満足だから、縛り首は固いぜ。」
「大袈裟な男だな。用は済んでるんだ。帰ればいいだろう。」
ドゲットはネクタイを結びながら、煩わしそうな声で、クーパーを上目に見る。クーパーはむっとした顔で、ドゲットの目
の前に仁王立ちし、早口に捲くし立てた。
「何だよ。そりゃ。追っ払おうたってそうは行くか。確かに俺は、お前達の仕事にゃ、興味はねえ。お前が何処でどん
な目に遭おうが、俺の知ったこっちゃねえからな。これについてだって、何も聞く気はねえさ。けどよ、だからって俺を
締め出そうとするな。只でさえ、これに関しちゃ、ちょびっとだが、俺だって一枚噛んでんだ。大体お前の、薄い言語辞
典には、説明とか、解説とか、説得とかって言葉は載ってねえだろ。曲がりなりにも、人にものを頼んでおいてだな、
帰れとは、何だ。もうちっと気の利いたことは、言えねえのか?」
ドゲットはげんなりした顔で首を振ると、ああ、分かった分かったと、口の中で言い、腕組みをしてクーパーを正面から
見据え、先を促した。
「俺にどうしろと?」
「聞かれたことぐらい、ちゃんと答えろ。言いたくなけりゃ、はっきりそう言え。そしたらそれ以上は聞かん。俺にだって
そのぐらいの分別はあるぞ。」
「成る程。で、何が聞きたいんだ?」
「お前、もうスカリーと寝たのか?」
勢い込んで尋ねたクーパーの言葉に、ドゲットは一瞬にして、呆れ果てたという顔になり、信じられんと首を振り、くる
りと背を向けた。クーパーはそんなドゲットなど、お構い無しに更に言葉を募らせる。
「何だよ。今更隠すことはねえだろう。言えよ。」
「断る。」
ドゲットは不機嫌な声で即答すると、冷たくクーパーを無視し、何かを探し部屋の中をうろつき始めた。だがそれで引
っ込むクーパーではない。たった今それ以上は聞かないと言ったことなど、とうに忘れている。分別があるとは、良く
ぞ言ったものだ。
「別にいいじゃねえかよ。第一これだけ毎日毎日、べったりしてりゃ、何かあったって俺でも分かるぞ。なあ、どうなん
だ?教えろよ。」 
「クーパー。俺は断ると言ったんだぞ。」
「聞こえてるよ。爺ぃじゃあるめえし。そんなんでいちいち目くじら立てるなよ。大したことじゃねえだろう。俺には何で
お前が言わねえのか、さっぱり分かんねえ。」
「俺にはそういう疑問が出てくるお前の方が、さっぱり分からんぞ。」
むすっとした顔で言い返すドゲットは、相手にするのも馬鹿らしいといった態度で、探し物を見つけようと最早クーパー
など眼中に無い。その如何にもクーパーを蔑ろにした態度は、さすがに彼の癇に障ったらしい。ドゲットの後ろから捲
くし立てる口調も、自然と喧嘩腰になる。
「何やってんだ?落ちつかねえ奴だな。俺と話す時ぐらいじっとしてろ。」
「話?俺の薄い言語辞典によると、話っていうのは、双方の合意で成り立つとある。俺はお前と話す気など無い。」
「だーかーら、寝たか寝てないかじゃなく、何で隠すか聞いてんだよ、俺は。そいつを教えろっつってんだ。」
「お断りだ。大体、何かあったとしても、そいつをいちいちお前に報告する義務など無い。」
振り向きざま負けじとドゲットが言い返せば、不意にクーパーは眼を丸くしてドゲットの頭の天辺から足の先までじろ
じろと眺め、にたにたと笑いかける。豹変したクーパーの態度に、ドゲットは嫌な予感がして顔顰め、不快な声を出し
た。
「何だ?」
「・・・・やっぱりな。」
「だから、何がやっぱりだ。」
「やっぱり何かあったんだ。そうなんだな。」
クーパーはしたり顔で盛んに頷き、やに下がった笑顔を引っ込めようとはしない。ドゲットは疲れた溜息を吐き出し、う
んざりと首を振った。
「お前もう帰れ。」  
再び探し物を始めるドゲットに、クーパーは帰れと言われたなど何処吹く風とばかりに、どっかとソファーに腰を据え、
何が嬉しいのかにやついた顔でその様子を眺めている。
「帰ってもいいけどよ。探し物は見つかったのか?」
「まだだ。」
「上着なら、この裏に落っこちてるぜ。」
それを聞いたドゲットは一瞬固まった後、恐ろしい顔でクーパーを睨みつけた。
「知ってたなら、早く言え。」
「聞けよ。」
不機嫌そうにソファーの裏に回り込み、床に落ちた上着を取ろうとしているドゲットを見て、クーパーは尋ねた。
「もう平気なのか?」
「平気だ。」
「出たぜ。又それかよ。もうちっと、ましな嘘はつけねえのか?」 
クーパーがそう言うのも無理は無かった。上着を取ろうと屈んだ拍子に、顔を歪ませたドゲットに気付いたからだ。必
死に痛みを堪えてるが、その後ののろのろとした動きは、明らかに折れた肋骨を庇っている。それでなくとも、つい2
日前まではとても1人では立てず、歩くにも手助けがいるほどドゲットは衰弱していた。一日の大半をうとうとと眠って
過ごし、食事や排泄以外起きていられない状態だった。だがそうやって眠ることで、失われた体力を温存し続けた結
果、昨日辺りから見違えるほど、元気になったのだ。
 疑わしそうなクーパーを無視し、ドゲットは上着のボタンをかけ、ポケットを探った。
「めかし込んで、何処に行く気だ?」
「何時ものスーツだ。・・・鍵は?」
「ほらよ。家に帰んのか?じゃあ、タクシーにすればいいのによ。お前まだ運転無理だろう。」
クーパーが放って寄越した鍵を受け取ったドゲットは、テーブルに用意した財布やら身分証やらを、ポケットに収める。
「大丈夫だ。それに、帰る前に寄るところがある。」
「寄るところ?何処に行く気だ?」
「お前には関係ない。」
「けちくさいこと言わずに教えろよ。」
「そうね。私も知りたいわ。」
素っ気無いドゲットの返答に畳み掛けるクーパーの背後から、同意の声が聞こえ、2人は仰天して飛び上がった。恐
る恐る振り返った先には、艶然として微笑むスカリーの姿がある。スカリーはゆっくりと部屋に入ってくると、いらっしゃ
い、クーパーとにこやかに挨拶し、ドゲットに向き直り微笑みかけた。顔色を失ったクーパーは、うろたえたように視線
を泳がせ、急に何かを思いつくと、尻のポケットからキャップを引っ張り出し、目深に被りドゲットを見上げているスカリ
ーに言った。
「そういや俺、これから夜勤だったんだ。仕事行かなきゃ。邪魔したな、スカリー。じゃあ、俺ぁ、帰る・・・」
「おい、待てよ。今日の仕事は終ったって・・夜勤は明日からだろう。」
「いや、シフトが変わったんだ。さっき連絡がな。」
「お前そんなこと一言も言っ・・」
「クーパー。遅刻するわよ。」
にこやかな雰囲気とは打って変わった氷のようなスカリーの一言は、狼狽して言い争う2人を即座に黙らせた。そそく
さとその場を後にするクーパーは、去り際ちらりと振り返って2人を見た。怒り心頭とはあのことだぜ。クーパーは恐ろ
しげにぶるるっと身体を震わせた。これから血祭りに上げられるドゲットは気の毒だったが、一緒にいたら間違いなく
自分も標的だ。
 悪く思うなよ。俺は充分にしてやっただろ。後は、お前ら2人の問題だ。お前ら2人。心の中でもう一度その部分を
繰り返し、クーパーはにんまりした。後ろでは既に、スカリーの厳しい尋問が始まっている。玄関のドアを開け、肩越
しに部屋を一瞥したクーパーは、満足そうに呟いた。
「まあ勝ち目はねえだろな。」


 がくん、と大きく車体を揺らし、ピックアップを止めたスカリーに、助手席にしがみ付いたドゲットは、情けない顔で訴
えかけた。
「頼むからもう少し優しく扱ってくれないかな。」
「充分優しいでしょう。違うとでも?」
そう言い捨てて運転席を降りるスカリーに、ドゲットは溜息を付いて肩を落とした。
 あれから2時間。嵐のようなスカリーの追及を凌ぎ、運転は彼女に任せるという条件で、こちらの要求を承諾させた
のだ。愛車の扱い方云々で、機嫌を損ねたら危うく前言撤回されかねない。不機嫌な顔でドゲットを待つスカリーに、
取ってつけたような笑みを浮かべ、ドゲットは茶色の紙袋を手に車を降りた。
 2人が博物館の正面玄関に立った時、時刻は閉館時間をとっくに過ぎていた。警備員を呼び出し、最終日は狙わ
れやすいから警備につくように指示があったと、尤もらしい理由を告げて、扉を開けてもらったスカリー達は、まっすぐ
ホールへと向かう。勿論途中セキュリティールームに寄り、例の手で警備員を追っ払い、監視カメラの電源を切ること
を忘れなかった。
 照明を落とし、人気の無い博物館は、不気味なくらい静まり返っている。スカリーは最初、ドゲットから展示会が終
る前に、もう一度ここを訪れたいと聞かされた時、難色を示した。無事に戻って来れたとはいえ、再び同じことが起こら
ないとは、断言出来ないからだ。 
 しかし理路整然とした理屈と、直ぐに済むという熱心なドゲットの言葉に押され、渋々承諾したのだ。2人は無言で
ホール入り口の扉に手を掛けたまま、同じように躊躇い立ち尽くした。時間的には10日ほどしか経っていないが、2
人にはその4倍の時間を経過させ、一言では言い尽くせない体験を強いるきっかけとなった場所だ。緊張を隠せない
顔で扉を睨んでいるスカリーに、何時もの口調でドゲットが声を掛ける。
「さて、ここで突っ立ってるわけにもいかんだろう。」
「そうね。早く終らせましょう。」
きゅっと唇を結んだスカリーの横顔に、ドゲットは微笑んだ。全て元通り。そんな呼吸が2人の間に流れたからだ。
 ホールの扉を開け、中に入った2人は扉を閉め改めて周りを見回し愕然とした。薄青い非常灯に照らされた室内は
がらんとし、大小取り混ぜ30以上あったガラスケースが一つも無い。たった一つ、天窓から射し込む明かりの真下
に、白い布を掛けた縦長の荷物があるのみだ。
「梱包は明日の6時じゃなかったのか?」
「ええ、搬出は10時と言っていたわ。」
2人は辺りを用心深く見回しながら、布を被せた荷物に近づいた。それは、丁度腰ぐらいの高さで、上からすっぽりと
厚地の白い布を被せてあり、その下に何があるのか、表面からは判り難い。上の部分のおうとつから、只箱を並べて
いるとは思えなかった。2人は並んでそれを見下ろし、どうしようかと顔を見合わせた。
「困ったな。」
「ここにあったものは何処にいったのかしら。」
「とにかく探して戻さないと。明日になったらこいつを持ち込むのが難しくなる。」
と、ドゲットは手に持っていた紙袋を掲げて見せた。そうね、と頷くスカリーに、ドゲットは辺りを見回しこう提案した。
「とりあえず、僕は倉庫に行って見るよ。君は手始めにこれから取り掛かってくれ。」
「分かったわ。」
スカリーの返事を聞いたドゲットはくるりと踵を返し、出入り口に向かった。しかしほんの数歩離れたところで、直ぐに
スカリーに呼び止められ、振り返った。
「どうかしたのか?」
「倉庫に行くまでも無いわ。」
「どう言う意味だ?」
「これを見て。」
肩越しに振り返ったスカリーの視線に、何か尋常ではないものを感じ、ドゲットは足早に戻ってくると、たった今スカリ
ーが捲くった布の下から現れたものを見て目を見張った。
「これは一体どういうことだ?」
「分からないわ。」
スカリーは眉を顰め首を振り、ドゲットは厳しい顔で視線を走らせる。首を傾げる2人の目の前には、黒い甲冑一式が
腕を胸の前で交差させ横たえられていた。2人が見慣れた手甲の上には、ひときわ大きな剣が真っ直ぐ柄を上にして
置かれ、埋め込まれた宝石がきらきらと月明かりを反射させている。それは紛れも無いナバールの甲冑と剣だった。
 スカリーは複雑な心境でドゲットを見上げた。何故なら、今夜の目的はこの甲冑にあったからだ。ナバールのマント
を返したい。それはドゲットのたっての希望だった。恩義のあるナバールに礼を言う暇も無かったドゲットの、せめても
の感謝の気持ちなのだろう。だからスカリーも渋々ここに来ることを承知したのだ。彼女も又、イザボーのお守りを返し
たかったのである。こっそり荷物に紛れ込ませれば、恐らく現在の持ち主に返る筈だ。少なくともその人物はナバー
ルとイザボーと、縁浅からぬ者に違いない。自分達が持つより、相応しい人にやはりこれらは持っていて欲しかった。
前に見た通りの展示の仕方なら、紛れ込ませるのは容易いと踏んだのだ。それがまさかこんな形で、目の前に現れ
るとは、まるで、さあどうぞ、と言わんがばかりの置き方だ。
「意図的なものを感じるわ。」
「ああ。偶然これだけをここに置き忘れたとは思えん。」
その時スカリーは甲冑の首の下に白い封筒を見つけ、引っ張り出した。
「見て。手紙があるわ。」
「手紙?」
「私達宛よ。」
「僕ら?益々妙だな。」
不審そうなドゲットの隣でスカリーが広げた便箋には、黒いインクでびっしりと文字が書かれている。隣から覗き込む
ドゲットにスカリーは手紙を読み始めた。
「親愛なるFBIエージェント、ダナ・スカリー、ジョン・ドゲットへ。こうして手紙での挨拶を許して頂きたい。そうするには
訳があるのですが、それは後ほどお話します。今、あなた方がこの手紙を読む目の前には、甲冑が寝かされている
ことでしょう。この甲冑はこういう形で発見されました。しかもその部屋にあったのは甲冑だけではなく、私はそこで驚
くべきものを数々発見したのです。申し遅れました。私はこの展示会の主催者の1人で、名を、エリース。エリース・ナ
バール・ド・アンジュー、と言います。」
スカリーは呆然とドゲットの顔を見上げた。振り仰いだドゲットも又、言葉を失いスカリーを見詰め返す。続けて、とドゲ
ットに促され、スカリーはその先を再開させた。
 手紙には、ナバールの姓を名乗る人物が、親の遺産である広大な土地を相続し、2年前に起きた地震の被害調査
をした際、今は廃墟となった聖堂で、隠し部屋を見つけたこと。700年以上誰も足を踏み入れたことの無い隠し部屋
に、この甲冑と剣、指輪と鷹の足緒の保管された鉄の箱。甲冑の持ち主がその寿命を全うした時、残された妻がそこ
に全てを封印し、1290年に起きた忌わしい出来事のあらましを記した書付と、自分達の子孫に後のことを託した手紙
を発見したとあった。
 その人物は、確かにその土地の伝説は子供の頃より我が家で、寝物語として語り継がれていたが、まさか全て実
在を裏付けるようなものがあるとは、俄かに信じられなかったと感想を述べている。だが本当に驚いたのは、その事
件に関わる未来から来たと言う2人の人物の記述で、この時代の人間が知りえるはずは無い2人の出身国の名や、
更に油紙で厳重に包まれた包みの中には、20世紀のブランドのタグを付けた、紳士服が一揃い、今甲冑がしている
ように、交差した腕の下、しっかりと騎士の腕に抱かれていたことだとある。 
 そこまで読んだ2人は、慌てて身を乗り出し、甲冑の胸元を覗き込んだ。薄暗い上に、黒ずんだ包装をされていた
為、目を凝らさなければ判別しにくかったが、確かにその包みは胸に抱かれている。スカリーは手紙の続きを読ん
だ。
「どうか、中身を確認して下さい。とあるわ。」
ドゲットは、ちらりとスカリーを見てから、慎重に甲冑の腕をどかし、その下の四角い包みを露にした。一瞬躊躇したド
ゲットだったが、一つ大きく息を付き、がさがさと音をさせ、包みを開けにかかった。幾重にも包まれた油紙の下から、
やがて現れた衣服を、ドゲットは一瞬はっと息を止め、思い詰めた眼差しでじっと見た。
「あの晩、着ていた服だ。」
「これだけ置いてきてしまったんだわ。」
その時の状況が脳裏に浮かび、呟くように言ったスカリーの横で、ドゲットはそっとスーツの生地を撫ぜた。保存状態
が良かったとはいえ、700年の歳月を経過した衣服は、かび臭く色も褪せ、虫が食ったり縫い目が綻びたりと傷みも
激しい。しかしドゲットは古い友達に巡り合ったような顔で、ゆっくりとその手触りを楽しむように手を滑らせていたが、
何気なく胸元を捲った時、おや、と手を止めた。
「何かある。手紙のようだが。」
「・・ええっと。ここにはあなた達宛に、手紙が2通、とあるわ。」
ドゲットは、蜜蝋で封印されている黄ばんだ手紙を手に取り、古風な飾り文字の署名を読むと、これは君宛だ、と一つ
をスカリーに渡した。スカリーはそれを受け取り、エリースの手紙の続きを読み始めた。
「この部屋を封印したイザボー・ナバール・ド・アンジューは、私宛にも手紙を残しました。それには、これを見つけて
からの大まかな指示と、忘れ物を持ち主に届けるように書かれていたのです。私は直ぐにお2人が実在するか調べ
ました。驚いたことに、あなた達は存在した。そこで私はイザボーの指示に従い、この展示会を企画し、密かにあなた
達がここに来るのを待っていたのです。そうやって時間をかけ下調べをし周到に準備をしながらも、あの晩この部屋で
起きたことを、セキュリティルームで目の当たりするまでは、私は依然半信半疑でした。確かに事実を指し示す証拠
品があるとはいえ、タイムトリップなど、そんな途方も無い話は、SF小説や映画の世界のみの絵空事と思えてならな
かった。半分は有り得ないと否定し、残りの半分は信じて見たかった。時間を超えた私の祖先の願いを叶えたかった
からかもしれません。ですから予言どおり襲撃があり、あなた方が消えたことを、ホールへ赴き確認した時は、驚くと
同時に言葉には尽くせない感動を味わったのです。こうなれば最早真実と疑う余地も無く、後はあなた達が戻るまで
に、ホールを元通りに修復し、あなた達に逢って直に託されたものをお返ししようと、胸躍る気持ちを抑え、ひたすらお
2人が戻るのを心待ちにしていました。」
スカリーはふと読むのを止め、ちらりとドゲットの様子を窺った。ドゲットは手紙を所在無げに持ったまま、何処か遠い
一点を見詰めたまま、口を閉ざしたままだ。スカリーはその様子が気がかりだったが、とにかく最後まで読んでしまお
うと、再び手紙に視線を落とした。
「けれど戻ったお2人の状態を見て、気が変わったのです。あのように酷い様子で戻られるとは正直予想していなか
った。今、私達がお2人に逢うのは賢明ではない、私と妻のセレナはそう判断し、失礼とは思いましたが、このような
場をセッティングし、必ずマントを返しに来るだろうという、イザボーの予言に賭けたのです。私達があなた達に逢わな
いのは、あなた達の中で未だ生々しいこの出来事を完全に消化し切れない内は、多分彼らの血を引く私達の姿を見
るのは苦痛だろうと確信し、このままヨーロッパに帰ることを決めたのです。最期になりましたが、何時になろうと、お
2人が経験したこと全てを、胸に落着かせることが出来た暁には、是非私達の元を訪れて下さい。必ずその時が来る
と、信じてお待ちしております。エリース・ナバール・ド・アンジュー、セレナ・ナバール・ド・アンジュー。」
「・・・くそっ!・・何が・・ふざけるな!」
突然搾り出すような声で罵ったドゲットは、手にした袋を床に投げつけた。何事かと振り仰いだドゲットの眼に宿る激
しい怒りに、スカリーは思わず息を呑み、訝るような声で尋ねた。
「エージェント・ドゲット?どうしたの?」
ドゲットは甲冑の横たわる台に両手を付くと、燃えるような眼をして、その全体像を睨め付け吐き捨てた。
「何が、待っている、だ。ふざけるのもたいがいにしろ・・。」
「何を怒っているの?」
スカリーの問いに、身体を起こしたドゲットは、眼を細め彼女に向き直った。
「・・怒る?ああ!そうとも!怒っているさ。何故かって?簡単だ。何故ならこいつは、全部知っていたんだ。ここで何
が起こるか。俺達がどうなるのか!それなのに黙ってそれを見ていたんだ!!その為に俺は・・・・。」
不意にドゲットは口を噤むと、固く眼を閉じ、顔を背けた。
「俺は・・・5人殺したんだ。」
苦渋に満ちたその声は、未だ彼を苛み続ける記憶の重さを物語っていた。全て元通りなはずなど無い。スカリーは少
しでも彼の苦しみを和らげようと、静かに寄り添いドゲットに語りかける。
「・・・エージェント・ドゲット・・・」
「止せ!」
鋭く言い放ったドゲットは、スカリーの手が腕にかかった瞬間、乱暴にその手を払い除けた。だが不意に傷ついた顔
になり、ドゲットはスカリーの顔を見詰めたまま、2歩、3歩と後退りしながら、掠れた声で呟いた。
「止めろ。・・・聞きたくない。」
ぎこちなく首を振ったドゲットは、スカリーの視線を避けるかのように踵を返し、足早に出入り口へと向かう。スカリー
は後を追うことも適わず、それでも聞かずにはいられなかった。
「何処へ行くの?」
「・・・・何処でもいいさ。・・・過去じゃなけりゃな。」
拒絶するかのように、声と扉が同時に閉まる。スカリーは長い溜息を付き甲冑を眺め、のろのろとドゲットが投げ出し
た袋を拾い上げた。スカリー自身、これらの出来事をどう整理付けたらいいのか、正直戸惑っている。だが、ドゲットが
感じたほどの腹立たしさは、スカリーには湧き上がってはこない。
 多分それは体験した内容の度合いによるところが大きいのだろうが、この手紙の文面からは、悪意は微塵も感じら
れない。文章から滲み出るエリースの人柄は、誠実で思慮深い人間と想像出来た。
 勿論、ドゲットもそんなことは承知しているだろう。もし本当に悪意があれば、何もこんな手紙など残さないし、自分
達が戻った時点で、種明かしをしに姿を現していただろう。こちらの心情などお構い無しに、必要なものを手に入れ、
へたをすればこの出来事を世紀の一大事として、大々的に宣伝したかもしれないのだ。700年も隔てたナバールの
血縁が、そうしたところで、最早2人には縁も所縁も無い人間だ。文句を言える筋合いは無い。だからそれをしなかっ
たエリースには、やはり感謝すべきなのだ。
 しかしそれでも尚と、ドゲットは思ってしまうのだろう。回避出来るものなら、そうしたかったと。そしてそう出来ない
理由も、既に彼には分かってはいるはずだが、突然の事実に心中穏やかざるものがあるのも、当然と言えば又当然
と言える。
 一方スカリーにとっては、戻った時の状況を省みればエリースの存在がありがたさは、歴然としていた。実質エリー
スが影で動いてくれなかったら、彼女1人で全てを隠蔽し切るなど、不可能に近かった。よくよく思い返せば、展示会
の関係者全てが、この件に関わっているような気がする。そこでスカリーは、あることに思い当たり、はっとしてもう一
度手紙の文面を読み返した。
 引っかかったのは、‘セキュリティールームで目の当たりにする’という一文だ。セキュリティールーム。スカリーはそ
の時、戻って直ぐにセキュリティールームに居た2人の警備員を思い浮かべ、あっ、と声を上げた。コントロールパネ
ルに腰掛けていた警備員に、見覚えがあった。帽子を目深に被りサングラスと髭で直ぐには、ぴんと来なかったが、
大柄な体格や金髪、顔の輪郭など、ナバールの面差しに酷似している。
 そうか、あの人が。と、スカリーは僅かに微笑んで、首を振った。してやられたわ。あんな変装に騙されるなんて。ス
カリーは甲冑の胸元から、ドゲットのスーツを取り除き床に置くと、代わりに紙袋からマントを取り出し広げた。今夜も
彼は何食わぬ顔で、私達に逢っている。だが恐らくもう戻っては来ないだろう。最後に私達の様子を確かめ、名乗る
ことなく旅立ったのだ。
 スカリーはマントで甲冑を覆いながら、700年脈々と一族に受け継がれてきた、ナバールの気質に微笑まずにはい
られなかった。ドゲットには悪いが、エリースのしたことは、やはり最善としか言いようが無い。こうして逢わずに去っ
たのも、避けたり逃げたりするわけではなく、この事実を察し、祖先に良く似た人間に対面することが、今の自分達に
どれほどの衝撃を与えるか、その胸中を慮った配慮なのだ。
 スカリーはマントを引き上げる手を、甲冑の胸の辺りでふと止めた。その場所には、丁度剣の柄があり、ヒルトの左
右と中央に三つ並んだ宝石が、煌いている。スカリーはポケットからイザボーのお守りを取り出すと、中央のムーンス
トーンの隣に並べて置き、細い銀の鎖を柄から離れないように、幾重にも巻きつけた。
 天窓からの月明かりで、輝きを増す二個のムーンストーンをスカリーは感慨深げに眺めた。こうしてこの石を見てい
ると、ナバールとイザボーが寄り添い佇む姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。そう言えばと、スカリーはドゲットに手渡された
古い手紙を手にした。蜜蝋を剥がし気の遠くなるような歳月を経た手紙を読む。そこには美しい流れるような書体で、
こう書かれていた。

あなたに渡したお守りの石には、旅する者を守り導く力があります。あなたの旅が安全でないなら、その石はあなたに
差し上げましょう。イザボー・ナバール・ド・アンジュー。

スカリーは微笑んで手紙を折り畳んだ。もう一度ムーンストーンに視線を投げてから、マントで甲冑を覆う。スカリーは
てきぱきと、後始末を終えホールを出ようと扉に手をかけ、振り返った。別れを惜しむように甲冑を眺め、心の中でイ
ザボーに話しかける。
 私にお守りはいらない。何故なら私の蒼い宝石は、何時も共にあると、知っているから。
  
 ドゲットは博物館の駐車場に戻り、ピックアップに乗り込んだところで、鍵が無いことに気付き、大声で悪態をつい
た。腹立ち紛れにハンドルを叩き、ピックアップを降りると乱暴にドアを閉める。暫くドゲットは何かを口汚く罵りなが
ら、ピックアップの周りを、うろうろと歩き回っていた。
 が、不意に立ち止まると腰に両手を当て、俯いて疲れた溜息を付く。疲れるのは当たり前だ。つい昨日まで半病人
で、現在も体調が万全なわけでは無かった。只、これ以上、休暇を取るのは限界だし、スカリーの家に居続けるわけ
にはいかなかった。起き上がることが出来るようになったドゲットが、真っ先に考えたのはそれだった。まずは家に帰
る。ナバールのマントを返し、全てを払拭してから、自分のテリトリーに落着いて、あらかた終った心の始末をつけてし
まいたかった。
 ドゲットはピックアップのドアに凭れると、そのままずるずると腰を落とし、地面に座り込んだ。片足を投げ出し、片膝
を立てた格好でピックアップのドアに頭を預け、夜空を見上げ、やりきれなさに肩を落とした。
 そうさ。分かってはいるのだ。エリースの行動は、理に適っている。この件のエリースの選択は間違いじゃない。だ
がそれでも尚、俺は納得出来ないのだ。幾ら犯罪に手を染めていたとはいえ、人があんな惨たらしい最期を迎えてい
いはずは無い。しかも直接手を下したのは俺だ。
 避けられるものなら、避けて通りたかった。過去に飛ばされる時、エリースだけがそれを阻止出来たのだ。全てを未
然に防げば、何も起こらず、今ここにいる俺は、あの酷い体験をする以前の俺と変わらなかっただろう。悪夢にうなさ
れることも、不意に蘇るおぞましい記憶に苛まれることも無い。結局俺にとっては、この苛酷な体験から得るものな
ど、何一つ無いではないか。
 ドゲットは自嘲気味な息を吐くと、項垂れた。試練は乗り越えた時、人を強くすると言うが、こんな類の試練など、経
験しないに越したことは無い。大体そんなもの、生きていく上で必要なのだろうか。安穏な道を歩んで、一生を過ごす
方が、どれだけ幸せか。
 幸せ。その時ドゲットの脳裏に浮かんだのは、この時代にいて幸せだったのか、と聞いたフィリップの言葉だった。ド
ゲットはあの時即答出来なかった自分に、苦笑いした。幸せを一番実感出来るのは、それを失った時だとは、皮肉な
ものだ。幸せが大きく重要であればあるほど、失った時の打撃は大きく、立ち直るのが困難になる。
 なんとか折り合いをつけても、ふとした弾みに思い出すたび、同じ痛さで胸を打つ。逃れられない喪失感は、人を全
てに臆病にさせる。あんな思いはもう沢山だと、自分から遠ざける。そしてもっと手軽で、失ってもさほど傷つかない
程度の幸せで、己を満足させるようになるのだ。
 そう考えると、俺は随分幸せだと言えるのではないか。過去にあった辛い経験も、俺なりに対処してきたし、仕事や
友人にも恵まれ、他人と比べても取り立てて言えるほどの、不幸を背負っているわけではない。では何故、あの時そ
う答えられなかったのだろう。
 ドゲットは、暫く俯いて考えてみるが、これといった答えは浮かんでこない。只、あの時は呪いのせいか、やみ雲に
この時代に戻りたかった。今だからこそ言えるが、呪いとか魔法とか、わけの分からないものに支配されるのは、我
慢出来ないし、あんなものにはもう二度と関わりたくない。そこまで、考えてドゲットは、はたと気付いた。
 堂々巡りだ。思考が空転している。苦笑いし首を振ると、ドゲットは最早沢山だと、切り替えに入った。確かに回避
出来る方法があったかもしれないが、それに伴うリスクは大きい。やはりエリースは傍観するしかなく、俺達は過去に
行くしかなかったのだ。俺達は無事に帰還した。ナバールのマントも返したし、全ては遥か過去の出来事だ。終った
ことなのだ。
 だがそうやって始末をつけようとするドゲットの心に、引っかかってくるものがある。過去からの手紙。ドゲットはスー
ツのポケットから、その手紙を取り出すと、暫く手に持って読むのを躊躇った。だが直ぐに思い直した。何を今更躊躇
うのだ。これを書いた人間は、もういない。ドゲットはそう自分に言い聞かせると、蜜蝋を剥がし手紙を開いた。
  
 スカリーが駐車場にいるドゲットを見つけたのは、それほど時間は経っていなかった。遠目にも人影は見当たらず、
当てが外れたかと思ったが、ピックアップの周りを一周する前に、ドア付近の地べたに座るドゲットを発見した。スカリ
ーの気配などとっくに気付いているであろうドゲットは、膝を抱え何処か遠くを見詰めたまま、動こうとはしない。
「隣に座っても?」
正面に立ちそう尋ねたスカリーを見上げ、ドゲットは黙って自分の左側へと首を傾げる。スカリーは油紙の包みを脇に
置き、ドゲットの隣に座った。スカリーはさっとドゲットの横顔に視線を走らせ、一呼吸置いてから口を開いた。
「ナバールのマントとイザボーのペンダントは返しておいたわ。」
「そうか。」
「・・・・落着いた?」
「どうかな。」
「エリースに罪は無いわ。見守るしかなかったのよ。」
ドゲットはちらりとスカリーを見て、薄く笑った。
「ああ。分かってる。エリースが僕達を止めたら歴史に干渉してしまう。あの時点で僕らがナバール達に出会うのは、
既に起こってしまったことだから、彼には手出し出来ないさ。」
スカリーはそれを聞いて、ちょっと驚いたような顔になり、ドゲットを見た。するとその視線に気付いたドゲットは、ふん
と鼻を鳴らし、スカリーの先を読む。
「ディスカバリーチャンネルで得た知識じゃないぜ。」
「あら、珍しい。じゃあ、一体何処から?」
「企業秘密だ。」
澄まして答えたドゲットに、スカリーは顔を顰めて見せた。しかし直ぐに、ははあと頷き、確信に満ちた声でこう告げ
た。
「クーパーね。」
「何?」
「彼に聞いたんでしょう。」
スカリーの瞳を覗き込んだドゲットは、その瞳に浮かんだものを即座に理解し、乗ってきた。
「鋭いな。あいつはああ見えて、結構博識なんだ。」 
「じゃないかと思ったわ。毎日来て何を話してるかと思えば、そんなことだったのね。」
「クーパーのSF講座。君も受講すればいい。」
「遠慮するわ。」
冗談じゃないと、恐ろしげに肩を竦めるスカリーを見て、ドゲットはくっくと笑い声を漏らした。スカリーはそんな風に笑
うドゲットの笑顔が好きだった。
「本当に今夜帰るの?」
「勿論。」
「あまり具合が良さそうには見えないわ。無理に帰らなくてもいいのよ。」
「無理はしてない。只、いい加減に自分のベッドで寝たいだけさ。」
はっきりと言わないが、ドゲットがスカリーのベッドを占領しているのを気にしているのは、良く分かっていた。そしてそ
れに関しては聞く耳を持たないスカリーに、うんと言わせる絶好の機会を逃さないことも承知していた。一応説得され
たスカリーだったが、それでもまだ顔色の優れないドゲットが心配だった。
「うなされていることを気にかけてるんだったら、遠慮はいらないのよ。私は平気だわ。」
それを聞いた途端、僅かに顔を強張らせ、ドゲットは横を向いた。図星だったのだ。毎晩のように訪れる悪夢は、彼を
苦しめていた。大抵スカリーに揺り起こされ、はっとして目覚めれば後味の悪い寝汗と動悸に、疲労だけが増す。そ
の度にかいがいしく世話を焼くスカリーの優しさが、ドゲットには苦痛だった。
「僕が平気じゃない。嫌なんだ。うなされてるところを見られたくない。」
「でも・・・」
「大丈夫だ。この手の悪夢は、日が経てば回数が減るもんさ。どうと言うことは無いんだ。」
悪夢とはいえ、夢は所詮夢でしかない。きっぱりとしたドゲットの理屈に、スカリーはこれ以上何を言っても無駄だと
悟った。スカリーは小さく溜息を付き、気を取り直すと気がかりだった疑問を口にした。
「あの手紙。イザボーからだったわ。あなたは?」
「ナバール。」
「やっぱり。彼女、ペンダントを私にくれると書いてたわ。」
「そりゃあいい。記念に貰っても誰も文句は言わんだろう。」
「いらないわ。私には必要ないの。お守りなら・・・・。」
不意に口を噤んだスカリーの顔を、ドゲットは不思議そうに覗き込んだ。
「・・・何だい?」
喉の先まで出掛かったその言葉を、スカリーは無理やり飲み込んだ。不自然な沈黙が流れ、スカリーは唐突に話題
を変えた。
「・・・・ナバールの手紙には何て?」
一瞬たじろぐよう色がドゲットの顔を過ぎったが、ふっと俯いて何かを言い淀んだ。再び顔を上げたドゲットの眼差し
は、何処か遠くを見詰めながらも、強い光が宿っている。しかしそれとは逆に、酷く平坦な口調でドゲットは口を開い
た。
「・・・僕はこの一週間、ベッドの中でこれからのことを考えていた。僕は何をどうすべきか。僕の進むべき方向は何処
なのか。・・・・・考えに考えた末、僕の出した結論は、全て元通り。今までと何も変わらない。そう結論づけたんだ。あ
れは全て、遥か大昔に起こったこと、終ってしまった出来事とした方が多分、僕も君も都合がいいんだろう。」
スカリーは複雑な心境でその言葉を聞いていた。ドゲットは僅かに眉を顰めるスカリーをさっと見て、薄く微笑んだ。
「全てを無かったことにすれば、僕らは元通りに仕事に復帰出来る。これまでとなんら変わらない僕達の関係は、煩
わしい問題を新たに招くことも無い。そうとも。どう考えたってこれが、最善なんだ。」
ドゲットは不意に口を噤むと、眼を伏せた。スカリーはドゲットの言い分は正当だと認めながら、反面どうしても落胆す
るのを抑えらず、それを顔に出すまいと必死だった。ドゲットは俯いたまま唇を擦り、何かを考えながら言葉を継いだ。
「だが、本当にそれでいいんだろうか。僕は・・・、僕はね、戻る直前、フィリップにこの時代で幸せだったかと聞かれ、
答えられなかった。」
「何故?」
「そうだな・・・。君は?エージェント・スカリー。君は答えられるか?」
スカリーはドゲットにそう返されて、思わず返事に窮した。今自分が幸せかなど、改めて考えたことも無かったのだ。
困惑して口篭るスカリーの様子に、ドゲットは当然だという表情で先を続ける。
「まあ、普通は答えられないさ。大手を振って、私は幸せです、などと言い切る人間はあまりいないだろう。例えいた
としても、大なり小なり人には言えない苦痛を抱えているもんだ。しかしまあ、幸せだと言えるだけ、言えない人間よ
りはましかな。だがそうなると、僕は今まで幸せだったんだろうかと、改めて疑問に思えてならないんだ。」
「幸せではなかったの?」
「どうかな。確かに一言でそう言えるほど、順風満帆な人生ではなかったが、かといって、不幸続きで惨めな毎日を
送っていたわけでもない。多少寄り道はしているが、仕事や同僚にも恵まれ、今現在の生活にこれといった不満は無
いし、他人と比べても、それほど酷い不幸に見舞われた訳でもない。つまり僕は、それなりに幸せだったはずなん
だ。」 
ドゲットは一旦言葉を切ると、膝の上で両手を握り締め、ピックアップのドアに頭を凭れさせ、夜空を振り仰いだ。
「それなのに今の僕には、以前の僕が幸せだったとは、どうしても思えない。」
「何故?」
「・・・・僕は少し前君に、失うことに耐えられない、と話したことがあっただろう。それは古い経験がそうさせるんだが、
僕はその経験以来、何時も慎重に避けてきた。」
「・・・・避ける?何を?」
「・・・・僕から欠けてしまったもの。それを探し僕の一部として心に留めることを、意識的に退けたんだ。何かを得なけ
れば、失うことも無い。欠けていても、それを失ったときの打撃に比べれば、遥かにましだと僕は確信していた。だが
僕は、あの命の瀬戸際の土壇場になって、どれほど自分がそれを手に入れたかったか、心の奥底では絶えずそれを
探して求めていたのかを、思い知った。」
不意に口を噤み、蘇った記憶に浸るドゲットの顔を見上げたスカリーも、最後に2人で過ごした夕暮れの出来事を、思
い返していた。急にドゲットは膝頭に頭を埋め、笑い出した。くっくとくぐもった声で、肩を揺らすドゲットにスカリーは首
を傾げた。あれは笑うような記憶では無い。少なくともスカリーにとっては、思い出すたびに胸を焦がし続ける、甘く切
ない記憶だった。
「馬鹿だな。全く。どうしようもない。」
「何がおかしいの?」
突然豹変したドゲットに、スカリーは困惑の色を隠せない。
「あの時、あの感覚。それが例えようもなく素晴らしかったにも関わらず、僕は全てを無かったことにしようとしていた
んだ。我ながら恐ろしく間抜けな決断だ。」
「良く分からないわ。」
だがそれは如何にもドゲットの考えそうなことなのだ。スカリーは何処かで、それを予想し望んでもいた。だがその一
方で、全く反対の感情が自分の心に根を下ろしたことを自覚していた。しかしこの時代では、それをそのままドゲット
に告げることは出来ない。スカリーは無かったことにしてくれるというドゲットの決断を、ある意味支持していたのだ。
なのに何故?ドゲットは顔を上げると、混乱しているスカリーの眼差しを柔らかく受け止め微笑んだ。
「エージェント・スカリー。僕は欠けていたものを見つけた。そしてそれが心に在る素晴らしさを知ってしまった。知って
しまった以上、最早無かったことになど出来ない。何故ならそれは、自分自身を欺くことになるからだ。僕はもう少しで
危うく道を間違えるところだったが、ナバールがそれに気付かせてくれたんだ。」
言葉の終わり、おもむろにドゲットは、ポケットから手紙を出すと、スカリーに手渡した。受け取ったスカリーが、ちょっ
と躊躇う様子を見せれば、どうぞ、と言いながらドゲットは立ち上がり、うーん、と伸びをする。そのままぶらぶら歩き、
さりげなく場を外したドゲットに、スカリーは手紙を開いた。そこにはしっかりとした字体で短くこう書かれていた。

ジョン・ドゲット。何故、お前は限界を超えてまで戦えたのだ?エティエンヌ・ナバール・ド・アンジュー

ああ、そうか、それで。と、スカリーは手紙に眼を落としたまま、微笑まずにはいられなかった。賢明なナバール。口
数は少なかったが、彼ほど的確に物事を見抜き、言い当てる人はいなかった。最後に巻き返すのがあなたの流儀だ
ったわね。確かにこれは彼に効いたわ。
「楽しそうだな。」 
手紙を見詰めたまま微笑むスカリーの元に、何時の間にかドゲットが舞い戻って来ていた。スカリーは2、3咳払いを
して、自分の前で、ポケットに手を突っ込み、愉快そうな眼差しで見下ろすドゲットを仰ぎ見た。
「ええ、とても。これを読んだら思い出したことがあって。」
「何を?」
「ナバールがあなたについて言ったこと。」
「へえ、ナバールが?どんなことを言ってたんだ?」
「聞かない方がいいわ。」
「酷いな。そこまで言って止めるとは。いいから、教えてくれよ。」
「でも、絶対怒るわ。」
「怒らないさ。」
「そうかしら・・」
「信用していい。」
疑わしそうなスカリーに、ドゲットは余裕たっぷりに答える。スカリーはちょっと口篭ってから、神妙な顔でドゲットを見
上げた。
「じゃあ、言うけど、本当に怒らないでね。ナバールはあなたのことを、とんでもない馬鹿者と言ったのよ。」
「何っ!?」
一瞬にして顔色の変わったドゲットに、スカリーは顔を顰めた。
「怒ったの?」
ドゲットは、頭をばりばりと掻き、何かを口の中で呟きながら、スカリーの前を行きつ戻りつしていたが、やおら向き直
り探るような顔で尋ねた。
「・・・いや、怒ってない。怒ってないが、・・・他には?他に何か言ってたか?」
「世話が焼ける男だとか。」
「・・う、後は?」
「無謀だって。」
「もう無いだろうな。」
「そうね・・」
「まだあるのか!?」
「周りに妙な気を使う男だとも。」
ドゲットは片手で顔を覆い、項垂れた。スカリーは可笑しくて堪らず、尋ねる声が震えないよう注意せねばならなかっ
た。
「どうかしたの?やっぱり怒ったのかしら。」
「・・・ふむ。当たってるだけに、怒る気にもならん。」
ドゲットは、あいつめ、と呟いて苦笑いしながらスカリーに片手を差し出す。意味が分からず首を傾げたスカリーに、帰
ろうと、ドゲットは促した。スカリーは微笑んで差し出された手を掴めば、ドゲットは素晴らしい力で彼女を引っ張り上
げ、勢い余ってその胸に倒れ込んだスカリーを、優しく抱き留めた。ふわりと身体を覆う懐かしい暖かさに、スカリーは
胸が一杯になり眼を伏せた。耳元で囁くドゲットの声は、彼女の心に染み込んでゆく。
「僕や、君、そして僕達2人の前には、決着の付かない問題が山積みだ。だが、君は何も心配する必要は無い。僕
は急がない。急がず焦らず、一つずつ問題を片付けて行くことが、君の幸せに繋がると信じているし、例えそれが僕
にとってどんな結果になろうとも、僕にはそれで充分なんだ。分かるだろう。」
スカリーは黙って頷き、ドゲットを見上げ微笑んだ。
「僕達があの体験から得たものは大きい。全てが無駄ではなかったんだ。」
スカリーを胸に抱いたまま微笑み返したドゲットだが、身体を僅かに起こした途端脇腹を押さえ、顔を歪めた。
 しまったと思った時にはもう遅い。すっと退き厳しい眼でドゲットを観察するスカリーは、完璧に主治医の顔だ。いい
雰囲気を自らぶち壊したドゲットは、やはり自宅には戻せないと再び蒸し返すスカリーの矛先を、我と我が身の間抜
けさにうんざりとしながら凌ぐしかない。その後ドゲットが自宅への車中で、ずっとスカリーのお小言を聞かされる嵌め
に陥ったのは、あまりにも情けない顛末だった。




 ドゲットがその数日後、仕事に復帰したのは言うまでも無いが、呆れるほど普段と変わらない彼の態度は、傍から
見れば何かがあったとは、誰も気付きはしないだろう。だがそのふとした眼差しの意味合いを、触れた指先の温かさ
を今ではお互いに充分理解していた。そんな時黙って微笑むスカリーに、決まってドゲットは、ほんの少し照れ臭そう
に微笑み返す。それは2人しか知らない、至福とも言える瞬間だった。

 そして暫くの間、スカリーの夢には、蒼い瞳の狼が訪れた。狼は薄暗い城の中で、月明かりのバルコニーで、スカ
リーを待っていた。繰り返し見る幻想的なその夢の最後は、必ず何時も狼と同じ瞳の男で終る。夢の目覚めは、幸福
でいてほんの少し寂しかった。真っ直ぐな瞳で何時も彼女を見上げていたあの美しい獣は、夢の狭間を漂い、二度と
再び会うことは無い。狼に愛された日々は、懐かしく愛しく思い出すたびに、スカリーの心を焦がして止まなかった。

 
 そして今日もスカリーは、狼の心を宿す蒼い宝石の傍らで、耳に馴染んだ声の海を漂っている。












※後書き・・・・・あるいは、言い訳。
  足掛け3ヶ月に及ぶ連載、映画「レディホーク」とのクロスオーバーもようやくここに終結しました。正直、中世、しかもファンタジー色  
  の強い作品を私が書けるのか、非常に不安でした。案の定、書き始めは何とかなったものの、中盤以降の錯綜振りは、如何ともし難く 
  長くなるばかりの作品に、自分自身が悲鳴を上げる始末。それもこれも、全て主人公2人の性格のせいだなどと、埒もないことで、己を
  慰め物語を綴った次第です。
  描ききるとまでは行かないまでも、少しは中世の雰囲気が伝わったことを祈りますが、何分浅学な知識ゆえ、まかり間違っても、物語 
  上の全てを鵜呑みになさらないことをお願いします。他所で話して、恥を掻いても私のせいにしないで下さいね(笑)。
  最後に、この物語は、メイン・ストーリー、第5部の直ぐ後に位置する話です。従って、10章のクーパーの台詞や、エピローグでのクー
  パーとの会話、ドゲットの台詞に、語られていない部分があるのですが、それは第5部を読めば、おのずと分かってくるでしょう。
  さて、この趣向の変わったクロスオーバー。如何でしたでしょうか。ここまで読んだんです。是非、一言感想を掲示板にてお聞かせくだ 
  さい。
  
  By doggie
  2003 6・30


トップへ
トップへ
戻る
戻る
dog fiction top




おまけ(読んでみるという人は葉っぱをクリック)




女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理